◇◆◇

 病院の玄関を出ると、午後の色づいた日差しが射貫くように降ってきて、伊江村織衣は目を細めた。
 梅雨は明けたのだろうか。空は雨の気配などまるで感じない晴天で、日差しの当たる頬がじりじりと焼かれるようだった。
 視界の隅に鷲の形をしたキャラクターが現れて、三十分後にミーティングだと告げる。情保学校でインストールさせられたこの学習アプリケーションのアシスタントキャラクターは、ビーンズと脳のファイルをスキャンしてユーザーの趣味・嗜好を反映したものが提案される。気に入らなければ自分の好むキャラクターに変更できるのだが、多くの生徒は血液型と同じく自分を表す占いのようなものだと考えて、提案されたものをそのまま使用していた。何のキャラクターだろうと別に構わないのだが、なぜ鷲なのか、伊江村にはいまだにわからない。
「仕方ないっちゃ仕方ないですけど、水元が出てったのはまずかったですよ」
 篠木が日傘を差しかけて言った。階段を下りながら、伊江村は答える。
「水元の判断は正しい。あそこは出ていくべきだった。出て行かずに、あそこにいたことが知られたら、その方が問題になる」
「御崎さん、怪しんでましたよ」
「もう詮索はしてこない。御崎はこちらが訊かれたくないことは訊かない」
 地面に目を落としながら、伊江村は言う。
「お前は副隊長で、御崎は班長。階級は同じだが、役職はお前のほうが上だ。上官にはそれ相応のふるまいがある。御崎につっかかるな」
「役職が上って言ったって、たまたまでしょ。御崎さんが引き受けてたら、あの人が副隊長で、俺が下官ですよ」
 恨みがましい口調に、伊江村はちらりと篠木の顔を見る。
 隊長就任の内示を受けた際に、三保正以上なら誰でもいい、望む相手を副隊長に推挙しろ、と警備部長に言われた。そのとき、部下だった篠木ではなく同期の御崎に最初に打診をしたのが、この部下をいたく傷つけたらしい。
 一瞥された篠木が、身をのけぞらせる。
「そんな冷たい目で見ないでくださいよ! ゴミを見るような目で! そういうのも好きですけど!」
「何を言ってるんだ、お前は」
「俺は、御崎さんが余裕なのに腹が立つんですよ! 断ったら、他のやつが副隊長に就くんですよ!? それでも断るのかよ! っていう」
「皆が出世大事なわけではない。御崎は、昇進より、主義主張が一致するかどうかのほうが大事なんだ」
「いや、そういう話じゃないんですけどね……」
「わたしの補佐役はお前しかいない」
 くっきりと木の影の落ちた歩道のタイルに目を落としながら、伊江村がそう言うと、篠木が足を止めた。
「はあん、隊長!!」
 奇妙な声を上げて背後から抱きついてきた篠木のみぞおちに、伊江村の右ひじが入った。
「わたしに三十センチ以上近寄るな」
 地面に転がった日傘を拾い上げて伊江村は静かに言い、無言でのたうちまわっている篠木を置いて歩き出す。
 病院隣の公園では、アスレチックジムで子どもたちがきゃっきゃと歓声を上げながら遊んでいた。「パパー!」と叫びながら、ベンチに座る父親のもとへと今にも転びそうな足取りで走っていく小さな少女。伊江村にはその父と娘の光景が、「幸福」の概念を具現化した絵のように思える。
 西洋における理想の世界は、「黄金時代」に代表される「今ではないいつか」という時間的な隔たりの向こうにあるが、東洋における理想世界は「桃源郷」「竜宮城」のように「ここではないどこか」、空間的な隔たりを超えたところにあるのだという言説を本で読んだことがある。
 幸福な理想世界は、過去や未来にも、地続きの場所にもなく、あるとすればこことはまったく異なる次元、つまりは自分とはつながっていない場所、出会う可能性のない場所にあるような気がする。
 俺はお前を見張ってられねえよ、と御崎は言った。お前が悪いことを考えてても気付かないし、止められない。
 副隊長の打診をされて、最初に御崎が口にしたのはそれだった。「俺とお前じゃやり方が違うだろ」というのは、後から付け足した口実だったのだと思う。「俺もお前も口下手だから、副隊長には弁の立つ男の方がいい」というのも、もっともだったが口実だ。
 「悪いこと」が具体的に何を指すのか御崎は言わなかったが、なぜ御崎がそう言ったのかはわかる気がして、引き下がるしかなかった。情保学校卒業間近の冬の日、血しぶきを浴びた自分の姿を見て、御崎は悟ったのだと思う。自分はこの「幸福」の絵と縁がない。
「可愛いっすね。俺、子ども好きなんです」
 追いついた篠木が伊江村の手から日傘を取り、公園に目を向けて言う。
「わたしは子どもは苦手だな。何を言っているのかわからないし」
「ええっ! 俺、子ども二人はほしいんですけど!」
「お前の家族計画とわたしの好みに、いったい何の関係がある」
 ん~もう! と体をくねらせる篠木を無視して、伊江村は歩く。
 午後のなまぬるい風が公園の中を吹き抜け、髪をそよがせる。木の葉が風に翻り、日光を反射してきらきらと輝いていた。遠くで救急車のサイレンが鳴っていたかと思うと、その音が近づいてくる。赤いライトを回転させながら、大通りを救急車が通っていくのがビルの間から見えた。
 先週から明らかに救急車の出動回数が多い。見舞いへ行く前に救急外来に立ち寄って確認を取ったが、熱中症で運び込まれる患者の数が今年は異常に多いのだという。
 かつて投げかけられ、胸の奥に沈んでいた言葉が、泡のように意識の表層へ立ち上る。
 “君は、この世界を変えたいとは思わないのか?”

◇◆◇

 萩谷が帰った後、御崎は喫煙スペースを求めて松葉杖をつきながら敷地内をさまよい、駐車場の片隅にようやくそれを見つけた。色あせたベンチに腰かけ、ポケットから煙草の箱を取り出す。一本くわえて、ライターで火をつけた。
 久しぶりに吸いたくなって萩谷に買ってこさせたのだが、いざ吸おうと思うとどこもかしこも禁煙で吸える場所がない。入隊当初はそれなりにストレスを感じていて、寮の外でよく吸っていた。当時も不便だとは思っていたが、喫煙族への迫害はますますひどくなっているらしい。
 ベンチの背もたれに肘をかけ、空を見上げながら煙を吐き出した。
 病室にやって来た伊江村の、伏し目がちの小づくりな顔を思い浮かべて、胸のうちがざわついた。
 水元という、あの第六部隊の隊員があそこにいたのは、偶然ではない。偶然入り込めるような場所ではなかった。問いかけたとき、素知らぬ顔をしつつ、篠木は緊張していた。そして伊江村のしぐさは「言わない」という意思表示をしつつ「何かある」ことを肯定していた。
 入院している水元を問い詰めても、口を割らないに違いない。第六部隊の結束が固いことは有名だった。隊員が伊江村の意向に反する振る舞いをするとは思えなかった。
 悪いことをしていないといいのだが、と思う。
 どのみち考えても無駄なことだった。情保学校時代から、伊江村の考えていることを理解できたためしなどなかった。
 別のことを考えようとしたが、そちらもまた気の滅入る話だった。
 ジャージのポケットから携帯電話を取り出す。クラッキングや情報流出を防ぐため、隊から支給されたPCとビーンズは、省庁のネットワーク以外への接続を固く禁じられている。プライベートでのやり取りは前時代から使用されている携帯電話を使用していた。ビーンズの方が便利だとわかっていても、脳をコンピュータに接続することに抵抗を感じる人間はやはりいて、携帯電話の需要は残っていた。
 着信履歴を見る。午前中に、二か月前からつきあっている美容師の彼女から電話がかかってきていた。火曜日で、美容室は休みなのだ。さっき着信に気付いたときには、「勤務中かもしれないんだから、昼間にかけてくんなよ」と思ったのだが、二週間連絡を取っていなかったことに気付いて気が重くなった。
 二週間前、ラブホテルで御崎が爆睡している間に、彼女が黙って帰ってしまい、置いてきぼりをくらったのだ。何か機嫌をそこねたらしいとはわかったが、電話をかけて、怒りの原因を聞き出して、謝ってなだめて……という過程を想像しただけで面倒くさくなってしまい、そのまま放置して忘れていた。
 面倒くさいが、ここでまた放置するとさらに面倒くさいことになる。
 意を決して、コールバックした。数コール後に、回線がつながる。
「あー、もしもし? 俺」
〈……二週間も放置ってどういうこと〉
 押し殺したような低い声で、返事がくる。
 御崎が常々「女の謎」だと思っていることの一つが、これだ。つきあい始めたころは、小動物のような可愛らしい声音で話しているのに、一か月も経つと、なぜかつきあっている女はみんな、ドスの利いた声で御崎を責めはじめるのだ。
「忙しいんだよ。今も俺、骨折して入院――」
 言いかけた言葉を遮って訊かれた。
〈イエムラって誰〉
 ぎょっとして、思わずあたりを見回した。そんなことはありえないのだが、一瞬、頭の中を見られていたのかと思った。
〈誰よ〉
「ど、同期」
〈女でしょ〉
「……女だけど、何で知ってんだよ」
〈……〉
 回線の向こうは無言で、返事がない。
「……え、あ、寝言で言った? 仕事の夢でも見てたんだろ。覚えてねえけど」
 御崎が焦ってそう言うと、氷点下の声音で彼女が言った。
〈蒼司、この前、やってる最中にあたしのこと間違えてイエムラって呼んだよ〉
 それを聞いた瞬間、腋の下からいやな汗がどっと出た。終わった、と思う。
「いやいやいや、ないないない! 気のせいだって!」
〈元カノ?〉
「ねえよ」
〈二股?〉
「ねえよ」
〈好きなんだ?〉
「……………………なに言ってんの?」
 沈黙の末、ようやく出た返事に、向こうは何事か察したらしい。息を大きく吸ってから、彼女は言った。
〈バカ! アホ! インポになって死ね!!〉
 罵詈雑言の直後、ブツッと音を立てて回線が切れた。
 ツー、ツー、と鳴るばかりの携帯電話を地面に叩きつけたくなった。人に死ねって言っちゃいけませんって教わらなかったのかよ! しかも、インポって!
 かけ直して身の潔白を訴えればいいのだとわかっているが、気力がなかった。果てしなく面倒くさい。
 何もしてねえじゃん、と頭をかかえたくなった。無実だろ、と思う。手をにぎったこともないし、伊江村の裸を想像しようとすると自動的に思考がフリーズしてしまうくらい、清廉潔白な身の上だ。
「アホか!!」
 誰に対してなのか自分でもわからないまま、頭上を仰いでわめく。
 電話だけでエネルギーを消耗してしまい、病室に戻ってふて寝したい気分だったが、もう一件、気の重い用件が残っている。携帯電話のメールボックスを開いた。
〈きよやすみ おとさんとあきばやまにきた すずしいよ おぼんかえってくる くみはじゅうごにちにくるて〉
 静岡の母から先ほど届いたメールだが、「あきばやまにきた」の後になぜか馬の絵文字と爆弾の絵文字が入っている。意味がわからない。携帯電話世代の母は、ビーンズの文字入力に慣れないのか、メールに誤字脱字が多いうえにすべてひらがなで句読点も「?」もない。
 「お盆帰って来る? 紅美は十五日に来るって」と言っているのはわかった。紅美というのは嫁いだ三歳年上の姉のことだ。
 言いづらいことほど直接顔を合わせて言え、それが無理なら電話、メールは最終手段。それが入隊当時、班長だった上司に教えられたことの一つだ。気が進まないながら、御崎は二件めの電話をかけた。
〈もしもーし!〉
 母の声が応答する。
「ああ、俺」
〈なに、あんた今日休みなの?〉
 近くに義父がいるらしい。「うん、蒼司」と母が義父に答える声が混じって聞こえてくる。
「休みっつーか、俺、骨折していま入院してんだよ。来月帰れないと思う」
 入院していることと帰省できないことにはなんの因果関係もないのだが、そう受け取られるように言った。
 救急車のサイレンが近づいてくる。救急外来があるのだ。朝から数えていたが、十七回めだった。
〈骨折!? 大丈夫なの? なにやったの?〉
「たいしたことねえよ。すぐ退院するし。なあ、それよりさ、最近、救急外来の患者って多い?」
 母の注意を骨折と帰省からそらすべく、訊いてみた。母は浜松市内の病院で事務員をしているのだった。
〈そんな話聞かないけどね。なんで?〉
「いや、最近、救急車よく見かけるから聞いてみただけ。そろそろ病室戻るわ」
〈うん、あんた、退院したら連絡しなさいよ〉
「わかったよ。じゃ、親父さんによろしく」
 回線を切って、ベンチの傍らの空き缶で作られた灰皿に煙草を押し付ける。
 母が再婚して六年、御崎が義父を直接「親父さん」と呼んだことは一度もない。





 爆破予告の容疑者は結城といった。目の印象的な男だった。痩せぎすで、頬のこけた顔の中で、目ばかりが異常に鋭く輝いている。
「お前がやったんだろ。さっさと吐け」
 投げ出した右足のかかとをガンッ、と取調室の机の上に打ち付けて、御崎は言った。ギプスの左足にその衝撃が伝わり、骨に響く。
「チンピラかよ! 机に脚載せんなっつーの」
 机の向かい側で嫌悪に顔をしかめ、結城が言った。
 御崎と同じ二十四歳だという結城は、大学を中退し、自宅でプログラミングのアルバイトをしながら生活しているのだという。夏だというのに、黒いスウェットの上下を身に着け、長めの髪はあちこちに跳ねている。拗ねたような雰囲気が、顔つきやしぐさににじみ出ていた。
 御崎は威嚇するように声を張り上げて言った。
「誰かさんのせいで、俺は脚の骨折られたんだよ!」
「オレは何にもしてねえって言ってんだろ! なんだよ、何でそんなに偉そうなんだよ。情保って公務員なんだろ。公僕だろ。オレらの税金でメシ食ってるくせに」
「生意気言ってんじゃねえ! てめえ、まともに税金払ってねえだろうが!」
 ガンガンと机にかかとを打ち付ける御崎の横で、浅井があずきバーを舐めながら言った。
「ほんとガラ悪いよね、蒼司って。僕も、さすがに庇いきれないよ」
「何食ってんだよ、仕事中に!」
 御崎よりも早く結城が突っ込む。
 御崎が高圧的に威嚇し、浅井が緊張感のない態度で口を挟んで気をゆるませ、取り調べ相手にしゃべらせるというのがコンビを組む時のパターンだった。作戦だからそうするというよりは、素の態度がたまたまうまく作用しているだけなのだが、御崎に対する反感が募れば募るほど相対的に浅井に対する好感度が上がり、警戒心がゆるむ。
 そっぽを向いて、結城がうんざりしたように言った。
「こいつら、なんだよ、もう……チェンジ!! 交代してよ。オレ、山上さんに取り調べされたい」
 御崎は眉を寄せた。
 山上というのは、同期の山上みちるのことに違いない。彼女は要人警護と調査を担当している第五部隊の所属なので、この事件にはタッチしていない。なぜ名前が出てくる?
「なにがチェンジだ! デリヘルじゃねえぞ! なんでてめえが山上のこと知ってんだ」
「有名じゃん、〈美人すぎる情保官〉」
 結城の言葉に、ああ、と浅井が腑に落ちたように手を打った。
 国営放送に職業を特集する番組があって、三年ほど前、情報通信保安官が取り上げられたことがあった。前身がサイバーポリスだったせいか、いまだに警察の一部だと思われているふしもあり、知名度がいまひとつだったので、広報部が好感度アップと存在アピールを狙って、人懐っこく華やかな雰囲気の山上を起用したのだ。当時はネット上で〈美人すぎる情保官〉と話題になっており、御崎は「美人すぎるナントカって、例外なく詐欺だよな」と本人に言って殴られた。
「山上さん、おっさんとつきあってるんだよな~。がっかり」
 頭の上で手を組んで結城が言い、さすがの浅井も表情を消した。御崎は机の上から脚を下ろし、結城の胸倉につかみかかった。
「てめえ、山上に何した!? クラッキングじゃねえだろうな!」
「ちがうって。うるさいなあ。山上さんが、最近、タウン誌のファッションスナップ? っていうの? それの背景に写りこんでたんだよ、男と手つないで。見つけたやつが〈美人すぎる情保官〉じゃね? って掲示板にアップしてたの。それだけだよ」
 山上がずいぶん年上の男とつきあっているのは知っていたが、そんな写真が話題になっていたとは知らなかった。背景に写り込んでいたということは、山上自身は知らないのだろう。自分の知らないうちに、自分の情報が面識のない不特定多数の人間の間で共有されているというのは気味の悪いことだった。
「ネットなめんなよ」
 結城が言い、御崎は声を荒らげた。
「なに威張ってんだ! 爆破予告書き込んだの、てめえだろ! どうせぶちこまれるんだから、さっさと吐けよ!」
「ほらほら、蒼司、もっとお上品にね。でもさあ、確かに結城くん、捕まることは確定なんだから、やったなら認めてね」
 アイスのかけらで片頬をふくらませつつ、浅井が言う。
 〈地下道〉と呼ばれる通信経路を暗号化するツールを使わずに書き込んでいたので、爆破予告が結城のPCから書き込まれていたことは即座に判明した。
 昨日、丸山率いる班のメンバーがアパートに踏み込んでPCとビーンズを押収したところ、爆破予告の書き込みとは別件で逮捕が確定した。結城のPCから千五百種類以上のコンピュータウイルスと、オンラインバンキングの口座から約三千万円を不正に引き出した痕跡が発見されたのだ。
 結城はウイルスの保持と不正引き出しについては認めたものの、書き込みと暴動への関与は断固として認めようとしなかった。
「もしオレがやるなら、書き込むときに〈地下道〉使うし、こんな簡単に足がつくやり方しねえよ。他人のPC踏み台にするのは、昔からあるやり方だろ。はめられたんだよ」
 結城が苦々しげな表情を作って言う。
「でもさあ、君、クラッキングしまくってたよね。クラッカーはセキュリティ意識高いから、そう簡単にやられないと思うんだけど」
 浅井に言われ、結城がうなった。
「だからムカつくんだろ! あんなアホみたいな書き込みのせいでバレてさ! 東方見聞録なんて、あんなガキども興味ねえんだよ。ブスばっかりだし」
〈こいつ、絶対犯人ですよ! ブスばっかりって、頭おかしいです! カナさんのどこがブスなんですか!〉
 音声通信経由で、萩谷が訴えてくる。隣の部屋でモニタリングしているのだ。
「書き込みもしてねえし、ブスのファンが暴れた理由なんか知るかよ。脳にバイ菌でも入って、頭おかしくなったんじゃねえの?」
 投げやりに言った結城に、御崎はふと思いついて尋ねた。
「ビーンズ経由で脳にウイルス送り込むことはできるか?」
「理屈上は可能だろ。ビーンズと脳が接続してんだし。オレは脳のメカニズムなんか知らねえから、脳をどうこうするウイルスは作れねえけど」
「お前、ウイルス大量に持ってたよな。千五百以上も」
 御崎の言葉に、結城がぎょっとして目を見開いた。机の天板をつかんで、身を乗り出すようにして言う。
「違うって! 持ってるだけだろ。PC用の、昔のやつが大部分だし! ほとんどパッチあてられてて使えないし、アンチウイルスソフトではじけるやつばっかりだよ」
「使い物にならないもんを、なんでそんなに持ってんだよ」
「ただのコレクションだよ。コレクションっていうのは、集めるのが目的だろ! 使えなくたっていいんだよ。あんただって、集めてるもんあるだろ!?」
「ねえよ!」
 言い争う二人の間に、浅井が口を挟んだ。
「蒼司、AV集めてるじゃん」
「あれは実用品だろ。ちゃんと使ってんだよ!」
 音声通信から丸山の咳払いが聞こえてきて、御崎は口をつぐんだ。
 爆発というのはメタファーかもしれない、と言った伊江村の言葉を思い出した。
 ミニライブの会場で暴れ出した六十数名の間には、東方見聞録の楽曲データに付属していたコードで公式サイトから応募し、当選したという以外に共通点は見つかっていないという。今のところ、ビーンズからそれらしいものは検出されていないが、あの暴動が脳に作用するコンピュータウイルスのせいだとしたら、六十数名が一斉に異常行動を取り始めた理由も説明できる。
 類のない事例ではあるが、「爆発」というのはウイルスの発症を指しているのかもしれない。

◇◆◇

「目疲れてるなら、読むのやめたほうがいいんじゃない?」
 昼食どきも過ぎた午後二時すぎ、庁舎の食堂で遅い昼食をとっていると、向かいでうどんをすすっていた浅井が言った。PCで報告書を書いていた御崎は、さっきまで頻繁に目薬を注していたのだ。
「字読まなきゃ別に疲れねえよ」
 唐揚げ定食を食べつつ、週刊誌を見ながら御崎が答えた。開いたページでは、表面積の少ない水着を身に着けたグラビア女優が煽情的なポーズを取っている。
「どう思う?」
 角度を変えてグラビアを眺めつつ、御崎が言った。浅井がそっけなく答える。
「そんな小娘には興味ないよ。そんなスイカみたいなおっぱい見てさあ、蒼司、現実は貧乳派でしょ」
「ひ、貧乳って言うな! ……グラビアじゃなくて結城の話だよ」
「まあ、本人が言ってた通り、バックドア仕込まれて、操作されてたんじゃない? 彼にメリットないからね。あの書き込みのせいで、もっとすごい悪事が見つかっちゃったわけだし」
 浅井が肩をそびやかして言い、御崎はグラビアに目をやったまま答えた。
「操作してたやつについては解析結果待ちだな。たぶん〈地下道〉使ってるだろうから、追跡しきれるかどうかわかんねえけど」
「あれもねえ、言論統制されてる国では命綱なんだけど。これだけサイバー犯罪が頻発してるんだから、なんとかならないのかなあ」
「脳にウイルス送り込むっていうのは?」
「結城が言ってたとおり、理屈上は可能」
「お前、情保学校のとき、情報数学のおばさんのビーンズ、クラッキングしてたよな」
「おばさんじゃないよ! 可愛かったよね……あの先生」
 学生時代の恋を思い出したらしく、浅井は遠い目をしている。浅井は当時四十二歳独身の女性教官に執心していて、彼女のビーンズにバックドアプログラムを仕掛けていたのだ。
「それにあれは、ビーンズ本体をクラッキングしただけで、脳に直接アクセスはしてないよ。脳をどうこうしようと思ったら、脳神経工学の知識がいるからね。織衣が詳しいよ。その関係の本、学生時代によく読んでた」
 浅井がそう言ったとき、人影もまばらな食堂の中をこちらに向かって近づいてくる気配があった。見ると同期の山上みちるだった。
「よっ」
 顔を向けた御崎と浅井に向かって、山上が片手をあげながら声をかける。
 目鼻立ちのはっきりした、整った顔立ちに明るい表情。ゆるやかにカールした栗色の髪が、歩みに合わせて肩で揺れている。制服の上からでもはっきりわかるほど体のラインは魅惑的で、そのしぐさも匂い立つように女っぽい。ブレザーの布地を押し上げる胸には副隊長章がついている。
 浅井と同様に、情保学校入学時からの同級生で、御崎にとっては気安い相手だった。
「お前もこれからメシかよ」
 御崎が訊くと、山上はすぐ傍の自販機にカードをあて、カフェオレを買いながら答えた。
「もう食べた。今はサボリ。三時から緊急の隊長会議があってさ。その前に息抜き」
 山上は御崎の隣に腰を下ろしてプルトップを引き、カフェオレを飲んでいる。きれいに整えられた爪は淡いピンク色に塗られて、繊細にきらめいていた。
「緊急の会議ってなんだよ。珍しいな」
「わかんない。さっき部長に会ってさ、教えて~ん☆って感じで探ってみたんだけど、はぐらかされたわ」
 山上がしなを作りながら答える。グラビアのページをめくりながら御崎は言った。
「お前の乳とケツも役に立たねえな」
 山上が大げさにため息をついた。
「あんたってホント、呼吸と同じ感覚でセクハラするよね! なんのためらいもなく! 織衣の前じゃ、乳とかケツとか絶対言えないくせに」
 御崎がぐっと言葉に詰まって黙り、浅井がハハッと笑って言った。
「なんか、武士みたいだもんね、蒼司。織衣の前だと」
「職場でエロ本見てるくせにね。清純派ぶりっこ!」
「うるせえな……」
 語気弱く言い返した御崎に構わず、浅井が言った。
「『清純派』って言葉ほど、蒼司に似合わない言葉はないけどさあ、ホントにそうなるかもしれないよ。元カノの呪いで」
「なによそれ」
「フラれたらしいよ。『インポになって死ね!!』って言われて」
 山上が手を叩いて爆笑した。「うるせえよ!」と御崎に言われ、ひいひいと声を殺して笑っている。
「あ~ウケる~。身から出たサビよねー。他の女でごまかそうとするから」
「それよりお前、おっさんと手つないでる写真、ネットに出回ってるらしいぞ。結城が言ってた」
「結城って誰よ」
「爆破予告のやつ。〈美人すぎる情保官〉に取り調べされたいってよ」
 結城から聞いた話を伝えると、山上は目を丸くした。そんなローカルなタウン誌でよく見つけたよね、と感心している。そして、ふと思い出したように言った。
「爆破予告と言えばさ……うちの隊がやってる流言解析で初めて知ったんだけど、東方見聞録って人権擁護団体の槍玉に上がってるらしいね」
「何でだよ」
 浅井みたいなオバ専にはまったく関係ない話だけどさ、と前置きしてから山上は続けた。
「あの子たち、小中学生でしょ。衣装とか振り付けが結構セクシーだったりするのよ。子どもの性を売り物にするな! ってプロダクションが攻撃されてるの。ジュニアアイドルへの規制論は前からあったんだけど、東方見聞録はそれを大っぴらにやっちゃったから、標的になったって感じで。今回は抽選に当たった人にしか場所の告知がなかったから来なかったんだと思うけど、ライブ会場の前に団体が張り込んでもめることもあったらしいわ。今回の事件も、暴れ出した連中は団体の関係者なんじゃないかって説が出てる」
「萩谷くんの話だと倍率二百五十倍って話だよ。団体関係者が六十人も当選するなんてありえないし、もしそうなら、警察が突き止めてそうなもんだけどね……妨害するために楽曲データ一万五千回も買ったと思うと笑えるよね。もうファンじゃん」
 浅井が答え、山上が首をすくめた。
「うちの隊にもファンが結構いるのよね。昨日から、『団体に消されるぞ』って言うのがちょっとしたブームよ。最近、規制厳しいからね。御崎、あんたは大丈夫? ロリコンもののAV持ってたら捕まるよ」
「持ってねえよ! どこへ出しても恥ずかしくない品ぞろえだ」
「ふーん……どこへ出しても恥ずかしくないから、記憶データ、織衣に渡せたんだ。事件の前にAV女優について語ってたらしいじゃない」
 山上の言葉に、御崎が声をひそめた。
「……何で知ってんの?」
「織衣から聞いたに決まってるでしょ」
「えっ、ちょっと待って、なに、伊江村? 何て言ってた? おい!」
 御崎が慌てふためいて尋ねるが、山上は答えず、肩をそびやかして見せる。これまで隠し通せてただけでも奇跡だよね、と浅井が半笑いで言った。
 あれがあったから渡すのを躊躇したのだ。学生時代から、伊江村の下ネタ嫌いは徹底している。もう大人なのだし、男だからと受け流してくれることを期待していたのだが、山上に話したのは何かしら思うところがあったからに違いない。
 御崎が頭を抱えていると、遠くから声がかかった。
「山上くん?」 
 食堂入り口に現れた人影に、山上が飛び上がった。
 穏やかな微笑をたたえてそこにたたずんでいたのは、第五部隊隊長の森だった。扇子で顔を煽ぎながら、こちらを見ている。
 入隊以来ずっと荒垣の下についていた御崎には、直接関わる機会がそれほどなかったのだが、最初は伊江村、次に山上が、部下として彼についていたために、彼の話を聞くことは多かった。荒垣の同期で、CSTの創設メンバーらしい。歳も荒垣と同じで四十七、八あたりのはずだ。異様な凄みを感じさせる荒垣とは対照的に、常に穏やかな物腰で、人格者だと名高い。老成した雰囲気に反して、笑うと少年のようにも見える年齢不詳の人物だ。
「いやーん、隊長、サボってたんじゃないですよ」
 慌てて椅子から立ちあがり、山上が笑顔を作る。
「会議に行く前に仕上げてって言った報告書、もうできたかなって思ってね。PC見たら、最初の三行しか書いてなかったけど……」
 森の言葉に、山上がビーンズを指さし焦った様子で答える。
「こっちで書いてました、こっちで! ちょっと息抜きしながら! ほら、アイディアはリラックス時にわいてくるって言うじゃないですかあ」
「じゃあ、すばらしいアイディアを拝見できるね。十分リラックスできただろうから」
 柔和な笑顔を見せながら立ち去る森の後ろ姿に「もっちろんですよ!」と答え、山上が額の汗を拭う。
「あの人、優しそうに見えて隠れSなのよぅ!」
 山上が声をひそめてささやき、慌てて森の後を追う。のびきったうどんをすすりながら、浅井が言った。
「ねえねえ、森隊長の扇子見た? キティちゃん柄だったね」
「……」
「あの人、ホント謎の人だよね」
「……」
 無言の御崎に、浅井があきれて言った。
「過ぎたことはしょうがないじゃない。だいたい、蒼司がエロ封印って、無理があったって。アイデンティティの崩壊だよ。君からエロを取ったら何が残るって言うの?」
 慰める気があるとは思えない浅井の言葉に、御崎はますます落ち込んだ。