2  少年たちは堕ちて行く


 帰りのホームルームが終わり、にわかにクラスが騒がしくなった。
 蒸し暑い一日だった。明日はもう五月だ。気温が上昇し始めている。窓からは光が差し込む。グラウンドでは、部活を始める生徒が、ちらほらと見え始めた。
 俺はぼんやりと、ホームルームで配られた紙を眺めた。生徒会からのお知らせだ。
『校内の健全化促進に向けて』
 今年度の、生徒会の目標らしい。学校の風紀を整えるためのプロセスが書かれている。男子制限法の施行以来、この手のスローガンが増えている。そして、この部分に目が止まった。
『最近、猥褻な内容の本を描いている者が居る。情報を持つ者は、報告すること』
 少しドキリとした。今はジュンが、イラストの練習に精を出しているからだ。しかし実際の作品作りに至ってない。俺たちは無関係だ。こんな世の中だ。俺たちと同じことを考える人が、他に居てもおかしくない。
 それに先日、ジュンが言っていた。
「うちの高校には、伝説の絵師っていうのが居るんだって」
 画材屋で、女子が噂しているのを聞いたそうだ。何でも、卑猥な本を描くことを生き甲斐にしている勇者らしい。俺たちの先輩に当たるわけだ。しかし、どこの誰かはわかっていない。
 是非会いたいと思った。漫画を描くなら技術を持つ人から吸収した方が良い。あわよくば、描いたものを頂けないかと考えた。俺たちはその人物に接触するべく、調査を始めた。しかしこの人について語るのは御法度のようで、全く情報が集まらなかった。もはや都市伝説なのかとも思えた。しかし唯一、三年の「藤次(ふじつぐ)タツナリ」なる人物と繋がりを持てば、何か起こるということだけわかった。しかしこの先輩は、なんと停学中だという。
 だから最後の『以下の者を、風紀を乱す要注意人物に指定する』という項目に目を奪われた。
『3―4 藤次タツナリ』
 名指しで注意されている。やはり相当な人物なのだろう。
「暑いね」
 声がして、ふっと影ができた。顔を上げると、小柄な体が窓際に立っていた。門倉さんだ。
 門倉リツカさん。男女関係無く分け隔てなく接してくれる。中学最後の事件以来、俺は彼女が気になってしょうがない。同じクラスとわかったときは、天にも昇る心地だった。
 彼女は手でひさしを作り、空を見上げた。窓際の俺の席は、特に日差しが強い。外から風が吹き込む。門倉さんのショートヘアーが揺れた。
 そこに大きな影が近付いた。
「リツカ……また、そんな奴と」
 中崎ミイナさんだ。彼女もまた、同じクラスになった。今日も黒いセミロングの髪を、ポニーテールにしている。そして高校でも、クラスの男子矯正委員となった。神も仏も無い。
「もっと仲良くしようよ。同じ中学だし」
「だから嫌なんだ」
 中崎さんの中では、あの事件は解決していないらしい。
「ミイちゃんは、部活?」
 中崎さんは、高校でもバスケ部に所属いている。一年にして、バスケ部のレギュラーを獲得できるかもという逸材だ。掴まれたら逃げられない。
「ミイナ。今日は委員会だよ」
 風紀委員の、浦(うら)橋(はし)ナオさんが声を掛ける。テニス部であり、切れ長の目が特徴的な美人だ。
 学年でトップクラスの美人ではないかと言われている。しかし性格はきつい。普段から、氷のように冷たい目で、男子を見ている。その視線は、変態リュウジのお気に入りだ。
 浦橋さんが、俺に視線を向けた。そして突き刺すように睨んだ。
思わず俯いた。絶対に一昨日のことが原因だ。
「おい、マサミチ」
 声を掛けられ、俺はゆっくり振り返った。リュウジが居た。
「決めたか?」
「時間までには、必ず決める。もう少しだけ、考える時間をくれ」
「わかった。外で待ってる」
 そしてリュウジとジュンは教室を出た。リュウジの声には、棘があった。
 俺はまた、ぼんやりと外を眺めた。そして一昨日のことを思い出した。
 一昨日俺たちは、夕闇の中、あの怖い浦橋さんのパンツを見るために頑張っていた。

「エロ本を描こう」と、ジュンが、きらきらと澄んだ瞳で言った直後の話をしよう。
 ジュンが胸を張って続けた。
「読んでみたい。だったら自分たちで描けば良い。法律も何もない。それで解決だ」
「しかし……」俺は考えた。「漫画なんて、描いたことないぞ。リュウジは?」
「右向きの顔しか描けない」
「大丈夫。僕はそこそこ描ける。昔から、絵を描くのは好きなんだ」
 ジュンはさらさらと、水着の女性のイラストを描いた。プロほどではないが、顔つき、体のバランス、骨格や肉の描き方、構図や陰影が、素人が描いた絵にしてはうまい。
「これなら……行けるかもしれない」
「俺たちの出る幕は、無いのではないか?」
「問題はストーリーだよ。それが難しいんだ。三人寄れば文殊の知恵って言うじゃないか」
 文殊に失礼な気もしたが、納得した。リュウジが少し考え、口を開く。
「とりあえず、まずはキャラクターを考えてみよう。ジュン。思うように下着が見える構図で描いてみてくれ」
「わかった」と、ジュンがペンを走らせる。それを見ながら、俺は何気なく言った。
「ところで、女の人は、どんな下着を着けているんだ?」
 俺の言葉に、二人は黙った。そして静寂が流れた。
 俺たちはいきなり、壁にぶつかった。圧倒的な知識不足。事を起こそうにも、資料が無く、取っ掛かりが掴めない。性欲があっても、知識が無ければどうしようもない。
 ジュンは、とりあえず真っ白いものを描いたが、味気無かった。
「そう言えば、ジュンには姉君が居たよな?」
 リュウジが言った。確かにジュンには姉が居る。三つ年上で、今は大学一年のはずだ。何度か会ったことがある。ジュンより少し背が高く、吊り目で眼鏡を掛けた、凛とした美人だった。ジュンが子供の頃着ていた服は、その姉のお下がりである。
「例えば、そう、ジュンの姉君はどんな下着を着けていた?」
「何だったかな……」ジュンは腕組みした。「赤いのとか……それからレースの付いたものも、持っていた気が」
「レース? それは良い。それで行こう」
 リュウジが俄然、勢いづく。
「他には何か情報はあるか? 例えばスリーサイズとか」
「胸はCカップだって、前に言ってた」
「ふむ……妥当なところだ。他の二つは?」
「数字は知らないけど、体型は確かこんな感じだったかな」
 ジュンはさらさらと描く。リュウジの目が輝く。
「素晴らしい。体型はこれで決まりだ。完成に向けて前進しているぞ」
「……あれ? ……待てよ?」
 ジュンは呟き、ペンを止め、眉間に皺を寄せた。
「これ、モデルがうちの姉貴になってる気がするんだけど?」
「気のせいだ」リュウジが首を振る。「今やろうとしていることはフィクション。虚構と現実の区別がつかない人間は、冷笑されるべき存在だ」
 ジュンは「うーん」と首を傾げた。
「次はキャラの顔だ。髪は黒で、セミロング。目は少し吊り上がっている。それから、眼鏡を掛けていて、弟が一人」
「やっぱり姉貴じゃないか!」
 ジュンは怒鳴り、ペンを机に叩き付けた。そしてリュウジに詰め寄る。
「自分の姉貴がモデルのエロ本を楽しめるか! おい! クソリュウジ! 何でここにうちの姉貴が出て来るんだ!」
「すまない、ジュン。俺、実はジュンの姉君に惚れて」
「なに突然の告白しようとしてるんだ! それ以上言うな! 寝ぼけてんのか! だいたい、もし姉貴とリュウジが何かあったら、お前と友達でいられなくなる!」
「うむ。兄弟になるからな」
「ぶっ殺すぞてめえ!」
「落ち着け!」
 俺は慌てて間に入った。しかしジュンの怒りは収まらなかった。
「認めん! 僕は絶対に認めないぞ! 僕は降りる! 言い出したのは僕だけど、これじゃあ協力できない!」
 ジュンは部屋を出て行った。俺は溜息をついた。
「リュウジ。何であんなこと言ったんだよ」
「すまない。我を忘れていた。実は読みたいストーリーが思い浮かんでいたんだ。姉にいじめられる弟という話だ。そのことを考えていたら、ジュンの姉君しか出て来なかった。昔から、ジュンが羨ましいと思っていた」
 相変わらず、リュウジは「姉」という存在に、憧れを抱いているようだ。しかしリュウジの願望をぶつけられたジュンは、堪ったものではないだろう。
「とにかく、明日にでも謝っとけよ」
 ところが翌日、ジュンから連絡が入り、俺たちは再び集まった。
「僕も気付いた。姉貴以外の情報が無い」
 話し合いの結果、とにかく情報を得なければならないと決まった。
 こうして俺たちは、とりあえずパンツ(便宜上、パンツと呼ぶ)を見ようと決めたのだった。

 一週間ほど前、リュウジが言った。「浦橋さんのパンツを見よう」と。
 俺とジュンは反対だった。浦橋さんは美人ゆえ、普段から男子に注目されている。だから、男子の視線に敏感になっている。そう思ったのだ。「やるなら一人でやってくれ」と言った。
 しかしリュウジは作戦成功のために、入学以来、ずっと綿密な調査を行っていたのだという。浦橋さんの帰る時刻、通る道、行動パターンなどを調べ上げていた。調査の結果、浦橋さんは女子寮に住んでいるが、月曜日だけは道を外れ、本屋に立ち寄ることが判明した。そのとき、必ず歩道橋を使うとわかった。そこでリュウジは「浦橋さんが歩道橋を上るところを後ろから覗き見る」という作戦を立てた。変に凝っていないため、うまく行きそうな気がした。だから俺たちも計画に加担することにした。
 そして一昨日、実行した。部活帰りの浦橋さんを付けた。
 しかし、予定通りの場所で浦橋さんを見つけたとき、ジュンが早々に脱落した。近くに居た婦警さんに、何故男子制服を着ているのかを問いただされ、説明に時間が掛かっていたのだ。
 浦橋さんが、歩道橋を上り始めた。
 仕方なくジュン抜きで、後ろをつけた。そしてリュウジの顔が歪んだ。
 浦橋さんは、背中にテニスラケットを背負っていたのだ。そしてそれが、浦橋さんの背後を、しっかりとガードしている。
 もう無理だと思った。しかしリュウジは、諦め切れなかったらしい。
「こうなったら、前から攻める」リュウジは言い、向こうの横断歩道を渡った。降りるところを覗く方法に切り替えたらしい。
 それを見届けた後、何となく浦橋さんを見上げ、ぞっとした。
 浦橋さんが、こっちを見ていたのだ。
 目が合った。たちまち、浦橋さんの目が険しくなった。警戒感と不快感を露わにしている。
 思わず目を逸らした。しかし浦橋さんは階段を降り、ゆっくり近付く。俺は動けなかった。
「今スカートの中を見ようとしてたでしょ」
 彼女の声に抑揚は無かった。それがさらに俺を追い詰めた。頭が真っ白になった。
「そ、そんなことは」
 唇が震え、俺はしどろもどろになった。完全に不測の事態だった。
「菊間の奴が、ここのところ、ずっと付けていたことも、わかっているんだからね」
 リュウジの大馬鹿野郎。ばれてるじゃないか。
「これからもこんなことするなら、学校に報告するからね」
 結局その日、浦橋さんは歩道橋を使わなかった。

 リュウジの家で、反省会が行われた。俺はイライラしていた。パンツが見られなかっただけならまだしも、唯一俺だけが睨まれるという悲劇まで起こったからだ。
「何やってんだ! リュウジ!」俺はリュウジに詰め寄った。
「すまない。想定外だった。ラケットを持っていることは、当然織り込み済みだった。だが、いつもなら肩に掛けているんだ。それが今日に限って、背中にピッタリくっつけていたんだ。背中で俺たちを嘲笑うかのように」
「違う! 浦橋さんは、お前の尾行に気付いていたんだ! だからガードしていたんだ!」
「何だと……!」
 リュウジは膝を付いた。そして涙を流した。よっぽど本気で思っていたのだろう。その姿があまりに哀れで、俺の怒りは静まった。
 その後、みんな黙り込んでしまい、そのまま解散になった。
 翌日、再びリュウジの家に集合した。俺は言った。
「これからどうする? 浦橋さんは、もう無理だぞ。勘が鋭い」
「そう言えば、マサミチ。最近掴んだ情報なのだが」リュウジがおもむろに手帳を開く。「門倉さんは、洗濯物をベランダに干しているのか? しかも下着も」
「何?」ジュンも目の色を変える。「本当か、マサミチ?」
「門倉さん大好きのお前なら、その真偽を知っているだろう?」
 俺は言葉に詰まった。当然そのことは知っていた。
「その顔を見る限り、事実のようだな。では、今から早速確認しに行こう」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
「何かをするわけではない。ただ、雲を観察していたら、視界に入ってしまうだけだ」
「違う。そうじゃない」
「好きならなおさら、門倉さんのパンツを見たいと思うだろう?」
「思う。でもそれは違うんだ。確かに以前、門倉さん家のベランダに、下着を干してあるのを見つけた。でも俺は、見なかった。何だか見てはいけないものに感じたんだ。良いか、お前ら。好きな人の下着は聖骸布なんだ。むやみやたらに見て良いものではない」
「お前がうっかり見ようと、見まいと、門倉さんの心情に変化は無いぞ」
「何がどう繋がるか、わからないだろ! 蝶が羽ばたいて竜巻が起こるって話を知ってるか?」
「確かに門倉さんは、お前のことを嫌っていないようだ。これは認めよう。だが、言っておくがな、マサミチ。門倉さんは、ナチュラルでああいう人だ。お前の事を好きとは限らないぞ」
「それでも、俺のことを好きかもしれないって夢ぐらい、見ても構わないだろ!」
「仕方ない。ジュン。マサミチ抜きで行こう」リュウジは立ち上がった。
「駄目だ! 許さぬ!」俺はリュウジを羽交い絞めにした。
「ええい! 離せ!」
「落ち着け! 二人とも!」

 ジュンが間に入り、何とかその場は収まった。だが俺たちは今日、朝からずっとギクシャクしていた。あんなに大きいケンカは初めてだった。
 そもそもの発端は計画の失敗だった。浦橋さんのパンツが見れていれば、リュウジはあんなことを言い出さなかったはずだ。その失敗も、俺が睨まれたのも、全てリュウジの尾行の拙さにあった。それにあいつの変わり身の早さも鼻に付いた。
 この計画、認めるわけにはいかない。
 ただ、俺が拒否しても、あいつらは二人で行く。俺も見ていないのに、あいつらだけ情報を得る。それは気に入らない。
 二人は校門で待っている。俺は決めなければならなかった。共に行くのかどうかを。
「比嘉君」
 顔を向けた。いつの間にか、門倉さんが正面に座っている。
「何かあったの? 今日一日、菊間君と変な感じだったけど」
「ああ……ちょっとね」
「みんな仲良くしなくちゃ駄目だよ」
 門倉さんは、俺の顔を覗き込むように身を乗り出した。ブラウスの隙間から、胸元が見えた。思わず視線が行ってしまった。そしてささやかな主張をする胸が、目に入った。
「あ、もう行かなくちゃ」
 そして門倉さんは、俺の肩を叩き「じゃあね」と言って立ち上がった。
 俺は机に突っ伏した。
 リュウジにはああ言っておきながら、胸を見てしまった。あんなに優しい言葉を掛けてくれたのに、俺は下劣なことを考えていた。最低だ。しかし、どうしても気になるのだ。
 心はずっと、もやもやしている。リュウジの言う通り、見たところで彼女の心に変化は無いだろう。ならばもう、本能に従うべきなのだろうか。
 いや、駄目だ。今までずっと、耐えて来たじゃないか。その努力をふいにする気か。彼女とこうして仲良く話ができる。それで十分じゃないか。下着を見に行けば、明日から門倉さんに合わせる顔が無くなる。彼女がどんなパンツを穿いているかなんて気にしてはいけない。
 やはり今日の計画には反対しよう。たとえ二人が行っても、俺は自宅待機だ。
「リ、リツカ! スカート!」
 中崎さんが、ただならぬ声を上げた。「わっ」という門倉さんの声が聞こえ、俺は思わず顔を上げた。門倉さんは、スカートの裾を握っている。
「鞄で引っ掛けて、めくれたみたい」
 彼女は言った。どうやら鞄を持ったときに、誤ってスカートをめくり上げてしまったらしい。
 しかし俺は俯いていたため、見ることができなかった。千載一遇の大チャンスを逃した。
 そして思ってしまった。彼女はどんなパンツを穿いているのだろうと。
 俺は駄目な男だ。

 校門を出たところに、リュウジとジュンが居た。俺は二人を一瞥し、言った。
「行こうか」
 声に感情は無かった。
 空は茜色に染まり始め、西日が強かった。眩しさに、少し俯く。そのまま何気なく、後ろを見た。三つの黒い影が伸びている。空を見た。ビルの形に切り抜かれていた。
 ふと、昔のことを思い出した。
 中学の事件を契機に、俺の心は荒んでしまったが、あの頃から、俺は門倉さんに淡い恋心を抱くようになった。俺の心に残った、最後の輝きと言って良い。
 俺はこの気持ちを伝えず、ずっと心の内に留めている。
 恋愛が禁止されているわけではない。ただ、その主導権は女子が握っている。
 しかし門倉さんならば、そんなことを気にしないだろう。単純に、俺に度胸が無いだけだ。面と向かって、気持ちを打ち明けることができないのである。
 そこで思いを手紙にしたためてみた。翌朝に読み返すと、一体何を伝えたいのかわからない三流ポエムがそこにあり、何だこれはとその場で破棄した。落胆した。
 ならば誕生日にプレゼントでもしようかと思いたった。
 そこで、彼女の好みを探った。好きな食べ物、好きな曲、好きな雑誌、好きな芸能人などをそれとなく聞いた。学校帰りの彼女を観察し、よく出入りする店も調べた。休日には、私服や出先を調査した。部屋の電気の様子から、生活リズムも見えて来た。そうして彼女の私生活に立ち入り始めた一ヶ月目、自ら調査を打ち切った。俺は一体何をしてるんだと気付いたからだ。お店の双眼鏡が高くて買えなかったときに我に返った。何に使おうとしていたのだ、まったく。
 危なかった。絶望しても、まだ理性が残っていて良かった。
 しかしその理性も、限界を迎えた。あの瞬間、心のたがが外れてしまい、ついにある程度の解放を必要としたのだ。俺は今から、門倉さんの下着を見に行く。

 暫く歩き、目的の場所に着いた。門倉さんの家が見え始める。いよいよ邂逅のときが迫る。
 ふと気付いた。家の前に白いものが落ちている。何だろうと思って拾い上げ、言葉を失った。
 それは下着だった。ちっちゃなリボンが付いた、女性のパンツだった。何だこれは? 何故こんなところに落ちている?
 辺りを見回す。そして門倉さんの家を見上げ、わかった。彼女の部屋のベランダに、洗濯物が干してある。あそこから飛んだのは一目瞭然だった。
 リュウジが搾り出すような声で言った。
「こ、この布が……門倉さんの大事な部分を覆って」
「そういうことを言うな!」
 と怒鳴りながら、俺もこの下着を凝視していた。たった一枚の布切れが、俺たちを虜にした。
 手が震えた。門倉さんのパンツ見るどころか、触ってしまっているのだ。どうして良いのかわからず、その場で動けなくなった。
 そのとき、ふっと寒気がし、全身の毛が逆立った。思わず周囲に目を向ける。
「どうした?」リュウジが訊く。
「いや、誰かに見られている気がして」
 リュウジとジュンも、首を回す。しかし誰の気配も無い。
「気のせいじゃない?」ジュンが首を傾げる。
「だと思うけど」
 確かに後ろめたいときは、強迫観念に囚われやすい。だが不意に怖くなった。視線に対する敏感さ。それは門倉さんを調査していたときに培われた感覚かもしれない。
 そして頭はパニックを起こした。考える余裕は無くなった。居ても立っても居られない。
 俺はパンツを門倉さん家の敷地の中に投げ込み、逃げた。
「おい! マサミチ!」
 後ろでリュウジの声が聞こえたが、俺は足を止めなかった。

 気が付いたら、俺は自分の家の前に居た。そしてがっくり膝を付いた。
 どうするのが正解だったんだ。これはラッキーと持って帰るべきだったのか? だがそんなことは、俺の良心が許さない。後悔するだけだ。怖いのは、犯罪に手を染めることではない。門倉さんが後で「下着が無い」と肩を落とすことだ。だからこれで良い。
 しかしそうなのか? 持って帰ったとしも、ばれはしないだろう。俺たちの目的を達成するために、必要だったんじゃないのか?
 何より酷いのは、二人を置いて逃げたことだ。いくら混乱していたとは言え、最低の行為だ。
「俺は意気地無しなのか」
「そんなことは無い」
 声がして肩を叩かれた。振り返ると、後ろにリュウジが居た。
「あの場では、あれ以外の方法がなかった。誰も困らない方法だ。投げ入れたのは好判断だ」
 俺はリュウジに抱き付いた。

「今日は半分成功という結果に終わった。しかし先は長い。俺たちの戦いはまだ続く。今日のことは糧として、明日からの行動に生かそうではないか」
 部屋に入るなり、リュウジが高らかに言った。
「俺たちの思いはマイナスに働いている。しかしマイナスとマイナスの掛け算はプラスになることを思い出してくれ。力を合わせれば、きっと良いことがある。俺たちには希望がある」
 なるほど、良い言葉だと思った。良い言葉だと思ったが、俺は言った。
「しかし一番の希望というのは、やはり」
 全員が黙った。言うまでも無い。仲の良い女子ができることだ。
 口で何と言おうと、根本的な命題はそれだ。エロ本は、応急処置に過ぎない。
「なあ、リュウジ。もしもだけど、この中の誰かに恋人ができたら、そのときはどうする?」
「もしもの話は、するものではない。おそらく今ここで決めても、実際の場面では、違う行動をとるだろう。しかし逐一、報告は受けたい」
「ジュンは?」
「邪魔はしない。祝福もしないけど。でも漫画を作る計画は成功させたい」
 確かに今は、目の前の現実を見るべきだろう。
「それでマサミチ」リュウジが右手を差し出す。「昨日は悪かった。お前の気持ちも考えないで」
 少し驚いたが、俺はその手を握った。
「俺の方こそ、すまない。わがままを押し通そうとした。結局はお前と同じ道を選んだのにな。きっと俺たちは、運命共同体なんだろう」
 そして今日は解散となった。明日のための教訓を得た、有意義な日だった。
 しかし俺たちに、明日は見えない。

 二人が帰ろうとしたときだ。ポストに俺宛の封筒が届いていることに気付いた。差出人は、書かれていない。
 とりあえず、開けてみる。女性の字だった。
『比嘉マサミチ様へ。あなたを知ったあの日から、ずっとあなたに思いを寄せておりました。今日、あなたにこの気持ちを伝えようと決心しました。かすみ公園で待っています』
 これはまさか……恋文!
 あまりのことに、声が出ない。生まれて初めてのことだ。二人も目を丸くしていた。
「マサミチに懸想をする人が居るなんて、信じられない。とんでもない好事家だ」
「こいつはただの変態ストーカーでしょ? 知らぬが仏ってやつだね」
「失礼だな、お前ら。俺の魅力に気付いた人が居たんだ」
 俺は手紙を丁寧に畳み、ポケットに入れた。
「すまない。俺はこのプロジェクトから離脱するかもしれない」
「運命共同体の話はどうした。さっき言ってたことと違うではないか」
「僕たちも、この顛末は見に行かなきゃなんないね」
 俺たちは公園に向かった。道すがら、どうすべきか考えた。
 この気持ちは嬉しい。しかし申し訳ない。俺の心には、門倉さんという人が居るのだ。

 公園のベンチに、うちの高校の制服を着た女子が座っていた。他には誰も居ない。あの人が差出人だろうか。初めて会う人だ。胸に二年のバッジを付けている。髪をヘアバンドで留めている。少し目尻が下がっていて、優しそうな顔立ちだ。可愛いと美人の中間ぐらいだ。
 彼女は俺たちを見つけると、立ち上がり一礼した。そしてこっちに歩いて来る。
「そんな馬鹿な……」リュウジが呟いた。
「もっと幕下力士みたいな人が居て、笑顔で安心して帰れると思ったのに……」
 ジュンも、この現実が信じられないという表情だ。もはや悪態もつけない。
 そんな二人を尻目に、俺は一度咳払いをし、極めて紳士的に言った。
「この手紙をくれたのは、あなたでしょうか」
 彼女は「はい」と頷いた。
「私、あなたのことを、ずっと見ていました」
 彼女はにっこり微笑んだ。ドキドキした。年上のお姉さん。甘美な響きだ。つい心が動いてしまう。この瞬間の幸福に、身を委ねてしまいたくなる。どうしよう……。
「それで……あなたにこれを見て欲しいんです」
 そう言うと、彼女は鞄から何か取り出した。デジタルカメラだった。彼女はボタンを押し、俺たちに差し出した。
 どこか見覚えのある光景だった。男が白い布を広げ、後ろから二人の男が興味深そうに覗き込んでいる。
 どう見ても、門倉さんの家の前でパンツを広げて凝視している俺たちだった。
「素敵な写真ですね。みなさん、良い顔をしています」
 先輩は微笑んだ。俺たちは唖然とした。状況が理解できないまま、呆然と写真を見つめた。昂ぶっていた気持ちが、一気に冷める。瞬きすら忘れた。
「聞くところによると、あなた方は中学時代、女子更衣室に忍び込んだ経験がありますよね? だからずっと見ていたんです。何かやると思っていましたから」
「あなたは……一体……?」
「自己紹介がまだでした。私は二年の園村(そのむら)フユカ。新聞部員です。主に男子のスキャンダルを取材しております。以後、お見知り置きを」
 そのとき僕は、自分の体が闇の中に堕ちて行く、そんな錯覚に陥ったのでありました。