※本作はniconico「ニコニコ連載小説」内「電撃文庫チャンネル」で掲載された作品の再録です。


【王手桂香取り!】『日常と非日常』

 蝉の大合唱に混じって、午後六時の時報が鳴り始めた。
 いつもなら、この時報が鳴る頃には学校を後にしているのだが、今日はまだ部室に残って将棋を指し続けていた。部室に残っているのは、僕と桂香先輩の二人だけ。夏特有の色を放つ夕陽が、僕と桂香先輩を橙色に染めている。
 中学校将棋団体戦の東日本大会が、目前に迫っていた。最終目標は日本一になることだが、まずはそのための切符を手に入れなければならない。切符とは即ち、東日本の代表校になること。そのために、僕は連日、将棋クラブの主将である大橋桂香先輩と将棋を指し続けていた。
 桂香先輩は白く細長い指で飛車を挟み、3六のマスに置いた。
 あっ。
 僕は心の中で叫び声を上げ、思わず両手で頭を抱えた。
 とてつもなく厳しい一手だった。数手前からずっと、こう指されたら厭だなという手を桂香先輩に指され続けていたが、この3六飛車の一手は文字どおり止めの一撃だった。
「負けました」
 僕は頭を下げて投了した。
 粘ろうと思えばまだまだ粘れる局面ではあったが、九十手で負けるのを百二十手に延ばすだけの意味のない粘りだ。盤上に勝負の綾は残っていない。さっさと投了して、感想戦をした方がよっぽど有意義である。
「この局面では、受けるよりも攻めた方が良かったと思う」
 桂香先輩は、たった今決着がついた対局の手を戻して、解説をしてくれた。
 アマチュア五段の桂香先輩は、百手だろうが二百手だろうが、自分の指した棋譜は初手から最終手まで並べることができる人だった。だからこんな風にして、勝負の分岐点となった局面まで手を戻して、他のもっと良い指し手を僕に教えることができるのだ。
 こうやってどこが悪かったのかを理解すれば、同じ局面になった時に、同じ過ちを繰り返さなくて済むというわけである。将棋は、この感想戦がとても大事だった。
「なるほど。攻めなきゃいけない時に受けてしまったということですか」
「本当に、あゆむくんはあと少しのところまできてると思う。あとほんの少し大局観が養われれば、大爆発しそうな気がする。私なんか一気に呑み込んでしまうくらいに」
 僕は首を横に振って、
「いや、いくら何でも、大橋先輩を呑み込むのは無理です」
「そんなことないわよ。あゆむくんは大物になりそうな気がする。このあいだプロ棋士の相良六段に勝ったように、凄いことを起こしそうな気がするの」
 僕を買い被り過ぎです。そもそも僕がプロ棋士に勝ったのは、実力ではなくて、将棋の神様の指示どおりに指した結果なんです。
「さて、今日はこれで終わりにしようか。私、ちょっと先生に用事があるから、少し待っててね」
 桂香先輩は手早く片づけを終えると、教室を出て行った。
 しんと静まり返った室内だったが、それも束の間、桂香先輩と入れ替わるようにして、三人の女の子達が目の前に現れた。
「あゆむ、そろそろ桂香に勝てるようになっとかんと厳しいで」
 そう言ったのは、香車。関西弁が特徴だ。いつも胸元が肌蹴た恰好なので、こうやって人間の姿になって出てくる度に、僕は目のやり場に困る。
「でも、日に日にあゆむくんは強くなっていますわ。今日も善戦しましたし。今までのように、一方的に負けるということがなくなっています。桂香さんを倒すのも、時間の問題だと思いますわ」
 そう言ったのは、僕の名前の漢字でもある、歩。桜の花弁が描かれている着物を着ていて、日本人形そっくりの女の子である。
「この子は、桂馬の使い方がいつまで経っても上手くならない。だからいつまで経っても弱いままなのよ。桂馬を自在に使いこなせる者こそが、将棋を極めることができるの。一体いつその真理に気づくのかしら」
 そう言ったのは、桂馬。口を開く時はいつも必ず、僕の桂馬の使い方に対してダメ出しをする。昔の欧州貴族のような恰好で、三人の中では一番目立っている。
「ちょっとみんな、学校の中で人の姿になって出てくるのはまずいですよ。もし誰かに見られたらどうするんですか」
 慌てる僕とは対照的に、香車は呑気な笑顔を浮かべている。
「そんな心配せんでええ。あたし達は一瞬で駒の姿に戻れるんやから」
「それはそうですけど……」
 今、僕の目の前にいる三人の女の子は、人間ではない。将棋の駒の化身である。
 こんなことを他人に話したら、頭の病院に連れて行かれるかもしれないが、事実なのである。
 今から約一ヵ月前、彼女達三人は突然僕の前に現れた。
 僕の家系に代々伝わる将棋盤と駒。彼女達の弁によれば、それらは江戸時代に作られた物だという。彼女達三人は、その駒の化身だった。
 香車達が僕の前に現れた理由はいくつかあるのだが、僕の棋力をもっと上げてやりたいとか、僕が憧れている桂香先輩との仲を深めてやりたいという考えがあるようだった。
 桂香先輩の件はともかく、僕をレベルアップさせてくれるというのはとても嬉しい話だった。
 香車達の棋力は、人知を超えていた。ほとんどのプロ棋士に飛車落ちで勝てるという彼女達の力を、僕は身を持って知っている。プロ棋士が作り上げた定跡を、香車達は簡単に破壊できるだけの力を持っていた。その強さは、正しく将棋の神様だった。
 ちなみに先程、桂香先輩が言った僕がプロ棋士である相良六段に勝ったというのも、香車達の指示どおりに指したからというのが真実である。
 そんな将棋の神様の指導を受けながら、僕は来る中学校将棋団体戦の東日本大会に向けてラストスパート中だった。
「それにしても、夕陽が綺麗やなぁ、あゆむ」
 香車は窓から見える夕陽を眺めている。僕も目を細めて夕陽を眺めた。
「そうですね。とても綺麗です」
「こんな綺麗な風景の中で、いつか桂香に告白できたらええなあ」
 香車の言葉に、歩が同調する。
「まあ、とても素敵ですわ。あゆむくん、早く桂香さんに告白できるようになりましょうね」
 僕は肩を竦めて、
「僕と桂香先輩の仲を縮めようとしてくれるのは有り難いんですけど、とてもそんな光景は想像できません」
「まぁたそういうネガティブなことを言う。スペックがどうとか言うんやろ。桂香をモノにするためには、まずその性格をどうにかせんとな。もっと強気にいかんかい、強気に」
「言いたいことはわかりますけど、そんなすぐに性格は変えられないですよ」
「あのなぁ、あゆむ。男というのは――」
 不意に教室の引き戸が開いた。
 僕の心臓が、胸を突き破りそうなほど大きく跳ねた。
 振り返ると、桂香先輩が立っていた。不思議そうな表情を浮かべてこちらへ歩いて来る。
「あれ、あゆむくん、今誰かと話してなかった? 話し声が聞こえた気がしたんだけど」
 僕は恐る恐る香車達がいた方に視線を向ける。三人の姿はすでに消えていた。僕は桂香先輩に気づかれないように、深く安堵の息を吐いた。
「いえ、ちょっと、独り言を……。ははは」
「そうなの。――あれ、その駒、クラブの物じゃないわよね?」
 桂香先輩の視線は、僕の右手の掌に向けられている。
 僕の掌の上には、香車と桂馬、歩の三枚の駒が載っている。
「はい。これは、僕の家系に代々伝わる駒なんです。いつ作られた物かはわかりませんが、書体や形から見て、結構古い年代に作られた物だとは思うんですけど」
「そうね。歴史を感じさせる作りね。――でも、何でその三枚の駒を持ち歩いてるの?」
「それは……」
 この三枚の駒を持っていると、頭の中だけで駒達と会話ができるんです。
 それが真実なのだが、もちろん本当のことは言えない。困った。適当な答えが出てこない。
(お守り代わりに持ってると答えておけば、桂香も納得するやろ)
 頭に響く香車の声。僕が誰かとの会話で返答に窮した時なんかには、こうやって助言をくれる有り難い存在である。まあ、こうなったのは香車のせいなのだが。
「えっと、お守り代わりみたいなものです。以前、この駒をポケットの中に入れて対局したら格上に勝てたので、それ以来持ち歩くようになったんです」
 ツッコミどころのある答えだったかもしれないが、桂香先輩は納得したように頷いてくれた。
「ラッキーアイテムみたいなものか。私もあるわ、そういうの。良かったら、今度将棋盤と他の駒も見せてくれるかな」
「はい。いつでもどうぞ」
「それじゃ、帰ろうか」
 僕と桂香先輩は教室を後にする。僕の頭の中では香車が、身体をもっと密着させろとか、わざと桂香先輩の手を触れて反応を見ろと捲し立てている。
                                    
<おわり>