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『韻が織り成す召喚魔法 -バスタ・リリッカーズ-』




プロローグ クラスルーム・クライシス


 この世に魔法が存在するかどうかは知らないが、優れた音楽には似たような力があるな。
 音川真一はそんなことを考えながら、放課後の校舎の廊下を歩いていた。
 たとえば「サル、ゴリラ、チンパンジー」の替え歌でおなじみの楽曲『ボギー大佐』。これはイギリスの軍楽隊が、兵士の士気高揚のために演奏していた行進曲だった。しかしそんなことを知らなくても、耳にすれば自然と勇ましい気持ちになってくるし、グラウンド入場時などに聞けば、指示されていなくても自然と隣の生徒と歩調を合わせたくなる。
 きっと『ボギー大佐』の作曲家は、兵士が勇ましく行進する様子を強くイメージしながら曲を作ったのだろう。そのイメージが聞き手に伝わってくるからこそ、感情はもちろん行動すらも操られてしまうのだ。
 今、校内に流れている楽曲にも同じことが言えた。ドヴォルザークの交響曲第九番『新世界より』の第二楽章。別名『家路』。真一が好きな曲のひとつだった。
 鏡波学院(かがみなみがくいん)の高等部校舎には、夕方の五時半になるとこの曲が流れ出す。ゆるやかな楽曲の『家路』には、真っ赤に燃える太陽がゆっくりと地平線に沈んでいくイメージが込められているのだろう。まだ校内に残っている生徒たちの大半は、この曲を聞いただけで自然と家に帰らなければと思い立ち、下校の準備を始めていく。
 これが音楽の力。作曲家や演奏者の魂が込められた名曲には、魔法が宿る。
 真一は機嫌よく『家路』のメロディを口ずさみながら、下校していく生徒たちと反対方向に歩いていく。そして、それぞれの教室のドアを開けては、まだ居残っている生徒がいないかを確認してまわる。自主的に行なっている下校前の校内巡回。これは真一の日課だった。
 ふと、廊下で歩みを止めた。同時に「ちょっと待て」と、今すれ違った二人組の女子生徒を呼び止める。
「……なんですかぁ、生徒会長」
 ため息混じりで振り返った彼女たちの顔には、あからさまな嫌悪感がにじんでいた。
 真一は制服の胸ポケットから素早く生徒手帳を取り出すと、該当ページを開いて彼女たちの眼前に突きつけた。その所要時間、わずかコンマ五秒。
「校則第十章『生徒心得』、第五条『服装』の三。女子のスカートの丈は、膝下五センチから膝上五センチまでとする。キミたちのそれは膝上何センチだ?」
「あー……」女子生徒たちは気だるそうに自分の改造ミニスカートを見つめると、「すいませーん、今度直してきますんでー」
 適当に会釈をして、逃げるようにバタバタと廊下を駆け出した。真一はそんな彼女たちの背に向かって大声で叫ぶ。
「おい廊下を走るな! 『生徒心得』第二条『校内』の五、廊下は……!」そこで咳払いをすると、改めて小さくつぶやいた。「……廊下は静かに歩くこと、だぞ」
 もちろんそんな小声が届くはずもない。女子生徒たちは足を止めずに、そのまま階下へ消えていった。その後ろ姿を見送った真一の表情が、みるみる邪悪なものに変貌していく。
 ……おのれ、あの淫乱メス豚どもがぁッ! そんなに男の視線を独占したいっていうなら、スカートの代わりにワカメでも腰に巻いて登校しやがれ! そしたら俺が味噌汁にして、食い尽くしてやるからよ! それが望みなんだろ、ああ!?
 校則の守護神――それが鏡波学院高等部の生徒会長、音川真一の異名だ。
 清潔感のある黒髪に、切れ長の鋭い瞳、意志の固さを象徴する引き締まった唇……第三者がそんな容貌だけを聞くと案外モテそうな顔立ちと思うかもしれないが、実際はいつもしかめっ面で周囲に睨みをきかせているだけである。かつて新聞部が実施した「付き合ったら面倒くさそうランキング・男子部門」ではダントツの一位。ランキングに投票した女子たちのコメントは次のとおりだ。
・待ち合わせに一分遅刻しただけで長々と説教されそう。
・ちょっとネイルをするだけで、爪ごとひっぺがされると思う。
・デートで化粧をしていったら、いきなりメイク落としシートで顔中を拭き取られるかも。
・なんか胸の形まで批判されそうで怖い。てゆーか、目つきだけで犯されそう。
 などなど。真一は非常に規律に厳しく、ドラマの意地悪な姑のように何かと説教してくるため、大半の生徒たちから敬遠されていた。
 もちろん友達なんているはずもない。生徒会の人間を除いて、自ら彼に近づこうとする生徒は皆無だった。だから休み時間になると真一は、一人で机に突っ伏したり、読書にふけったりして静かに寂しい時を過ごす……と思いきや。
 自分の席に座ったまま、どっしりと机の上に両肘を突き、教室内で談笑にふけっているクラスメイトたちを舐めまわすように凝視するのである。そして禁止事項にある私物を持ち込んでいる生徒や、服装が乱れている生徒を見つけると、即座に駆けつけて「校則第○条……」という説教を始める。それが真一と一般生徒たちとのほぼ唯一のコミュニケーションといえた。
 シャツをズボンから出しただけで飛んでくるのだから、真一が在籍する二年八組のクラスメイトたちはいつも気が抜けない。そのストレスのせいか、連中は放課後になるとよくカラオケに行っている。もちろん真一を除いた全員で。その事実を知っている真一の心の声がこれ。
 イラつくんだよ、ハゲどもが! 俺のことを堅苦しいとか言ってハブにしやがってよ、俺は不正を取り締まってるだけだろうが! その何が気に入らねーんだ! ルール無視のサルどもめ、バナナの皮で三十発ぐらい往復ビンタしてやりてーよ!
 もちろん品行方正な生徒会長という立場上、表立ってこんな汚い言葉を吐いたりはしない。吐露するのは心の中でだけ。気休め程度のストレス発散だ。
「……ふう、落ち着け、落ち着け」真一は深呼吸をしたあと、左腕に巻いた腕章にそっと手を添えた。「俺は生徒会長だろ。たとえ孤立してでも、学院の秩序と平和を守らなければ」
 腕章にはデカデカと『生徒会長』の文字が記載されていた。本来は全校集会などのイベント時にのみ着用するものだが、真一はいつも身につけている。まるで「俺が生徒会長だ」と周囲に誇示するかのように。
 なんだか器の小さい男に見えるが、生徒会長としては有能だった。規律に厳しいからこそ、向いているのだろう。高等部に進学してから二年間、その地位が脅かされたことはない。
 まあ面倒な仕事が多い生徒会長なんて、基本的に誰もやりたがらないものだ。そこへ模範的な真一が立候補したのだから、「別に音川でいいんじゃない?」という風潮になっただけ。決して彼が人気者だから生徒会長に選出された、というわけではない。
 しかし選ばれた理由なんて、真一にとってはどうでもいいことだった。全校生徒を規律という名の美しいレールに乗せて、平和な秩序の世界へ導くこと。それが生徒会長としての自分の使命だと考えていた。
 ……よし、さっさと見回りを終わらせて俺も帰ろう。生徒会長が校則で定められた下校時間を守らなかったなんて、笑い話にもならないからな。
 校内の見回りを再開した真一だが、すぐにぴたりと足を止めた。廊下の奥から、秩序の世界とは完全に無縁な「天敵」がやってきたからだ。
 今は九月。鏡波学院の高等部男子の夏服は、白シャツに赤ネクタイ、チェック柄のズボンと決まっている。しかし前から現れた二人組の男たちは見事に私服だった。どちらも大きめのTシャツに太いジーンズという姿。片方はバンダナを巻いた坊主頭に顎ヒゲ、もう片方はキャップをかぶった巨漢だ。
 ただの不法侵入者にも見えるが、彼らはれっきとした高等部の生徒たちである。鏡波学院で不良と呼ばれる問題児たちが集う、ヒップホップ研究部の面々だ。
 研究部とはいうものの、ロクな活動はしていない。連中は自分たちで「バスタ・リリッカーズ」という妙な団体名を名乗っており、校内の無害な生徒たちを捕まえてはフリースタイルのラップバトルを挑むという、死ぬほど迷惑な集団だった。
 ちなみに「バスタ」とはヒップホップのスラングで、「悪ガキ」という意味だ。「リリッカーズ」は歌詞を意味する「リリック」に「○○する人」の"er"をつけたもの。英文法としては間違っているが、ようするに連中は「俺たちはリリックを作っちゃう不良集団だぜ!」と言いたいらしい。
 真一にとっても、できることなら関わりたくない連中だった。しかし視界に入ってしまった以上は、注意しなければならない。
「あ、あのぉ……」声が震えていたのは、連中に対して恐れを抱いていたからだ。「何度も言っていますが、私服で校内をうろつくことは校則第十章『生徒心得』の第五条で……」
 ヒゲ坊主は「チェケチェケ」と言いながら、真一の胸を人差し指で突いてきた。
【ヘイYO、制服を着ないのは俺らの勝手。傷を得るのはそちら、わかって?】
 韻を踏みながら威圧してくる。隣の巨漢キャップもヒゲ坊主に続いた。
【ケンカ上等、天下無双。勝負方法は拳かマイク。選ばせてやるぜ、どっちがライク?】
 真一は心底脱力した。本当に意味がわからない。圧倒的に恥ずかしい連中だ。どうして同じ高校生にこんなアホどもがいるんだろうか。
「……と、とりあえず、そろそろ帰ってもらえませんかね。もう下校時間なんで……」
 そこまで言うと、二人の男たちは「プチョヘンザー、プチョヘンザー!」と意味不明なことを連呼しつつ、真一の周囲をぐるぐると飛び跳ね始めた。どうやらその奇妙な「儀式」で真一を小馬鹿にしているらしい。ひとしきり儀式を堪能した二人は、最後にお尻ペンペンという懐かしい仕草を披露して、校門とは逆方向へ駆け出した。まだ帰るつもりはないようだ。
 校内には今もドヴォルザークの『家路』が流れている。この名曲には、帰宅を促す魔法が宿っているはずだった。しかし音楽の魔法は、名曲を愛する感性を持ち合わせていない不良どもには効果がない。
「やれやれ」一人残された真一はため息をつく。「不良は腐ったミカンか。絶妙なたとえだな」
 何度注意してもルールを守らない不良どもは、学院全体の秩序を乱す。学院の秩序が乱れてくると、先ほどの女子生徒たちのように、一般生徒までルールを守らなくなる。
 制服の乱れだけではない。授業中にスマートフォンでインターネットをしたり、授業自体をサボったり、携帯ゲーム機を持ち込んだり……極めつけは神聖な校内で、堂々と不純異性交遊を行なうバカどもだ。真一は放課後の見回り中に、誰もいない教室でイチャついている男女を何組も見かけたことがある。これらはすべて、不良たちの悪影響だと考えていた。
 まったく、教室とラブホテルの区別がつかないなんて、脳がプリンみたいにつるつるになっているに違いない。さすがに今日はいないだろうな……って、ん?
 とある教室の前で立ち止まった。そして首をかしげる。
 その教室のドアのガラスは、なぜか真っ黒だった。どうやら教室の内側から、黒い画用紙のようなもので塞がれているらしい。この即席カーテンは誰がどう見ても「現在、教室の中で、やましいことが行なわれています」と喚起させるものだった。
「くっ、やっぱり今日もプリン野郎がいやがるのか……反省文百枚だコラァッ!」

 マンガの借金取りのように、乱暴にドアを引き開ける。そこで真一の体はピタリと硬直してしまった。まるで周囲の空気が固形化してしまったかのように。
 予想に反して教室内には誰もいなかった。しかしそこには、異様な光景が広がっていた。
 まだ夕暮れ時なのに、窓からは一切明かりが入ってきていない。すべての窓に黒い画用紙が貼りめぐらされており、完全に日光を遮断していたのだ。
 暗闇で包まれた教室内の様子は、点在しているロウソクの炎でぼんやりと見て取れる。机と椅子は全部、教室の後方に下げられており、床一面に白いチョークで巨大な円陣が描かれていた。円陣には数字やヘブライ文字が書かれており、その周囲に、ゆらめく炎が灯された数本のロウソクが等間隔に並べられている。マンガなどで見る「魔法陣」そのものだ。
 少し不気味に思った真一だったが、すぐさま姿勢を正して気を取り直した。
「お、おのれ、マニアックな即席ラブホテルを構築しやがって……!」
 ドアの傍にある蛍光灯のスイッチを押す。しかしなぜか電気は点かない。何度繰り返しても同じだった。
 いずれにしても秩序を愛する真一の性格上、混沌とした教室をそのまま放置しておくことはできない。とりあえず足を踏み入れると、まずは陽の光を求めて、廊下とは反対側の窓に近づいた。そこに貼ってある画用紙の一枚に手をかけて、ゆっくりと剥がしていく。
 画用紙を剥がした部分から、四角く切り取られたオレンジ色の斜陽が薄暗い教室内に差し込んできた。
 続けて残りも全部剥がそうとしたときだった。
 ふと、視界の隅で何かが光った。振り返って確認する。
 不思議なことに、チョークで描かれた魔法陣が、オレンジ色の光を放っていた。
 薄暗い場所で、理解できない現象を目の当たりにした人間がとる行動パターンは二つ。
 一目散に逃げ出すか、対象物に明るい光を向けるか。
 反射的に真一が選んだ行動は後者だった。窓に貼られた残りの画用紙を一気に剥がして、教室内に大量の斜陽を取り込む。
 その途端、魔法陣がひときわ強く輝いた。
「なな、なんなんだよ、これはぁッ!」
 真一は網膜に飛び込んでくる光の奔流を両手で遮った。
 光はゆっくりと魔法陣に収束していく。やがて教室内は、何事もなかったかのような暗い静寂を取り戻した。
 激しく脈打つ心臓の鼓動を感じながら、眼前にかざしていた両手を静かに下ろす。
 次の瞬間、ビクッと肩を震わせた。同時に「ひゅっ」と、しゃっくりのような短い悲鳴をあげる。そしてたどたどしい口調で、こんな言葉を紡いだ。
「だだ、誰だキミは……一体、いつから、そこに、いたんだ?」
 いつの間にか魔法陣の上に、まぶしい金髪のさらさらロングヘアーの女の子が立っていた。
 鏡波学院の制服ではない。上半身は胸元だけを覆う超ショートブラウス。その内側に隠された胸は非常に隆起が大きいため、ボタンが留めきれていない。新雪のような色をした滑らかで柔らかそうな下乳が見えてしまっている。生徒の模範となるべき生徒会長の真一でさえも、さすがに生唾を飲み込んでしまったほどだ。
 きわめつけは彼女の下半身だ。けしからんことに、スカートやズボンの類は履いていない。面積がやたらと狭い黒のショーツを履いているだけだ。しかもローライズなので、お尻の割れ目が少し露出している。そして見事にくびれた腰には、黒のガーターベルトが巻かれており、太ももを半分ほど覆った黒いストッキングを吊り上げていた。
 アクセサリーもすごい。さらさらの金髪ロングの頭からは、羊のような角が二本突き出しており、お尻の割れ目からは、先端が矢印型になった細長い尻尾が伸びている。よりセクシーさを助長させる悪魔のコスプレだろうか。
 健全な男なら誰もが欲情してしまいそうな格好をしているが、顔立ちはきわめて童顔。身長も低いので一見中学生のように見える。そのアンバランスさがまた劣情をかき立てていた。
「×××、××××?」
 女の子は聞いたこともない言語で独り言をつぶやきながら、興味深そうにあたりをキョロキョロと見回していた。
 しばらく唖然と彼女を見つめていた真一だったが、ふと我に返って頭を左右に振った。
 しっかりしろ俺。俺は鏡波学院の生徒会長、音川真一だろ。動揺している場合じゃない。こんなドスケベな格好をした小娘には、徹底的なお仕置き……じゃなくて、説教が必要だ。
 自分にそう言い聞かせて深呼吸すると、目の前の女の子にビシッと人差し指を向けた。
「いつの間に教室に入ってきたか知らんが、不埒なコスプレをしやがって。キミはこのクラスの生徒なのか? 制服はどうした?」
 女の子は何も答えずに、小さく首をかしげるだけだ。真一は呆れながらも続ける。
「おい、質問に答えろ。まさか俺を知らないなんて言わないよな?」そして左腕に巻いた腕章を見せつけた。「俺は生徒会長の音川真一だ。キミはなんでそんな格好をしているんだ。神聖な学院をなんだと思って……」
 女の子は自分の人差し指を唇に当てて微笑むと、ゆっくりと真一に歩み寄ってきた。あどけない顔立ちをしているのに、強烈な色香を感じる。よく見ると彼女は、この世のものとは思えないほどの美少女だった。くりくりとしたレッドブラウンの瞳に、柔らかそうな赤い唇。物音を立てただけで消えてしまいそうな、幻想世界の住人――そんな印象を受けたからこそ、真一は身動きをすることはもちろん、声を出すことさえも忘れて、少しずつ近づいてくる笑顔の美少女に目を奪われていた。
 女の子は真一の鼻先数センチまで近づいたところで、さらさらの長い金髪を両手でかきあげた。麝香のような甘く強い香気が鼻腔をくすぐり、脳をしびれさせた。そのときである。
 彼女は突然、真一の首に両腕を巻きつけて、その唇を奪った。
 斜陽が差し込む夕暮れの教室内で、見ず知らずの女の子から突然キスをされた生徒会長。言うまでもなく、初めての経験である。
 真一は知らなかった。女の子から押し当てられた唇がこんなにも甘く、柔らかいものだということを。彼女の小さな鼻から漏れる吐息がくすぐったい。制服越しに密着する彼女の大きな胸の感触は、どんなクッションよりも甘美な柔らかさをもっていた。
 校内に流れる『家路』に混ざって、グラウンドで後片付けをしている運動部の談笑が小さく聞こえてくるが、いずれも真一の耳には届いていない。何も考えることができず、ふんわりとした唇を押し当てられたままの姿勢で、ただ石像のように硬直しているばかりだった。
 すると今度は、真一の口内に温かい何かが「ぬるり」と侵入してきた。あろうことか女の子はキスだけでなく、舌まで入れてきたのだ。ほんのりと甘い味が真一の口いっぱいに広がる。いきなり唾液交換まで求められたことで、ようやく石化が解けた。
「うわああああああああ!」唇を離すと同時に、大声をあげて彼女を押しのける。「なな、何をするんだぁッ!」
「ふむ、これで話ができるね」先ほどまでとは違い、女の子はいきなり流暢な日本語を話し始めた。「どうしようか迷ったけど、暇だったから召喚されてあげたんだ。私を召喚するなんて、すごいことなんだよー? よーよー」
 舌足らずな口調で発音する「よーよー」の部分で、人差し指だけを伸ばした両手を軽く二度突き出してくる。ラッパーのような仕草だ。
 真一の耳に彼女の言葉は届いていない。ズボンの後ろポケットから紳士の身だしなみであるハンカチを取り出して、唇を拭っていた。
「ひ、ひどいぞキミ! 清廉潔白、品行方正な生徒会長の俺の純潔を汚しやがって!」
「む……ちゅーしたあとで唇を拭くなんて、失礼な人だねー」
 女の子は文字通り唇をとがらせて、恨みがましく真一を睨んだ。
「失礼なのはそっちだろ! 見ず知らずの人間になんてことをするんだ、破廉恥な不良め!」
「不良? そんなんじゃないよ、私は悪魔なの」
「そうだ、お前は悪魔だ! 生徒会長の俺を誘惑して、退陣に追い込もうとしているな!?」
「うーん、どうも話が通じてないなぁ」
 女の子はキョロキョロとあたりを見回したあと、教室の黒板に向かって手をかざした。
 次の瞬間、「ドゴン!」という爆発音とともに、黒板が後ろの壁ごと陥没した。その周囲にはうっすらと白い煙が立ちのぼっている。鼻腔が痛くなるような火薬の匂いがした。
「…………何をした?」真一には理解できない。
「見ての通りだけど」女の子はにっこりと微笑む。
「はは、最近はそんな手品が流行っているんだな」
「手品じゃないよ、超魔術だよ」
「昔、そんなことを言っていたマジシャンがいたな」
「じゃあ証明してみせるからさ、次は何を壊してほしい?」
 教室内を見回した真一は、恐る恐る「え、えっと、じゃあ掃除用具入れを」と指差した。その途端、掃除用具入れはやはり「ドゴン!」と爆発音を立てて、見事にひしゃげてしまった。
 女の子は自慢げに胸を張っていたが、真一は納得できなかった。こんなもの、最初からなんらかの仕掛けが施されているに決まっている。
 そこで教室の後方に下げられている机の中を適当にまさぐってみた。
「む、この生徒は教室にマンガを持ち込んでいるな。けしからん」机の中から見つけたマンガを取り出すと、パラパラとめくってなんの仕掛けもないことを確認する。そして女の子を見つめた。「このマンガだったら、いくらなんでも……」
 やはり「ドゴン!」という爆発音がすると、真一の手にあったマンガが吹き飛んだ。床に落ちたそれは上半分だけがなくなっており、灰色の煙がゆるやかに立ち上っていた。
「ほらほら、次は何を爆破しちゃおっか?」女の子は楽しそうに目を輝かせている。
「そ、そんなバカな。キミは一体……?」
「だから悪魔だってば。私はマミラダ・リファソラ・メフィストフェレス。人間界でも有名な大悪魔、メフィストフェレスの娘だよ。よーよー」
 そう言った女の子は、ふわりと宙に浮いてみせた。比喩ではなく、本当に重力から解き放たれて天井付近を飛んでいる。そしてくるりと中空で一回転して、にっこりと笑った。
「は、ははははは……」
 脳の処理速度が追いつかない。そういうときは、不思議と笑ってしまう。かつて真一は期末テストの実施日にお腹を壊して遅刻してしまい、教室に入れないことがあった。そのときも静かな廊下で一人、手を叩きながら大爆笑してしまった。その笑い声は試験中の教室内にまで轟いたため、試験管の教師に大目玉を食らった。そしてテスト終了時の生徒たちからは、路地裏の吐瀉物でも見るような嫌悪の視線を向けられる始末。今思い出しても身震いがする汚点だ。
「それじゃ、さっそく悪魔の力を与えてあげるね。この力を使えば、キミは世界を掌握することも夢じゃないんだよ。これからどんな悪事を働いてくれるのか楽しみだなー、なー」
 自称「大悪魔メフィストフェレスの娘」のマミラダは、よくわからないことを言った。頭がパンク寸前の真一にとって、その意味を吟味している余裕などない。
「おおお、お前は、な、何者なんだ……?」と、つぶやくことが精一杯だ。
「もう、だからー」マミラダは宙に浮かんだまま真一に近づくと、その首に白蛇のような両腕を艶めかしく巻きつけた。「悪魔だってばー」
 硬直したままの真一に抱きついたマミラダが、もう一度唇を近づけたときだった。
「爆発音がしたのはどの教室だ!」
 そんな大声とともに、廊下の奥から誰かが駆けつけてくる音が聞こえた。足音は複数。どうやらさっきの爆発音を聞きつけた教師たちが、その原因を探りにきているらしい。音から察するに、教師たちは手当たり次第に各教室のドアを開けては、異常がないかどうかを確認して回っている。この教室にやってくるのも時間の問題だった。
「や、やばい!」
 真一はキスしようと迫ってくるマミラダを押しのけた。
 この現場を見られては非常にまずい。生徒会長ともあろう者が下校時間にも関わらず、いかがわしい格好をした女の子と二人きりで教室にいる。しかもその教室の黒板は陥没し、掃除用具入れもひしゃげて倒れている。さらに床にはチョークで描かれた魔法陣……。
 いや、俺は放課後の見回りをしていただけなんですよ。そしたらこの女の子と出会ってしまったんです。え、この子ですか? たぶん魔法陣から出てきた悪魔です。本人もそう言っているし。この子が魔術で黒板とかを壊したんですよ。
 なんて言ったところで信じてもらえるだろうか。頭がおかしいと思われるに違いない。そして、そんな人間を生徒会長にしておくことはできないと、地位を剥奪される可能性もある。
 だからこそ絶対に、この現場を誰かに見られるわけにはいかない。今にも汚職の現場を押さえられそうな政治家の気分だった。
「くっ、ドアから逃げると鉢合わせしそうだし、どうすればいいんだ……!」
 こうなったらコソ泥のようで気分が悪いが、窓からこっそり脱出するしかない。しかしこの教室は校舎の四階にある。
 一応窓から顔を出してみたが、地上までは十メートルほどの高さがあった。まさに、真一の前に突如として立ちふさがった断崖絶壁といえた。いろんな意味でめまいを覚える。
 ああ、もうダメだ。このクソメスのせいで、俺の輝かしい経歴に泥を塗られちまう。こいつにジャイアントスイングをかまして、窓からぶん投げてやりてーよ……。
 重力に引っ張られてへたり込んだ真一の傍に、重力など意に介さない自由なマミラダが、宙を泳ぐようにして近づいてきた。
「ここから逃げ出したいの? そんなの簡単じゃん」
 そして米俵でも担ぐかのように、真一の体を肩に乗せた。ひょいと軽く。
「なな、何をするっ!?」
「逃がしてあげるんだよ」言いながらマミラダは、空いている左手を窓枠にかざした。
 その途端、窓ガラスが大きな破裂音とともに砕け散った。同時にマミラダは、真一を担いだまま窓の外へ飛び出した。
 キラキラとガラス片が舞い散るなか、女の子に抱えられて四階の教室から外へ飛び出した真一は、まるですべてがスローモーションのように感じていた。
「うおわあああああああ!?」
 絶叫する真一を抱えたマミラダは、校舎の傍にある体育館の屋根にふわりと着地した。
「やっぱり人間を担いだまま空を飛ぶのって難しいなあ。つかまっててよー、とりゃあ!」
 そのまま体育館の屋根を駆け抜けてジャンプ。学院の敷地と公道を隔てる塀を飛び越える。
 そしてゆっくりと隣の民家の屋根に着地しては、また大きく跳躍して別の屋根に着地。超人的な身体能力を発揮して、真一を担いだまま、次々と民家の屋根を飛び渡っていった。
 真一はこれが夢なのか、現実なのかもわからなくなっていた。
 はは、仮に現実だったとして、こんな現場を誰かに見られたら、俺の人生は終わりだな。
 自嘲気味に笑ってみた。
 このときの真一は気づいていなかった。冗談で考えた懸念が、当たっていたということに。