第一章 『落下する彼』(中)




 樹君と話せたことで、一気にみんなとも打ち解けられるのではないかと思ったが、結局そのあとは誰にも話しかけられることはなかった。
 転校生の初日といえば、質問攻めが普通なはずなのに、話せたのがたったの三人というのは、異例中の異例だろう。転校生のワーストを叩きだしのではないか。
「朝生さん、それでは行きましょうか」
 見上げると、そこにはしげ子さんがいる。なぜか、僕はしげ子さんと一緒に帰ることになっていたようだ。
 しげ子さんは、いつの間にか血まみれの制服に着替えなおしていて、周囲の警戒度が上がっているのが分かる。しげ子さんといる限り、僕は皆と仲良くなることはなさそうだ。
「朝生君、帰るの?」
 このほしたての布団のような柔らかい声は虹子ちゃんだ。
「あっ、しげ子さんと一緒? 二人、仲良いのね」
 即座に、否定したかったが、虹子ちゃんが間髪をいれずに続ける。
「あっ、そうだ。朝生君、部活動決めた?」
 そういえば、学校にはそんなものがあったな。今日一日、非日常に包まれていたから、すっかり忘れていた。
 いや、忘れていたのは、ずっと前からか。転校を繰り返し、どこかに腰を落ち着かせることがなかった僕に、部活動をするモチベーションはなかった。
「……昔は、少年野球とかやってたのにな」
「えっ?」
「ううん、なんでもない。……ちなみに虹子ちゃんは、何部なの?」
「わたし? 水泳部だよ。今から泳ぎに行くの。寒いけど」
 じゃあね、と待たせていた友達と一緒に教室を出て行く。廊下から「虹子、よく話せるね」と言う声が漏れてくる。
 僕の人気は絶望的なようだ。
 ふとしげ子さんを見ると、警戒する猫のように体を強張らせている。しげ子さんは人気がないというよりか人気がない。
「わたくし、あの人苦手です」
 確かに、しげ子さんと虹子ちゃんとでは、女神と死神ぐらい違う。しかし、しげ子さんにも苦手なものがあるんだな。


 学校の校門を出てすぐ、しげ子さんは自転車で巡回していた警官に止められた。
 それはそうだろう、しげ子さんのこの姿を見て、何もしなければ、警官失格だ。僕のほうから警官に尋ねたいぐらいだ、「いいんですか? 彼女を問いたださなくて」と。
 しげ子さんは警官に、これは猫の血だと説明すると、「舐めれば分かります」と制服についた乾いた血を指でこすりとり、その指を差し出した。
 しげ子さんがあまりにも堂々としていたからだろうか、それともしげ子さんが恐ろしかったからだろうか、警官はあまりにもあっけなくしげ子さんの言葉を信じ、「周囲の人が訝しがるので、なるべく早く着替えるように」と伝え、その場を逃げるように去っていった。
 自転車を立ち漕ぎしながら、全速力で去っていく警官の姿を僕は初めて見た。
 それから、僕としげ子さんは何も言わず帰り道を歩いた。何か話しかけようと思ったが、何を話していいのか分からなかった。
 ――気が重い。とにもかくにも、気が重い。
 こんなことなら一人で帰ればよかった。いつになったら着くんだろう。永遠に歩いている気分だ。そういえば、先程から、人とすれ違いもしない。もしかすると、僕は別世界へ連れられてこられたのではないか。
「ここです」
 しげ子さんが足を止める。
 僕は周囲を見渡し、唖然とする。
「これって――」
「私の家です」
 目の前には、巨大な門がそびえ立っている。こんな大きな門は見たことがない。十メートルほどの高さがあるのではないだろうか。両翼には、同じ高さの塀がどこまでも延びている。これを作った人間は、一体、どんな侵入者を想定したのだ。
 いや、どちらかというと、中にいる何かを出さないように作られているように見える。
 しげ子さんの両親は一体何をしている人なのだろう?
 化け物に姿を変えたしげ子さんと両親が、墓場で「人間になりたい!」と叫ぶのを思わず想像してしまう。
「入りますか?」
「い、いや、遠慮しておくよ」
 入ったら、二度と帰ってこれない気がする。
「では、ちょっと待っていてください。ちょっと渡したいものがあるので」
 しげ子さんはそう言うと、巨大な門の隣に設置された、小門を開け中に入っていった。こちらは普通サイズだが、とても重そうな鉄扉で、ギギギと開くたびに凄い音が鳴っていた。
 ちょっと待ってくださいと言われたが、再びその扉が開くまで、三十分も待たされた。
 門を開き現れたしげ子さんは、遅くなりましたも何もなく、「これを」と突然、僕の手に何かを握らせた。
「……何これ?」
「プレゼントです。朝のお礼に」
 手を開くとそこには野球のボールがあった。硬球だ。所々泥が付いていて、使われたあとがある。
 もしかして、虹子ちゃんと部活の話をしているときに、少年野球のことを口に出したから? 何気なくいったあの言葉から、僕が寂しそうにしているのを感じ取って、気を使ってこのボールを。しげ子さん……僕は、しげ子さんのことを、勘違いしてたんじゃ……
「デッドボールです」
「えっ?」
「その昔、大活躍し、何度も三冠王を獲った野球選手を引退に追い込んだデッドボールです。お近づきのしるしにどうぞ」
 あぁ、やっぱり思ってた通りの人だった。
「これから、長い付き合いになりそうですね」
 しげ子さんはそう言うと、ヒョッヒョッヒョッと奇妙な笑い声をあげる。僕は、ヒョッで笑う人を初めて見た。
「ところで朝生さん」
 いつの間にか、しげ子さんはいつものように人形のような無表情になっている。
「……何?」
「あの学校は、普通ではありません。風が吹かない場所には集まるのです、濁ったものが。どうか、お気をつけ下さい」
 その声には妙な力強さがあり、洞窟の中で誰かが叫んだかのように、僕の頭の中で反響する。
 痺れて動けない僕をよそに、しげ子さんは、再び鉄扉を開け、帰っていった。
 僕は、何が何やら分からず、デッドボールを持ち、巨大な門の前で、一人ポツンと取り残された。




 視界が混乱している。
 頭だけが体に内緒で起きたようだ。世界が慌てて、僕に見せるものを準備している。ゆっくりと輪郭を整えていく部屋を見て、僕は、急に不安に駆られる。
「ここはどこだ?」
 体を飛び起こす。意識が完全に目覚め、改めて周囲を見渡す。
 ――大丈夫だ、ここは僕の部屋だ。
 まだ、この部屋に慣れていないからだろうか? 昨日のことが夢のようで現実と夢の区別がつかなかったからだろうか? それとも、昨日意識を失うように寝てしまったからだろうか? また誰かに誘拐されたのではないかと不安になってしまった。
 とにかく、昨日は、あまりにも色々なことがありすぎた。
 時計を確認する。アラームの音を確認していないから、早く起きてしまったことは分かっている。だから余裕を持って時計を確認する。
 針は、六時を五分ほど過ぎたところを指している。アラームは、六時半にセットしていたから、少し残念な気持ちもあるが、もうこれ以上は寝れないだろう。ベッドから降り、部屋から出る。
 廊下に出ると、姉の冬羽の部屋の扉が少し開いていることに気づく。帰ってきていたのか。
 部屋を覗くとそこには、ベッドの上で自分の存在を世界に知らしめるように両手両足を広げ豪快に寝ている姉がいる。タンクトップにパンツ姿だ。掛け布団が床に落ちているのを見て、布団に少し同情してしまう。
 ――しかし、よく扉を開いたままで寝れるな、気がしれない。
 部屋の整理もまだ終わっていないようだ、段ボールが積み重なっている。
 彼氏がこんな姿を見たら、幻滅するだろうな。まぁ、いればの話だけれど。
 姉から彼氏の話などもう何年も聞いていない。
 目つきこそ職業柄鋭いが、鼻筋は綺麗に通っているし、弟の僕でさえ目のやり場に困ってしまうほど豊かな胸も持っている。美人といっても差し支えないのに、男性から声がかからないのは、この大雑把な性格が災いしているからだろう。
 フッ。
 いつもなら、しっかりしてよと腹を立てるところだが、なぜか笑みがこぼれた。
 いつもの姉の部屋にいつもの姉がいたからだろうか。
 ――僕はいつもの世界にいるのだ。
 朝食を二人分作り、テーブルに並べ、姉の分はラップをし、椅子に座り、手をあわせる。
「いただきます」
 さぁ食べようかと思ったが、ふと目の前にある左手の小指に結びつけられた赤い糸が目に入り、手が止まる。
 この先には、しげ子さんがいるのだ。
 しげ子さんも今頃、朝食を食べているのだろうか。
 紫色のスープが入った大きな寸胴鍋をかきまわしているしげ子さんの姿を想像する。
 トプントプンと湧き立つ鍋に、微笑むしげ子さん――
 大きな物音が聞こえ、思考が遮断される。
 姉が起きてきたのだ。
 いけないいけない、僕は朝から何を想像しているのだ。
 姉は、まるで催眠術に操られているかのようにユラユラと揺れながら歩き、僕の目の前の椅子に体を投げ出すように座る。頭はガクンと落ちたままだ。
 そして、工場で車を組み立てるロボットのように、リモコンを手に取りテレビをつける。本当に、姉は僕とまるで正反対だ。体だけが先に目覚めているのだろう。頭とは現地集合だ。
「何もなかった?」
 まるで寝言のように姉が言う。
「昨日は、猫の死体を埋め、学校に遅刻し、クラスメイトからは距離を置かれ、僕の運命の相手を見つけたけどそれは人かどうかも怪しいんだ」とはとても言えない。そんなことを言ったら、今日、引っ越しをしなければいけないだろう。
「特別何もなかったよ」
「本当?」
 姉はそう言い、素早く立ち上がると僕の両頬を抑え、顔を近づけじっと眼を見つめる。先程までとは違い、目に力が宿っている。
「ちょ、何するんだよ」
「朝生、何かあったらすぐに言ってね。お姉ちゃん、いつだって朝生のためなら、拳銃ぶっ放す覚悟は持ってるから」
 そんな覚悟を持たれては困る。起きたばかりだからか、興奮しているからか分からないが、目が充血していて、その行き過ぎた覚悟に真実味を与えている。
「本当に、何もないよ」
「体の方は? 異常ない?」
 僕は少しドキリとする。姉には、赤い糸のことは言っていない。いや姉はおろか、糸のことは誰にも言っていない。言えば、殴られたショックで頭がおかしくなったと思われるだけだ。
「大丈夫だよ」と答え、「姉ちゃんは? 最近変わったことあった?」とはぐらかすようにつけくわえる。
 姉は、ゆっくり僕の頬から手を話しながら、「あっ、そういえば朝生に言わなきゃいけないことがあった」と目を輝かせる。
 だが、僕の意識は姉の向こう側にあるテレビの画面に奪われる。思わず持っていた箸を落としそうになる。
「この人たちって……」
 闇が部屋の隙間から染みだし、周囲の雑音が消え、テレビの音だけが聞こえる。
 ――どうして……。
 テレビでは、ある女性が自分の恋人を殺したというニュースが流れていて、加害者と被害者の写真が映し出されている。
 それは、まぎれもなく、あの病院で見た赤い糸で結ばれたカップルだった。
 植物状態の男性、その彼に寄り添う女性、僕の脳裏にその姿が蘇る。
 男性の手をしっかりと握る女性の手。
 そして、その手の小指にしっかりと結びつけられた――赤い糸。
 どんな苦難にも立ち向かう覚悟のようなものが感じられたのに。
『もう目覚めない彼を見ていられなくなった』とアナウンサーが殺害動機を説明する。
「これ、あんたがいた病院だよね」
 姉があっけらかんとした声で僕に尋ねてくるが、それに答える余裕がない。
 テレビでは、コメンテーターが高い医療費について問題提起しているが、僕が議論してほしいのはそういうことではない。
 ――どうして……これは運命の赤い糸ではないのか?




 通学路を歩きながら、あのカップルのことを思い出す。
 僕には赤い糸が見えたからかもしれないが、二人の絆は強いものに思えた。――いや、強すぎたからこそ、彼を楽にしたいと思ったのかもしれない。
 携帯電話が鳴り、意識が現実に戻る。
 僕は、慌てて携帯電話を取り出す。モニターには、非通知と出ている。
 嫌な予感がする。
 引っ越すときに、携帯電話も姉によって変えさせられた。だから、この番号を知っているのは、現時点では姉しかいないはずなのだ。
 恐る恐る電話に出る。
『お久しぶりです。憶えていられますでしょうか』
 それは聞いたことのある声だった。あの廃病院で聞いた、くぐもったおかしな声。
 間違いなく、電話の相手は僕を襲った――〈見知らぬ人〉だ。
 そうかあのとき声がおかしかったのは、僕の耳がおかしかったのではない。
 変声機で声が変えられていたのだ。
 赤い糸を毎日のように見ていたためか、〈見知らぬ人〉に対する警戒感が薄まっていた。
 この糸はどう考えても人を幸せにするものだ。それを見えるようにしてくれた人が悪い人であるわけがない。
 あの一連の暴力的な行動は、赤い糸を見せるために必要な儀式だったのではないか。そんなことまで考えていた。
 ――でも本当にそうか?
「あなたは誰なんですか? どうして僕にこんなこと――」
『申し訳ないんですが、これから行って欲しい場所があるんです』
 変声機で声が変えられているためか、どんなにかしこまっていても、得体のしれない不気味さが漂う。
「そう言われて、言うとおりにすると思いますか。あなた、僕の頭をバットで殴ったんですよ。僕……今、凄く怖いんですけど」
 馬鹿正直に、自分の思いを口にしてしまい、少し後悔する。平静を装った方がいいのではないか。だが、手と声が震え、どうしようもない。頭も冷静に働かない。
 深く粘度の高い沼に足を取られ、ズブズブと埋まっていくような感覚に囚われる。
『大丈夫です、人気のない場所に誘導して何かしようというのではありません。もし疑わしかったら、その時点で引き返してもらってかまいません』
「……じゃあ、何をしようというんですか?」
『すいません、少し威圧的な物言いになってしまうかもしれませんが、従ったほうが身のためですよ。なにしろ、これから君の疑問の一つが解決するんですから』
 ――疑問?
『赤い糸のことです』
 思わず、左手の小指に結びつけられたそれを見つめる。
「……やっぱり、この糸のこと知っていたんですか? これは一体なんなんですか?」
『知りたければ、従ってください。さぁ、時間がありませんよ。従って頂けないのら、申し訳ございませんが、あなたの疑問は一生解決しないでしょう』
 これから何をされるのか、想像すると、足も震えだす。――だが従うほかなかった。


 僕は、〈見知らぬ人〉の指示に従い、電車に乗ることになった。今日は、昨日よりも早く出たが、このままいけばまた遅刻するかもしれない。
「……あの、一つ聞いてもいいですか」
 電話はずっと繋がったままだ。周囲の人が、冷たい目を向けてきているが仕方ない。
『答えられる範囲であれば、何でも答えますよ』
「あなたにもこれが見えているんですか」
 僕は自分の左手の小指を見ながら尋ねる。
『えぇ、わたしもある人に血を入れられまして。それから見えるようになったんです』
 ――血を入れられた? やっぱりあれが原因だったんだ。
「これは、何なんですか?」
『すいません、それは、わたしにも分からないんです』
「どうして、僕に見えるようにしたんですか?」
『すいません、それはまだ言えません。本当にすいません。あっ、次の駅で降りていただけますか』
 電車がホームに到着し、僕は〈見知らぬ人〉に操られるまま、駅に降りた。
『そのまま、反対側のホームに行ってもらえますか。お手数をおかけして、すいません。指示はこれで最後ですから』
 嫌な予感しかしないが、今から引き返すことも出来ず、僕は言われるがままに、階段を下り、階段を上り、反対側のホームに回る。
『見てください、目の前にスーツを着たサラリーマンがいるでしょう』
 確かに目の前には、電車を待つサラリーマンがいる。こちらに背を向けているので、どれぐらいの年代かは分からないが、体はがっちりとしていて、髪も黒く、きちんとセットされているので、そんなに歳はとっていないのかもしれない。
 急いでいるのだろうか、ホームにはたいして人がいないのに、点字ブロックギリギリの位置で、電車を待っている。
「あの人がどうかしたんですか?」と口を開こうとしたが、あることに気づき、大きく目を見開き、それに見入ってしまい、言葉を失う。
 そのサラリーマンの左手の小指から――赤い糸が伸びていたからだ。
 僕はその糸を目で追う。それは、サラリーマンの後方にユラユラと伸びていき、柱の陰へと消えていく。
 僕は糸を追うように回り込む。
 柱の陰には、女性がいる。
 糸はしっかりとその女性に結び付けられている。
 女性は、ビジネススーツのスカート姿で、二十代前半に見える。
 そして僕は、ふとあることに気づく。
 ――〈見知らぬ人〉も、この駅のどこかで見ているのか?
 慌てて、ホーム全体を見渡す。人の数はまばらだが、絞り込めるほど少なくはない。
 携帯電話を耳に当てている人を探し、五人ほど見つけるが、口が忙しなく動いているから、おそらく全て違うだろう。きっと、このどこかに隠れているに違いないが、どこかまでは分からない。
 気の抜けたメロディが鳴り、電車到着のアナウンスがされる。
 女性は、それがスタートの合図のように、徐々に男性に近づいていく。一歩一歩、ゆっくりと。男性に気づいてほしいのか気づいてほしくないのかよく分からない足取りだ。
 女性は、男性のすぐ後ろに立つと、両手をゆっくりと伸ばす。「だーれだ」と男性の目を隠すのかと思ったが、男性のその無防備な背中を――ぽんと押した。
「あれ?」
 男性は間の抜けた声を上げながら、線路に投げ出された。まるで、乗ろうと思ったが、まだ電車は着ていませんでしたといった感じだった。
 ――音が消えた。
 それは、一瞬の出来事だったはずだが、全てがスローモーションになってはっきりと見えた。
 男性が、やってきた電車と――。
 衝突。
 捨てられたマリオネットのように、腕や首の関節がおかしな方向にねじれる。
 首が曲がったことで顔がこちらを向き――そして、男性と、目が合った。
 時の速度が元に戻る。
 電車が目の前を横切る。
 甲高いブレーキ音が僕の聴覚を呼び起こす。
『――ねぇ、聞いてる?』
 先程から、僕に呼びかけていたようだ。
 喉が閉まり、声がうまく出せない。ガクガクと体を震わせながら、絞り出すように声を出す。
「……な、なんですか……これ?」
『あの糸はね、血の糸なんだよ。血で結ばれた呪われた糸』
 女性の左手の小指につけられていた赤い糸がするりと解けていく。糸は、そのまま空中をさまよい、やがて透明になり、消えていく。
『この糸で結ばれた者は、――どちらかがどちらかを必ず殺す、これは、そういう糸なんだよ』
〈見知らぬ人〉の言葉が頭にうまく入ってこない。――何を言ってるだ、この人は。
『きっとね、わたしたちに入っている血は、元を辿れば死神の血なんだよ』
 そう言うと、電話は切れる。
 どうしてかは分からないけど、背中に痒みのようなものを感じた。
 そして思い出した。
 僕の背中にあるあの痣のことを。
 ――あれはやっぱり、死神の鎌だったんだ。




 教師が黒板に次々と文字を書いていく光景を僕は放心状態で眺めていた。つい一時間ほど前に見た駅での出来事と、今見ている光景がうまく結びつかない。
 結局あのあと、何も分からぬまま逃げるように隣のホームに移り、やってきた電車に乗り込んだ。
 警察に色々と聞かれても、あんな場所に僕がいる理由が説明できないし、何よりあの場所にいたくなかったからだ。
 そして次の駅で電車を降り、電車を避けるようにバスを使用し学校に直行したが、三十分ほど遅刻した。
 僕は自らの左手に結びつけられた赤い糸をじっと見つめる。まだ手の震えは収まっていない。
 今朝のニュースが脳裏によぎる。
 ――――〈見知らぬ人〉は確かにこう言ったのだ。

 この糸で結ばれた者は、どちらかがどちらかを必ず殺す

 いや、そんなはずはない。僕は、思わず首をふる。――でも、そう考えれば考えるほど、色々なことの辻褄も合ってくる。
 糸で結ばれた人間が極端に少ない理由も説明がつく。この糸が殺人事件の加害者と被害者を結ぶ糸ならば、誰にでもあるはずがない。
 これは、運命で結ばれた愛の糸ではなく――呪いの糸。
 思わず、左手に結びつけられた赤い糸を解こうとするが、糸には触ることは出来ない。糸は、ただ見えるだけなのだ。
 それでも何とか糸に触れようとするが、やはり僕の手をするりと避けていく。
 ギィィィィ!
 教師が、チョークの角度を誤り、黒板から甲高い音が鳴る。それが僕には電車のブレーキ音に聞こえる。
 目の前に、電車に撥ねられたサラリーマンが現れる。首がおかしな方向に曲がっていて、こちらを見つめている。
 目が「どうして助けてくれなかったんだ」と僕に訴えている。
 僕は思わず耳を塞ぐ。
 意識が教室に戻る。皆も黒板の音に耐え切れなかったのか、耳を塞いでいる。
 ただ一人、しげ子さんを除いては。恍惚の表情を浮かべているのが後ろ姿でも分かる。
 あ……しげ子さん。そうだ、僕はしげ子さんと――。

 僕は、しげ子さんに殺されるのか?
 いや、僕がしげ子さんを殺すのか?


 しげ子さんがこちらの視線を感じたのか、首がぐるりと百八十度近く回り、こちらを見つめてくる。
 僕は、思わず視線を逸らし、窓の方に向ける。
 いや、まだこの糸が呪いの糸だと決まったわけではない。騙されてるだけかもしれない。
 そんなはずないんだ。そんな狂った糸なんて存在しているはずない。赤い糸っていうのはそういうんじゃないだろ。
 ふと、視界があるものを捉える。

 ――そうだ、確かめるには、それしかない。


10

 放課後、僕は屋上の空中庭園へと向かった。予想通り、そこにはじょうろで水をやる樹君がいた。
「また来てくれたんだね」
 樹君がこちらを見て微笑む。
「うん、帰る前に、ここで気持ちを和ませようかと思って。今日、ちょっと嫌なことがあったから」それは、半分嘘で、半分本当だ。「じゃあ、僕はこれで」
「えっ、もう行くの」
「うん、ちょっと、用事があって」
 僕は、樹君の左手から伸びる赤い糸をじっと見つめる。――これが目的だ。
 この糸を追えば、樹君と結ばれている人物が分かれば、もしかするとこの糸についてもう少し分かるかもしれない、そう思ったのだ。


 樹君から伸びた糸は、学校を出て、道へと続いている。僕は、慎重に糸から目を離さないように追う。
糸には、ある法則があるようだ。

1.糸を見るには、まず糸が結ばれた人を見なければいけない。

 その人の左手の小指を見て、その人に糸が存在していれば、糸が見える。

2.その糸から目を離さなければ、その糸を追うことができる。

 糸から一度でも目を離せば、糸は見えなくなってしまう。

3.糸は、物体を通れない。

 だから、壁などがあれば、避けて伸びているし、閉め切った部屋の中でも扉のわずかな隙間を通っていく。糸は、最短距離ではなく、まるでカーナビのように最も通りやすい道を選んでいるようだ。
 じつは、しげ子さんと出会う前に自分の糸を追ったことがあるから、この作業には慣れている。
 糸を追うのは思った以上に大変だ。糸がどういう経路を辿るかまるで予測がつかないので、電車やバスに乗ることも出来ない。実際、自分の糸を追ったときも、何度も途中で断念した。
 今日も、一時間追ってみて、終着点に辿り着かないようなら諦めようと思っている。
 ところで――。
「どうして、着いてくるの?」
 僕の隣には、しげ子さんがいる。
 全くの無言で僕のあとをついてきたのだ。「一緒に帰りましょ」だとか「このあと暇ですか、どこか行きませんか」などと一言あってもよさそうなものだが、まるで幼馴染のように、自然体で隣にいる。
 ついてくるなと言いたいが、理由を聞かれたら余計に厄介なことになりそうで何も言えない。
 どうせなら、虹子ちゃんが隣にいればよかったのに……。
 遅刻してきた僕に「楠見君ってワルなの?」と尋ねてくる虹子ちゃん可愛かったな。
「だとしたら、わたしもワルに染まってしまうんじゃない? 長いスカート穿いて、鎖を持ってしまうんじゃない?」と真剣な目でいってくるんだもんな、あー可愛い。どうにもこうにも可愛い。とはいえ、現実は変わらない。隣にいるのはしげ子さんだ。
「ねぇ、しげ子さん、どうせ一緒に歩いているんだから、何か楽しい話でもしない?」
 沈黙に耐えられなくなっていたのもあったが、糸を追う自分の行動に関してそろそろ疑問を投げかけられそうな気がして、しげ子さんにふってみる。周りから見れば、僕の姿はかなり風変りなはずだ。
「構いませんよ。わたくし、楽しい話は得意なんです」
 僕は、糸から目を離さないようにしげ子さんの言葉に耳を立てる(別に耳を立てなくても、しげ子さんの声は、とてもはっきり聞こえるのだけれど)。
「最近、この町で自殺が増えています」
 僕がオーダーしたのは楽しい話だよ、としげ子さんにツッコミを入れそうになるが、糸から目を離すわけにはいかないのでグッと堪える。
「飛び降り自殺ですよ、飛び降り……知っていますか、飛び降り自殺って、雨の日は少ないそうですよ、死んだあとに濡れたくないからだそうです。死んだら、濡れたって分からないんですけどね」
 そう言って、しげ子さんは、ヒョッヒョッヒョッと、高らかに笑う。
 しげ子さんはそこから、どういう自殺が素晴らしいかという、とても恐ろしいランキングつけを始めた。
「やっぱり、焼身自殺は苦しいそうですよ。人体のほとんどは水ですから。なかなか、最後まで焼けきって死ねないそうなんです。もし、生き残ろうものなら、大変でしょうね。少しの火傷でも痛いでしょう。それが全身ですから」
 聞きたくもない情報が次から次へと出てくる。これは、何かの拷問だろうか。糸に集中しようとするが、しげ子さんの声は聞き流すことが出来ず、一語一句、体に染みわたってくる。
 今日はもう諦めて、後日、糸を辿ったほうがいいかもしれない。そう思いかけた矢先、

 ――――糸の終点は突然訪れた。

 そこには、制服を着た女の子がいた。
 民家の門の前で、呼び鈴を乱暴に何度も押している。小柄で、中学生くらいに見える。
「ちょっと、いるんっすよね。わたしが話したいのはあなたじゃないんすよ!」
 まるで、闇金融の取り立てのように騒いでいる。
「やめてください」
 家からはすでに誰かが出てきているようだが、お構いなしに女の子は、呼び鈴を押し続けている。
 そして、呼び鈴を押すのに飽きると、今度は道端に落ちている大きめの石を拾い、まるでプロ野球選手のように足を大きく振り上げ、全ての関節が連動させるかのような滑らかな鞭のようなフォームで、その石を全力で投げた。
 ガシャン! と窓ガラスが割れる音が聞こえる。
「ちょっと!」
 思わず僕は声を出し、女の子に向かって駆け寄る。
 女の子も僕に気づく。近くで見ると、大きな目に短めの髪、肌は小麦色に焼けていて、健康的で快活な印象を持つ。この子が先程まで陰湿な行為をしていたとは想像がつかない。
 女の子は、小さく舌打ちをすると、走って逃げていく。
 追おうとしたが、玄関の扉の前に中年女性が立っていることに気づき、足が止まる。
 中年女性は肩を落とし、頭を下げ項垂れている。
「大丈夫ですか?」
 僕に気づき、中年女性が顔を上げる。
 長く傷んだ髪に、目の下に大きなくまが出来ていて、疲れているようにも、憑かれているようにも見える。
 僕は、ふとあることに気づく。表札には、『帆代』と書かれている。
 この人が樹君の――。
「わたくしどもは、樹さんのご学友です。お母様でございますか」
 いつの間にか僕の隣に立っていたしげ子さんが僕の代わりに取り繕い始める。
「あっ、あぁ」と樹君のお母さんは気のない返事を返す。明らかに「それがどうした」とその後の沈黙が語っているが、しげ子さんは全く意に介さず、続ける。
「聞きたいことがあるんです、樹さんのことで。おそらく、ここで話せばお母様もお困りになるでしょう」
 ――どういうことなんだろう? しげ子さんは、何か知っているのだろうか?
 樹君のお母さんは、諦めが含まれたため息を一つ吐き、「では、どうぞ」と、家の中へ消えていく。
「朝生さん、歓迎されているようですし、行きましょう」と、しげ子さんは、躊躇することなく門を開け中へと入っていく。
 とても歓迎されているようには見えなかったのだけれど。
「ちょっと、待って。しげ子さん、何か知ってるの?」
「いえ何も、これから知るのです。ですが、ここには開いていますよ……大きな穴が」
 そう言うと、しげ子さんは、足取り軽く樹君の家へと消えていく。
 僕の頭の中に闇が広がっていく。
 ――やっぱり、この糸は呪われた糸かもしれない。
 先程、見た光景が蘇る。あの関係性でさすがに樹君と恋仲になると言うことはないだろう。
 つまり、これは『運命の赤い糸』ではない。
 血で赤く染まった呪われた糸なんだ。


11

 てっきり、玄関の前で樹君のお母さんが、スリッパでも出しながら待っているのかと思ったがどこにも姿はなく、「お上がり下さい」がないまま、僕は、「お邪魔します」と一応断りを入れる。
 しげ子さんは、無言のまま、まるで自分の家のようになんの遠慮もなく廊下を進んでいく。
 そして、そこにリビングがあるのを知っているかのようにリビングを見つけると、勝手に上がりこみテーブルの前の椅子に座る。
 僕は、「えっ」とか、「ちょ」とか、「なっ」とか、何を言っていいのか分からないまま、しげ子さんに続き、隣に座る。
 あの女の子が割った窓ガラスはリビングのものだったようだ。割れたガラスが床に散らばり、風が部屋に吹き込んでいる。
 僕は席を立ち、それを掃除しようかと思ったが、そこに麦茶が入ったコップを持って樹君のお母さんがやってきた。
「大丈夫ですよ、割れたものを掃除するのには慣れていますから」
 最低限の労力で発せられた疲れた声だ。
 出されたコップは、百円均一で売っていそうな、プラスチックの傷だらけのものだった。それが、まるでこの家そのものを表しているようで、なんだか息苦しくなる。
「あの、さっきの――」
 と言いかけたところで、しげ子さんが机の下からそっと僕の手に自分の手を重ねる。「ここは、わたくしにお任せ下さい」と手が語っている。しげ子さんの手は、冷たくも温かくもなく、自分の手の体温と全く同じで、自分の手と一体化するようなとても奇妙な感覚を与える。
「先程の女性、憎しみで顔が歪んでいましたが……」
 樹君のお母さんは、しげ子さんのそのもの言いに、何かをすでに知ってると感じたのだろうか、小さな手箒とチリ取りで力なく割れた窓ガラスをかき集めながら、ぼそりと答える。
「アマギナエさん」
 天城苗と書くのだろうか。まるで、何かの歌のような名前だ。
「樹が殺した子の妹さんよ」

 ――――樹君が、殺した?

 突然の告白に、素直に驚いていいのか、平静を装った方がいいのか分からず、言葉を失う。
 どうしてこの人は、赤の他人にそんな大事なことを打ち明けられるのだ。
「樹さん、やはり人を殺していたんですね」しげ子さんが無遠慮にたずねる。
 樹君のお母さんも、まるで他人事のように答える、「えぇ、小学五年生の時に同級生を殺したんですよ」
 樹君を頭に思い浮かべる。
 あの穏やかな顔で花を育てる樹君と人を殺したという事実がどうしてもうまく結びつかない。
 隣でしげ子さんが、薄く笑みを浮かべ、何やら呟いた。僕には「どうりで」と言ったように聞こえたのだけれど。
「何をやってもダメですね。せっかく、夫と離婚してわたしの旧姓、帆代に戻し、家も引っ越したのに結局見つけられてしまった。また、嫌がらせが始まるでしょう」
 ふと、庭先に目を向けると、いくつもの割れた鉢が隅に寄せられ放置されているのが見える。植えられていた花も土も移されることなく、そのままになっている。
 これも、あの天城苗がやったのだろうか。これは――――
 突然、大きな悪魔の手が現れ、僕の後ろ襟を掴むと、飛ばされるようにどこかへ連れて行かれる。
 これは、何度も見た光景だ。皆、泣くことにも怒ることにも疲れ、光の無い目で呆然としている。全てが壊されることを前提に生活をしているから、何にも思い入れがなくなり、思い出もなくなる。あの時と、まるで一緒だ。
 諦めているんだ、築き上げることを。だから、すらすらと赤の他人に平気で打ち明けられるのだろう。壊したのなら壊せばいい、もうすでに壊れているのだから、と。
「朝生さん」
 しげ子さんに呼びかけられ、我に戻る。気付けば拳を強く握っていた。
 ――このままではいけない。
 もはや、疑いようがない。この糸は間違いなく、呪われた赤い糸だ。
 だとしたら、僕はやらなくていけない。――これを断ち切らなくてはいけない。