※本作はniconico「ニコニコ連載小説」内「電撃文庫チャンネル」で掲載された作品の再録です。


【思春期ボーイズ×ガールズ戦争】『決戦の朝』

 中学卒業が目前に迫ったとある朝。目が覚めたとき、隣にいたのは、リュウジとジュンだった。昨晩、二人は俺の家に泊まったのである。
「大丈夫か、マサミチ」大柄な男、リュウジが心配そうに言った。
「うなされてたよ。怖い夢でも見てたの?」
 ジュンも可愛い目を潤ませながら、声をかけてきた。
「ああ」俺は頷いた。「悪い夢を見ていた。二年の夏のことだ」
 それだけで、二人には伝わった。二人は顔を見合わせ、切ない顔をした。

 夏の暑い日だった。
 体育館では、女子バスケ部が練習していた。
 俺たちはそれを、体育館の外から覗いていた。汗で濡れれば、いろいろなところが透けるのではないかと思っていた。
 中でもひときわ汗をかいていたのは、中崎ミイナさんだった。ポニーテールにした黒いセミロングの髪を大きく振りながら、激しく動いている。まるで水を被ったかのように濡れていた。
 正直、彼女を見るのは怖い。何故なら彼女は、うちのクラスの男子矯正委員だからだ。この委員は、男子の問題行為を物理的に解決する役目を担っている。じろじろ見ていたことがばれたら、後でどんな仕打ちをされるかわからない。
 しかしどうしても目が行った。濡れたシャツがスタイルの良い体に張り付いているのだ。加えて、走って胸が揺れる。リバウンドで胸が揺れる。シュートを撃って胸が揺れる。
「やっぱり動きがあるスポーツは良いね」俺は言った。
「うん。それに女子だけだから、見てて楽しい」ジュンが答えた。
「綺麗な人のバッシュになりたい」リュウジだけ、視点が少し違った。
 顧問の先生が手を叩いた。
「よし。一旦休憩。しっかり水を飲んでおくように」
 全員が鞄からタオルを出して、汗を拭き始めた。
「シャツ、着替えてこよう」
 一人が言った。楽しみが遠ざかっていくことを嘆いた。
 中崎さんは、鞄の中を探っていた。
「どうしたの、ミイナ?」
「着替え忘れた」
 中崎さんは、鞄を持って立ち上がる。
「ちょっと、外で絞ってくる。外なら乾くのも早いしね」
 中崎さんは鞄を持って、体育館を出た。
 俺たちは無言で後ろをついて行った。

 中崎さんは、外をうろうろしていた。ひと気のない場所を探しているようだった。俺たちは、その後ろをついて歩いた。
 中崎さんは辺りを見回す。しかしどこも、誰かしらがいる。
 中崎さんは一つ溜息をつき、校舎に入った。俺たちは後ろをついて行った。
 中崎さんは二階の女子トイレのドアを開け、中に入った。俺たちは後ろをついて行った。
 四つある個室のうち、一つが閉まっている。中崎さんが入っているのだろう。
 ……。
 はっ! しまった! 流れで女子トイレに入ってしまった!
 互いに顔を見合わせる。そして頷く。すぐにここを出なければ!
 そのとき、後ろでドアが動いた。
 心臓が激しく鼓動した。
 俺たちは慌てて、空いている他の個室に隠れた。そして息を潜めた。
 ドアが開く。しかしすぐに閉まった。中に誰かが入ってくる気配はなかった。おそらく個室が全て埋まっていたから、別のトイレに行ったのだろう。
 ほっと、胸を撫で下ろした。
 そのとき隣から「よっ」という声と、布で擦るような音が聞こえてきた。そう言えばこの隣が、さっき中崎さんが入った個室だ。
 何をしているのだろう。俺は目を閉じ、耳を澄ました。
 中崎さんは、苦しそうに「んー」と唸り、少しして、
「ふう」
 と、解放感に満ち溢れた吐息を出した。
 俺の脳は、めまぐるしく動いた。一体何をした声か。断片的な情報を紡いでいく。
 やがて克明に映像が浮かび上がった。わかった。彼女はシャツを脱いだのだ。濡れていたから、脱ぎにくかったのだろう。
 そして「チ」と金属が当たるような音が聞こえた。……今の音は何だ?
「かゆい……やっぱりスポーツブラにするべきだったかな」
 中崎さんは、小声で呟いた。
 まさか……さっきのはブラのホックの音か? もしかしてブラも脱いだのか? 中崎さんは今、上半身が裸なのか? 壁一枚隔てた向こうでは中崎さんが……。
 再び布で擦るような音が聞こえた。この音の感じでは、どうやら汗を拭いているようだ。
 トイレが和式であることを恨んだ。洋式なら便座に立って、上から隣を覗けたかもしれないのに。
 仕方がない。俺は壁に耳を当て、一生懸命その音を聞いた。
 鍵が開いた。中崎さんは個室の外に出た。
 手洗い場から水の滴る音がした。シャツを絞っているらしい。それは静かなトイレの中に響いた。そしてバサバサと布を広げるような音も聞こえてきた。
 ドアの隙間から目を凝らす。ブラをつけた気配は無かった。中崎さんは今、裸に違いない。
 しかし、よく見えない。
 少しだけ、扉を開けてみようか。
 鍵に手が伸びる。しかし冷静になる。もしも俺の姿を見られたら、その後どんな目に遭うか、考えるだけでぞっとする。そうだ。ここは大人しくして、早急に逃げるのが賢明だ。中崎さんが、早くここを出て行くことを祈ろう。
 そのときだった。
「やば」
 中崎さんが言った。そして何やら、忙しなく動いていた。
 暫くして、俺の個室がノックされた。ドキリとした。
「あの、すみません」
 中崎さんだ。
「実は私……窓で濡れた服を乾かそうとしたら……その……全部窓の外に落としちゃいまして……取ってきていただくことって……できないでしょうか」
 全部落としただと……! 何をやってるんだ中崎さん。それに取ってくるなんて、この状況でそんなことできるわけが……。そこではっと気付いた。
 中崎さんは、上が裸だ。だからトイレから出て行けない。ずっとトイレに留まり続ける。それはつまり、俺たちがここから一生出られないという死刑宣告でもあった。
「あの、駄目でしょうか……」
 中崎さんの声は弱々しい。かなり困っていることが窺える。しかし当然、返事はできない。
 トイレは水を打ったように静まり返った。まるで俺が、中崎さんを無視しているかのような状況になり、重い空気が流れる。
 どうする……。
 そのとき、トイレのドアが開いた。誰かが入ってきたようだ。
「あ、ミイナいた。そろそろ練習始まるよ……って、何で上、タオル一枚なの」
「シャツ乾かそうとしたら、窓の下に落としちゃって」
「何やってんのよ。だいたい、乾かしてるとこ、他の人に見られたら、どうすんのよ」
「いや、タオル巻いてるし。女同士なら大丈夫かなって。男子が来るはずないし」
 思わず消えたくなった。
「はあ……ほら、私のジャージ貸してあげるから」
「あ、ありがとう!」
 中崎さんは叫んだ。そして俺のいる個室の前に立ち、
「あの、すみませんでした」
 と言った。そして駆けて行く足音が聞こえた。
 人の気配が消えた。
 今しかなかった。
 俺たちは一斉に個室から飛び出した。そしてリュウジがドアに手を掛ける。
「駄目だ」リュウジは振り返る。「廊下に人の気配がある」
 耳を澄ます。確かにリュウジの言う通りだった。外から足音が聞こえる。
 俺は窓から顔を出し、周囲を見回した。外は校舎裏で、幸運にも人の通りはなかった。今なら脱出できる。
「こっちから逃げられそうだ」
 そう言って俺は窓の外に体を出す。そして雨どいを掴み、出っ張りに足を掛け、忍者のように降りた。リュウジとジュンも、俺の後に続く。
 助かった、そう思いながら、地面に着地した。そのとき思わず「あっ」と声を上げた。
「どうしたマサミチ?」リュウジが訊く。
「シャツを踏んでしまった」
 さっき中崎さんが落としたシャツとブラだろう。そこに俺の上履きの足跡が、くっきり付いてしまった。
 どうしようと思った。目の前にあるのは、さっきまで中崎さんが着ていたシャツであり、ブラである。ドキドキした。しかし足跡が目に入ったとき、その気持ちは罪悪感に変わった。
 俺はそれらを拾い上げた。まだ水分を含んでいて、ずしりと重かった。
「中崎さん、部活かなり頑張ってるんだな」
 そう呟いた瞬間、何だか胸が苦しくなった。付いた黒い足跡は、まるで悪意のある誰かが、嫌がらせをしたかのようになっている。これを見た中崎さんは、きっと落ち込むだろう。
 この足跡は落とさなければならない。
 俺は近くの水道に向かい、シャツとブラを洗った。
 そのとき、シャツの裏側に、土がべっとり付いていることに気付いた。
 かなり汚れている。そして中崎さんは、今日シャツをこれしか持ってないと言う。これでは部活に集中できないだろう。これもついでに洗っておいてあげよう。
 暫く洗い、絞って広げてみる。俺の足跡と土の汚れは、綺麗に落ちていた。太陽にかざすと、白く輝いて見えた。完璧だ。自分の腕に惚れ惚れする。これなら中崎さんも、気持ちよく部活を続けられる。
「お前ら……何やってんだ……?」
 声がした。振り向くと、中崎さんがいた。この時期には合わない長袖のジャージを着ていた。さっき借りたものだろう。
 中崎さんは、シャツを持つ俺の手を見ていた。これを取りに来たのだ。
 俺は「はい」と中崎さんにシャツを差し出した。
「それから、これも中崎さんのでしょ?」
 一緒に洗ったブラも手渡した。
「汚かったから、洗っておいたよ」
 中崎さんは、暫く無言でシャツとブラを見つめていた。
 やがて顔を紅潮させ、ゆっくり拳を振り上げた。
 夏の暑い日だった。

「悲しい事件だったな」俺は言った。
 あの後「土で汚れていたから、大変だと思って洗った」と、一応嘘ではないことを言い、何とかその場を収めた。
「親切とは難しいものだ」リュウジが呟く。
「それに言葉を間違えたからな。あれじゃ中崎さんが汚いみたいな言い方だ」
「そもそもあんな法律さえなければ、あんなことにはならなかったんだ」
 あの法律、そう、男子制限法だ。この法律のせいで、この世から猥褻物が消えてしまった。だから鬱屈した思いが募るのだ。
「我々は、この春機発動期の情動を、何としても解消せねばならないのだ」
「卒業まで、あと四日。やっぱり、やるしかないね。準備もしたし」
 ジュンが目配せする。異論はなかった。
 場当たり的だとああいうことが起こる。しっかり計画を立てれば良いのだ。

 俺たちは大きい段ボールを持ち、早めに学校に向かった。
 今日は午前中で学校が終わる。使うのは昼過ぎだ。
 俺たちは中学最後の思い出に、この段ボールに身を隠し、女子更衣室に立て篭もってやろうと決めていた。

 思春期だった。

<おわり>