化物として生まれてきてよかった事と言えば、身体能力がずば抜けている事だ。
 全力で走ればまず誰も追い付けないし、普通の人間と獣堕ちがまともに殴り合えば、人間は死んで俺は無傷という結果になるだろう。荒事には便利な体だ。
 おかげで、どうやら魔女からも逃げ切れた。
 逃げて走って駆け抜けて、俺は森を抜けて草の剥げた小道に転がり出た。肩で息をしながら木の陰に身を潜め、今しがた駆けて来た森に目を凝らす。森はすでに闇に閉ざされていたが、誰かが追ってくる気配はない。それでもしばらく息を殺して様子を窺い、完全に安全が確認できてから、俺はようやく安堵の息をついてその場にずるずると座り込んだ。
 まったく――とんだ災難だった。俺は最後にもう一度周囲の完全を確認してから、夜の迫る薄闇の中で野宿の準備に取り掛かった。
 
 たとえそれが絶世の美女だろうと、魔女といったら世界の悪で、何より俺の天敵だ。あれにだったら殺されてもいいかと思わせるほどの美女ではあったが、俺は下半身の欲望より命が惜しい。どうせ、獣堕ちが死んだところで誰も哀れんでなどくれないのだ。せめて自分くらいは自分の命を惜しんでやらねば、生まれたこの身の哀れってもんだ。
 獣堕ちは世の中から嫌われている。見た目が不気味というのがもちろん第一の理由だが、獣堕ちの大半が傭兵か盗賊になるわけで、つまり基本的には人殺しだ。俺が人の親なら、子供が獣堕ちに近づく事を全力で禁止する。町に入れるな、店に入れるな、視界に入れるな――だ。究極的に言ってしまえば、世界のどこを探しても、獣堕ちに味方はいない。
 傭兵としては恵まれているから食うには困らないが、望む望まないに関わらず、命のやり取りを強要されるというのは、なかなかどうして結構辛いものがある。
 俺としてはどこかに小さな酒場でも開いて、かわいい女房をもらって、そんでのんびり死んでいきたいんだが……。あいにく、世の中がそれを許してはくれなかった。
「このみてくれじゃぁな……」
 溜息をついて、俺は剛毛に覆われた自分の手を見下ろした。
 獣堕ちのほとんどは大型肉食獣の姿をしている。熊や狼の獣堕ちが多いが、俺の場合は元になった獣が何なのか分からない。恐らく猫科の何かだろうが、猫にしてはどう考えても凶悪過ぎる。毛色は白地に薄い黒の縞模様。と言っても、だいぶ白が勝っているので完全な縞模様とも断言しにくい微妙な模様だ。個人的にはそこそこ気に入っているが、夜には目立つので黒いマントを愛用している。
「ま、何の模様もないよりは芸があるしな」
 努めて陽気に呟いて、俺は苦笑いした。
 今でこそ達観しているが、十代の半ばには自分で自分の皮を剥いで血塗れになる程度には思い詰めたのだ。思い詰めたが、結局痛くて諦めた。――村を出た直後の事だ。誰もいない山の中、血塗れで一人きりで、それでも俺は死にもせず、それこそ動物みたいに鳥やネズミを食って生きていた。――それで、達観できたのかもしれない。
 どうせ俺は化物で、誰かに惜しまれながら死ぬなんて事はあり得ない。だったらせめて生きてやろうと心に決めた。
 それから十年以上が経って、当時の傷もすっかり消えた。あれほど強く俺を苦しめた孤独感さえ、今では思い出すのにも苦労するほど薄れて――。いや、鈍っている。
 なんにせよ、一人でいるのは気が楽だった。それに、世の中に一人くらいは物好きな女がいて、俺を愛してくれるかもしれない。なんて、淡い期待もないではない。獣堕ちの相手をさせられるのは、娼婦も嫌がるという話を聞けば、無理だろうと思いはするが――。
「せめてもうちょっと可愛げのある獣に堕ちりゃあよかったんだがな……」
 たとえばそうだな……兎とか。そんな獣堕ちがあるかどうかは知らないが、ともかく俺みたいな、いかにも肉食獣でございますというような獣堕ちよりは扱いもマシだろう。
 言っても仕方がない事を言いながら、俺は晩飯のスープをぐるりとかき混ぜた。
 具にしようと思って仕留めておいた兎は追い剥ぎ魔女から逃げる時に放り出してしまったので、中身はその辺りに生えていた香草と非常用の干し肉だ。そこに塩をいくらか振り、革にくるんで鞄に押し込んでおいた動物の脂を削って入れる。味を一口確認し、塩を一振り追加した。まあ、こんなもんだろう。あとは少し煮込んで味が馴染めば食べ頃だ。その間に――と、俺は鞄を漁ってコンパスと地図を取り出して膝の上に広げた。
 
 ――ウェニアス王国地図 改訂版
 商人はフォーミカムの大市へ。世界各国の珍しい品がそろいます。
 王都プラスタでは、毎週女神の祭日に芸人が広場で芸を披露!
 名物:エブルボア(王国固有種の超大型猪)の丸焼き。肉汁たっぷりの柔らかい肉質です。
 注意! 森に野生のエブルボアが生息。狩猟禁止。遠回りでも必ず街道を移動する事。
 
 最後に書かれている一文に、俺は顔を顰めた。
「別に好きで森を突っ切ったんじゃねえから、許せよな」
 誰に対するでもない言い訳を呟きながら、追い剥ぎ魔女に襲撃された地点と星の位置から、自分の現在地を推測する。
 ここ――つまりウェニアス王国は大陸のほぼ中心に位置する国であり、旅の中継地点として栄えていた。昔は山脈に囲まれた陸の孤島状態だったらしいが、山に穴をぶち開ける突貫工事で隣国との交通を確保し、大量の旅行者や旅の商人の呼び込みに成功したのだ。
 今まで迂回しなければならなかった山を突っ切れるのだから、多少入国料が高くても旅人は率先してこの国を通る。当然、入国するときは山をくりぬいて作った坑道を通るのだが、その巨大さは想像以上で、途中に旅人が休める宿が軒を連ねているほどだった。真っ暗な坑道のあちこちに、色とりどりのランプに照らされた露天や宿が浮かび上がっている風景は幻想的で、俺がガキなら大はしゃぎしていただろう。しかし昨今、ウェニアスでちょっとした問題が持ち上がっているという噂が近隣諸国に広まっていた。
 そして商人を初めとする旅人達は、情勢の危うい国を避けて通る。うっかり戦闘に巻き込まれたら命が危ないし、そうでなくとも国が荒れれば盗賊が出没するからだ。
 そうなっては、旅人からの収益で成り立っているこの国は立ちゆかなくなってしまう。当然、国のお偉方は問題の解決に全勢力を傾け始めた。その手始めに行われるのが兵力の増強――傭兵集めだ。その情報は国内外に広まって、俺のような傭兵の耳に入ってくる。
 そんなわけで、俺は仕事を求めてこの国――ウェニアス王国の王都プラスタへと向かう道中だった。国境で衛兵に話を聞いたら、獣堕ちは主力になるから、紹介状を持って王都へ行けと命じられたのだ。しかし、それがかなり面倒臭い。
 ウェニアスに数多くいる様々な固有種の生息地を避けるため、道がとてつもなく曲がりくねっているのだ。おかげで、移動に地図は手放せない。俺は、何度も表面を削られ、描き直さたせいですっかりとくたびれている羊皮紙の地図を指でなぞった。最初に野宿を決めた道から森を抜けて、今いる道に出たわけだから、プラスタの方角は――。
「――あっちか」
 進行方向を確認して顔を上げ、瞬間俺は固まった。
 もっさりとしたフード姿が、まきの上でふらふらと揺れる炎に照らされて――あろう事か木杓子をその手に掴み、鍋のスープをすすっていたのである。
 

 
「ぎ――ぎゃあぁあぁ!」
 さすがに、叫んだ。獣堕ちの性質上、俺は気配に敏感だ。忍び寄られるという事態はめったな事では起こらない。その俺が、心底まったく完璧に、こいつの気配に気付いていなかったのだ。それだけでも驚きなのに、相手は例の絶世の美女――つまりは魔女である。おまけに俺の晩飯を食っている。俺は自分でも何に対して叫んだのかわからなかった。
「てめぇ、勝手に俺のスープ飲むんじゃねえ!」
 思考をすっ飛ばして口から出た言葉から察するに、どうやら晩飯を食われている部分に対して叫んでいたらしい。
 俺が鍋ごとスープをひったくると、ああ、と魔女が不満げな声を上げた。
「か、返せ! 我輩の夕食だ!」
「何がてめぇんだ! 俺のだ、俺の!」
「君はさきほど我輩のスープをひっくり返したではないか! 同じものを作って返すのが誠意というものだろう!」
「魔女にくれてやる誠意なんぞあるか!」
「ならばいいだろう! そちらがそうなら、こちらはこうだ! ――魔術を使うぞ」
 魔女が低く発した脅しの言葉に、俺は声を詰まらせた。そうだった、相手は魔女だった。のんきにスープなんぞ守ってないで、剣を掴んで逃げるのが当然の相手だ。
「いいかよく聞け。そのスープを我輩に今すぐよこさねば、北で飢饉を起こし、南で疫病を流行らせ、西で鼠を増やし、東で小麦を枯れさせる。君のせいで世界が滅ぶぞ、さあ今すぐそれを我輩に返せ!」
 徹底的に魔女である。
 だが俺は、どういうわけかまったく危険を感じていなかった。
 悪意だとか、敵意だとか、殺気だとか。そういうものに、俺は慣れている。向けられればすぐに気付くし、気付かなくとも無意識に剣に手が伸びる。だがこの魔女が俺に向けている怒りは、形ばかりで毒がない。
 俺はしばしの葛藤の末――。
「勝手にしろ」
 晩飯を選んだ。世界がどうなろうが、俺が無事なら別にいい。かりに俺も死ぬとして、世界と道連れならまあいいだろう。俺はぽかんとしている魔女の手から木杓子を引ったくり、がつがつとスープをかき込み始めた。
「わー! わー! きき、君は自分が何を言っているのか分かっているのか? 悪魔でももっと世界を大事にするぞ! おい、こら全部食べるな!」
「まとわりつくんじゃねぇ、鬱陶しい!」
 背中に飛びついてきた魔女を振り払うと、あぐ、と呻いて魔女が地面に転がった。すると不自然な沈黙が降りてきて、俺はスープをかきこむ手を止めて魔女を見る。
 べったりと地面に張り付いたままぴくりとも動かないその姿は、なんというか、異様だ。
 まさか死んだんじゃあるまいな。魔女が死ぬのはおおいに結構だが、殺す気もなかったのに死なれては気分が悪い。
「……おい?」
 恐る恐る、声をかける。すると、
「――我輩も」
 低く、くぐもった声がした。なんだ、どうやら生きている。生きているどころか、全身から妖気じみたどす黒い何かが滲み出している。
 ――まずったか? 
 危険は感じなかったが、相手は魔女だ。心底怒らせたら何をしでかすか分からない。俺は戦慄して体を引きかけ――。
「我輩も食べたい……」
 思い切り脱力した。
 怒るどころか、懇願に近い震え声である。
 冗談はやめてくれ。なんだその、虐げられて途方にくれた薄幸の少女じみた雰囲気は。ぼろ切れに近いローブ姿との合わせ技でかなり哀れに見える。完全に俺が悪者じゃねぇか。
「腹が減っているのだ……我輩、あのスープを作るのにこの一日を費やしたのだ……楽しみに……ずっと楽しみにしていたのだ……朝からずっと頑張って作ったのだ……」
 かりかりと地面を引っかきながら、もがくように魔女が言う。
 そう言われるとさすがに痛い。心底すまんと、確かに思った。
 追い剥ぎ魔女に首を狙われるという緊急事態だったとはいえ、こいつのスープをぶちまけたのは確かに俺だし、結果的に考えれば命を救ってもらった。スープ一杯くれてやらねば、いくら相手が魔女だろうと俺は畜生にも劣るクズではないか。
「それにそのスープ死ぬほど美味い……我輩も食べたい……」
 そうか、美味いか。そう言われて悪い気はしない。手早く作ったにしては、結構な自信作だ。俺は小さく舌打ちし、器に一杯のスープを魔女に差し出した。
 魔女はフード越しでも分かるほど表情を輝かせると、ばっと俺の手から器を奪い取り、直接器に口を付けてごくごくとスープを飲み始めた。
「最初からそうしていればいいものを、もったいぶりおって」
 そしてこの態度である。これだから美女って生物は嫌なんだ。魔女で美女など最悪だ。
 魔女はあっという間にスープを平らげると、器の底に残った干し肉のかけらを摘んで口に押し込み、断られるとは微塵も思っていない態度で俺に器を差し出した。
「もっと」
 図々しい事この上ねぇな。俺は鼻の頭に皺を寄せた。無論器は受け取らない。
「お前一体何しに来たんだよ。俺に何の用だ」
「答えたいのは山々だが、腹が減って答える力がわかないのだ」
 この女、よくもいけしゃあしゃあと……だが、俺が睨み付けても魔女は怯えた風もない。
 俺は自分の命が惜しい。魔女を相手に正面から切り合うつもりはないし、脅しが効かないならば従うしかない。しかし、ただ従うのもあまりにしゃくだ。
「答えたらもう一杯やる」
 俺が言い返すと、魔女は空の器と俺を何度か見比べて、ぐいと俺に器を押し付けた。話すからよこせ、とでも言うようだ。そうして、実際魔女は淡々とした口調で話し始めた。