12
日が落ち影が伸びている。うつむき歩いているからよくそれが分かる。
僕たちは樹君が帰ってくる前に、家を出た。
樹君にあの家で会いたくなかったのもあったが、それ以上にあの重苦しい雰囲気に耐え切れないほうが大きかった。
体が重い、黒い粘着質のものが体に纏わりついていて、歩きづらい。座礁した船から流れ出た油の塊に間違って浮かんでしまった海鳥のようだ。
「とても居心地のいい家でしたね」
しげ子さんは、僕の隣で、軽やかに足を弾ませている。どんな神経をしているんだろう。
……ところで、どうしてしげ子さんはまだ僕の隣にいるのだ。
「あの、しげ子さんの家って反対側だよね」
「えぇ」
「じゃあ、どうして――」
「これから、わたくしは、朝生さんの自宅へ行きます」
「はっ!?」
「わたくしは、朝生さんのお姉さまに挨拶をします」
「えっ、何言ってるの? どうしてそういうことになったの?」
「いいではありませんか、朝生さんのお姉さまとは、これからも長いお付き合いになるのですから」
そう言うと、しげ子さんは、僕の前を歩き始めた。
おや? おやおや? 待てよ……待て待て!
断らなくては、そう思うが言葉が続かない。
どうやって断ればいいのか、どうすれば納得してもらえるのかまるで見当がつかない。
どうしてしげ子さんは、僕の家を知っているんだ。どうして、僕に姉がいることを知っているんだ。いや、そもそもどうして僕の姉に会う必要があるんだ。「僕は、何もやってませんよ!」誤認逮捕され、いきなり手錠をかけられた男のように突然そう叫びたくなる。
13
事件発生により、姉は本日家には帰れません――という状況に一縷の望みを託したが、玄関を開けた途端、上機嫌の姉がエプロン姿で迎えてきた。
「おかえりー朝生! 今日は、何もなかったから早く帰ってきて、晩御飯――」と、隣のしげ子さんに気付く。
「はじめまして。お姉さま」
途端に、姉の顔から表情が消える。
「……水木、しげ子」
「あらお姉さま、わたくしのお名前を知っていただけているなんて。朝生さんからお聞きになっているのですね」
いや、姉にはしげ子さんのことは話したことはない。――どうして知っているのだ?
姉は、眉間に少しだけしわを寄せ、それ以上は全く表情を動かさずにじっとしげ子さんを見ている。犯人に自分の心中を探られないようにしている刑事モードの姉だ。
「今日は、どういうご用件で?」
しげ子さんは、無言で姉に何かを手渡す。それは、ベースボールカードのようなものだが、写っているのはスーツを着た見たこともない中年男性だ。
「朝生さんが転校してくる一週間ほど前でしょうか。この人を学校で度々見かけまして」
姉は、カードから顔を上げ、突然ニコッと笑う。それは、誰が見ても分かるほどの作り笑いだ。
「そう、まぁ上がってよ。晩御飯ご馳走してあげる」そう言うと、部屋の中へ消えていく。
――一体、何が起こっているのだ。
「お邪魔いたします」と、素直に姉の言葉に応じ、上がり込もうとするしげ子さんを慌てて呼び止める。
「しげ子さん、どういうこと?」
「これは、トビラ堂で買ったんですが」と、カバンの中から、先程と同じようなカードを数十枚取り出す。
「トビラ堂って?」
「こういった物を売っているお店です。昨日お渡しした、デッドボールもトビラ堂で買いました。朝生さんも今度一緒に行きますか」
「いや、遠慮しておくよ」
恐ろしい店だということだけはすぐに理解できたので、即座に断る。
映っている写真は一枚一枚どれも違うようだ。その中の一枚を僕に手渡す。驚いたことにそこには姉が映し出されている。
「現在警視庁に在籍する全ての刑事が網羅されています」
僕は、慌てて姉のカードを裏返す。『楠見冬羽 警視庁刑事部捜査第一課』と書かれ、役職や身長体重などがこと細かく描かれている。こんなカードが裏で出回っていることにも驚きだが、そのカードをしげ子さんが持っていることにも驚きだ。
「先程渡したカードは公安の人のものです。それだけ言えば、朝生さんにもお察しがつくでしょう」
確かにそれだけ言われれば僕にもお察しがついた。
姉は僕の事を過ぎ過ぎるほど過保護に扱う。おそらく、転校するにあたって学校のことを公安の人に調べてもらったのだろう。
昔、姉と仲がいい刑事から警視庁には姉のファンが多いと聞いたことがある。姉が頼めば無償で動く刑事なんていくらでもいるのだ、と。
しかし恐ろしいのは、しげ子さんだ。公安と言えばプロの密偵だ。それをいともたやすく見破り、姉まで辿りついていたのだろうか?
食卓には、二食分の料理が並んでいた。焼き魚、ビーフシチュー、漬物というおかしな組み合わせの料理だ。
姉はこれしか作れない。だから姉が手料理を作る時はいつもこれだ。
うちには、来客を想定した準備がまるでない。だから、もう一人分の食器もない。姉は、自分の食べる分をしげ子さんに譲った。
しげ子さんは特に申し訳なさそうにするわけでもなく、「ごちそうになります」と遠慮なく、僕の隣に座った。
姉の手料理なんて何年振りだろう。そういえば、姉のエプロン姿も初めて見たかもしれない。
何かいいことがあったのだろうか?
それにしても、お客を交えて家で食事をするなんて、もしかすると初めてかもしれない。いや、あったかもしれないが僕の記憶にはない。こんな光景をイメージすることさえなかった。
とても不思議な感覚だ。
隣にいるのがしげ子さんなのに、なぜだか少しだけここ最近起きた嫌な出来事が全て吹き飛び、温かい気持ちになる。
しげ子さんは、まるで魚を解体するように、食べていく。食事というよりは検死に近い。
「ねぇ、ところで」と、ビール片手につまみの枝豆を口に運びながら、姉が僕に尋ねてくる。「あなたたち、どこまでやったの?」
その、ど真ん中のど真ん中、ダーツのダブルブルのような質問に思わず味噌汁を噴き出す。
「公園の裏山で、誰にも言えないことを一緒にした程度ですよ、冬羽お姉さま」
しげ子さんは、またしてもその意味深な言い回しを使う、そしていつの間にか姉のことを冬羽お姉さまと呼んでいる。
「変な言い方しないでよ」思わず、僕は遮る。「何にもないよ、ただの友達」と言ってから、僕は、あれ、よかったのかな? と思う。
――友達なのか? 僕としげ子さんとは一体、どういう関係なんだろう。
「さて、冬羽お姉さま」しげ子さんが箸を置く。
魚は綺麗に骨だけの状態になっている。頭すらもない。ビーフシチューには結局手をつけなかったようだ、洋食は食べないのかもしれない。
「突然ですが、ここへお伺いしたのは、私たちの同級生、帆代樹さんの事を聞かせていただくためです」
僕はドキリとし、姉はギラリと目を光らせる。
ようやく、しげ子さんがここに来た理由が分かった。姉にこれを聞きに来たのだ。学校のことを調べつくした姉だ、樹君の過去のことも知っていると思ったのだろう。
「どうして知りたいの?」
「今日、帆代樹さんの家に石を投げ入れる女の子を見たのです。日常的に行っているようでした。あまり面識はありませんが同級生ですし、少し心配になりまして。そうしたところ、朝生さんが、冬羽お姉さまに聞けば何か分かるかもしれない、と」
ところどころ嘘が含まれ、大事な部分が隠蔽されている。
姉は、「そう」とあまり言いたくはないといったそぶりを見せながら続ける。
「わたしが、出来れば朝生に接してほしくなかった人があの学校には二人いる。そのうちの一人が帆代樹って子よ」
姉は、手帳などを引っ張りだすこともなく、帆代樹の情報を話し始める。おそらく、空で暗記しているんだろう。
「十一歳、小学五年生のとき、帆代樹は、同級生の天城仁人(じんと)を殺したの。学校行事で訪れたキャンプ場に有名なつり橋があってね、そこから突き落としたの」
僕の脳裏に一瞬、今朝見たサラリーマンの姿がよぎり、食べたばかりのものが胃からこみ上げてくる。
「帆代樹は天城仁人にイジメられてたんだって。当時、テレビでも結構取り上げられてたわ。被害者遺族の天城家にもマスコミが押し寄せてね。中には、イジメてたんだから自業自得だっていう、悪質なものもあったようね」
よくあることだ。マスコミが好きなのは、問題提起だからだ。僕にも覚えがある。姉も、昔のことを思い出したのだろうか、目が険しくなっている。
「結局、帆代樹は、情状酌量の余地があるとして、保護観察処分になっただけだった。まぁ、被害者は当然納得しない。結構、嫌がらせしてるみたい。目には目をってやつで、死には、死に相当する罰を与えたいものなのよ、被害者は」
姉は今、どちらの立場に立って話しているんだろうか、加害者の家族だろうか、被害者の家族だろうか。
「そうですか」
しげ子さんは、とても満足気に口を大きく歪ませ笑った。
樹君……。
僕は樹君の左手の小指から伸びる赤い糸を思い出す。そして、樹君の家に向かって石を投げる天城苗、疲れた顔の樹君のお母さん、割れたたくさんの鉢……。
話を聞き終えると、しげ子さんは、「家に帰ってやらなければならないことがあるので」とそそくさと帰っていった。
これまで怨霊のように僕に纏わりついていたのが嘘みたいだ。
しげ子さんを見送ったあと、僕は、姉に聞いてみた。
「さっき僕に近寄って欲しくない人が二人いるって言っていたけど、あれ、もう一人はしげ子さんだよね」
「そうよ」
「っていうことは、しげ子さんの過去にも何かあったの?」
姉の眉がピクリと動く。
「朝生、わたしは確かに過保護かもしれない。でも、あなたに間違ったことを教えるつもりはないの。わたしは、『出来れば接してほしくない』と言ったでしょう。調べはしたけど、あなたにそのことは事前に伝えてないでしょう。今回は特殊な事情があったから、話しただけ。ある程度、知っていたようだし。帆代樹とあの子とでは少し事情が違うのよ。もし知りたければ、あの子から直接聞きなさい」
そう言うと、僕の両肩を掴み、続ける。
「でも大事なのは、過去じゃないでしょう。それは、わたしたちが一番よく知っているはずよ」
公安の人間を使い、生徒全員をあれやこれやと調べつくした人間の口から「間違ったことはしたくない」だとか、「大事なのは過去じゃない」と言われても何の説得力も持たないのだが、姉は姉で自分なりのルールを持ってるということなのだろう。
歴史に残るような名言を言ったかのような余韻に浸っている姉を見て、僕はそれ以上何も聞かなかった。
でもそれは、そのあと起こることを考えれば、大きな間違いだった。
何がなんでも、聞いておけばよかったのだ。
しげ子さんの過去に何があったのか――。
14
翌日、僕は、樹君にどう切り出そうか頭を悩ませていた。
勝手に、樹君に家に行き、秘密を知ってしまったのだ。なんて声をかけていいのか、そもそも声をかけていいのかすら悩ましかった。だがこのまま何もしないわけにもいかない。樹君は、赤い糸で結ばれているのだから。
結局、空中庭園に足が向いたのは、放課後になってからだった。
しげ子さんも一緒についてきた。すでに、しげ子さんが何も言わずについてくることに抵抗を感じなくなっていることに抵抗を感じる。
樹君は、いつものように、一つ一つの花が元気に育っているか花弁を撫でながらチェックしていた。
慈愛に満ちた優しい顔だ。こんな顔をする人が人を殺したなんて今でも信じられない。
「樹君」
「昨日、僕の家に来たんだろ」
知っていたのか。僕は言葉を失う。
樹君から笑みが消える。
「……花はね、保護観察官に教えてもらったんだよ。何かを育てることを覚えたほうがいいって。何かを育てるのは何かを壊すよりずっと大変だけど、その分、幸せな気持ちになるって」
「なれましたか?」しげ子さんが、割って入ってくる。
「幸せになれましたか? 花を育てて。壊すことよりも幸せな気持ちに」
「さぁ、どうだろう。でも、何かにすがりつきたいんだ。あの時から、僕はずっと落ち続けてるから」
「落としたのは、あなたですけどね」プププとしげ子さんは笑う。
全く笑えないよ、しげ子さん。
ガシャン! と大きな音が鳴り、慌てて樹君に向き直る。持っていた鉢を落としたようだ。うつむき、ガクリと首を落としているから、どんな表情をしているのか分からない。だから、鉢を割ったことが、わざとかうっかりかも判断がつかない。
「確かにそうだね、落としたのは僕だ」
「――あなたを、自殺サイトで見かけました」
僕には、しげ子さんが突然何を言い出したのか分からなかった。
「しげ子さ――」
それ以上言葉が出てこなかった。
しげ子さんが髪をかき上げ、顔をさらけ出していたからだ。
じっと見定める様な目で樹君を見ている。
その顔は、思わず畏敬の念を抱いてしまうほど、美しかった。
「あなたは死にとり憑かれています」
樹君の心にさざ波が立つのがはっきりと感じ取れた。
樹君は顔を逸らし、小さな声で「放っておいてくれ」と言った。
僕はなぜか割れた鉢を見てしまう。
「ねぇ、樹君。自殺サイトってどういうこと?」
樹君は僕の問いには答えず、鉢もそのままに屋上から逃げるように去っていく。
「樹君!」言葉を探す暇もなく、無意識に続ける。
「まだ僕と友達になったばかりじゃないか!」
樹君は、何も返さずそのまま走り去っていく。
「待って!」
と樹君を追おうとする僕の肩をしげ子さんが掴む。
「お待ちください」
「待てないよ、早く追わないと」
「あれを」
そう言って、あさっての方向を指さす。
指さす方向には校門がある。
あれがなんだというのだ。下校する生徒の姿がちらほら見えるが、なにしろ屋上のため、しげ子さんが何を指さしているのかまでは分からない。
「校門のほうに何かあるの?」
「ほら、目をもっと凝らしてください。校門の陰に隠れているではありませんか」
そう言われ、よく見てみると、誰かが身を隠し、校内を覗いているのが分かる。
「あれは――」
天城苗だ。
「どうされますか?」
「決まってる」
そう言うと同時に駈け出していた。
近くで見る天城苗は、予想以上に陳腐な格好をしていた。この前と同じ制服姿で、校門に隠れ顔を半分だけ覗かせ、校内を伺っている。自分の世界に浸り探偵ごっこを楽しむ子どものようだ。
「ねぇ、君」
天城苗は、僕に気づき、樹君の家の前で出会ったことを思い出したのだろうか、分かりやすく口を開け、「あっ」と声を出すと、慌てて立ち去ろうとする。
「お待ちなさいな」
いつの間にか僕の隣にいたしげ子さんがそれを許さない。天城苗の腕をがっしりと掴む。
天城苗は、力いっぱい振りほどこうとするが、その細い腕のどこにそんな力があるのか、しげ子さんの腕は微動だにしない。
逆に天城苗の体が揺られ、何かがコトンと地面に落ちる。
それは、ナイフだった。
小振りだが、恐ろしく研ぎ澄まされていて、怪しい光を放っている。どこにこんなものを潜ませていたのだろうか。
天城苗は慌てて、ナイフを拾おうとするが、しげ子さんがそれよりも先に拾い上げる。
しげ子さんは、まるで宝石でも見つめるかのように、うっとりとした顔でそれを見つめている。
天城苗は、ふてくれされた様子でこちらを伺っている。
「ちょっと、話聞かせてもらっていい?」
15
僕たちは近くの公園に移動した。
しげ子さんは、ナイフを気に入ったらしく、先程から空をシュパシュパと切り裂いて楽しんでいる。
「まさかこのナイフで、樹君を殺そうと思ってるわけじゃないよね」
「だったらどうだっていうんすか」
天城苗は、分散させていた憎しみを凝縮するように、顔のパーツを中央に寄せ、目を血走らせている。
「家の中でね、喜んじゃいけないんっすよ。喜んだら、怒るんすよ、お母さんが。どうして笑ってるんだって。お兄ちゃん死んだのにどうして笑えるんだって」
ギリギリと何が鳴っているのかと思ったら、天城苗の奥歯だった。
「明るい服を着ていても、お兄ちゃんが死んだのにどうしてそんな服を着ているんだって言われるし、カーテンだってずっと真っ黒ですよ。ついでにわたしも家に帰りたくないから、ずっと外にいたら、いつの間にか地黒になっちゃいましたよ」
プッとしげ子さんが不謹慎に笑う。
違うんだよ、本当に笑わせようと思ってそう言ったわけじゃないんだ、しげ子さん。
「でもだからって、殺したって、何も解決しないじゃないか」
「えぇ、しませんよ。でも、収まるんっすよ。わたしとわたしの家族の気が」
「そんなことはないよ」
「分かったようなこと言うな!」
あまりの怒りで喉が閉まり、ノコギリで金属を引いたような、まさに金切り声でそう叫ぶ。
でも、僕は、今回ばかりはそんなことでは引けない。
「分かるよ」
――そう、僕には分かる。
「僕の父親は昔、人を殺した罪で捕まって、刑務所に入れられた」
16
それは、僕が五歳の時の出来事だった。
僕は、お腹をすかせていた。まだ、晩御飯を食べていなかったからだ。
母がどうして晩御飯の支度をしないのか、どうしてただただ泣いているのか分からなかった。
電話の線が根元から抜けていた。親戚のお年玉をたくさんくれる優しいおじさんが、母を叱責していた。五歳の僕には難しい言葉だが、怒っていることだけは分かる。
――どうして父はいないのだろう。
呆然と立つ僕を見つけた姉が、二階へと僕を連れていった。
これが、僕の人生の始まりだ。
どういうわけだか、それまでのことが上手く思い出せない。父も母も姉も、みんな揃って笑っている食卓を思い出すことがあるのだが、それが妄想なのか本当にあったことなのか区別がつかない。
だが、それ以降のことは、はっきりと思い出すことができる。
泥を敷き詰めた水槽の中で生きているような気分だった。
引っ越しを繰り返し、食べるものにも困るほど貧乏になり、母はやがて怪しい宗教にのめり込み、借金で買わされたわけの分からないものが家に溢れ、姉と母は毎日罵りあった。
そして母は、僕たちを残し、ある日突然失踪した。
僕たちに残されたのは、母が『神様』と呼んでいた気味の悪いオブジェだけだった。
「世間からの僕たち家族に対する嫌がらせはすさまじかったよ。ありとあらゆることをされた。そりゃそうだろうね、そうしたくなる気持ちも分かるよ。十歳の女の子が、ナイフでめった刺しにされて殺されたんだ。父親は刑務所の中で首を吊って死んだよ」
それを聞き、天城苗は少し戸惑っている。だが、自分を鼓舞するように僕に憎しみを続ける。「当たり前ですよ。それぐらいされても足りないぐらいっす」
「でもね、――殺してなかったんだ。あとになって分かったんだよ、父親の無実が」
そう、父は何もしてなかった。
だったらあれはなんだったのだ。僕たちにぶつけられたあの憎しみの塊の正体はなんだ。
無実が分かっても、誰からも謝られることはなかったし、僕たちも誰を責めていいのか分からなかった。
姉は、真犯人を見つけるために――そうすることで、行き場のない思いをぶつけるように――警官になった。警察も、そうすることで父の贖罪になると思ったのだろうか、姉をキャリア並みの待遇で迎え入れた。
さすがに、天城苗は言葉を失っていた。
「僕はね、君の気持も樹君の気持ちも分かる。どちらも最悪だよ。君が殺したら、今度は、君の家族が加害者側に立つ。地獄だよ」
「だったら、どうすればいいっていうんですか」
「受け入れるしかないんだよ。少女を殺した犯人は今も捕まっていない。誰かも分からない。僕は、誰を責めていいかも分からない。だから、結局受け入れるしかないんだよ」
「そんなの理不尽じゃないっすか!」
天城苗の目から、涙が零れ落ちる。
そうなんだ、理不尽なんだよ。でも、そうするしかないんだ。そうしないと、前には進めない。
「……それがどんなに苦しくても、自分の中で噛んで噛んで、飲み込むしかないんだよ。誰かの顔に向かって吐き出すようなことはしちゃいけないんだ」
しげ子さんが、天城苗の手を両手でギュッと握る。しげ子さんも僕に共感し、天城苗を慰めようとしてくれている。
――そう思ったが、そうではなかった。
「間違っていますわ、朝生さんの言ってることは間違ってる。気を確かに持って」
最後までようやく登りきった階段の頂上から蹴落とされてる気分になる。
「殺すべきよ。殺したほうがいい人間は殺すべき。そうでしょ。殺しなさい、迷わず」
しげ子さんが両手を離すと、天城苗の手には、ナイフと小さな紙切れが握らされている。
「昨日、自殺サイトに書かかれていたの。今日の夜、そこに書かれた時間にその建物の屋上に行けば、もしかすると、帆代樹が来るかもしれない。彼が勝手にどこかに行ってしまう前に、あなたの手で、押すのよ。あなたのお兄様にやられたことと同じように」
「ダメだ、そんなこと!」
天城苗は、あまりのことで呆然としている。まるで、頭の中で生み出された天使と悪魔の囁きに困惑するように。
「ダメだダメだ、絶対にそんなことしちゃダメだ」
もう一度呼びかける。しげ子さんが渡したメモを奪おうと、天城苗の元へ行こうとする。
だが、しげ子さんが立ちふさがる。ガラス玉のような目で、こちらをじっと見続ける。
「どうして、どうしてこんなことをするんだ、しげ子さん!」
しげ子さんは何も答えない。
放送を終えた深夜のテレビのように、急に見放された気持ちになる。怒りと悲しみが混ざり合い、自分でも説明のつかない気持ちになる。
このままでは、汚い言葉をしげ子さんにぶつけるかもしれない。
僕は、踵を返し、言いようのない怒りをぶつけるように、地面を力強く踏み締めながら、公園を出た。
17
もう、しげ子さんとは、これ以上一切関わり合いを持ちたくないし、顔も見たくない。
しげ子さんは、そう、思ってくれただろうか?
日が暮れるのを待って、僕は自らの左手の小指に結ばれた赤い糸を追うことにした。
しげ子さんは必ず、天城苗が樹君を殺す瞬間を見に行くはずだ。しげ子さんに辿り着けば、それを止めることができるかもしれない。――いや、絶対に止めないといけない。
夜の暗い道に、赤い糸の怪しい光が映える。
糸を見つめながら自分に問いかける。
僕はこの糸の力を信じているのか?
それとも信じていないのか?
自分の心は矛盾に満ちていた。
本当にこの糸の力を信じているのならば、その先に待ち受けている未来を信じるならば、僕がこれからすることに意味はないのだから。
いや、そんな考えは頭から捨てろ。
そんな思考を持つことこそが、糸に操られているようなものだ。
「……こんな糸なんか、絶対に断ち切ってやる」
自分でそう言って――何かが引っ掛かった。
鏡面のような水面に水滴が一粒落ち、波紋が広がっていくかのような感覚――
なんだ? 何か重大なことに気付きそうな感覚があるが、それがなんだか分からない。
糸を追いながら、それについてずっと考えたが、結局答えは見つからなかった。
糸を追って辿り着いた場所は、廃屋と化した建物だった。
周囲は畑で、外灯自体が少なく、その全容がまるで掴めないが、かなり大きい建物だということは分かる。敷地も広く、建物の入口の前には、ゆったりとしたロータリーがある。
赤い糸は、建物の中へと続いている。
恐る恐る入口から建物の中へと足を踏み入れる。
入口から近いところは、月明かりが差し込み多少明るいが、その先は全くの闇だった。赤い糸は、闇に吸い込まれるように伸びている。
僕は思わず息を飲み、足をすくませる。
だが、ここまで来て引き返すわけにはいかない。
僕は携帯電話を取り出し、カメラライトの頼りない明かりで中へと歩を進めていく。
床には、割れたガラスや、元は壁であっただろうコンクリートの破片や黄色いスポンジなどが散乱していて歩きづらい。ペットボトルなどのゴミも多い。
こんなところへ、本当に天城苗は女の子一人で現れるのだろうか。――諦めてくれるといいんだけど。
糸を素直に追っていくと、階段に差し掛かる。
帰り道が複雑になっていくことに不安が増し、足が重くなる。
糸は屋上へと続いているのかと思ったが、意外にも地下へと延びていた。
何か嫌な予感が広がる――。
僕は殺人を止めにきたはずだったのに、これでは肝試しではないか。
家からお守りを持ってきたことを思い出し、ポケットの中でそれを掴む。
僕の体の全てがこの先に進むことを拒んでいる。理性を司る前頭葉も、本能的に危険を察知する扁桃体も、記憶を貯蔵する海馬も、全てが進んではいけないと僕を必死に呼びとめている。
――でも、僕は糸を追うため、階段を降り始める。
自分の中のどの部分がそうさせているのか分からない。
階段を降りきり、地下に辿り着く。糸は地下のフロアへと伸びていく。
僕は、より闇へと――歩を進める。
それは、しげ子さんの心の中へと踏み込んでいるようだった。
しげ子さんと、共に行動するうちに、もしかするとしげ子さんはそんなに悪い人間じゃないんじゃないかと思い始めていた。いや、それどころか、根は心の優しい人なんじゃないかと思っていた。
でも、それは大きく裏切られた。
今は、この闇同様、何を考えているのか全く分からない。忌々しいものだけを好む、悪魔なのかもしれない。
糸は、廊下の突きあたりの部屋の中へと続いている。
あの中にしげ子さんがいるのだろうか。
僕は、意を決し、恐る恐る部屋へと足を踏み入れる。
部屋の中はこれまで以上に荒れ果てていた。不法投棄だろうか、黒いゴミ袋が大量に積まれている。
僕は、手を伸ばし、携帯電話の光を部屋に広げる。
――あれ、これは……。
僕は、洞窟の中で太古の秘宝の手掛かりを見つけた冒険者のように、それを見つけて体を固めた。
『あなたはここで呪われる』
壁に、赤いスプレーでそう書かれてある。僕は、慌てて、天井に携帯電話の光を向ける。天井には見覚えのある無影灯がぶら下がっている。
間違いない。ここは、〈見知らぬ人〉に連れてこられた――廃病院だ。
突然、首筋に小さな痛みが走る。
何が起きたか分からず、振り向くと、背後に注射器を握ったしげ子さんが立っている。
「あれ?」
膝に力が入らず、そのままカクンと足から崩れ落ちる。僕の視界のしげ子さんが傾く。何か言おうとするが、舌が絡まりうまく動かない。
僕は、そのまま意識を失った。
18
目覚めると僕は、手術台の上に寝かされていた。ここに寝かされるのは、これで、二度目だ。
波止場で船を繋いでおくために用いられるような、やたらと太いロープが体に巻き付けられている。
部屋にあった黒いゴミ袋の山はどこかへ移動したようだ。今は、綺麗に片付いている。
だが、これから起こることを想像すると、逆にそれが恐ろしく思えてくる。
しげ子さんが頭の上から、顔をのぞかせる。
長い髪が垂れ下がり、めずらしく僕の位置から顔がはっきりと見える。全くの無表情だ。顔が死んでいるという表現があるが、しげ子さんの顔は死んだ人間の顔に近い。
「来ると思っていました」
「な、何をするつもりなんだ」
我ながらみっともない台詞だ。サスペンス映画なら絶対に殺される人間が吐く台詞。何をするかなんて、決まっている。
僕としげ子さんは、結ばれているのだ。――呪われた赤い糸で。
どうして、それを考えなかったのだ。
いや、今にして思えば、考えたくなかったのかもしれない。そうだ、僕を襲った〈見知らぬ人〉は――しげ子さんだったのだ。
僕の心をもてあそび、いたぶり、それから殺すつもりだったのだ。
しげ子さんが、僕の目の前に持っていた医療メスを差し出す。これであなたを切り刻みますよと言っているかのようだ。
僕は、怖くなって目を閉じる。
終わりだ。
サクッ、サクッと、メスで切り裂く音が聞こえる。
痛みはないが、しげ子さんなら、可能かもしれない。出会ったときのことを思い出す。猫の腸を楽しそうに持つしげ子さんを。
今もしかすると、僕は同じような状態なのかもしれない。
音が鳴り止む。
――あれ……生きてる?
ゆっくりと目を開く。
巻かれていたロープが切られているだけで、僕は無傷だった。
「朝生さん、中途半端な場所で盾を構えていても、飛んでくる矢からは誰も守ることはできません。あなたは選ばなくてはいけません。どちらの側に立つのかを。選択するのです」
そう言うと、しげ子さんは僕のリアクションを待たずに部屋を出ていく。
何がどうなっているのか分からない。しげ子さんは、僕を殺すつもりじゃなかったのか。〈見知らぬ人〉はしげ子さんじゃなかったのか。今のはどういう意味なのだ。
「ちょっと、待ってよ」
僕はまるで、探偵に推理を教えてもらえず情けなくへつらうしかない助手のように、しげ子さんのあとを追う。
19
やってきたのは屋上だった。
そうだ、と僕は本来の目的をようやく思い出す。僕は、天城苗を止めに来たんだった。
しげ子さんは、階段室の裏手に回り、取り付けられている梯子を登る。僕もそれに続く。
しげ子さんは梯子を上り切ると、そこに身を隠す様に、腹ばいで寝そべる。ここで、人が殺されるのを見物しようというわけか。
ようやく先程の言葉の意味を理解する、あれは警告だったのだ。――一緒に見てもいいけど、邪魔はするな、と。
僕は、黙ってしげ子さんの隣で寝そべる。でも、しげ子さんに従うわけではない。天城苗を止めるのを諦めたと思わせるためだ。
寝そべると、ポケットの中のお守りが、足に当たる。
ポケットの中に手を入れ、改めて願う。このまま何も起こりませんように、と。
「覚えていますか」
「えっ?」
「依然、飛び降り自殺が増えているという話をしたのを」
確か、樹君の糸を辿っていたときにそういう話になった。
「その多くが、ここで行われているのです。今やちょっとした自殺の名所ですよ。昔は、わたくしが、よく遊び場にしていた場所なのに」
僕には、元々しげ子さんが、そういう場所を遊び場に選んだのではないかと疑ってしまう。
〈見知らぬ人〉がここを選んだのも、人がたくさん死んでいるからだろうか。儀式をおこなう場所として、最適だったのかもしれない。
「ねぇ、一つ聞いてもいいかな?」
「どうぞ」
「さっき、僕の首筋に注射したのはなんのため? ほら、言えばすむことじゃない。注射したり縛ったり、いらないじゃない。っていうか、あれはなんの薬だったんだろう」
「試したかったのです。人に効くのかどうか。あれはわたくしが調合したものですから」
「えっ?」
「ご心配なさらず、犬では試したことがありますから。その犬はぐっすりと寝たあと、何かに突き動かされるように走り去っていきました。ご存じありませんか? 二、三日ほど前に何十匹もの犬が山の主と呼ばれていた巨大な熊を倒したという報道があったのを。あの犬の軍団を指揮していたのがわたくしが注射した犬ですね」
わたくしが注射した犬ですね、じゃない。
「……来ましたよ」
階段室の扉が開く音が聞こえ、誰かがやってくる。
樹君だ。周囲をきょろきょろと見渡し、誰もいないことを確認すると、縁に向かって歩き始める。
今、気づいたのだが、この屋上には、柵やフェンスといったものがない。だからこそ、自殺の名所になっているのかもしれない。
樹君は、縁ギリギリのところまでいくと、下を覗き込む。
僕は思わず「ダメだ」と声を出すが、しげ子さんがその口を塞ぐ。
「自殺サイトで自殺予告をする人というのは、大抵本当に死ぬ気がありません」
先程とは違って、囁くような声だ。だが僕にははっきりと聞こえる。自分の内側から聞こえてくるみたいで気味が悪い。
「あれは、誘拐事件や、銀行強盗の立てこもりと似ています。自分自身を人質にとって、助けてくれと交渉しているのです」
樹君も誰かの助けを求めているのだろうか? だとしたらどうして今すぐ助けてあげないんだ。
気づくと、人影がもう一つ現れていた。天城苗だ。このまま現れないことを微かに期待していたのに。
天城苗は、じっと、樹君の背中を見ている。
子どものころに大量に浴びたあの黒くておぞましい憎しみの塊を天城苗が全身に纏っているのが分かる。
樹君は、下を見ていて、天城苗には気づいていない。
天城苗はゆっくりと、樹君の背中に近づく。足音を殺しながら。
僕は居ても立ってもいられなくなり、体を起こそうとする。だが、肩の部分をしげ子さんに抑えられ動くことが出来ない。
「お待ちください」
どこにこんな力があるのだ。抱きかかえると石のように重くなるおじいさんの妖怪を彷彿とさせる圧力を感じる。
離してくれ、僕は力強くしげ子さんを見つめ、そう訴えかける。
だがしげ子さんは意に介さず、僕の耳元で囁く。
「彼女には――殺す権利があります」
その言葉は、まるで呪文のように僕の力を奪い、体が動かなくなる。
小さい頃、確かに僕が抱いた感情だ。
遺族が僕を殺しに来たときは、僕は父の代わりに殺されようと思っていた。向こうにはそれだけの理由があるし、僕もそのほうが楽になると思ったからだ。
天城苗は、樹君の背後まで迫り、ゆっくりと両手を伸ばす。
「やめろ!」そう叫びたいのに、言葉が出ない。しげ子さんの手は口から離れているのに。
が、天城苗の手は、樹君の背中の手前でピタリ止まったまま、動こうとはしなかった。
「……あんたと一緒にはなりたくない」
その声に驚き、樹君が振り向く。
顔は暗くてよく見えないが、驚いているのが体全体で表されている。同時に、天城苗が泣いているのも分かった。
「……あなたなんか殺さない。もっと苦しめばいいんすよ。……わたしたちのために、もっともっと」
天城苗は、寸前のところで――思いとどまったのだ。
僕はホッと胸を撫で下ろす。
それが正しい決断と思いたい。殺すことで救われることなど何もないのだ。
隣で、カリカリカリと音が聞こえる。何かと思ったら、しげ子さんが悔しそうに爪を噛んでいた。そんなに、天城苗が殺さなかったことが悔しいのか。
ボソリとしげ子さんが呟いた。
「朝生さん、これが悪意ですよ」
樹君が、天城苗の伸ばしていた腕をつかむ。
まるで、自分の元へ引き寄せ抱きしめるかのように、天城苗の腕を引いた。
そして、くるりと自らの体を反転させる。まるで闘牛士のような軽やかさだった。天城苗は、何が起きたのか分からないまま、宙に体を引きずり出され、――そして、あっけなく落ちていった。
ドン! と重みのある音がはるか下から響く。
何が起きたか分からない。
どうして先程までいた天城苗がこの場にいないのか分からない。
心臓だけが高鳴り、目の前の光景に警告音を鳴らしている。
――どうして、どうして、どうして……。
「どうして、そんなことするんだよ!」
無意識のうちに、そう叫び立ち上がっていた。
樹君が僕を見て驚いている。
どこからともなく闇から声が響く。
「――あの自殺サイトは、わたくしが作ったものです」
気付くと僕の隣にいたしげ子さんは姿を消している。
闇に紛れているのか、屋上全体を見渡せる高みにいる僕にもしげ子さんの姿は確認できない。
「他にも、いくつか作りました。あなたは、その全てに現れていました」
樹君がしげ子さんの姿を探そうと、必死に周囲を見渡している。
「今日、自殺予告を書き込んだのはわたくしです。どうして樹さん、あなたが現れたのですか?」
どういうことだ?
脳のいたるところで電気がパチパチと弾け、様々な出来事が一つに繋がっていく。
――そして、一つのとても恐ろしい仮説が出来上がる。
しげ子さんは、この町で、飛び降り自殺が増えていると言っていた。
もしかすると、樹君は、自殺サイトで自殺予告の書き込みを見つけては、その場所に行き、躊躇している人の背中を押していたのか?
――いや、そんなはずはない。
そう思いたいが、僕の思考は止まらない。
学校の空中庭園が頭に浮かぶ。
あれを見た時、天国にいるようだと思った。もし自殺をしたい人が見たらどうだろう。――ここで飛び降りたいと思うかもしれない。
あそこは、樹君によってフェンスが取り除かれていた。あれも、それを意図して作られたのか。
どうして、樹君はそんなことをするんだ?
――割れた鉢。
そうだ、樹君の家に行った時、割れた鉢がいくつもあった。あれは、誰が割ったものだ? 僕は、天城苗が割ったのだと思っていた。
でもそうじゃなかったんだ。――そうだ、樹君の母は、僕たちにプラスチックのコップを出した。あれは、お金が無いからではない。割れないようにプラスチックにしていたのだ。
――どうして?
「好きなのか? ……落として壊すことが」
僕は思わず口に出していた。
「あぁ、そうだよ」樹君にはまるで悪びれる様子はない。「朝生君にもあるだろ。トランプタワーを崩したくならないか? ジグソーパズルをぐちゃぐちゃにしたくならないか? 破壊衝動だよ。誰にでもある健全な心だよ」
そう平然と言われ、海が赤く染まっていくような感覚に襲われる。赤く染めたのは怒りではない。虚しさだ。
そう、虚しさだ。
誰にも破壊衝動はあるだろう。でもそれと同じくらい、物を壊してしまったときに、虚しさを感じるものなのだ。
だから、壊さない。
樹君には、それがごっそりと抜け落ちてしまっているのだろう。僕にはそれが悲しくて辛い。
「――で、どうされるおつもりですか? わたくしたちを。見てしまいましたよ、あなたが落とすところを」
どこからか闇に紛れたしげ子さんの声が聞こえる。
「そうか、では集団自殺ということにしよう」
樹君は、そう言い、僕の方に向かって歩き始める。近づくにつれ、その表情が読みとれる。それは、歯をむき出しにしたとても野生的な笑みだった。
だが、樹君の前に、闇が盛り上がるように人影が現れる。――しげ子さんだ。
「君から落ちてくれるのかい」
樹君は、腕をしげ子さんに伸ばしていく。
しげ子さんは、その思いに答えるかのように、樹君の胸の中に飛び込んでいく。それはとても優雅で、まるでダンスでも踊っているかのように滑らかな動きだった。
そこからしげ子さんの動きは、素早かった。
樹君の右足を掴み、そのまま時計と反対方向に回転する。樹君はバランスを失い、いとも簡単に地面に寝転がる。
しげ子さんは、そのまま馬乗りになり、袖からメスを取り出すと、――樹君の首筋に当てた。
樹君は、それを望んでいるかのように、しげ子さんに微笑みを返す。
「呪うなら自分を呪いなさいな」
樹君の首筋に当てたメスが食い込んでいく。
「ダメだ!」
――しげ子さんの手からメスが弾かれる。
しげ子さんは何が起きたか分からず、僕の方を見ている。
僕の手はスローイングをした体勢のままで止まっている。
――僕が、ボールを投げてしげ子さんのメスを弾いたのだ。
どうしてそれを持ってきたのか分からない。
不吉ではあるが、なぜかお守り代わりにもなると思ったのだ。これなら闇の感情に対抗できるかもしれない、と。しげ子さんから貰ったデッドボール――ここで役に立つとは。
僕は、梯子を降り、しげ子さんと樹君に近付く。
「落ちてからでは遅いんだよ、しげ子さん」
そう言って、ほぼ無意識に、しげ子さんに手を差し出す。
近くで見たしげ子さんの目は、驚くほど無機質で、石のように冷たい。
しげ子さんは、その目で、じっと僕の手を見つめる。――まるで、僕の手がこの世界で誰かれも必要とされていないかのように。
僕は、怖くなり、自分からしげ子さんの手を掴む。
すると、見る見るしげ子さんの目に光が戻ってくる。
初めて握ったしげ子さんの手は、たった先程まで人の首筋を掻っ切ろうとしていたとは思えないほどに、弱々しく、そして汚れがなかった。
「朝生さん……」久々に再会した人に向けられたかのような間の抜けた声だった。
僕は、しげ子さんを強引に引き上げる。深い闇の底から引き上げるみたいに。
そして、一人地面に寝たままの樹君を見つめる。
樹君は、僕を見つめたまま優しい微笑みを浮かべている。
「君は落ち続けていると言ったけど、もっとよく周りを見渡してみなよ。――あったはずなんだ、掴まるものが」
樹君の表情はまるで変化が無かった。ずっと笑みを浮かべている。
「しげ子さん、まだ天城さん助かるかもしれない、救急車を呼ぼう」
僕はそう言い、しげ子さんの腕を引っ張った。もう、これ以上ここにいるべきではない。
その日、一本の赤い糸が、二人の指から離れ、宙を舞い、消えていった。
僕は、結局、誰も救うことは出来なかった。
人が一人死んだ。
赤い糸は、やはり『呪いの赤い糸』だったのだ。
20
あれから一週間後。僕としげ子さんは、廃病院を再び訪れていた。僕の手には、花束が抱えられている。
日が明るいうちにここにやってきたのは初めてだが、明るくても十分に薄気味悪い。あのとき、一人で中に入れた自分が信じられない。
僕たちは、裏側に回り込み、天城苗が落ちた場所まで行く。
天城苗だけではない。何人もの人が樹君に落とされ、この地面に叩きつけられたのかと思うと、暗澹たる思いが広がる。
「蜘蛛の糸って話があるでしょ」
しげ子さんから返答はないが、僕は勝手に話を続ける。
「あれ、主人公の気持ちが分かるんだ。だって、あとから登ってきた人に、足を掴まれるかもしれないじゃない。そう考えると、どちらかといえば釈迦の方を僕は責めたくなるんだよ。どうして、もっと太い糸を用意しなかったんだって。そしたら、みんな安心して登れたのにって」
しげ子さんは、黙って聞いている。この話に対しての自分の見解を話すつもりはなさそうだ。
僕の吐きだした言葉が宙を舞い、そのまま虚しく消えていく。
僕は、その言葉を見送るように思わず空を見上げ、そして屋上に目が行く。
「ここから落ちたんだよな」
間近で見上げると、絶壁のようにそびえ立っている五階建ての廃病院、その頂上から落ちたのだ、思わず呟いてしまう。
「自分でも信じられませんよ」
どうやら、僕たちを呼びだした張本人が来たようだ。
両手に松葉杖を付きながら左足にギブスをつけた彼女がやってくる。――天城苗だ。
「あなたが私を助けてくれたんすね」
僕のほうではなく、しげ子さんを真っ直ぐに見つめている。
そう、天城苗が、この程度のケガですんだのは、しげ子さんのおかげだ。
しげ子さんは、今いるこの地面に、あの手術室においてあった黒いゴミ袋をクッション代わりに敷き詰めていたのだ。
あれは、元々、しげ子さんが事前に持ち込んでいたものだった。中には、ウレタンが入っていた。何度もここを訪れている樹君に気づかれないようにするためにゴミ袋に入れて置いておいたのだろう。黒いゴミ袋にしたのも、屋上からのぞき込んだときに敷き詰めているのを気づかせないためだ。
しげ子さんは、礼を言われても、照れるわけでも謙遜するわけでもなく、置物のようにじっと立っている。もしかすると、それがしげ子さんなりの照れなのかもしれない。
「あっ、そうだ。これ退院祝い」と持っていた花束を渡そうとするが、天城苗の両手は松葉杖で塞がっている。「って、ゴメン。これじゃ、持てないね」
天城苗も、気まずそうに笑みで返す。
「よければ、ここに備えませんか? 帆代樹がこれまでに突き落とした人たちのために」
「そうだね、それがいいかもしれない」
僕は、壁により掛けるように花束を置く。そして、じっとその花束を見つめてしまう。
「帆代樹、殺されたそうっすね」
殺すという言葉に思わず息が詰まる――。
あの日、樹君は自宅に戻り、樹君のお母さんに殺された。
おそらく樹君は、僕たちを逃したことで逮捕されることを覚悟したのだろう。全てを母に打ち明けたのだ。
樹君のお母さんは、「今日は寝なさい、明日一緒に警察に行きましょう」と樹君を寝かせ、寝ている樹君を刺し殺したのだそうだ。
僕は、樹君に結ばれていた赤い糸を思い出す。
――あの糸の先で結ばれていたのは、樹君のお母さんだったのだ。
だから僕は確信したのだ。これは、恋や愛だとかの浮ついた運命の糸ではなく、呪われた糸だと。
僕が廃病院に行くことを躊躇したのも、樹君と樹君のお母さんが結ばれていたのを知っていたからだ。
だが、僕は、一方で赤い糸を否定したい気持ちがあった。何もかも赤い糸に誘導されるように行動することが嫌だったのだ。糸が誰と結ばれていようが、天城苗と樹君の問題を解決しなければいけない。そう決意し、病院へと向かったのだ。その結果、樹君の心を変えることが出来れば、あるいは運命が変わるかもしれない。そんな淡い期待もあったのかもしれない。
だが、結果は何も変えられなかった。
「あいつは、とんでもないくそ野郎でしたね。死んで当然っすよね」
僕のせいで、天城苗はこんなケガを負ってしまったのだ。その言葉を咎めることはできない。
「でも、あのとき、押さなくてよかったっす。病院で目覚めたとき、泣いてるお母さん見て、本気でそう思えました。楠見さんのおかげっすよ」
そう言って、天城苗は微笑んだ。
初めて見る天城苗の笑顔は、とても穏やかで、僕も自然と笑みを浮かべる。
「それじゃ、わたしはこの辺で。お母さんを待たせてるんで」
「お待ちください」
と、突然しげ子さんが制服の中から、何かを取り出した。大きな布に見える。どこに何を入れているのだ。
「これ、あげますわ」
天城苗も受け取りながらそれがなんなのか分からず戸惑っている。
「カーテンです。これからは少し明るい色をつけてもいいでしょう」
明るい色だと言うが、カーテンは灰色だ。黒ではないが、とても明るいとは呼べない。
天城苗も、そう思ったのだろう、ぷっと吹き出した。だが、そのプレゼントには喜んだようだ。
「ありがとうございます。ここから始めます」