2

 五時間目の授業が終わると、僕は友達に別れの挨拶をし、将棋クラブのある三階へと向かう。三‐五の教室には、すでに主将の桂香先輩と副主将である橘先輩の姿があった。と言っても、二人ともこのクラスに在籍しているので移動する必要はないわけだが。
 桂香先輩は橘先輩とお喋りをしている。
 橘先輩は爽やかな雰囲気を纏った人だった。容姿もイケ面の部類に入ると思われる。
 最初にこの二人がお喋りをしているところを見た時、僕はこの二人は恋人同士なのかと思った。美男美女だし、将棋の強さもほぼ同じ。でもすぐに、そういった間柄ではないということがわかって、僕は安堵したのだった。
「上条です。入ります」
 自分の名前を告げて僕は教室へと入る。
「あゆむくん、こんにちは」
 桂香先輩が微笑を浮かべて挨拶してくれた。
 僕が一日のうちで一番好きな時間。その日どんなに厭なことや落ち込むことがあっても、この笑顔を見た瞬間にそんな暗い感情も吹き飛んでしまう。
 二ヵ月前、僕が入学間もなくしてこの将棋クラブに入部することを決めたのは、元々将棋が好きだったということに加えて、桂香先輩を見たからだ。放課後に覗いたこの教室で、桂香先輩は将棋を指していた。夕方の淡い太陽の光を浴びている桂香先輩の横顔は、大袈裟ではなく、僕には女神に見えた。伸びた背筋、駒の指し方を含めた所作、全てが凛としていて、芸術のように美しかった。僕は一目で心を奪われていた。
 ちなみに桂香先輩目当てで入部してくる男は、昔から結構いるようだった。一番部員が多い時で、三十人を超えていたとか。ただ、桂香先輩が将棋にしか興味がないことを知るとさっさと辞めていくんだよと、以前橘先輩が教えてくれたことがあった。
「さあ、一局やりましょうか」
 桂香先輩は僕に着席するように促す。
 僕は着席し、駒を並べる。先手を勧められたので、僕が先手で指すことになった。
 緊張するな。そう自分に言い聞かせて、僕は初手7六歩を指した。
 本来なら、僕では桂香先輩の相手としては力不足だ。この対局は、互いの棋力を向上させるための対局というよりは、僕が教えを乞う指導対局と言った方が適切である。
 この将棋クラブの在籍者は、全部で十五人。その中で、五段の桂香先輩の相手を務めることができるのは、四段の腕前である副主将の橘さんしかいなかった。他の十三人は、桂香先輩目当てで入部してきた初心者の三人を除けば、三級から初段までの烏合の衆状態で、桂香先輩を満足させられる相手はいなかった。
 僕と対局しても、桂香先輩が楽しめるような勝負にならない。それでも僕と対局してくれるのは、後輩の棋力を上げたいと考えているからなのだろう。
 桂香先輩達三年生にとっては最後となる、中学校将棋団体戦の全国大会が迫っていた。一ヵ月と二週間後の七月二十六日が、東日本の代表校を決める日となっている。東西合わせて六十四のチームが出場するこの大会は、東と西それぞれ三十二チームに分かれて、決勝大会に進出する代表二校を決める。そして日を改めて、東西の代表四チームが日本一を決める戦いを行う。
 団体戦の出場枠は三人。僕のいるクラブから出る二人はすでに決まっている。桂香先輩と橘先輩。問題はあとの一人だった。個人戦では最高峰の舞台である去年の中学生将棋名人戦では、桂香先輩と橘先輩は共にベスト8に入っている。その実績からもわかるとおり、二人とも全国レベルの強さだ。三対三の団体戦は、二勝すれば勝利となる。そう考えると、中学トップレベルの二人がいる我がクラブは、代表校の座を射止めるのは容易いのではないかと思う人もいるだろうが、勝負の世界はそう甘くはない。
 全国には、桂香先輩達と同等の強さを持つ人はたくさんいる。誰と戦っても、紙一重の勝負だ。実際、去年も、桂香先輩達は東日本大会の代表決定戦で敗れ、代表の座を逃していた。3対0の完敗だったという。その時の相手は、同じ神奈川県の中学校。桂香先輩の言葉によれば、その中学にいる二階堂という男は、自分よりも強いということだった。その二階堂のいる中学校は、今回も出場を決めている。
 そういうことがあるからか、強いのは二人だけでいいという考えは、桂香先輩達には皆無のようだった。誰かあと一人、大会までに棋力を二段、できれば三段まで上げたいと考えていると思われる。
 その三人目の切符は、皆が手に入れたいと思っているはずだ。当然僕もメンバーに入りたいと思っている。桂香先輩と一緒に戦えるのは、今回が最初で最後になるかもしれない。一緒に日本一を目指した中学生活最大の思い出として、大切に記憶の箱に入れておきたいというのが本心としてある。
 ただ、それは簡単なことではない。僕と同じレベルのクラブメンバーが複数いるからだ。
 現時点で、胸を張って自分が一番強いと言える自信はない。
 今僕にできることは、一局一局、一手一手を大事に指し続けるということである。
 局面は中盤に差し掛かろうとしていた。戦型は相矢倉。統計を採ったわけではないが、おそらくプロアマ問わず一番多く指されている戦型と思われる。銀一枚と金二枚に守られている玉は、さながら堅固な城の中に入っている王様を彷彿とさせる。僕の好きな囲いの一つであり、最も勝率の高い戦型だった。
 将棋の戦法は数多くあるが、その時々によって流行りというものがある。プロが研究に研究を重ねた結果、新手と呼ばれる手が指されて、一つの戦法として確立される。それをアマチュアである僕達も使うわけだ。
 僕は桂香先輩に対して、流行りである矢倉の新戦法を試してみることにした。つい先日も、名人戦でこの戦法が採用されていた。昨夜僕は、この戦法を使った三局で勝利を収めることができた。相手は桂香先輩ほどの猛者ではなかったが、果たして桂香先輩はこの新しい戦法にどう対処するのか、負けても収穫はある。
 僕の繰り出した一手を見て、桂香先輩はうんうんと頷いて僕の攻めを受ける。この戦法、しばらくは先手が攻め続けて、後手が受け続けるというのがよくある形なのだが、まだこちらの攻めが続くというところで、桂香先輩はいきなり攻めの一手を指してきた。
「えっ」
 僕は思わず声を漏らす。
 ここで反撃の手を指してきたのは意外だった。プロの対局でも、この局面で反撃の手を指した棋譜は見たことがなかった。今まで徹底的に相手の攻撃を防御してきたボクサーが、いきなりノーガードの殴り合いを挑んでくるようなものだ。
 僕は頭の中でこのあとの展開を考える。この反撃の一手に対して、受けた方がいいのか、それとも攻めを継続した方がいいのか。ここで受けると、相手の攻めを加速させそうな気がする。しかしここで相手の攻めを無視して攻めを継続させると、前述したようなノーガードの殴り合いになる。
 熟考した結果、ここは攻め合った方が良いという結論に至った。桂香先輩も当然この戦法は研究しているはずで、その上でプロの棋譜でも指されていない手を指してきたということは、相当自信があるのだろうが、僕の読みでは先手が攻め勝つという結論になったのだから、そう指す他ない。
 僕が3四銀と指した直後、
(あー、あかん。その手は悪手や)
 と、頭の中に声が響いた。
 僕は左のポケットの中に手を入れて、三枚の駒を触る。
 香車、桂馬、歩。
 昨日、突然僕の前に人の姿で現れた駒達。一夜明けて、昨日僕が見たものは白昼夢だったのではないかという思いが僅かに芽生えていたが、こうやって香車の関西弁が聞こえたことで、やはりこれは現実なのだと再認識した。
 僕は駒を触った状態で、頭の中で言葉を交わす。
(この手、悪手なの?)
(どう見たって悪手や。次の桂香の指し手から数えて九手先に、強烈な一手が待ってるで)
(そうなんだ。全く読めてないや)
(それにしても、今日も相変わらずあなたは桂馬の使い方が下手ね)
(すいません)
(まあまあ、皆さん。負けて勉強ですよ。あゆむくん、気にしないで思い切り指してね)
 果たして香車の言ったとおり九手後、桂香先輩は僕の全く見えていなかった手を指した。桂馬を取るために飛車を切る(=大駒と小駒の交換)という一手だった。
 飛車と桂馬の交換なので僕の方が駒得ではあるのだが、次に桂香先輩が桂馬を打つ一手が、僕にとって痺れる一手だった。
 これが、五段と初段の差ということか。改めて思い知らされる。桂香先輩の壁は厚く高い。
 予想外の一手に為す術なく、直後に詰めろ(=かけられた側が放置すると玉が詰むこと。正しく受ければ詰まない)をかけられた僕は、これ以上粘るのは失礼だと判断し投了した。
「参りました。大橋先輩が指したあの一手、プロ同士の棋譜ではまだ出てきてないですよね」
「ええ。実はね、ちょうど昨日父に教えてもらった手筋なのよ。研究会の仲間と一緒に発見したんだって。あそこで新手を出さずに前例どおり指し続けても良かったんだけど、ちょっといじわるしたくなっちゃった」
 桂香先輩は少しいたずらっぽい笑みを浮かべた。可愛い。
「そうだったんですか。プロの研究で生み出された新手なら、僕が読み負けして当然です」
「でも、今度はあゆむくんがこの手を実戦で使えるでしょう。プロ棋士の誰かが公の場所でこの手を指すまでは、秘密兵器みたいなものだからね」
「確かに、アマチュアでは、いきなりの対処は難しいですよね」
「さて、それじゃ今度は私が先手ね。戦法のリクエストはある?」
「えっと、それじゃ、角換わりでお願いします」
「了解」
 こんな風に、桂香先輩は僕のリクエストに応えてくれる。これは誰にでもできることではない。強さと豊富な知識がないとできないことである。
 たとえば今僕がリクエストした角換わりという戦法。一口に角換わりと言っても、先手と後手どちらから角交換をするのかで全く展開が違うし、角換わり腰掛け銀だとか棒銀だとか早繰り銀だとか、憶えなくてはいけない定跡もたくさんある。
 桂香先輩は、ほぼ全ての戦法の定跡を憶えているという。
 将棋は、定跡を憶えていなくても相手次第では勝つこともできるが、ある程度の棋力を持つ相手に不勉強のまま挑むと、序盤で劣勢になることがほとんどだ。だから最低限の定跡は憶えておかなければいけないのだが、定跡だけ憶えればいいのかというと、そうではない。結局最後は本には載っていない未知の局面が現われるので、自分の力だけが頼りとなる。
 桂香先輩と指しているこの角換わりの将棋。専守防衛型と呼ばれる後手の僕が徹底的に受ける形になっていた。僕は受けが下手だ。攻めの方が得意である。じゃあ得意な攻めを活かせる戦型にすればいいじゃないかと突っ込まれそうだが、戦いというのは自分の思いどおりにはいかないものだ。相手が格上なら尚更。それに強くなるためには、攻めの腕だけを磨いてもダメだ。守りの腕も磨かなければ、頭打ちになってしまう。正直、ずっと受けを疎かにしてきた結果が、今の僕でもあるのだ。今より上に行くためには、正しい受け方を学ばなければいけないのである。
 だが、そんな僕の強い決意も、桂香先輩の暴風雨のような攻撃に無残に散らされてしまった。もう、本当、滅多打ちだった。サンドバッグ状態。攻めに着手する間もなかった。
 対局が終わると、僕と桂香先輩は終わったばかりの棋譜を再現するために、初手から一手ずつ駒を動かし始めた。
 僕は完璧には棋譜を憶えられないのだが、桂香先輩は、自分の指した将棋であれば、百手だろうが百五十手だろうが完璧に棋譜を再現できる人だった。だからこうやって僕が完璧には憶えていなくとも、きちんと感想戦をすることができるのである。
「途中の受けまでは良かったんだけど、ここがまずかったわね」
 五十六手目の局面。僕が指した4五銀の一手を、桂香先輩は悪手だと指摘した。
 口頭の指摘だけだと何が悪かったのかはわからないが、
「ここでは4五歩と指した方が、このあとの展開は有望だったと思う」
 と言う風に駒を動かして解説してくれるので、僕は納得できるのである。
 これで、誰かとの対局で同一局面になった場合、僕は正しい一手を指すことができるわけだ。
 ほんの僅かでも、レベル・アップできた。負けた方が、収穫はあるのだ。
 そんな僕の考えに呼応するように、駒が僕に語りかける。
(あゆむくん、これでまたレベル・アップできたね。桂香さんみたいに教え方が上手な人と指すと、レベル・アップも早くなりますわ)
(うん。本当に僕もそう思うよ)
(でも、いつまでも教えられる立場やったらあかんで。いずれは、あゆむが桂香に教える側にならんとな)
 本当に、そんな日が来るのだろうか。大人になった自分を想像できないように、そんな奇跡のような光景も僕には思い浮かべることはできなかった。
(それにしても、あゆむは桂香を意識し過ぎやな。無意識かもしれんけど、チラ見の回数が尋常じゃないで)
 香車に指摘されて、僕は赤面する。自分では極力見ないようにしているつもりだったが、眼球が無意識に動いてしまっているようだ。
(さっきは、桂香の胸元から見えるブラジャーを見とったな)
(そ、そ、そ、それは、ち、ち、ち、違いますよ。誤解です。不可抗力です。たまたま桂香先輩の方を見たら、桂香先輩が前屈みになって盤面を覗き込んでいたんで、それで、たまたま見えてしまっただけです。本当です)
(別にそんな否定せんでええで。あゆむは思春期真っ盛りの男の子やもん。興味があって当然や。あゆむ、女の胸が気になるんやったら、あたしが見せてあげてもええで。桂香より、あたしの方が胸はでかいからな。桂香は見たところDカップというところやけど、あたしはFカップやからな。見たい時は言うてな)
 Fカップ……。香車の豊満な胸が、僕の脳裏にフラッシュバックする。
(ぼ、ぼ、僕は、ほ、本当に違いますから。わざと見たんじゃないんです)
(別にどちらでもいいけど、胸を見る暇があったら桂馬をきちんと働かせなさい。あなたこの対局で一回も桂馬を有効活用できていないじゃない。今の対局でも《桂馬の高飛び歩の餌食》の格言そのままに、桂馬をタダで取られているし。私の存在を否定してるの? 桂馬は必要ないとでも思って指しているの?)
(いえ、違います。そんなことは微塵も思っていません。次はきちんと桂馬を働かせられるように指しますので)
「どうしたの?」
 桂香先輩に声をかけられ、僕は顔を上げた。視線が交わる。
「あゆむくん、顔が真っ赤だよ」
「あ、いえ、何でもないです。もう一局、お願いします」
 瞳の奥の心まで見透かされそうで、僕は慌てて視線を逸らして駒を動かした。

 自宅に戻ると、駒達が人間の姿になって表に出てきた。
「ここからはあたし達が講師や。まずはあゆむ一人で、適当な相手と指しぃ。対局が終わってから手の良し悪しを解説したる」
「わかりました」
 僕は将棋道場にアクセスし、同じ段位の相手と対局を開始した。
「それにしても、あゆむはええな」
 隣に座っている香車が、僕にぐぐっと顔を近づけてきた。なぜか石鹸の香りが漂っている。シャワーを浴びているのか? それとも香水か?
「良いって、何がですか?」
「昼間は桂香に教えてもらって、夜はあたし達に教えてもらえる。将棋が強いだけじゃなくて、みんな美人でスタイルがええ。頑張ろうっていう気になるやろ」
「そ、そうですね」
 顔が近すぎる。香車の吐息は、苺ミルクのような匂いがした。僕の知らないあいだに飲んだのだろうか? それともそういう《設定》なのか?
「さっきも言うたけど、ほら、桂香よりもあたしの胸の方が大きいやろ」
 香車は僕の頬に触れるぐらいの距離に胸を持ってきた。
 僕はそちらを見ないように努めるが、視界の端に見えている。開け放たれたシャツのあいだから、何かが見えている。
 中学一年生の男子が、こんな状態で集中できるはずもなく、僕は緩手や悪手を連発していた。
「もう、何をやってるんですかっ。あゆむくんが対局に集中できないじゃないですかっ」
 そう言って歩が香車を押しのけてくれたのだが、歩の手が香車の胸を鷲掴みして押したものだから、僕の視線はそこへ釘付けになってしまった。
 ぐにゅうぅぅぅっていう風になっていた。香車の胸が、服の上からでもはっきりとわかるくらいに変形していた。僕は指で押したマシュマロを連想した。
 僕は頭を振る。集中、集中。
「ごめんね、あゆむくん。こんなんじゃ集中して指せないよね。もう大丈夫だから、落ち着いて指してね」
 歩が優しい声音で言って微笑む。
 僕はうんと返事をして対局を再開するが、今度は歩の視線が気になって集中できない。
 歩はじいっと僕を見つめている。吸い込まれそうな黒い瞳。頭を撫で撫でしたくなるような愛くるしい顔立ち。こんなに間近で見つめられると、先程とは違う意味でどきどきしてくる。
「もう、何でそこで桂馬を動かさないのよ」
 怒った口調の桂馬が、僕の真横に並んで画面を指差した。香車と同じように、桂馬からも香水の匂いがした。こちらは大人の甘い香りだった。
「ここは2九の桂馬を3七に動かすべきだったのよ。そのあとは相手の出方次第で、攻守のどちらにも使えたのに」
「す、すいません。気づきませんでした」
「まあまあ。対局中のアドバイスは止めましょう。解説は終わってからということで」
「私は桂馬をきちんと活用してくれればそれでいいの。桂馬を活躍させることができれば、自ずと結果はついてくるんですからね」
 僕は深い溜息を吐く。僕はただ勝つだけではなく、桂馬も有効活用させないといけないのだ。このハードルは高い。少なくとも僕の力量では、難度の高い勝ち方を要求されている。僕が彼女(桂馬)を喜ばせられる勝ち方ができるのは、一体いつになるのだろう。
「それは桂馬に限った話ちゃうで。香車をきちんと活躍させれば、まず間違いなく勝てるわけやからな」
「歩もそうですわ」
「まっ、あゆむが全部の駒を活躍させて勝てるようになればええんや。簡単な話や」
 全然簡単ではない。全ての駒を有効活用させて勝利するなんて、プロ棋士の中でもトップ・プロと呼ばれる人達だけだろう。
 対局が終わる度に、駒達は僕の指した手の良いところや悪いところ(圧倒的に悪い指し手の方が多いが)を解説してくれた。ダメ出しばかりで凹むが、その指し手のどこが悪かったのかを易しく説明してくれるので、とても有難かった。
「よし。次はあたし達が言うとおりに初手から指すんや」
 言われたとおり、今度は初手から香車の指示どおりに僕は指し続ける。
 初手から駒達の指示どおりに指す場合、対戦相手は人間ではなく将棋ソフトとなる。プロ棋士に勝利したこともあるソフトだ。
 僕が自力で指したのでは善戦すらできないソフト相手に、しかし将棋の神様は完璧な形で勝利した。何度やっても、駒達の圧勝だった。もしソフトに心があれば、涙を流してもう勘弁してくださいと言っただろう。
 駒達の指し手にはただただ驚愕し、感嘆するだけだった。
 しかし――。
「どうや、あゆむ。勉強になったか?」
「いえ、全くと言っていいほど、理解できないです」
 そう。駒達の指し手は凄いなとは思うのだが、それを理解できるかというと話は別だ。膨大な数の変化を読んだ上での一手。数十手先に意味を持ってくる一手。それを理解しろと言っても無理な話だ。僕の頭で理解できるはずもない。
「まっ、一歩ずつ階段を上がっていけばええ。これを何度も繰り返していけば、着実に力は付いていくんやからな」
 確かに、一日の歩みは僅かでも、前進し続ければもっと深い読みをできるようになるだろう。自分一人では不可能なことを、人知を超越した駒達が可能にしてくれる。
 僕の毎日はこんな風にして過ぎていき、決戦の日曜日を迎えた。

       3

 日曜日は朝から雨だった。梅雨の真っ只中だから仕方がないが、じめじめした日が続いていた。電車を降りて傘のあいだを縫うように歩き続けること二十分、将棋道場の入っている五階建ての雑居ビルに着く。
 僕は三階を見上げる。もう相良純一は来ているだろうか。今まで散々僕のことを見下す発言をしてきた彼は、糞雑魚の僕に負けた時、果たしてどんな顔をするのだろうか。まあ、厳密には僕にではなく、将棋の神様に負けるわけだが。
 ドアを開けると、相良純一の姿がすぐに目に留まった。中央の席に座って、総白髪の老人と指している。このおじいちゃんも、よく見る顔の常連さんだ。僕も何度か対局したことがある。
「はあぁぁぁ。そんな手指してちゃ、一生ぼくには勝てないよ。って言っても、おじいちゃん、もうそんなに長くは将棋指せないか」
 そう言って相良純一はけらけらと笑った。
 何て失礼なことを言うのだろう。いくら子供でも、度の過ぎた発言だ。しかし当のおじいちゃんはさほど気にした様子はなく、微笑を浮かべて駒を動かしている。
(あんの糞ガキ! ぶち切れたで! おいあゆむ! あの爺さん突き飛ばして席に座れ! 糞ガキ退治や!)
 僕はポケットに手を入れて駒を触った。
(ちょっと落ち着いてください。とりあえず、あの対局が終わるまで待ちましょう)
(もうほんまに、あの糞ガキ許さんで。手加減一切なしや。二度と将棋が指せなくなるくらいのダメージ与えて負かしたる)
(気持ちはわからなくもないですけど、まだ子供だし、若気の至りっていうこともあるんじゃないでしょうか。まあ、今のあの発言は酷すぎるけど)
(若気の至りとか関係ない。あいつに将棋指す資格ない。再認識したで)
 対局中の相良純一が顔を上げてこちらに視線を向けた。僕に気づいた彼は、僕を馬鹿にしたような笑みを浮かべて盤に視線を戻した。
(きいぃ。今のあいつの顔見たか。ようあんな顔できるな。将棋で負かしたあと、あたしの鉄拳で泣かしたろか)
 相良純一と対局していたおじいさんが、頭を下げて投了した。相良純一は笑いながら罵詈雑言をおじいさんに浴びせている。僕の頭の中では、香車が早く席に着けと捲くし立てている。
 僕は受付で規定の料金を支払い、相良純一の横に立った。
「対局、できるかな?」
「まぁたやられに来たの? Mっ気でもあるんじゃないの」
 相良純一は高らかに笑った。
 僕は席に着き、右手で駒を並べ始めた。左手はポケットに入れたままにしている。
(こんなに興奮するのは久しぶりやで。いいかあゆむ。あたしの言うとおりに指すんやで)
(わかりました)
(糞ガキに先手持たせてやれ。後手だから負けたなんて、しょうもない言い訳されそうやからな)
 僕は言われたとおり、そちらが先手でいいよと伝えた。
 相良純一は眉を顰めて、
「何? いつもは後手じゃ全く歯が立たないくせに、何で後手選んでんの? まあ先手でも歯が立ってないけど……何か有力な戦法でも練習してきたの?」
「まあ、そんなところだよ」
「ふんっ。惨敗した時に後手だからって言い訳しないでよぉ」
 相良純一は駒音高く初手7六歩と指した。
(8四歩)
 香車に言われたとおり、僕は8四歩と指す。
 以下、6八銀、3四歩、6六歩、6二銀、5六歩と進んでいく。やがてどちらの王様も銀一枚と金二枚が固めている城の中に入り、極めてオーソドックスな相矢倉が盤面に誕生した。
「自分から後手を選んだから何か秘策があるのかと思ったけど、普通じゃん。この形は、プロ同士でやった場合先手の勝率の方が高いし、実際に指しやすい。アマチュアでもそれは変わらない。明らかに先手の方が格上の場合は、尚更その勝率は高くなる。そんなことも知らないでこの戦型を選んだの?」
 相変わらずの小馬鹿にした口調。僕は何も言わない。僕は指示されるままに指しているだけだ。確かに、相良純一の言うとおり、この極めてオーソドックスな戦型は先手が有利とされている。プロとアマは違うが、積極的に採用するような戦型ではないことも事実だった。少なくとも、格上相手に進んでやる指し方ではない。
 でもそれは、未熟な人間の考え。
 将棋の神様と自負する駒達には、プロ棋士の誰も見えていない一手を用意しているはずだ。
 そんな僕の思考に呼応するかのように、香車が話しかけてきた。
(敢えて勝率の低い戦法を選んだ理由は、さっきも言ったとおり、糞ガキに言い訳させんためや。まあ、言い訳してもええけどなあ。言い訳する度に負かせばええ。やがてぐうの音も出んようになるやろ)
 四十七手目。相良純一が5五歩と指した。ここで初めて、互いの駒がぶつかった。本格的な攻防の始まりである。
 この戦型は、ここからしばらくのあいだ、後手が先手の攻撃を受ける展開が続く。そのまま前例どおりに指し続けると必ず先手が勝つので、後手がどこかで新手を出さなければいけない。
 しかし五十手、六十手、七十手と進んでも、なお前例どおりに棋譜は進んでいた。
 僕はこの棋譜をよく憶えている。この一年で四度、目にしている。
 その四局とも、去年と今年の名人戦で指されたものだった。四局とも一二十手前後で投了となっているが、共通しているのは全て先手が勝っているということである。対局後に行われた感想戦では『この戦型は八十手目までに後手が新手を出さなければ、必ず先手が勝つ形になっている』という結論が出されていた。僅か四局しか指されていない形だが、名人と前名人がそういう結論を出したのだ。それが真実なのだろう。後に発売された将棋本にも、トップレベルの棋士によるその棋譜の解説が載っていたが、やはり八十手目までに有力な手がない限り、後手に勝ち筋はないと書かれていた。
 しかし名人達が結論を出した八十手目、香車は前例と同じ手を指せと僕に指示した。
 僕の心臓が、どっくんと大きく跳ね上がった。
(あの、いいんでしょうか?)
(何が?)
(次で八十手目になりますが、前例どおりに指すことになります)
(前例どおりだから何や?)
(この八十手までと同一進行の棋譜が四局あるんですけど、その全てで先手が勝っているんです。それで出された結論が、八十手までに後手が新手を出さなければ、必ず先手が勝つ形になっているというものでした。だから、その、前例どおりに指していいのかなと思いまして)
(プロ棋士達がそう言ったのか?)
(はい。名人を含めた、トップ・プロが出した結論です)
(あゆむの好きな名人をあんまり悪く言いたくはないけど、所詮、それは人間が出した答えなんや。プロ棋士は完璧やない。必ずどこかに間違いがある。見えてないだけなんや。でも、あたし達には見えてる。それだけの話や。安心して指しぃ)
(はい。わかりました)
 僕は唾を飲み込み、八十手目を指した。
 瞬間、相良純一は高らかに笑った。
「全く。呆れちゃうね。これって、このあいだの名人戦の棋譜と全く同じ進行じゃん。知ってて指してるんだろうけど、これってさ、八十手目以降は後手がどう指しても勝ち目はないって結論が出されてんの。四局とも、全部先手が勝ってるの。そういうことも調べてないんだろうなぁ。だから弱いままなんだよ」
 相良純一はジュースを飲みながら八十一手目を指した。
 そのまま百手目まで、手はどんどん進んで行く。
 これは二ヵ月前の名人戦第二局で指された棋譜と全く同じだった。後手番だった名人が、一二一手で投了したはずだ。
「あのさあ、せめてどこかで手を変えるくらいのことしろよなぁ。何が面白くて日曜の昼間に名人戦の棋譜を再現しなきゃいけないんだよ。ったく」
 その言葉を待っていたかのように、香車は言った。
(あたしはその前例がある棋譜を見てへんけど、たぶん次の一手でその前例を外れることになると思うで。次の一手が見えてたら、後手が勝つ将棋なんやからな。次は、6四玉や)
 6四玉……確かにここで前例を外れたが……。
 僕は盤面を見る。
 僕の棋力では、もうどうやっても後手には勝ち目がないように見える盤上。唯一望みを繋げるとしたら、入玉(=自玉が相手側の陣地に入ること)くらいだろうが……距離が長すぎる。僕の玉の周りに味方の駒はほとんどない。四方八方から爆撃される形になっている。さすがに入玉は無理だろう。
「やっと手を変えてきたと思ったら、もしかして入玉狙い? せこいねぇ。っていうか、そんなことさせないけどね。必ず詰ますよ」
 相良純一は王手をかける。僕の玉は逃げる。再び王手。また逃げる。
 そうやって盤面に現れたのは、僕の玉と相良純一の玉が一マス挟んで睨み合う形だった。これ以上は近づけないところまで、互いの玉が接近している。
「何だよこれ。王様が一人で特攻仕掛けてきてるじゃん。将棋憶えたての初心者かよ」
 吐き捨てるように言って、相良純一は駒を動かそうとした。
 が、その手を止めた。何やら考える顔つきになって盤上を見つめている。
 僕も盤を見下ろす。
 相手の城に単身乗り込んで行った僕の玉。もういつ詰まされてもおかしくない形。
 しかし、よく見ると、先手の持ち駒はいつの間にかゼロになっていた。僕の玉を詰ますには、盤上の駒だけでどうにかしなければいけない状況。先手の飛車と角は、僕の陣地に入り込んでそれぞれ成駒になっている。味方にすれば頼もしいが、敵にすると怖い龍と馬。だが、その二枚の駒は、味方の駒が邪魔をしていて、一直線では僕の玉に近づけない形になっていた。龍と馬を僕の玉にぶつけるためには……最短でも三手かかる。
 つまりその手数分だけ、僕には余裕が生まれる。
 これが、香車の狙いだったのか? この瞬間に、先手の玉を詰ますということなのか?
 果たして本当に先手玉を詰ますことはできるのだろうか。
 短い時間で読んでみるが、答えは出ない。僕の棋力では読めない。
 再び相良純一を見る。
 眉間に皺を寄せて盤を睨んでいた。僕が初めて見る表情だった。戦況が思わしくないということなのか。自玉の詰み筋を発見してしまったのだろうか。
 不意に相良純一が視線を上げた。僕と視線が交わる。
 相良純一は舌打ちして、再び盤上を睨み付けた。
 僕も視線を戻す。
 もし龍や馬を引き付ける手が敗着になるのなら、相良純一は他の攻め手を考えなければいけないことになる。何か有効な手があるだろうか。
 一目見て思いつくのは、金と桂馬を使った攻めだ。先手玉を守っている金と桂馬を攻めに使えば、僕の玉に必至をかけられる。
 だが、必至をかけられた瞬間、僕は攻めに転じることができる。金と桂馬を動かしたことにより、先手玉の囲いは僅かに崩れる。即詰み(=王手が途切れずに詰みになる形のこと)になっているかどうかはわからないが、極めて危険な形になっているのは間違いない。
 果たして彼はどちらを選択するのか。
 相良純一の手が、自玉を守っていた金に伸びて、僕に王手をかけた。
 そちらを選択したということは、自玉は安全だと思っているのか……。
 僕が玉を逃がすと、相良純一は桂馬を跳ねて再び王手をかけた。僕は唯一の逃げ場所である8四のマスへと玉を逃がす。相良純一はもう一度金を動かし、僕の玉に必至をかけた。全知全能の神様でも、受けてこの玉を助けることはできない。次に先手が王手をかければ、必ず詰む。僕の玉を助けるには、相手の玉を詰ますしかなくなった。
 この局面になっても、正直僕は詰ます自信がない。
 しかし、きっと将棋の神様には見えている。終わりの光景が。
(さあ、クライマックスやで。次は7九銀や)
 一一六手目。僕は数十手振りとなる王手をかけた。
 相良純一は玉を逃がす。僕は王手をかける。相良純一は玉を逃がす。僕は王手をかける。
 それが九回続いた時、僕は理解した。先手の玉は詰んでいると。初段の僕でもわかるくらい、はっきりとした形になっていた。玉を詰ますまでにはあと五手かかるが、自力でも詰ませられる形だ。
 僕は鳥肌が立ち、胴振るいを起こした。
 心から凄いと思える将棋だった。
 八十手目以降に新手を出しても時すでに遅しと断言されていたにも関わらず、形勢を引っくり返したのだ。いや、形勢を引っくり返したという言い方は適切ではないのかもしれない。始めからずっと、後手が優勢だったのかもしれない。
(あの、この将棋って、先手がプロ棋士だったとしても、結果は変わらないんですよね?)
(当たり前や。相手のミスで勝ったとでも思ってるんか)
(すいません。聞いてみただけです)
(糞ガキの応手にまずい点はなかったで。誰が先手を持っても、この将棋は後手が勝つようになっとるんや。最善手を指し続ければな)
(凄い。本当に凄いです。まさかこんな勝ち方があったなんて)
(何か、さっきからあゆむの発言を聞いてると、あたしが勝つとは思わなかったっていう風に聞こえるで)
(いえ、決してそういうわけではないですけど)
(嘘は吐かんでええ。本音で話そうや。少しは心配になったか?)
(えっと、少しだけ)
(何でやねん! あたし達の能力をまだ疑っとるんか?)
(いえ、疑ってたわけではないですけど、ちょっと、大丈夫かなって)
(それを疑ってるいうねん! 何で将棋の神様がこんな糞ガキに負けるかもしれんって思うんかな。この一週間であたし達の力は見せたつもりやけどな)
(ご、ごめんなさい。もう絶対に疑わないですから)
(まあええわ。あゆむ、見てみぃ、糞ガキの顔。愉快痛快、溜飲が下がったで)
 相良純一は、自失呆然とした顔になっていた。心ここにあらず。その目に、いつもの生意気な光は宿っていなかった。
 その顔を見ていると、気の毒だなと思う気持ちが湧いてくる。成敗することに協力しておいて何だが、どれだけ傲岸不遜な態度を採っていたとしても、まだ小学三年生の子供だ。子供のこんな顔を見るのは忍びない。
 動きが止まってから数分後、相良純一は突然我に返ったように盤上の駒をぐちゃぐちゃと乱し始めた。
「ぼくは錯覚してたんだ。猿も木から落ちるって言うだろ。奇跡は二度起きないぞ。さあ、もう一回勝負だ。次はそっちが先手でいい」
 どうすればいいのか。僕は香車に指示を仰ぐ。
(どうします?)
(どうするも何も、完膚なきまでに叩き潰すだけや。今の対局は熱戦にしてやったけど、これからは圧倒的大差を付けて勝つで。王手さえまともにかけられんくらいの攻めで潰したる)
 気は重いが、今更もう止めますとも言えない。なるだけ早く相良純一が降参してくれることを祈るだけだ。
 それから約三時間、僕と相良純一は将棋を指し続けた。
 結果は香車の指示どおり指した僕の四連勝。香車が宣言していたとおり、全ての対局が一方的なものとなっていた。善戦すら許さない、無慈悲とも思える攻めの連続だった。序盤から僕が初めて見る新鮮な指し手の連続で、中盤に入った時点でこちらの勝勢。確実に心が折れる負け方だった。一度も負けたことのない相手なら、尚更。
 相良純一は負けても投了の意思を示さず、すぐに駒を乱して対局を再開していたが、今は違った。俯いていて、表情は確認できない。大差の付いている盤上の棋譜が、その無残な恰好に哀れみを増幅させている。
 やり過ぎたかな。そんなことを思う僕とは裏腹に、香車達は嬉々としていた。
(やっと心が折れたみたいやな。負けず嫌いなのは結構やけど、やっぱりこいつは態度がなってへんな。負けましたも言わんし、頭も下げん。まっ、わかってたことやけどな)
(あの、僕はこれからどうすれば?)
(別に帰ってもいいし、他の人と対局してもええで。好きなようにしぃ)
 好きなようにと言われても、今は対局する気分ではなかった。
 帰ろうか。
 しかし、俯いたままの相良純一に何と声をかけようか迷った。
 また対局しよう。
 僕も少しは強くなったかな。
 今日は運が良かったんだ。
 何を言っても厭味に聞こえる。別れの挨拶だけして去った方が良さそうだ。
(とりあえず、今日は帰ることにするよ)
(そうか。何か言って帰らんでええか?)
(何かって?)
(今までの鬱憤を晴らす言葉や。ざまあみさらせボケとか、糞弱いのぉ、お前は将棋の才能ないわボケとか、お前なんか二枚落ちでも勝てるんやでボケとか、そんなこと)
(いや、いいよ。今の彼の姿を見て、もう鬱憤とかは晴れてるから)
(あゆむは優しいなぁ。まあ、あゆむがそれでいいんやったら、あたしもそれでええで)
 僕は駒を片付け、席を立つ。
「えっと、それじゃ、今日は帰るね」
 そう言い、僕が一歩を踏み出した時、相良純一は顔を上げた。
 涙は、見えない。泣いているのではないかと少し心配だったが、大丈夫なようだ。
「何で、いきなりそんなに強く……」
 消え入りそうな声で訊ねられた僕は答えに窮する。もちろん本当のことは言えない。というか、言っても信用しないだろう。では、何と答えるのが最善だろうか。一局だけの勝利なら奇跡とかまぐれという言葉を使えるが、五局連続の勝利は奇跡ではなく、実力である。うーん。本当に困った。適当な答えが見つからない。
(人間は日々成長するもんや、とでも答えておけばええやろ)
 答えに窮している僕に、香車が救いの手を差し伸べた。
 うん。それがベストだろう。他に納得させられるような答えはない。
「この一週間、必死に勉強したんだよ。ネットで強い人と対局したり、定跡や戦法をわかりやすく解説しているサイトを見たり……一週間前よりも、成長できたんだと思う」
 相良純一は下唇を噛んで僕を見上げている。机の上に置かれた両手は、固く握られている。
「調子に、乗るなよ」
「え?」
「ぼくに勝ったくらいで、調子に乗るなよ」
「別に、調子に乗ってはいないよ……」
「すごく、強くなったつもりなんだろうけど、どれだけ強くなっても、ぼくの父さんには勝てないぞ」
 ぼくの父さん、という言葉で僕の頭に浮かんできたのは、プロ棋士である相良六段の顔だった。
「だから、僕は別にそんなことを思っては――」
 喋っている僕の言葉を、相良純一が遮った。
「椅子に座れ」
「え?」
「いいから座れよ。何か用事でもあるのか?」
「いや、用事は何もないけど」
「じゃあ座れよ」
 言われるままに僕は着席した。
 すると相良純一は立ち上がり、バッグから携帯電話を取り出した。ボタンを押して、受話口を耳に当てる。誰に電話したのだろう。僕は耳を傾ける。
「あ、お父さん。今日は何か用事ある? ぼく、いつもの道場にいるんだけど、すごくむかつく奴がいるんだ。ぼくが何回やっても勝てないんだけど、そいつ、プロより俺の方が強いとか言ってるんだよ。だからお父さん、やっつけてよ。ぼく、悔しいよ」
 その話を、僕は唖然とした顔で聞いていた。
 人間は、想像を絶する出来事に遭遇すると、頭の中が真っ白になる。今の僕が、その状態だった。
「今からぼくの父さんがここに来る。覚悟しろ」
「い、いや、覚悟も何も、僕は相良六段と対局するとは一言も――」
「一週間前まで、あんたの棋力は確実に初段程度しかなかった。信じられないけど、この一週間で大幅に棋力がアップしている。ぼくの見立てでは、六段はある。本当に信じられない。何でこんな短期間でそこまで強くなったのか。でも、所詮はアマチュアなんだよ。ぼくの父さんの段位は六段だけど、プロとアマチュアの六段は全くの別物だ。それをこれから思い知らせてやる」
「い、いや、思い知らせるも何も、僕はプロに勝てるなんて一言も――」
「楽しみだ。ぼくを見下していたその顔がどんな風になるのか」
 相良純一は僕の話など聞く耳持たずと言った感じで喋り続けている。
 とんでもないことになってしまった。
 普通に対局すれば、僕が相良六段に勝つことなんて有り得ない。絶対に、ない。だが、香車の指示どおりに指せば、僕が勝ってしまう。それは、まずい。まずいが、駒達はどういう風に思っているのだろうか。僕は駒達の意見を聞くことにした。
(相手の出方次第やな)
 それが駒達の一致した意見だった。
(出方次第とは?)
(大人の対応を見せるかどうかってことや。息子の非礼を詫びるとか、あゆむに親切に将棋を教えてやるとか、そういう態度やったら、あたし達は何もせん)
 僕は生唾を飲み込み、
(じゃあ、もし、相良六段が大人の対応じゃなかったらどうするつもりなんですか?)
(その時は親子共々ぶっ潰すだけや)
 ああ、とんでもないことになってしまった。

 相良六段が現れたのは、それから四十分後のことだった。テレビや雑誌で何度か見たことのある顔が目の前にあるのは、何だか変な感じだった。天然パーマの頭に、小柄な力士を思わせる恰幅のいい体格。その野太い外見は、最近のスマートな外見を持つプロ棋士の中では目立つ存在だった。
「お前か、俺の息子を侮辱した奴は」
 初対面の僕に向かって、お前……。正直、あんまり印象はよくない。
「いえ、僕は侮辱なんてしていません」
「俺の息子が嘘を吐いてるとでも言うのか」
「嘘というか……本当に僕は何も言ってませんから」
「俺のことも見下したらしいな。俺に勝つ自信があるとか?」
「だから、そんなこと言ってません」
「プロをコケにできるほどの腕があるのなら、見せてもらおう」
 相良六段は僕の向かいに着席すると、駒を並べ始めた。僕にも並べるように促す。僕は仕方なく駒を並べる。
 めちゃくちゃだ。何もかもめちゃくちゃだ。
 そのめちゃくちゃな状況を作り出した張本人の相良純一は、父親の後ろに隠れて僕を無言で睨むだけだった。
(ほんま、この親にしてこの子ありって感じの親子やな)
(僕はどうすれば?)
 そう訊かなくとも、どんな答えが返ってくるのかは容易に想像できた。
(もちろん、こいつにも鉄槌を下すで)
 ああ、やっぱり。
(でも、相手はプロですよ?)
(だから何や。まだあたし達の力を信じてへんのか?)
(いえ、そういうことではなくて、この対局に僕が勝ってしまったら、とんでもないことになっちゃいますよね)
(何がとんでもないんや)
(実際には皆さんの力を借りて指すわけですが、他の人達はそんなことを知る由もないわけで、つまり傍目から見ると、ただの中学一年生がプロ棋士に勝つということになります。そんな大事件を起こすことに、抵抗があります)
(それのどこが大事件なんや?)
(だって、中学一年生のアマチュアが、プロ棋士に勝つなんて有り得ないことですよ)
(あのな、あゆむ。勝負事の世界に絶対はないんやで。犬がライオンに勝つことだって十分有り得るんや)
(いや、まあ、それはそうですけど……)
(負けた時の言い訳は、そのおっさん自身が考えるやろ。あたしの予想では、指導対局だったっていう言い訳をするに三千点や)
(あの、他の皆さんも、相良六段を倒すことに賛成してるんですか?)
(正直、私はどちらでも構わないわ。私は桂馬さえきちんと使ってくれればそれでいいの)と桂馬。
(わたくしはプロ棋士に敬意を抱いています。数々の試練を乗り越えて、プロになった方々ですから。そういう方を、こういう形で倒すことに、正直抵抗がないわけじゃないです。でも、先程から言動を見聞きしていると、目に余ります。子供の教育的にも、良くないと思います。だから、お灸を据えるという意味で、負かしましょう)
 三人の中で一番穏健と思われる歩が相良六段を倒すことに賛成しているので、決定は覆らないだろう。
 拒否しようものなら、香車に何をされるかわからない。覚悟を決めるしかないようだ。
 駒を並べ終わった時、僕達の周りには人だかりができていた。二十人近くいる。皆、相良六段を見て顔を綻ばせている。
「いや、皆さん、どうぞご自由にご覧になってください」
 僕の時とは対照的に、相良六段は愛嬌を振り撒いている。
「相良さん、指導対局ですか? わたしもしてもらいたいなぁ」
「いやいや、これは指導対局じゃなくて、真剣勝負ですよ。こちらの少年は、うちの息子が何度やっても勝てないくらい強くて、プロにも勝てる自信があると言っているんです。そんなに強い中学生がいるならということで、こうやって脚を運んだ次第です」
 うわあぁぁぁ。事態がどんどん悪い方に向かっていっている。これでは負けた時の言い訳、指導対局だった、が使えないではないか。どうするのだろう。負けた時、相良六段は何と言うのだろう。僕は胃が痛くなってきた。
「ほう、プロに勝てると豪語ですか。こちらの少年が。そんなに強かったかなぁ」
 僕と何度か対局したことのある人が、首を傾げている。
「まあ、わたしも全力で指しますよ。どれだけ強くても、中学一年生に負けたらプロ失格ですからね」
 そう言い、相良六段は僕に向き直ると、
「そちらが先手でいい。さあ、始めようか」
 と言って僕を睨み付けた。
(手加減一切なし。最初からフルパワーでいくでぇ。初手7六歩や)
 賽は投げられた。もう引き返せない。
 僕はとても深く長い溜息を吐いて歩を持つと、7六歩と指した。