3  地獄の使者


 先輩は優しそうな表情を変えなかった。
「何かを問題を起こしそうな男子を、徹底的にチェックする。何かあれば、速やかに記事にし排除する。それが私の仕事です。それで、みなさんのことを調べていたんですが……」
 再び写真を、見せ付けた。
「まさかこんな場面に出くわすなんて」
 言葉が出て来なかった。あのとき人の視線を感じたのは、間違いじゃなかった。こんな人が居るとは思わなかった。この分では、一体どこまで知られているかわからない。下手なことは言えない。
 しかし一つだけはっきりしている。それはこの先輩が、俺たちを脅すつもりだということだ。先輩ははさっき、何かあれば速やかに排除すると言った。ならば今ここでこうしていることと矛盾する。写真に収めたことを教える意味は無い。これは脅迫以外の何物でもない。
「何が……目的なんです?」
 俺はゆっくり口を開いた。園村先輩は、顔を綻ばせた。
「実は私、ある人を追っているんです。ですが私一人では限界があるので。自由に使える駒が欲しかったんです」
「誰です?」
「伝説の絵師」
 俺たちは顔を見合わせた。
「その顔……やはりみなさんご存知なんですね?」
「い、いえ、名前しか知りません。噂で聞いた程度で」俺は首を振った。
「嘘はよくありませんよ」
「嘘じゃありません! 本当に知らないんです!」
 園村先輩は、ジュンを見た。ジュンの体が、ビクッと反応した。
「そちらの飯沼君。漫画を描いていらっしゃいますよね? 時々、画材を買っていますから。どんな漫画です?」
 それも知られているのか……! ジュンの目が泳ぐ。
「ふ、普通の漫画ですよ。剣と魔法が出て来るファンタジー」
 先輩は、首を傾げる。
「このような行為をしている方が、健全な漫画を描いているとは、思えないんですが」
「ほ、本当に、普通の漫画です」ジュンの声は震えている。
「そうですか。まあ、それならそれでも良いです。で、協力してくれますか?」
 俺たちは言葉に詰まった。
「じゃあ、これ、公表しちゃいましょうか?」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「協力しないと、もっと酷い目にあわせますよ?」
「それは無理ですよ」リュウジが口を挟んだ。「あの下着は、ちゃんと返したんです。これは、あくまで拾った瞬間の写真。物が本人の手元にある以上、この写真に強制力は無いはずです」
「うふふ。いくらでもやりようはあります。ペンは剣より強いんですよ」
 誰も、何も言えなかった。
「決められませんか。そうですか。では一つだけ、覚えておいてください」
 先輩は俺たち一人一人の顔を見て、にっこり微笑んだ。
「私を敵に回すと、怖いですよ」

 その後、三人で緊急会議をした。そして愕然とした。唯一の助かる術を逃したことに気付いたからだ。あの場で先輩のカメラを奪い、データを消してしまえば良かったんだ。
 しかし呆然としていた俺たちは、そこに考えが及ばなかった。これからどうなるんだ……。
 リュウジの言ったことは正しい。しかしあの先輩の態度を見る限り、初めての脅迫とは思えない。慣れ過ぎている。きっと何度も経験があるのだ。先輩に従わなければ、きっと信憑性のある嘘八百が並べられた記事を書かれる。とにかくあの写真が強烈だ。圧倒的に不利だ。あんな写真を公表されたら、女性関係はそれこそ絶望的だ。先輩の言いなりになるしかないのか。
 しかし一度でも先輩に従えば、その要求はエスカレートしていくだろう。
 伝説の絵師だけでない。それと同じような活動をしている人。彼らを捕まえるために手伝えと言われる。それは全ての男子を敵に回して、スパイになれということだ。もし不測の事態になれば、簡単にトカゲの尻尾にされるだろう。そして男子からも女子からも非難される。
 どっちを選んでも最悪。八方ふさがりだった。
 先輩の態度から察するに、すぐに俺たちを排除はしないだろう。しかし、これから先、何をされるか見当も付かない。
 この事態に陥って一つ気付いた。マイナスとマイナスの掛け算はプラスになる。この言葉に心動かされた。しかし、俺たちは忘れていたのだ。
 マイナスとマイナスを足したら、もっとマイナスになると言うことを。
 その夜は、食事が喉を通らなかった。部屋で頭を抱えていた。全く眠れなかった。

 いつしか朝になっていた。何も考え付かなかった。重い気持ちで身支度を始めた。
 リビングのテレビから、朝の報道番組が流れていた。アナウンサーが映っている。
「今日から五月となりました。全国的に五月晴れとなり、気温が上がる模様です」
 晴れやかな顔をしていた。しかし俺の心は曇天だった。
 そしてニュースが流れる。かつて流通していた猥褻本を、ネットでこっそり売っていた男が摘発されたとのことだった。コメンテーターの女性が言った。
「男性の性欲は、社会の害悪です。男子制限法は、もっと徹底させるべきです」
 その意見を、誰も否定しない。司会者もアナウンサーも頷くばかりだ。有識者は「健全で、道徳的な社会の実現のため」などと宣い、法を正当化する。園村先輩のような人が現れる所以だろう。しかし、あまりに女性目線だ。男子の肩身は狭い。居場所が無い。
「我々は、男子としての尊厳を獲得しなければならないのだ!」
 かつてリュウジは、こんなことを高らかに言った。しかし俺たちの選んだ現実は、それとは真逆、欲求の解放だった。尊厳の獲得と欲求の解放は対角だ。俺たちの至った結論が、エロ本を描くというものであるということを考えても明らかだ。エロ本に尊厳を見出すのは難しい。
 男と女は、永遠にわかり合えないものだと思う。もどかしくとも、結局は女性に合わせる。物分りの良い顔をして性欲を放棄する。これが世を生き抜く秘訣かもしれない。しかしそれは辛い。だから俺たちは尊厳の獲得より、欲求の解放を優先した。
 しかしその結果、俺たちは窮地に立たされている。
 駅に着いた。リュウジたちと合流する。そして陰鬱な空気が流れた。天気予報の通り、空は五月晴れだ。だがみんなの顔は晴れない。寝不足の顔をしている。
 学校に行きたくない。しかしサボるわけにはいかない。疑われる要素を増やすだけだ。何もやましい点など無い、という顔をしなければならない。
 改札を通り、男たちはホーム後方に並ぶ。電車の後方が男性専用車両になっているからだ。
 電車が到着して、ドアが開いた。そのとき、
「違うんだ!」
 叫び声が上がった。全員が一斉に目を向ける。学生服の男が、女性数人に腕を掴まれている。彼は必死で首を振り、声を荒げた。
「急いでいたから、間違っただけなんだ!」
 事情を察した。女性はどこに乗っても良いが、男性は男性専用車両にしか乗ってはいけない。他の車両に乗ろうものなら即逮捕だ。哀れな彼は、うっかり違う車両に乗ってしまったのだ。痴漢対策らしいが、明らかに男子制限法による弊害だ。罪人が一人、無駄に増えてしまった。
 朝からこんな場面に出くわすとは……。ますます憂鬱になった。
「おらぁ! きびきび歩け!」
 女性の怒号が飛ぶ。聞き覚えのある声だった。間違いない。中崎さんだ。
「間違って乗ったぐらいで、あんな騒がなくても良いのにね。たいした場所じゃないんだから」
 ジュンが呟いた。その言葉には、説得力があった。何故ならジュンは、かつて姉の服を借り、女装して女性車両に乗った経験があるからだ。顔に似合わず勇敢な男だとしみじみ思った。
 その後、俺たちは興味津々で話を訊いたが、ジュンは仏頂面で言った。
「学校での様子と、ほとんど変わらない。化粧品臭いだけの車両だよ。だから面白くなかった」
 それ以来、彼は一度も乗っていない。
 だから今捕まっている彼も、たいした経験はしていないはずだ。特別なものを見たわけでもなく、まして何かしたわけでもないだろう。
 しかし結局、彼の訴えは聞き入れられなかった。素早く女性駅員がやって来て、彼は駅員室に連れて行かれた。そしてその場の男たちは、哀感の溜息をついた。
 男子制限法が、強い女尊男卑を内包しているのは明白だ。あの法律は無くすべきだ。
「おはよう!」
 不意に声を掛けられた。見ると一人の女子が、微笑んでいる。
「かかか門倉さん!」
「どうかした?」
「い、いや、別に」
 後ろめたい気持ちになった。やはり行くべきではなかった。しかし、下着をちゃんと返しておいたのは正解だった。持って帰っていたら、もう二度と彼女に顔向けできなかった。
「別に良いと思うんだけどな。間違って乗っちゃうことって、あり得ると思うし」
「う、うん。そうだね」
「あんな法律無くなって、男とか女とか関係なく、みんな仲良くできれば良いのにね」
 なんと素晴らしいことを言ってくれるのだろうか。
「おい、リツカ」中崎さんが呼ぶ。「もう行くぞ。学校、遅れる」
 門倉さんは「わかった」と言って、俺たちに振り返った。
「じゃあね、三人とも。後で学校でね」
 門倉さんは、俺たちの肩をポンポンと一回ずつ叩き、手を振りながら中崎さんに駆け寄った。
「何やってんだよ。あんなのに触ると、バイ菌が付く」
「そんなことないよ」
「リツカはお人好し過ぎるよ。あんな奴らと一緒に居ると、こっちも不愉快になる」
 そして二人は、車両に乗った。俺たちも、電車に乗り込んだ。
 流れる景色を見ながら、俺は肩を落とした。中崎さんの言葉が、心に染みていた。
 俺たちはバイ菌だ。
 俺たちは昨日、門倉さんのパンツに触れ、じっくりと眺めた。しかも理由は、いかがわしい漫画を描くためだ。門倉さんはそんなこと、微塵も思っていないだろう。彼女が笑い掛けてくれると、その優しさに付け込んでいるようで、罪悪感を覚えた。
 開き直れたら、楽だと思う。しかし無理だった。俺はリュウジに訊いた。
「漫画のこと、もし見つかったら、どうなるんだろうな」
「厳罰だろう。生徒会からのお知らせを見る限り」
「退学まであると思うか?」
「さあな。想像ができない。その前に、園村先輩だ」
 どうするか、何も思いつかないうちに、電車は駅に着いた。

 今日も校門では、風紀委員と矯正委員が指導を行っていた。勿論全員、女子である。
 女子は談笑しながら、昇降口へ向かう。一方の男子は、たとえやましいところが無くとも、背筋を伸ばし、整然と歩く。俺たちも目立たないよう、集団に紛れて歩く。
 昇降口前に、強いオーラを放つ、長身で美人の先生が居た。柏葉(かしわば)チヒロ先生だ。英語の先生であり、矯正委員を統べる怖い先生でもある。さらに恐ろしいことに、我々の担任なのである。
 入学式のことだ。エロ本を描こうと決めたものの、何も取っ掛かりが無かった。しかも同じクラスに中崎さんが居る。終わったと思った。希望に満ち溢れていなかった。
 しかしそこに、美人の女教師が現れたではないか!
「このクラスの担任になる柏葉チヒロだ」
 先生は特徴的な鋭い視線で、教室を見渡した。
 だがそれ以上に特徴的なのは、胸だ。胸囲だ。おっぱいだ。とっても大きいのだ。目測だが、一メートルを超えているのではないか。思わず目が行く。見たいかどうかではない。こういうおっぱいは、考えるより先に見てしまうのだ。街で芸能人を見つけたときと同じだ。
 心は舞い上がった。それは俺だけではなかった。リュウジが興奮して言った。
「せ、先生、質問してもよろしいですか?」
「何だ?」
「肩は凝りますか?」
「くだらないことを訊くんじゃない!」
 先生は机を蹴り飛ばした。彼は机ごと吹っ飛んだ。そして起き上がることは無かった。
 デリカシーのない質問をしたリュウジに非があるだろうが、それでも彼が意識を飛ばして、入学式を保健室で迎えることになったのは、流石に可哀相だと思った。
 それ以来、誰も見ようとはしない。見ようとすれば、問答無用で殴られる。生殺しの拷問だ。
 先生が教壇に立つとき、男子は俯いたままだ。だが先生は「人の話を聞くときは顔を上げろ」と言う。男子は一体どこを見て良いのかわからないまま、意馬心猿の日々を送っている。
 俺は先生の顔色を、それとなく窺った。今日も目を光らせている。そして今日も、おっぱいは大きい。本来ならば、少しくらい外に出してしかるべきサイズだ。
 しかし柏葉先生は、一番上まで、しっかりブラウスのボタンを閉じている。柏葉先生は女尊男卑関係なく、規律の乱れそのものを許さない。だからそのように風紀を乱す恰好はしない。しかしボタンは悲鳴を上げている。
「おい、比嘉」
 突然、先生が顔を向けた。一瞬、目が合った。心臓が激しく鼓動する。慌てて視線を逸らす。
 しかし手遅れだった。
「お前、今、どこを見ていた?」
「せ、先生が今日もお綺麗だと思って、見とれていたんです」
「それだけか?」
「それだけです」
「見え透いた嘘を言うな!」
先生は顔を掴んだ。
「お前のような奴が社会を駄目にするんだ!」
 そして先生は、腕に力を込めた。親指と中指が、こめかみにめり込む。意識が遠のく。徐々に視界が霞み、目の前が暗くなって行った。見るんじゃなかったと後悔した。
 そのとき先生の後ろから、ぬっと二本の腕が伸びて来るのがぼんやりと見えた。それは先生の胸を掴んだ。
「まあまあ……そうカリカリしなさんな」
 風邪を引いているような、女性の低いしゃがれ声が聞こえた。そして先生の肩の向こうから、背後霊のように、黒い物体が現れた。
「ちょっと! レイ……じゃなくて御厨(みくりや)先生!」
 柏葉先生は怒鳴り、手を離した。「助かった」と思った。
 後ろから現れたのは、御厨レイ先生だ。生物の先生であり、その風体は異様だ。
 黒く長い髪が、顔の大部分を覆っている。呼吸するためか、鼻と口だけが見えている。髪の先端は腰まであるが、着ている服も黒いため、同化している。スカートの丈は、足首近くまである。顔の一部と手首から先以外の部分が、全て黒い何かで覆われている。死神のようだ。
 長身で痩せ型。スタイルが良いと言えるが、痩せているのは不健康の証のようにも見える。
「へへ……相変わらず……でかい胸だね……トップとアンダーの差が……三十くらいかい?」
 御厨先生は掠れた声でぼそぼそとしゃべり、首を傾けた。ニヤニヤ笑う口元が露わになった。奇妙に血色の良い唇が、赤々としている。僅かに白い歯が見える。
「全く……昔っから……けしからん胸だ」
「大きなお世話だ」
 二人は高校の同期らしい。柏葉先生にこの態度が取れるのは、御厨先生だけだ。
「イライラするのは……肩が凝ってるからじゃない? こんだけ重いの……ぶら下げてりゃあねぇ……へへへ……マッサージしてやろうか? ……おっと……この辺に胸の先端が」
 柏葉先生は、御厨先生の腕を払った。そして俺を軽く睨んだ。
「もう良い! 早く教室に行け!」
 俺たちは逃げるように、校舎へ飛び込んだ。
 俺たちが離れた後、御厨先生は、行き交う男子から「おはようございます」と元気な挨拶をされていた。実は、御厨先生の信奉者である男子は多い。何故なら先生は、生物学の中でも、性について造詣が深いからだ。最初の授業からすごかった。先生は教室に入るなり、
「この世に何で……男と女が居るか……わかるかい?」
 と、唐突に質問した。何か哲学的なことかと高尚に思い巡らせていると、先生は、ニヤニヤしながら躊躇わず言った。
「交尾のためさ」
 教室内が、ざわついた。しかし先生は、そんなことを意に介さず続ける。
「世の中にはね……メスが求愛行動として……オスの目の前で……オシッコをする動物も……居るんだよ……へへ……人間にも……同じ性質があれば……面白いのにねえ……うへへへへ」
 最初から全力疾走の人だった。
 先生は、人前では憚られるような性についての言動を平気で取り、否定もしない。おそらく先生は、学問として真摯に向き合っているのだろう。しかしそれが、男子の良き理解者に思え、求心力になる。何より柏葉先生の胸を揉む姿が、皆を魅了したのである。
「世の中、意外とバランスは取れているのかもな」
 靴を履き替え、リュウジが呟く。俺は「そうだな」と答えながら下駄箱を開け、固まった。
「どうした?」二人も覗き込み、首を傾げた。
 リボンが結ばれた、ピンクの謎の袋が届いていたのである。
 事情がわからなかった。今日は誕生日でもなければ、何かの記念日でもない。
 そして、嫌な予感がした。昨日の出来事があったからだ。あの先輩が、何か仕組んでいるのかもしれない。例えば、昨日の写真を、プリントして入れたとか……。
 恐る恐るリボンを解き、袋を開けた。中にはハンカチのような布が入っている。俺はそれを取り出した。ハンカチにしては、少し柔らかいように思える。ちっちゃなリボンがついている。そして広げて、俺は狼狽した。腰が抜け、その場にへたりこんだ。
 間違いない。中に入っていたのは、昨日手放したはずの、門倉さんのパンツだった。
 ……。
「おい……それって」ジュンが声を震わせ、俺は我に返った。混乱した頭を何とか働かせた。
 誰がこんなことしたのか。言うまでも無い。あの悪魔のような先輩だ。目的は脅迫だろう。
 先輩の仕掛けは、俺の想像を遥かに超えていた。こんなことをするなんて……。
 そのとき、予鈴が鳴った。先生や風紀委員が戻って来る。
 俺は慌てて、それをポケットに押し込んだ。
 こうして俺は、爆弾を抱えたまま、一日を過ごすことを余儀なくされた。

 それからは大変だった。好きな女性の下着が手の届く場所にあるのだ。
 頭の中は、パンツで一杯だった。何とか頭を切り替えようとした。考えるな。しかし頭から離れなかった。こんなものを渡されて、どうしたら良いんだ……。
 不安と恐怖が募る。しかしそれ以上に、俺の心を揺さぶった感情があった。
 見たかったのだ。そして十分な観察の次は、匂いを嗅いでみたいと思……いかん! それをしてはいけない! 俺はあの人物の策略により、彼女の下着を受け取ってしまっただけなのだ。この下着を使って欲求を満たそうとすれば、俺は犯罪者と変わらない。それをしてしまえば、もう人として引き返せなくなる。理性というブレーキがまだ働いている。俺は人間だ。
 考えるな……触れるな……ここにあるのは、何気ない日常なのだ……。
 ようやく一時間目の授業が終わる。大きく息を吐いた。二時間にも三時間にも感じられた。
「どうかしたの?」
 不意に声を掛けられ、うろたえた。門倉さんだ。
「顔色悪いけど、具合でも悪いの?」
 彼女は心配そうに俺を見つめている。その目を正視できなかった。何と答えて良いかわからない。しかし何とか自分を保ち、首を振った。
「な、何でもないよ」
「そう? なら良いんだけど」
 そしていつもと同じ、屈託のない笑みを浮かべた。とても昨日、パンツを失くしたようには見えない。でも本心は辛いはずだ。だからその笑顔が、無理に作っているように見えて、俺をさらに締め付けた。
「ちょっとトイレに」
 逃げるようにトイレに駆け込む。心の苦しみを吹き飛ばそうと、顔を平手打ちした。そして冷たい水で顔を洗った。火照った顔が冷え、少しすっきりした。脳も冷静さを取り戻す。
 蛇口から流れる水を眺め、考えた。これからどうすべきか。隠し通せるか。しかし、持っていたくない。それなら思い切って、捨ててしまおうか。しかし、誰にも見られないでできるか。それに、このパンツが見つかったとき、恥をかくのは門倉さんだ。それは申し訳ない。
 一体何が正解なんだ……。
 考えがまとまらないまま、ポケットからハンカチを取り出し、顔を拭いた。
 そのとき違和感があった。手の中にある布を見て絶句した。パンツだった。
 思わず壁を殴った。
 俺は何をやっているんだ! 何てもので顔を拭いているんだ!
 鏡に映る自分の姿が目に入った。パンツを握り締めているそれは、ただの変質者だった。
 怒りが込み上げて来た。同時に恐ろしくなった。あの場には三人居たにもかかわらず、俺の下駄箱に入れたのは、俺が門倉さんを気に掛けていることを知っているからに違いない。もしあの過ちまで知られていたら、俺はもう生きて行けない。
 そのとき、人が来る気配……俺は慌てて下着を畳み、ポケットに突っ込んだ。
 動悸がし、汗も流れたが、俺は何事も無かったかのように、トイレを出た。

 昼休みに新聞部の部室の近くで園村先輩を見つけ、詰め寄った。
「何てことをするんですか!」
「何のことですか?」
「とぼけないでください! 俺の下駄箱に、とんでもないものを入れたでしょう!」
 俺は息巻いた。先輩は「とんでもないもの?」と首を傾げ、そして視線を落とした。
「あら? そのポケットの膨らみは何です?」
 そう言うと先輩は、手品師のような手捌きで、俺のポケットから、例のそれを抜き出した。
「まあ! 下着ではありませんか! さては昨日、実は盗んでいたんですね。その上、学校にまで持って来るなんて、何を考えていらっしゃるんです?」
「何を言ってるんですか! 盗んでなんかいない! あの場に置いて来たんだ! 盗んだのはあなたでしょう!」
「あら、人聞きの悪い」
「とにかく、それは返してください!」
「返せ? あなたのものなんですか?」
 言葉に詰まった。園村先輩は、愉快そうにニコニコしている。そして「まあ、良いですけど」と言って、再び俺の手に握らせた。
「ところで、これどうするんです? これを持っていると、きっと今日までの命ですよ?」
「原因を作ったくせに、嫌なことを言いますね」
「昨日の話ですが、もし協力してくれるなら、助けて差し上げますよ?」
「あなたになんか、協力できるか!」
 はっとした。勢い、怒鳴ってしまった。しかし園村先輩は、笑っていた。
「明日、生きていると良いですね」

 六時間目終了の鐘が鳴る。御厨先生が「時間か……」と呟いた。
「次回は……受精卵の……細胞分裂と……発生についてやるからね……受精卵……受精卵……受精……ククククク」
 御厨先生が教室を出て行き、ほっと息を吐いた。
 とりあえず、これでひとまず解放される。園村先輩には「今日までの命」と脅されていたが、見つからなければ問題ない。あと十数分のホームルームを乗り切れば勝ちだ。残ったしがらみは山積みだが、これから考えれば良い。
 心が落ち着き始めた。ふっとリュウジとジュンを見ると、彼らも俺を見ていた。顔には安堵の色を浮かべている。そっと頷き、ささやかな笑顔を返した。
 みんなが帰り支度を始める。俺も何食わぬ顔で支度をする。
 柏葉先生が教室に入って来た。ホームルームが始まる。教室を見渡し、先生は言った。
「これから持ち物検査をする」

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