第二局 金底の歩岩より固し









       1

「あゆむくん、ちょっといいかな?」
 朝のホームルーム前の自由時間。僕の名前を呼ぶ方に振り向くと、桂香先輩がドアの前に立っていた。なぜ僕のクラスに桂香先輩が? 僕は友達との会話を止めて、桂香先輩の元へ歩み寄った。
 朝の桂香先輩は、シャンプーの匂いがした。
「おはよう、あゆむくん」
「おはようございます」
「ごめんね、お友達とのお喋りを邪魔しちゃって」
「いえ、大丈夫です。あの、何かお話があるのでしょうか?」
「あゆむくん、昨日相良六段と対局して勝ったって本当なの?」
 僕の心臓は早鐘を打つ。昨日の今日で、もう知られてしまっているのか。いや、というよりも、なぜ桂香先輩がそのことを知っているのだ。僕はその事実を言い触らしていない。相良親子が他言するとも思えない。どうやって伝わったのだろうか。
「あの、その話って、誰から聞いたんですか?」
「父がやっているブログに、昨日の夜、ファンの人からこんな書き込みがあったの。《相良六段が、Y道場というところで、中学一年の少年に平手で負けていました。対局前に他の人が聞いていたのですが、指導対局ではなく真剣勝負だということでした。実際のところ、相良六段がどれほど真剣に指したのかはわかりませんが、負けた直後は放心状態になっていましたので、お遊びではなかったと思われます。相良六段に勝った少年に、奨励会に入っているのかどうか詳しく話を聞きたかったのですが、すぐに帰ってしまったので話は聞けませんでした。その少年と話をしたことのある人によると、S中学に通う一年生ということのようですが、他は何もわかりません》」
 桂香先輩は一つ息を吐く。
「この中学に通う一年生で、そのY道場に行く人って、たぶんあゆむくんしかいないと思うんだけど、どうなのかな?」
 これだけの証拠が揃っていて、白を切ることはできない。僕は首肯した。
「はい。僕は昨日相良六段と対局しました」
「本当に、指導対局ではなくて、駒落ちでもなくて、平手の真剣勝負で勝ったの?」
「……はい」
 桂香先輩の顔が、驚きに満ちたものに変わっていく。角度を変えると、化け物でも見るような目つきにも見える。僕が初めて見る表情だ。驚いた顔も可愛い、なんて暢気なことを思っている場合ではない。
「凄い。プロ棋士に勝つなんて……あゆむくん、いつの間にそんなに強くなったの」
 まずいことになった。実力で勝ったのなら何も問題はないが、実際に指したのは僕ではない。将棋の神様が相良六段を倒したのだ。僕の勝利は、真実ではない。そんな噂が広まってしまったら、僕の立場はまずいことになる。誰かと対局する時は常に、駒達の力を借りて指さなければいけなくなる。プロに勝てるほどの人間が、その辺のアマチュアに負けるのはおかしいからだ。常にプロ並の力を見せ付けなければ、辻褄が合わなくなってしまう。
 僕は、そんなことはしたくない。相良親子を倒したのは、それが正しい行為だったかどうかは置いておいて、一応の大義名分があったからだ。決して自分のプライドを守ったりステータスを上げたりするために駒の力を借りたわけではない。だがプロ打倒の話が知れ渡ってしまったら、僕は純粋に将棋を指せなく恐れがある。それは絶対に避けたかった。
「錯覚していたのかもしれません」
 僕は相良六段の負けた言い訳を適当に言ってみた。
「プロ同士の対局でさえ、一手詰めを見逃してしまうことがありますから。真剣勝負とは言いましたが、やはりプロ同士の戦いとは違います。相良六段には、油断があったと思います」
 僕の言葉に、桂香先輩は頷くでも言葉を返すでもなく、ただ僕の目をじっと見ていた。本音かどうかを探るような眼差し。照れと罪悪感の感情が生まれ、僕は視線を逸らした。
「父のブログには、こうも書かれていたの。《戦型は少年の居飛車対相良六段の振り飛車。最初の三十手目まではよく見かける定跡どおりに進んでいて、このまま中盤に入るかと思われた矢先、少年が見たことのない手を指しました。周りで観ていたわたし達はアマチュアで、せいぜい三段くらいの人間しかいなかったので、その一手がどれほどの好手なのかわかりません。ただ、相良六段がその手を見て困った顔をしていたのは事実です。その一手に対して十分くらい考えていたと思います。結局、そこから一方的に少年が勝った将棋でした。棋譜を残せなかったのが残念です》。その一手というのは新手よね? あゆむくんが一人で考えたの?」
「えっと……」
 言葉に詰まる。僕一人で新手を生み出せるなんて有り得ないことだし、適当に指したという答えはいい加減過ぎる。
 悩む僕に救いの手を差し伸べたのは、歩だった。
(あゆむくん、その新手は、ネット対局で見たということにしておきましょう)
 僕はポケットの中の駒を触り、
(ネットで?)
(ええ。プロ棋士の中には、正体を隠してネット対局する人もいるみたいですし、プロと思われる人が指していた手を真似た、と言っておくのが無難かと思われますわ)
 確かに、それが最善に思えた。桂香先輩に嘘を吐くのは心苦しい面もあったが、本当のことを話せない以上、丸く収まる答えを言うしかない。
「以前、ネットでその手を指している人がいたんです。桂香先輩も利用しているあのサイトです。たぶん、その人はプロなんじゃないでしょうか。観戦していた人達もそう言っていました。なので、僕が相良六段に勝ったというよりも、恐らくはプロ棋士であろうその新手を出した人の勝利なんです」
 桂香先輩は合点がいったように頷いたあと、
「仮にその新手が鬼手と呼ばれるほどの凄まじい一手だとしても、結局そこからは未知の局面になるわけだから、研究関係なしの実力勝負になる。あゆむくんは実力でプロに勝ったのよ」
 違うんです。僕はただのマリオネットなんです。指示された手の意味さえわからずに指しているだけなんです。
「あとで対局するのが楽しみだわ」
 ああぁ……。やはり僕は相良六段に勝つべきではなかったのかもしれない。話がどんどん大きくなっていく。僕と対局するのが楽しみと言われても、僕の実力は変わっていない。たかが一週間程度で棋力が大幅にアップするなんて有り得ないわけで、それは桂香先輩も知っているはずなのに、なぜそんなに楽しみにするのか。数時間後には、桂香先輩をがっかりさせてしまうかもしれない。そう思うと、僕の心はどんよりと暗くなった。
 ホームルーム開始を告げるチャイムが鳴った。
「あゆむくん、今日は何か用事がある?」
「用事ですか? いえ、何もないですけど」
「まだ話したいことがあるんだけど、クラブが終わってから、一緒に帰れるかな?」
 桂香先輩と僕が一緒に帰宅……。想像を絶する光景に、僕は一瞬言葉に詰まった。
「は、はい。大丈夫です」
「それじゃ、またクラブで会いましょう。――あ、そうそう。父のブログのことだけど、相良六段の名誉のために、その人の書き込みは非公開にしておくということよ。あゆむくんも、その方がいいでしょう。騒がれるのは好きじゃないと思うし」
 この話の中で、唯一僕が安堵した瞬間だった。不幸中の幸いだ。被害は最小限で食い止められた。
 桂香先輩の背中が消えたのを確認して、僕は自席に戻った。
 それにしても、桂香先輩の話したいことというのは何だろう。学校では話せないことなのだろうか。僕は思い浮かべる。僕と桂香先輩が一緒に下校する光景を。青春だった。それは間違いなく、至福の時間となる。緊張して、右手と右足が同時に前に出てしまうかもしれない。
 その光景を思い浮かべている時、僕の心は薔薇色のように明るくなっていたが、あることを思い出すと、心の中は暗転した。
 対局のことが心配だった。どう努力しても、僕の力では桂香先輩を満足させられる戦いはできない。僕に失望した桂香先輩と一緒に帰宅するというのも、拷問に近いものがある。憂鬱感が、僕の心を支配していく。自然に溜息が漏れる。
 担任の教師が入ってきて、必要事項を伝え始める。
 香車の声が聞こえてきた。
(暗くなったり明るくなったりそしてまた暗くなって、感情の起伏が激しいなあ、あゆむは)
 僕は肩を竦めて、
(そりゃ、暗くもなりますよ。今の桂香先輩との会話を聞いてましたよね。僕との対局を楽しみにしてるって。僕の力じゃ、楽しませられないですよ。がっかりさせるだけです)
(じゃあ、あたし達が必要な場面に応じて助言したろか?)
 香車の提案に、僕は慌てて首を横に振った。
(そんなことをしたら、ますます後戻りできなくなります。一度吐いた嘘を隠すために嘘を重ねて誤魔化していくのと同じです。それだけは、絶対にダメです。取り返しのつかない事態になるだけです)
「何だ上条、この提案が不満なのか?」
 いきなり名前を呼ばれて僕は慌てる。
 見ると、壇上にいる担任の教師が僕に視線を合わせていた。
「え? 何ですか?」
 僕は頓狂な声で応える。
「今、首を横に振っただろう。この提案に異議があるのか?」
 いったい何のことかと思いながら黒板に目をやると、近々やる催し物の内容を決めているようだった。その内容に対して、僕が反対したと受け取られたようだ。リアクションは小さめにしなくてはいけないと僕は反省した。
「いえ、何でもありません。すいません」
 方々でクスクスという笑い声が起こる。僕は背中を丸めて駒達との会話を再開する。
(勝つのは無理としても、桂香先輩をがっかりさせないくらいには、善戦したいんですけどね……)
(あゆむ、案外そこまで心配せんでもええかもしれんで)
(え、どういうことですか?)
(リラックスして指せば、桂香をがっかりさせない結果が得られるかもしれんゆうことや。とにかく、落ち着いて指しぃ)
 僕には香車の言っている意味がわかりかねたが、どの道、自力で指すという選択肢しかないのだ。自棄にならず、一手一手に魂を込めて指すしかない。

 放課後――。
 覚悟を決めたものの、将棋クラブのある教室へと向かう僕の足取りは重かった。鉛のようだ。絶対にやってはいけないと決意した《駒の助言を聞いて指す》という悪魔の囁きに、心が揺れ動きそうにもなった。しかし、やはり、不正はいけない。たとえ対局後に、何でこんな弱い人がプロ棋士に勝てたのかしらという風に桂香先輩に首を傾げられることになっても、僕は自分の力だけで前に進まなければいけない。男には、やらなければいけない時がある。僕にとって、それは今だ。
 教室に入ると、すでに席に座っていた桂香先輩が僕を手招きした。僕は会釈して着席した。
「今日は一日じゅう、あゆむくんのおかげで明るい心で過ごせたわ。進化したあゆむくんの強さを見せてね」
 桂香先輩に悪気がないのはわかるが、この尋常じゃないプレッシャーに僕は押し潰されそうだった。達成不可能な物事に挑戦しようとしている人に対して、お前なら余裕だとか、お前なら簡単にクリアできるだとか、そういうやりとりをしているバラエティー番組を僕は思い出していた。
 僕は今日ずっと考えていた。なぜ桂香先輩は、僕との戦いをこんなにも楽しみにしているのかと。最初は、単にプロ棋士に勝った人間との対局を楽しみにしているだけかと思っていたのだが、答えは別のところにあると気づいた。
 桂香先輩は、約一ヵ月後に迫っている大会の団体戦のメンバーに、勝ち星を計算できるかもしれない後輩が出てきたことを喜んでいるのだ。桂香先輩も、先週まで初段だった僕がいきなり高段者になったとは思うはずがない。ただ、どういう勝ち方であれ、プロ棋士に勝ったのは事実。その勢いを見たいのだろう。そしてその勢いを、大会でも発揮して欲しいと。桂香先輩はきっとそう思っている。
 そう思うと、余計に重圧がかかった。先週までと同じようなヘボ将棋を見せてしまったら、桂香先輩の落胆は計り知れないものになるかもしれない。それは断固阻止しなければならない。天才の閃きを見せることは僕にはできないが、落胆をできるだけ小さなものにする力はあるはずだ。そう信じたい。勝つのは無理でも、善戦する力はある。そう信じて僕は指す。
(あゆむ、とにかくリラックスせぇ。平常心で指すことができたら、対局後に桂香の笑顔が見られるかもしれんで)
 そうなればどれだけ素晴らしいだろう。言われたとおり僕は深呼吸して心を落ち着かせる。
「相良六段と指した時は、あゆむくんは先後どっちだったの?」
「先手です」
「それじゃ、あゆむくんの先手で始めましょう。お願いします」
 お願いしますと僕も頭を下げて、初手を指した。
 大会の時でもここまで慎重にならないというくらい、僕は慎重に手を進めていく。可能な限り桂香先輩の応手を予想して、自分が思う最善手を指し続けていく。
 戦型は居飛車対振り飛車になっていた。桂香先輩は振り飛車の中で最も多く指されているであろう、四間飛車の戦型。桂香先輩はオールラウンダー(=居飛車・振り飛車、急戦・持久戦、あらゆる戦法を使い分けられる人)なので何でも指しこなすが、僕と相良六段の戦いがこの戦型だったので採用したのだろう。ちなみに僕は居飛車党(=序盤において、飛車を定位置、またはその周辺の右翼に配置して戦う人)なので、居飛車しか指さない。
 僕は自玉を8七の地点に置き、天守閣美濃と呼ばれる囲いを完成させた。僕は対振り飛車の時、この天守閣美濃をよく採用する。その一番の理由は、囲いの形が綺麗だからというもの。戦法が複数あるように、玉の囲いも両手では数え切れないくらいある。その数ある中で、僕が最も綺麗な囲いだと思うものが、この天守閣美濃だった。もちろん綺麗なだけではなく、他の囲いにはない長所があるというのも、僕がこの囲いをよく採用する理由にあった。
 ただ残念ながら、僕は棋力が低く受けも苦手なので、あまりその長所を活かしきれていない。
 手数は五十手を超えていた。居飛車対振り飛車では定番ともいえる5筋から右側で、激しい攻防は繰り広げられていた。
 互いの主張はわかり易かった。どちらの飛車と角が先に相手の陣地に入り込んで龍と馬になるのか。この将棋は、先に攻撃の要である飛車と角を成駒にした方が優勢になる。展開としては、非常に先が読みやすいものとなっていた。
 だが、展開が読み易いからといって、願いをすぐに叶えられるわけではない。当然、互いに相手の飛車と角を成り込ませない手を指す。あるいは自分の方が有利と踏めば、ノーガードの殴り合いのように、相手の大駒を成らせるかわりに、自分の大駒を成駒にする作戦をとることもある。その辺りの見極めも重要だった。
 桂香先輩の白く細長い指が歩を挟み、一マス前進させた。角道が開き、僕の角とぶつかる形になる。角を交換しましょう、という手だ。
 大駒である飛車や角を交換する場合、先に駒を取った方が有利になることがある。相手の駒を持ち駒にして、先に好きなところに打つことができるからだ。だが、この局面は違った。先に僕が角を取ってしまうと、天守閣美濃がスカスカになってしまうし、数手後に僕の飛車と香車の両取りがかかる筋もあった。そこまで読んだ上で、桂香先輩は角交換をしようとしているわけだ。
 僕は桂香先輩の申し出を拒否することにした。角道を止めるために、6六歩と指す。これで、桂香先輩の方から角交換を迫ることはできなくなった。角交換の権利は、しばらくのあいだは僕の手の中にある。
 僕の指し手を見て、桂香先輩は右手の人差し指を軽く曲げる形で、顎に付けて考え込んだ。
 熟考する顔も素敵だ、なんてことをいつもの僕なら思うわけだが、今日は違った。僕はすぐに盤上に視線を戻す。桂香先輩をがっかりさせたくない。その一心で、このあとの展開を思い描く。最善手を探し続ける。
 三分ほど経った頃、桂香先輩の手が動く。
 8四歩という、玉頭の歩を突く一手だった。このまま攻め合うのは不利と判断しての一手のようだ。攻めるのが得策ではないと判断した場合、指す手は二つに絞られる。手渡しするために当たり障りのない一手を指すか、玉の囲いを整備し直すか。
 桂香先輩が選んだのは後者だ。今は高美濃囲いという、振り飛車の場合に採用される率が高い囲いになっているが、それを銀冠へと変化させるつもりだ。
 この瞬間、僅かではあるが、敵玉の守りは崩れている。果たして僕に攻め入る隙があるかないか、数分使って考えてみた。
 僕の出した答えは、何だかいけそうな気がする、だった。
 確信はないが、ここで攻めないと、向こうが守りを強化するのをただ黙って見ていることになる。
 僕はもう一度自分の読みを確認してから、戦いの火蓋を切る一手を指した。
 桂香先輩はすぐに手を返す。僕の予想どおりの応手だったので、すかさず僕も指す。桂香先輩もノータイムで指す。その早指しが数手続いた結果、先に飛車が相手の陣地に入り込んだのは僕の方だった。
 僕より一手遅れて、桂香先輩の飛車も僕の陣地に入り込んできた。互いに最強の駒である龍をつくった恰好。僕の龍は2筋に、桂香先輩の龍は4筋にいる。
 お互いに、このまま一気に攻めるには駒が足りない。なので、僕はまず確実に取れる位置にある香車を取ることにした。そのあとは相手の指し方次第だが、このままうまくいけば、互角以上の形勢で終盤に突入することができる。
 そう思い、1一の香車を取った瞬間だった。
 桂香先輩は自分の陣地に龍を下げた。
 あっ。僕は思わず声を漏らした。
 てっきり桂香先輩も僕と同じように、龍を使って持ち駒を増やす指し方をするものだと思っていたのだが……まさか自陣に龍を引くとは予想していなかった。そして指されてみると、その手がかなりの好手だということに気づかされた。
 相手の龍に睨まれているので、僕の龍が単独で攻めに使えないのだ。攻めに使えないのは相手の龍も同じだが、現時点で有効に機能しているのは相手の龍の方。この龍が居座っているうちは、相手の玉を攻撃するのに時間がかかる。反対側の8筋や9筋から玉を攻撃する方法もあるのかもしれないが、僕にはその手順は見えない。従って、相手の龍を消すかどかさなければいけない。
 いくつかの攻め手順を思案した結果、僕は自陣にいる角を使うことにした。角を敵陣に突っ込ませて、城を守っている龍を攻撃するというもの。僕はまず閉じていた角道を開けた。
 呼応するように桂香先輩も角を動かし、僕の陣地に突っ込める場所へ出てきた。僕が三手かけて角を成らせる準備をしているあいだ、桂香先輩は僕よりも早く馬をつくることに成功し、桂馬と香車を奪って持ち駒にしていた。
 展開としては、僕の方が苦しいものとなっていた。
 更に手は進む。
 桂香先輩が攻め駒を総動員して爆撃準備を完了させようとする直前、僕は8五歩と指した。玉頭の歩を突く一手。
 玉の頭を守っている歩を突く行為は、自分の手で城の守りを弱体化させることになるわけだが、僕が攻める場所は8筋と9筋の最左端しかない。端攻め。そこが唯一、桂香先輩が作り上げた城の弱点だった。
 僕の指し手を見た桂香先輩は、ちらりと僕を見て、少しだけ口角を上げた。
 その微笑は、弟子の成長を嬉しがる師匠のそれを連想させたが、果たしてどうだろう。
 桂香先輩は僕の突いた歩を取らずに、持ち駒の香車を打ち込んできた。僕の攻めなどお構いなしに、一気に爆撃するつもりだ。確かにこの局面からノーガードの殴り合いをすると、僕は簡単に殴り殺される。なので、僕は一旦最左端である9七へと王様を逃がした。
 見た目的には、銀一枚と金二枚が守っている7筋から6筋へと逃げたいところなのだが、そちらへ逃げてしまうと、真綿でじわじわと締めるように、桂香先輩は僕に駒を渡さずに攻めを繋げることができる。しかし9筋へ逃げたことにより、桂香先輩は必ず僕に二枚から三枚の駒を渡す形で攻めを繋げなければいけない。僕は今持っている駒と、将来手に入るであろう駒を使って、相手の玉を詰ます道を選んだ。
 ただし、それは僕の都合の良い読みでしかなく、それらの駒を手に入れた時には、詰まされているかもしれない。
 桂香先輩は前傾姿勢になって、射抜くように盤上を凝視している。
 数分の後、桂香先輩は僕が希望する攻めを繋げてきた。桂香先輩は僕の考えを見抜いているはず。それでも僕に駒を渡す攻め手順を選んだということは、僕のファイナル・アタックは成立しないと判断したわけだ。
 いくつかの駒を僕に渡しながらも、桂香先輩は確実に僕の玉を追い詰めていく。
 自玉に必至をかけられた状態になった時、僕の駒台には歩と香車、桂馬がそれぞれ二枚ずつ載っていた。僕の玉は、桂香先輩の次の一手で必ず詰まされる。僕が勝つためには、ここから王手をかけ続けて詰ますしかない。
 だが、どれだけ深く読んでも、相手の玉を詰ます手は見えなかった。唯一残っている僕の勝利への道は、桂香先輩が受け間違うことによって生じる詰みだけ。いわゆる頓死(応手を間違え詰まされること。詰めろを見落とし詰まされること)。相手の受け間違いを期待して攻めるのは本望ではないが、ここで投了するのも潔すぎる気がしたので、僕は攻めることを選択した。
 しかし予想どおり、桂香先輩の受けは完璧だった。一手指す毎に、僕の希望の光は弱まっていく。やがて光は風前の灯となった。万事休す。僕は投了の意思を告げて頭を下げた。
 真剣な眼差しだった桂香先輩の顔が、ぱっと明るくなる。
「あゆむくん、やっぱり強くなってるわ。先に飛車を成ったあたりの攻防も良かったし、終盤の玉頭からの攻めも切れがあって良かった」
 この対局の最大の目的。桂香先輩をがっかりさせないという目的は、果たして達成できたのだろうか。桂香先輩の顔を見る限り、落胆しているようには見えないが、心の中までは見えない。内心どう思っているのだろうか。
「あの、これでおわかり頂けたと思いますけど、相良六段に勝てたのは奇跡の結果なんです」
「どういう内容だったとしても、プロに勝ったことに意味があるのよ。実際、あゆむくんの指し回しは一皮剥けたように感じたわ。先週までとは別人という感じ。何か良い上達方法でも見つけたの?」
 その言葉はリップ・サービスだろうか。正直、僕にはレベル・アップしたという実感はなかった。確かに、今までとは違う指し方ができて、ある程度は善戦できたが、強くなったのかどうかは自信がない。
「良い上達方法というか……」
 僕はポケットの中の駒を触る。
 対局が終わる度に将棋の神様に悪かった点を指摘してもらっています。
 なんてことは言えないので、
「今までよりも、攻めるべき時と守るべき時の見極めが、少しだけわかるようになったのかもしれません。本当に、少しだけですけど」
 と、答えるに留めた。
 桂香先輩は頷いて、
「大局観が向上したということね。あゆむくん、毎日たくさん対局しているものね。短期間での急激なレベル・アップも理解できるわ」
 ネガティブな見方をせずに、純粋に褒めてもらえていると受け取ることにしよう。そう決めると、僕の心に嬉しさが広がっていく。桂香先輩に褒められた。それだけで今日はハッピーだ。
「それで、この将棋なんだけど。ちょっと手を戻して、この局面。ここはこういう攻め方をした方が、私の玉をもっと追い詰めることができたと思うの」
 いつものように、桂香先輩は手を戻して、より効果的な攻め筋を教えてくれる。僕は盤面に集中し、感想戦に没頭していく。

 午後六時に、僕と桂香先輩は学校を後にした。
 いつもは一人で歩いている自宅へと続く道を、今日は桂香先輩と一緒に歩いている。片側二車線の道路を走る車やバスの中は、会社帰りと思われる人達で溢れている。この人達の目には、僕達の関係はどういう風に映っているだろう。僕がもう少し男らしい雰囲気を出せれば、桂香先輩と釣り合いが取れると思うのだけれども……。
「大会まで、あと四十日ね」
 僕の隣を歩く桂香先輩の横顔は、夕日に染められている。初めて桂香先輩を見た時を思い起こさせた。
「はい。そうですね」
「去年も一昨年も代表になれなかったから、今年こそは、どうしても代表になりたい。そして日本一になりたい」
 そう語る桂香先輩の横顔は、僕がかつて見たことがないほど力強かった。夕日を浴びているからか、その瞳には炎が宿っていると錯覚もさせられた。
 その意思の強い目を、桂香先輩は僕に向けた。
「現時点で、団体戦のメンバー二人は確定的。私と橘くん。もちろん、私達を上回る強さを持った人が出てくれば、その座を譲るけれど、残り四十日という時間では、そこまでの上積みは期待できない。だから何とか、三人目のメンバーは、勝てる人を入れたい。棋力で言えば、三段以上の人を」
 やはり、桂香先輩もそう考えていたか。
 当然だ。これは遊びじゃない。戦いなのだ。参加することに意義があるのではない。東日本代表の座を獲得することが目標なのである。狙えるだけの実力があるのだから。そしてそれも通過点に過ぎない。最終目標は、日本一のチームになること。
「私は、三人目のメンバーは、あゆむくんに獲得して欲しいと思ってるの」
「えっ?」
 全く予想していない言葉に、僕は素っ頓狂な声を上げた。
 これは、将棋で言えば、鬼手だ。固まって思考停止してしまうくらいの一手。
「ぼ、ぼ、僕ですか?」
「ええ。本当は主将の私が誰か一人に肩入れするのは良くないことなのかもしれないけど、残りの四十日で三段以上になれる可能性があるのは、あゆむくんだけだと思ってる。今日対局してみて、改めてそう思ったわ」
 僕は、桂香先輩に、期待されている。桂香先輩と橘先輩を除く十三人のメンバーの中で、僕が一番期待されている。その事実は、僕を天にも昇るほど舞い上がらせた。
 が、次の瞬間には、僕は地面に着地する。
 その期待に応えられる自信がないからだ。十三人の内三人は初心者だが、残り十人の実力は拮抗している。対戦成績という意味で、僕が苦手にしている先輩も複数いる。残り四十日で他の部員を押し退けるだけのレベル・アップをする自信は、正直全くなかった。
「そんな風に言っていただけると、すごく嬉しいんですけど、すいません、正直、自信はないです」
 僕は正直な気持ちを吐露した。
 桂香先輩は笑って、
「そんなに重く受け止めないで。あゆむくんは、今までどおりにしてくれていいの」
 と言ったあと再び真剣な顔つきになり、
「あゆむくんが良ければ、大会日までの土曜と日曜は、私の部屋で、マンツーマンで対局したいと思ってる。どうかな?」
 桂香先輩の部屋で、二人きりで過ごすだって……。
 驚天動地の光景が脳裏に浮かんできて、僕は思わず電柱にぶつかりそうになった。
「ぼ、ぼ、僕、僕、僕が――」
 興奮し過ぎて呂律が回っていない。僕は乾いていた唇を舐めて、深呼吸した。
「僕が、大橋先輩の部屋に行くんですか?」
「ええ。あゆむくんが良ければということだけど」
 桂香先輩はどんな部屋に住んでいるのだろうと想像したことはある。だが、そこに僕が入る妄想をしたことはない。非現実的すぎるからだ。
 しかしそんな驚天動地、非現実的な光景が、僕の返事一つで現実になろうとしている。早ければ、今週中にもそれが実現する。
「あの、僕にそんな貴重な時間を割いてもらって、本当にいいんでしょうか」
「もちろんよ。それがベストだと思っての判断よ。あゆむくんは、今度の大会に出たい?」
 僕は即座に首肯した。
「出たいです。三人目のメンバーになって、そして日本一になって、大橋先輩と喜びを分かち合いたいです」
 僕が余計なことを言ってしまったと気づくのは、三秒後のことだった。
 大橋先輩と喜びを分かち合いたい。
 受け取り方によっては、僕が桂香先輩を意識しているのがバレバレである。大橋先輩達と言えば、何の問題もなかったのに。
 僕の言葉を聞いた桂香先輩は、一瞬ぽかんとした表情になったが、すぐに笑顔を浮かべて、
「そんな風に言ってくれて嬉しい。出場したいかどうか聞くのは、愚問だったわね」
 桂香先輩の顔を見る限り、僕の言葉を変な風には受け取っていないようだ。とりあえず安堵する。
「それじゃ、これから一緒に特訓することも、OKかな」
 僕は再び首肯した。
「期待に応えられるように、頑張ります」
「良かった。これから一緒に頑張りましょうね。でも、さっきも言ったけど、本当にあまり重く考えないでね。楽しさがないと、成長はないと思っているから」
「はい。わかりました」
 そう答えたが、果たしてどれだけ楽しくやれるだろう。最初の十日くらいで確実に強くなったという実感を持てたら、大会までは心に余裕を持って過ごせると思うが、半分の二十日が過ぎても全く成長していないと自覚したら、さすがに楽しくは指せないだろう。
 しかしやると決めた以上、道は一つしかない。
「それで早速なんだけど、次の日曜日は時間あるかしら?」
「はい。大丈夫です」
「今度の日曜日、私がよく行く道場が主催する大会があるの。参加費が千五百円かかるけど、四位以内に入れば賞品が貰えるし、腕に自信ありの人が結構来るのよ。実戦練習としては悪くないと思うんだけど、どうかな?」
「もちろん行きます。最近、その手の大会に出ていなかったので、出たいと思ってたところなんです」
 僕が会員登録しているネット道場でも、よくトーナメント戦が開催されているが、やはりリアルのトーナメントは緊張感が違う。相手の睨みつけるような視線、心臓の鼓動が聞こえてきそうなほどの緊迫感、真剣勝負の場所にだけ漂っている匂い。それらは決してパソコンや携帯越しの対局では味わえない。現実の世界でだけ得られる刺激なのだ。
「ちなみにその日は、二階堂くんも来ることになってるの。二階堂くんの話は、したことあったわよね。私と同じ段位で、色々な大会で好成績を収めている人」
 二階堂。去年の東日本代表決定戦で桂香先輩を負かした相手。
「はい。知ってます。あの、来ることを知ってるということは、電話やメールをしたりする間柄なんですか?」
 普段の僕ならこんな突っ込んだ質問はしないが、咄嗟に口を突いて言葉が出ていた。それだけ『二階堂くん』という言葉の響きが気になってしまったのだ。
「いいえ。二階堂くんは、私がよく行く道場に、たまに来るの。このあいだ会った時に、大会に参加すると言っていたのよ」
「そうなんですか」
 電話やメールをしたりする間柄ではないという事実が、僕を大いに安堵させた。ふう。
「他にも知り合いの強豪が来るから、誰と戦っても勉強になるわ」
 どういう戦法を使うのか、攻めと受けどちらが得意なのか、手の内が全くわからない初手合いの人と対局するのは緊張もするが、楽しみの方が大きい。トーナメント戦は組み合わせの運も絡んでくるが、一回でも多く勝ちたい。どう考えても優勝は無理だが、最低でも一回戦は突破したい。桂香先輩が見ている前でみっともない対局はできない。
「あゆむくんのお家はこの辺り?」
 そう桂香先輩に言われて、いつの間にか自宅が見えるところまで来ていることに気づいた。
「あ、はい。その白い屋根の家が自宅です」
「清潔感のある、立派なお家ね」
 いえ。桂香先輩の自宅に比べたら庶民の家です。僕は心の中で返す。
 桂香先輩と出会う前の小学生の時、僕は何度か桂香先輩の家を見に行ったことがある。名人の家、と言った方が適切か。自分の家からそう遠くない場所に名人の自宅があると知った時、僕は居ても立ってもいられず、無我夢中で自転車のペダルを漕いで見に行ったのだ。名人がこの家の中にいるかもしれない。そう思っただけで、その家が威圧感を持って僕に迫ってきたことを憶えている。
 ちなみに、僕はまだ名人を生で見たことはない。桂香先輩にお願いすれば、会わせてもらえるかもしれないが、さすがにそんな失礼なお願いはできない。でもいつか会いたいと願っている。将棋界の頂点に立つ、一番強い人に。
 自宅前に着くと、僕達は脚を止めた。
「何か、すいません。こんなところまで歩かせてしまって」
「いいのよ。私が誘ったんだから。それに、将棋ばかりしていると運動不足になりがちだから、たくさん歩いた方がいいのよ。運動を全くしないと、太っちゃうからね」
 そう言って桂香先輩はお腹を擦った。
 こういうところは桂香先輩も普通の女の子なのだな、ということを僕は思った。
「それじゃ、帰ろうかな」
 踵を返そうとした桂香先輩は、半分身体を捻ったところで動きを止めた。
「あ、そうだ。あゆむくん、携帯は持ってる?」
「はい、一応、持ってますけど」
 誰からも掛かってきませんけど。喉まで出かかったが、大した笑いも取れそうにないので自重した。
「番号とメルアドを交換しておきましょう」
 桂香先輩は鞄から《王将》のストラップが付いている携帯電話を取り出した。
 えっ? ええっ? えええええっ?
 今日何度目かの衝撃波が僕を襲う。酸素不足の頭がクラクラする。
 番号を交換するということは、僕の携帯に桂香先輩の番号が、桂香先輩の携帯に僕の番号が登録されるということだ。そんな一+一=二というくらい当たり前のことが、僕には恐ろしいほど強烈で新鮮だった。
 微かに震える手で、僕も鞄から携帯を取り出した。
 互いの携帯を突き合わせ、赤外線通信で番号とメルアドを交換した。
 他の番号と同じ数字の羅列と文字の羅列に過ぎないはずなのに、しかし桂香先輩の数字と文字はまばゆい光を放っていた。この瞬間、この携帯は僕の命と同じくらい大切なものとなった。後生大事に持っていよう。
「将棋のことでわからないことがあったらいつでも連絡してきていいからね。あ、将棋以外のことでも、何か訊きたいことがあったら、メールでも電話でもしてくれていいわ。でも、あまり難しいことを訊いてきたら無視するかも」
 桂香先輩は悪戯っぽい笑みを浮かべた。僕の思い出フォトグラフに、また一つ新しい桂香先輩の笑顔が追加された。
「それじゃ、帰るわね」
「はい。気を付けて」
「ありがとう。また明日」
「はい、また明日」
 桂香先輩は手を振って去って行く。
 僕はその姿が消えるまで、玄関の前に立って見送っていた。

 机の上に鞄を置いて振り返った時、駒達が人間の姿になって立っていた。
 と、そこで僕は気づいた。そういえば、今日は全くと言っていいほど駒達が話しかけてこなかったなと。
 そんな僕の考えを察したかのように、香車が口を開いた。
「せっかくの桂香との二人きりの会話を邪魔されたら厭やろ。だから黙ってたんや」
「そうだったんですか。お気遣い、ありがとうございます」
「まあ、所詮は先輩と後輩の会話で、男女の会話には程遠かったけどな」
「だから、そんなことはわかってますよ。番号を交換したからって、僕が勘違いすることはないですから」
「何や、拗ねたんか」
 香車が僕の頭をヘッド・ロックした。
 僕の頬に、香車の豊満な胸が当たっている。
 僕は赤面して胸から視線を逸らした。
「別に拗ねてません」
「そんな拗ねてるあゆむに、良い話があるで」
「だから拗ねてませんってば。……何ですか、良い話って?」
「桂香のあゆむを見る目が、少し変わったって話や。今日の対局で善戦した結果や。まあ、さっき言ったとおり、まだ男としては見てないけど、頼りない後輩から、頼りがいのある後輩には昇格してる。前も言うたけど、このまま強くなり続けて桂香を倒せるようになれば、あゆむを男として見るようになるやろうな。間違いない」
 なぜ桂香先輩の心の中が香車にわかるのか、という疑問は持たなかった。彼女達は、人間の想像を遙かに超える存在なのだ。人間の心が読めたとしても、驚くには値しない。それに、一応と言ったら殴られるかもしれないが、香車は女だ。女であるならば、同性の心がわかっても不思議ではない。だから、香車の言っていることは本当なのだと受け取ることにした。
「僕、さっきの桂香先輩の言葉を聞いて、今まで以上に団体戦のメンバーになりたいという思いが強くなりました。桂香先輩の期待に応えられる男になりたいです」
 香車はヘッド・ロックを解除して、僕を正面に向かせた。
「よう言うた。その意気や。大丈夫。必ずあたし達が期待に応えられる男にしたる。うまくいけば、四十日後には桂香と同レベルになっとるかもしれんで」
「あと四十日で僕が桂香先輩と同レベル? いくら何でも、それは無理かと……」
「全然無理やない。今日の桂香との対局を思い出してみぃ。手応えがあったやろ。たとえ少しでも、強くなったという実感が。先週までとは、盤面の見え方が違ったはずやで」
 確かに、香車の言うとおりだった。
 今までだと守っていたであろう局面で攻めたり、持ち駒を使っていたであろう局面で使わなかったり、そういう反対の指し手が今日は多かった。結果、負けはしたが、善戦することができた。
「今日の善戦はまぐれやない。あたし達が現れてからの一週間、あゆむは誰かと対局したあとは、必ずあたし達のアドバイスを聞いてきた。時には、初手から最終手まであたし達が指示するとおりに指し続けた。文字どおり、最善手を指し続けたわけや。一手一手の意味を完璧に理解はしていなくとも、感覚で理解し始めてるんや。まだヒヨコに毛が生えた程度の大局観やけど、たった一週間で目に見えて実力が増したことは事実。四十日後はどうなってると思う?」
 将棋の上達方法は複数ある。たくさん対局するとか、詰め将棋を解くとか、プロの棋譜を並べるとか……。僕の場合はそのどれでもない《完璧な手を教えてもらえる》というもの。香車の言うとおり、僅か一週間ではあるが、知らず知らずのうちに、指し手の善悪の区別が付くようになってきているのかもしれない。
「でもな、一つだけ言うとくで。あたし達のアドバイスを聞いても、誰もが強くなれるわけやない。学校の勉強だって、正しい教え方をしても皆が皆理解できるわけではないのと同じで、理解できる能力というのが必要や。あゆむには、その能力がある。だからあと四十日もあれば、桂香に追いつくことも可能というわけや」
 僕に、そんな能力が……。
 僕は自分の両手を見る。
 本当に、この僕に、将棋の神様の指し手を理解できる能力があるのなら、高くてとても登れないと思っていた山の頂に登ることも可能なのかもしれない。
「難しく考えなくてええ。今までどおりあたし達のアドバイスを聞いていれば、桂香と一緒に喜びを分かち合うことができる」
 僕はその光景を想像する。
 満面の笑みの桂香先輩。その横に立つ僕。両手にはトロフィーと賞状と日本一を決める戦場への切符。
 俄然、その場に立ちたいという思いが強まる。闘争の炎が一層激しく燃える。
「おお。あゆむ、目に炎が浮かんでるで。よしよし、その心意気や。必ずあたし達が念願成就させたるからな」
「あゆむくんなら、絶対に大丈夫」
 歩が、僕の両手を優しく握った。
「桂香さんが驚くくらい強くなって、男を見せましょう。あゆむくんを見る桂香さんの目が劇的に変わるのが楽しみですわ。一緒に頑張りましょうね」
「盛り上がっているところに水を差すようで悪いけれど、あなた今日も桂馬の使い方が下手だったわよ。桂馬を使わずに勝つという縛りプレイでもしているの?」
 桂馬は相変わらずの冷めた目で僕を見ている。
「あ、いえ、決してそういうわけではありません。桂馬は、すごく使い方が難しいというか、きちんと先を読んでいないと使いこなせないというか、もっとレベル・アップすれば、きちんと使えるようになると思うんですけど、はい」
「本当に、早く使いこなせるようになって欲しいものだわ。桂馬があまりにも不憫ですもの」
「すいません。努力します」
 僕が桂馬に褒められる日がくるのは、一体いつになるのだろうか。もしかしたら、永遠に来ないのかもしれない。
「一つ問題なのは、桂香の教えをどうするかやな」
 香車が腕組みして言う。
「桂香は、アマチュアにしては筋が良い。教え方もうまい。けど、所詮はアマチュアや。あたし達が教えた方が効率良いのは言うに及ばず。あゆむを四十日で桂香レベルにする自信はあるけど、それは時間を無駄にせずに教えた結果や。平日は学校があるから仕方ないけど、土曜と日曜は付きっ切りで指導したいんやけどな。その辺、どうする?」
 香車の言うことはもっともだったが、桂香先輩のマンツーマン指導がなくなるのは厭だった。来年には桂香先輩は高校生になる。この先、僕と桂香先輩の関係がどうなるのかはわからないが、親密な時間を取り上げられるのは厭だった。
「それは、さほど気にしなくていいんじゃないでしょうか。桂香さんが的確なアドバイスをすればそれでいいわけですし、もし間違った指摘をしていたら、わたくし達がその場で教えてあげればいいわけですから」
 歩の言葉に、僕はほっと胸を撫で下ろす。確かにそれなら問題ない。
「せやな。あたしもあゆむと桂香の時間を奪いたくはないし、それが最善ということになるな。でも、それでも少しは回り道を強いられることになるわけやから、あゆむはもっともっと気合を入れて将棋を指さんといかんで」
 香車が僕の背中をぽんと叩いた。
「はい。わかりました。あの、これからの四十日、より一層のご指導ご鞭撻をよろしくお願いします」
「よっしゃ。そうと決まったら、早速対局するで。とりあえず一番強いソフトと指しぃ。あたし達の指示どおりに指し続けるんや」
「わかりました」
 僕はパソコンの前に座り、コンピュータとの対局を開始する。駒達が指示する一手の意味を理解するように努めながら、僕は対局に没頭していく。

       2

 日曜日の空は、僕の心を鏡に映したかのような快晴だった。頬を撫でるそよ風は心地良く、肺に入ってくる空気は新鮮だった。
 桂香先輩との待ち合わせ場所である駅に僕が着いたのは、約束の八時の三十分前だった。
 これはデートではない。百も承知している。あくまでも将棋クラブの先輩と後輩が将棋の大会に参加するというだけだ。しかしまるで初めてデートする時のように、僕は昨日からずっと緊張しっ放しで全く眠れなかった。こんな状態でまともに将棋が指せるか少し不安だったが、対局になれば緊張状態に突入するので眠気は吹っ飛ぶはずだ。
 桂香先輩が現れたのは、七時五十分だった。桂香先輩は僕を見つけると、笑顔を浮かべて手を振ってくれた。僕も自然に顔が綻ぶ。
「おはよう。もう来てたの」
「先輩を待たせるわけにはいかないですから」
 桂香先輩なら尚更待たせるわけにはいかないです、と心の中で付け加える。
 桂香先輩はピアスもネックレスもブレスレットも、一切の装飾品を付けていない。盤が淡いピンク色の腕時計をしているだけだ。しかし桂香先輩は輝いていた。僕が桂香先輩に惹かれているからそう見えるわけではない。電車を待っている他の人達も、桂香先輩をチラ見していた。やはり誰が見ても、桂香先輩は美人なのだ。僕は再認識した。
 桂香先輩の背後から風が吹いた。桂香先輩の匂いが鼻に入ってくる。
 石鹸の香りがした。シャワーを浴びてきたのだろうか。
 瞬間、僕の頭に、本人を前にして絶対に想像してはいけない光景が浮かんできそうになった。
 僕は慌てて目を瞑って頭を振った。
「あゆむくん、どうしたの? 頭が痛いの?」
 桂香先輩が僕の顔を覗き込むようにして見ている。
「あ、いえ、何でもないです。久しぶりの大会なんで、すでに緊張しているというか……」
「大丈夫よ。相良六段のプレッシャーに耐えたあゆむくんには、怖いものなんてないはずよ」
 間もなく電車が到着するという時、「桂香」と呼ぶ声がした。見ると、五人組の女子が、桂香先輩に向かって手招きしていた。おそらく同級生だろう。桂香先輩は僕に一声かけて、その五人組の元に行きお喋りを始めた。
 ふっと、五人組が一斉に僕の方に振り向いた。
 反射的に僕は会釈した。
 五人組はクスクスと笑って僕と桂香先輩を交互に眺めたあと、桂香先輩に何か言い始めた。
 僕は恥ずかしくなってその光景から目を逸らした。
 電車が滑り込んでくると、桂香先輩が戻ってきた。二人で最後尾の車両に乗り込み、手近な席に腰を下ろした。いつも僕が行く街とは反対の方向へ電車は走り始める。
「さっきの五人は、同級生なの。あゆむくんの方を見て笑ってたけど、気を悪くしないでね」
「いえ、全然そんなことはないです」
「あの子達、からかうのよ。あゆむくんを見て、あの子が彼氏なのかとか、年下を誑かすのは止めなさいとか。失礼しちゃうわ」
「ははは、そうなんですか。……僕が彼氏に見えるというのは、かなり無理がありますよね」
「そんなことないわよ。他の人達の目には、デート中の二人に見えているかもしれないし」
 桂香先輩がどんな気持ちでその言葉を発したか、わかっている。一種の社交辞令的な言葉である。重々、承知している。けれども僕はにやけた顔になってしまった。
 そんなふわふわした感覚になったものだから、普段なら絶対に質問できないような言葉が口を突いて出ることとなった。
「あの、大橋先輩は、彼氏はいらっしゃるんですか?」
 僕の質問に、桂香先輩は周囲を軽く見回したあと、僕に顔を近づけてこう言った。
「根暗な女と思われるかもしれないけど、今は将棋が恋人です」
「そ、そうですか」
 僕は心の中でガッツポーズをした。以前、香車が言っていたように、やはり今は男には興味がないようである。
 しかしそんな桂香先輩も、いつかは将棋以外のことにも興味を持つ日が来るだろう。
 その時、僕と桂香先輩の距離はどうなっているのだろうか。
 今よりも縮まっているのか、それとも……。
 ともかく今は、香車のアドバイスに従って棋力を高めることに邁進するのが最善手だろう。
 電車が駅で停まり、再び動き始めた時、これから向かう戦場の話へと話題は変わった。
「半年前にあった同じ道場の大会には、約一三十人が参加したの。その前も同じくらいだったから、今回もそのくらいだと思うわ。前回は決勝で二階堂くんに負けたけど、私はそれまでに六勝を挙げてたから、優勝ラインは七勝以上になると思う」
 一回でも負けたら終わりのトーナメントで、七連勝以上。
 僕には無理な数字だった。全員自分より格下ならともかく、自分と同等以上の人達で溢れているであろうトーナメントでその数字は奇跡が起きない限り無理だ。
 ただ、結構いいところまでいけるのではないかという自信も芽生えていた。たとえば、ベスト8であれば、決して不可能な目標ではないように思えていた。
 この一週間、みっちり鍛えてもらった。学校では桂香先輩に。自宅では駒達に。
 その成果は早くも昨日表れていた。
 昨日僕は、ネット将棋で初段相手に七連勝していた。今までは、同等の相手にそんなに連勝が続くことはなかった。そう考えると、僕はすでに初段の域は超えているのかもしれない。それが事実なら、山の頂上に近いところまで行けても不思議ではない。
「正直、優勝という光景はイメージできないですけど、そこに近いところまでは行きたいと思ってます。自信も、少しだけあります」
「あゆむくんは、その自信を持つ資格があるわ。自信を持って指せば、必ず結果は付いてくる。二人にとっての最善は決勝で戦うことだけど、そうなるように頑張りましょうね」
 僕と桂香先輩が決勝で戦う。
 ちょっと想像できない光景だが、確かにそれが理想だろう。来たるべき団体戦に向けて弾みがつく。ちょっとやそっとの頑張りでは実現しないだろうが、何とか一勝でも多く挙げたかった。
 脚を踏み入れたことのない街で、僕は桂香先輩と一緒に電車を降りた。十分後、桂香先輩が通っている道場に着く。僕が通う道場と同じように雑居ビルの中にある道場だったが、ビルはこちらの方が大きかった。中に入ってみると、やはり僕の通っている道場よりも広く、二倍ほどの差があった。
 すでに会場は熱気で充満していた。全員が参加者かどうかはわからないが、ざっと見て百人近くいる。中高年の男性が多いが、十代も多く見受けられた。女の子の姿も散見される。
 僕と桂香先輩は受付を済ませ、会場の一角に座り対局開始を待つことにした。
 現在九時十五分。九時半でエントリーが締め切られ、十時にトーナメント表の発表。十時二十分に一斉対局開始。持ち時間は準決勝までは十分で統一。準決勝と決勝は持ち時間二十分となり、持ち時間を使い切ると一手三十秒未満で指すことになる。参加人数にもよるが、優勝者が決まるのは四時とか五時くらいだろうか。
 決勝まで残るだけでも長丁場だ。将棋はただ強いだけでは勝ち続けられない。連戦を戦い抜く体力もいる。疲弊した脳味噌をすぐに回復させることができる、回復力というのも必要かもしれない。そういったものが揃っている人間だけが、頂に立つことができるのだ。
「予想どおり、今回も高段者が集まってるわね」
 桂香先輩が会場を見回しながら言った。
「僕は見知った人はいないですけど、みんな強そうに見えます」
「雰囲気に飲まれてはダメよ。全員と戦うわけじゃない。あくまでも戦うのは一人ずつなんだから」
 僕は頷く。桂香先輩の言うとおり、将棋は一対一の戦い。強そうな人達の群れに怯える必要はない。
「よう、大橋」
 誰だ。桂香先輩の名前を気安く呼ぶ奴は。
 見上げると、青いポロシャツに縁なし眼鏡をかけた男が立っていた。
「こんにちは、二階堂くん」
 この男が二階堂か。去年の中学校将棋団体戦で準優勝の実績を残した男。中学生将棋名人戦でも、ベスト4の実績だと聞いている。
 眼鏡の奥に見える眼光は鋭い。一見して切れ者のイメージを持つ。盤をあいだに挟んで対峙すると、威圧されてしまうかもしれない。こういう迫力も、勝負ごとには必要なのだろう。僕には備わっていない部分だ。
「そこそこ強い人らが揃ってるな。俺を倒せる奴はいないだろうけど、大会に向けての腕慣らしとしては、この程度の面子が調度いい」
 嫌味な男だな。それが僕の二階堂に対する第一印象だった。
 この程度の面子という言葉の中には、桂香先輩も含まれているのだろうか。だとしたら、ますます嫌味な男である。
 二階堂は僕を一瞥すると、
「こっちは誰?」
 と、桂香先輩に訊ねた。
「同じ将棋クラブの一年生で、上条あゆむくんよ。団体戦のメンバーに入るかもしれないから、その時はよろしくね」
「ふーん。で、強いの?」
「いえ、強くないです」
 桂香先輩が答え辛いと思ったので、先に僕が答えた。
「だろうな。強そうに見えない」
 と、二階堂は笑って言った。
 僕の二階堂に対する印象はどんどん悪くなっていく。二階堂という苗字のイメージから、僕は勝手に爽やかな男を想像していたのだが、すごく厭な奴ではないか。
「まあ、誰が相手でも、俺の前では蛇に睨まれた蛙みたいなものだけどな。ああ、きみに一つ言っておくけど、もし俺と当たっても、糞粘りだけは止めてくれよな。俺、ああいうの嫌いなんだよ。どうせ俺が勝つんだから、劣勢になった時点で投了してくれ。じゃあな」
 そう言って二階堂は会場の奥へと消えて行った。
「気にしないでね。二階堂くんは、誰に対してもああいう態度だから。あれが彼の基本なの」
 二階堂の高慢ちきな態度のあとに桂香先輩と接すると、その優しさが何倍にも増して感じられた。同じ中学三年生、同じ段位、将棋クラブの主将同士。共通点がこれだけあって、こうも人となりが違うものだろうか。僕のクラブの主将が桂香先輩で良かったと、僕はつくづく思うのであった。
(次から次に胸糞悪い奴が出てくるのぉ)
 今朝、もっとお洒落な服を着て行けと僕にアドバイスしてくれた香車が、久しぶりに口を開いた。
(アマチュア五段程度で、ようあれだけ大口叩けるな。逆に感心するで)
 僕からすれば憧れの五段でも、将棋の神様から見れば初心者に毛が生えた程度のレベルなのである。
(それにしても、相良親子といい、今の奴といい、ちょっと強いくらいで偉そうにする奴が多すぎるのぉ。昔はそうでもなかったと思うんやけどなぁ。少なくとも、江戸時代の将棋指しで、あそこまで偉そうにする奴はおらんかったで。明治や大正時代を振り返ってみても、腹の立つ将棋指しはあんまり見た記憶がないなぁ。そりゃ調子に乗る奴もおるにはおったけど、上には上があるってことを知ったあとには、殊勝になるもんや。今の奴らには、それが感じられん)
 それは、僕にも思い当たるところがあった。ネット将棋なんかでも、やたら威張っている人間をよく見かける。将棋に勝てば全て許されるとでもばかりに、暴言の書き込みを何度も目にしている。将棋に負けると駒を乱暴にぶちまけたり、ネット対局では負けそうになると回線をいきなり切ったり、相手を誹謗中傷したり、そういうのは日常茶飯事だ。
 国民性が変わってしまったということなのだろうか。今の若い人間は思いやりの心が希薄になっていると、たまにそんな話を聞く時がある。僕は昔の人達のことを知らないので何とも言えないが、当たらずとも遠からずといったところなのかもしれない。
 だが、一つだけはっきりしていることがある。僕はそれを香車に伝えることにした。
(昔と今では、この国の人達の人間性が変化しているのかもしれませんけど、今も昔も、礼儀礼節を重んじる人は一定数います。桂香先輩のように、将棋に真摯で、勝っても負けてもきちんと頭を下げられる人も、たくさんいます)
(そうやな。あゆむの言うとおり、礼に始まり礼に終わるを実践できてる将棋指しもたくさんおるな。たぶん、そっちの方が多いやろうな。それが救いや)
 時刻が九時半になり、参加受付が締め切られた。参加者は全部で一二八人ということだった。
「予想どおり、優勝までには七勝が必要ということになったわね」
「大橋先輩は優勝目指して頑張ってください。僕も一勝でも多く挙げられるように喰らいついていきます」
「うん。もし優勝したら、賞品のお食事券であゆむくんに好きな物をご馳走するわ。――あ、やっぱり今の発言はなしにして。捕らぬ狸の皮算用をすると碌なことがないからね」
 桂香先輩はぺろりと舌を出して笑った。
 うーん。今の表情は、僕が見た桂香先輩の中で一番の可愛さかもしれない。許されるなら、今の一瞬を写真に撮って保存したかった。
 十時になり、受付横の掲示板にトーナメント表が貼り出された。
 一二八名の参加者はA、B、C、Dの四ブロックに分けられている。それぞれのブロックの勝者四名が、準決勝進出となる方式。それぞれの名前の下には、対局する座席の番号も記されている。僕と桂香先輩は並んでそれぞれ自分の名前を探す。
 僕の名前は……Aブロックにはない……Bブロックにもない……Cブロックには……あった。僕はCブロックだ。対局者である隣の名前に視線を向ける。
《二階堂有也》
 え? 二階堂有也?
 二階堂って、あの二階堂?

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