※本作はniconico「ニコニコ連載小説」内「電撃文庫チャンネル」で掲載された作品の再録です。


【水木しげ子さんと結ばれました】『潜む彼女』

「誤解です」
 目の前で僕に向かって包丁を突きつけている女性になんとか説明を試みる。
「知ってるわよ、ここが五階なのは。わたしは五階だと思ってここにいるのよ。四階だとも思ってないし、地下三階だとも思っていないわよ」
「いえ、それも誤解です」
 だから僕はやめようと言ったのだ。この子といるとろくなことがない――しげ子さん。
 僕としげ子さんは現在、とあるマンションのとある部屋の一室で、女性に包丁を向けられている。全部しげ子さんのせいだ。僕はいつもこうしてしげ子さんのせいで、とんでもない目にあわされるのだ。
 僕が彼女に殺されないことは分かっているが、刺される恐れはある。とにかく怖い。
「とにかく聞いてください。僕は、飾梨高校一年生、楠見朝生と言います」
 僕は着ている制服の襟を親指の腹で引っ張り、ほらこの制服、とアピールする。
「言っておくけど朝生君、あなた何か憑いているわよ。わたしもそういうの初めて見るんだけど」
 女性はしげ子さんを見て言う。少し顔が強張っている。
「またまた誤解です」と僕は言うが、間違うのも無理はない。
 異常なまでに長く不揃いな黒髪、不自然なほど整った恐ろしいほど美しい人形のような顔。ほぼ人間ではない、ほぼ妖怪のような女の子、それがしげ子さんだからだ。
「彼女は、僕の同級生の水木しげ子さんです。――人間です」
 僕は更に付け足したくなる。恐ろしいものが大好きで、災いに自ら飛び込み、さらなる災いを引き起こし、僕を困らせる女の子なんです。そして、僕の――運命の相手なんです、と。
 そのしげ子さんは、女性が握る包丁をじっと見つめている。
「朝生さん、わたくしはこれまで人を刺すときは、ナイフかメスと決めていたのですが、包丁も捨てたものではありませんね。少しだけ刺されてみてはもらえませんか」
「そんなスーパーの試食みたいに言わないでよ」
 しげ子さんの声は、体の内側から囁かれているかのような独特な声質で、心を不必要に揺さぶるため、女性が本当に刺してこないか僕はハラハラする。
「ねぇ、この子本当に存在しているのよね?」
 おかしな質問だが、僕は大まじめで答える。
「驚くかもしれませんが、しっかりと存在しています。ただ、ちょっと変わっているだけで」
「わたしのどこが変わっているのでしょう」
 そう言ってしげ子さんは、キュルキュルと喉から変な音を出す。それがしげ子さんにとってどんな感情を表しているのか全く分からない。僕は、話がややこしくなるから、とにかく変な音は出さないでくれ、とただただ願う。
 しかしこの女性――二十歳そこそこに見えるけど、とても立派なマンションに住んでいる。全部で3LDKはあるだろう。親が出しているんだろうか。
「ところで、さっきのは何? わたしを見て言ったわよね。『赤い糸がない』って、あれどういう意味? わたしに恋愛運がないとか言いたいわけ?」
 あぁ、あれは僕の完全なミスなんです。思わず口が滑ったのだ。糸がなかったことで安心して。だが、そんなことは言えない。言ったって信じてもらえないだろう。――『僕は赤い糸が見えるんです』なんて。
「……あのそれよりも、僕たちがここに来た理由を説明させてもらえませんか?」
 僕はなんとか誤魔化そうとする。
「説明も何もないでしょ。あなたたちはこの部屋に不法侵入した、違う?」
 違いません。僕たちはあなたの家に不法侵入しました。でもそれには深い理由があるのだ。
 しげ子さんを見る。「ほら、しげ子さん、ちゃんと説明して」
 しげ子さんは、ニタリと笑い、「これですか」と、持っていた通学用カバンの中から小さなノコギリを取り出す。
「もちろん、それじゃないよ!」
 僕は慌てて、しげ子さんから小さなノコギリを奪う。
「何あんたたち、この家をどうするつもり?」
 包丁を握る手に力が入り、女性の警戒心が上がる。
「何もかもが誤解です。一から説明させてください」
 僕はノコギリをテーブルの上に置き、女性に両手の平を見せ、何もするつもりはありませんとアピールし、ノコギリの代わりにテーブルの上に置いてあったリモコンを手に取り、リビングのテレビをつける。
「何してるのよ」
「あっ、これです。これなんです」僕は必死にテレビを指さす。
 テレビでは、夜のニュースが放送されていて、若い登山家の青年をライブで映し出している。足を踏み外し、崖の隙間に挟まってしまい、身動きが取れなくなった青年だ。
「これって……ハサマリ君でしょ」
「そうですそうです、ハサマリ君です」
 救助が難しい場所に挟まってしまい、すでにまるまる一週間その状態のため、マスコミからそう呼ばれている。
「実は僕たち彼に会いに行くとこだったんです。しげ子さんが、このハサマリ君に先程の小さいノコギリを渡したいって言いだしまして」
「……なんで?」
 自分で言っておいて、しまった、と言葉に詰まる。理由は言えばまた警戒されそうだ。だが、嘘をつけばそれを見抜かれて、さらに警戒されそうでもある。仕方なく僕は本当のことを言う。
「……ノコギリで体を切れば、ハサマリ君が抜け出せるんじゃないかって」
「はぁ、何言ってんの。怖いこと言わないでよ」
「えぇ、僕も怖いんですけど……」しげ子さんってそういう子なんです、僕も被害者なんですよ、と心の中で付け加える。
「それがこの家となんの関係があんのよ」
「えぇ、それでハサマリ君に会うために電車に乗ってたんですけど、しげ子さんが『見えた』って言うもんで」
「何が?」
 しげ子さんが突然、女性に向かって指をさす。
「あなたです。電車から見えたのです。ベランダで包丁を握りしめたあなたが」
 そうだ。だから僕たちはこの部屋へやってきたのだ、女性が強盗とかに襲われているのかと思い。そしたら不法侵入と間違われ、逆に包丁を向けられたのだ。
「なんだ、そういうこと。だったらそう言いなさいよ」
 突然、女性の警戒が取れる。いささか不自然だが、警戒が解けたことにホッとし、「えぇ、もっと分かりやすく説明できればよかったんですが」と僕も笑顔を作る。
「どうして、あなたは包丁を持って、ベランダにいたのでしょう」
 しげ子さんは、少し和んだ空気を全く無視し、抑揚のない乾いた声で尋ねる。
「あぁ、ここに住んでいる男を脅かしてやろうと思ってね」
 女性はからっとした声で大胆な告白をする。
「えっ、ここに住んでる人じゃないんですか!」
 立場逆転だ。今度はこちらの警戒心が強まる。
「そうよ。わたしは元住人。今ここに住んでるのは、とんでもないクソ野郎の男よ!」
 女性はそのクソ野郎の男を思い出し、顔をしかめる。
「……浮気とかされたんですか」と僕は、おっかなびっくりに尋ねる。
 女性は、キョトンとし、「わたし? わたしはされてないわよ」と首を振る。
「えっ、じゃあどうして?」
「わたしはここで昔同棲してたの。でも男が浮気して出てって、一人でここの家賃払えないからわたしも出たんだけど。どこにも住むとこないから、昨日、この家に忍び込んだのよ。鍵、まだ持ってたから。不用心だよね、鍵とか変えないんだよ。で、ベランダで隠れてたんだけど。エアコンの室外機の影に隠れて。そしたらさ、ここに住んでる男、一晩に何人も入れ替わり立ち替わり女を呼び込むわけ。行為が終わったら、帰らして、次の人って。予防注射じゃないんだから、ふざけんなって感じでしょ」
 感じでしょ、と言われても、高一の僕にはちょっと早い話だ。
「だからさ、今日寝てるところを、襲ってやろうって。別に本当に殺すわけじゃないわよ。脅かすだけ。浮気男に思い知らせてやるのよ」
 なんか分からないけど、不思議な人だ。良い人なのか悪い人なのかよく分からない。とにかく、めちゃくちゃな人だということだけは確かだ。
「いえ、それでは、足りません。実際に殺してやりましょう」
 そう言って、いつの間にか僕が奪った小さなノコギリを再び手に握っている。
 僕は頭を抱えたくなる。またしげ子さんの悪ノリが始まった。
「これで、引いてやりましょう。関節のような切りやすい場所はすぐに切り終わってしまうのでダメですね。そうですね、足の人差し指と中指の間から切るのはいかがでしょうか。縦に切るのです。そうすれば、より長く苦しめることが出来るでしょう」
 しげ子さんは、嬉々とした表情で「ギコギコギコ」と呟く。
 女性は、しげ子さんが言ったことをしっかりと頭の中で想像したのだろう。
 持っていた包丁を落とし、体を震わせた。
「なんなのあんた本当に。分かったわ、あなた悪魔ね。高校生のような悪魔ね! やだ、誰か助けて!」
 女性は、そう言って、部屋を飛び出て、逃げて行った。靴もはかずに。
 狂った人がより狂った人に出会ってしまった末路だった。
 しげ子さんは、そのまま女性の代わりにノコギリを持ってベランダに潜もうとしたが、それでは本当に不法侵入になってしまうので、僕はしげ子さんを引っ張って部屋を出た。
 その帰り、マンションのエントランスで、先程の部屋番号の郵便受けを開けようとしている男性に出会った。この人が本当の住人だろうか。高そうなスーツを着ていて、確かに女性にもてそうな顔をしている。僕は男の左手を見て、やるせない気持ちになる。男性の左手の小指には――赤い糸が結びつけられていたからだ。
 僕は去り際に、男性に言う。
「あまり女性を傷つけないほうがいいですよ。刺されますよ」と。

 翌日、ニュースであの女性が映っていた。
 ハサマリ君と一緒に挟まっていた。
「ここにもうすぐ狂った女の子がやってくるの。わたしが守ってあげる」
 そう言っていた。ハサマリ君は、嬉しそうに女性と抱き合っていた。「このままずっと挟まっていてもいいかも」と明らかに浮き足立っていた。
 そして、女性はテレビに向かってこうも言った。
「少年、わたしは赤い糸で結ばれていたぞ」
 僕はテレビに向かって呟く。
「いえ、それも誤解ですよ」と。
 でも、そのほうがいいのだ。赤い糸なんてないほうがいい。
 僕が見える赤い糸は、女性が思っているようなもんじゃないから。
 これはそういうんじゃないから。
 テレビが、別のニュースを伝える。
 恋のもつれから、男性が女性に刺され、死亡したというニュースだ。
 画面に映し出された男性の顔は、あのエントランスで見たものだった。
 この糸は、血で赤く染められた、呪われた赤い糸なのだ。
 この糸で結ばれたものは――――どちらかがどちらかを必ず殺す。
 僕は自分の左手を見る。その左手の小指には、赤い糸が結びつけられている。
 早く見つけなくては、この糸を断ち切る方法を。
 僕は、この先にいるあの子のことを考える。――水木しげ子さん。
 また狂ったことを考えて、不敵に笑っているのだろうか。



<おわり>