「こ、こちらのお召し物など、よくお似合いになるかと思いますが」
 猫なで声、というものがある。相手の機嫌を取るような、事さら高くて甘ったるい声の事だ。それを、盗賊の頭目もかくやのむさくるしい大男――いや俺が人の事を言える立場じゃないけどよ――が出している。ゼロの服を買いに入った場末も場末の古着屋だ。
 こういう場所には盗賊が略奪品を売りにくる関係で、場違いに高級な物が転がっている事がたまにある。店主がゼロに見せているのも、まさにそういう品だった。
「おっさん。俺は旅装束を頼むと言ったんだが……」
 貴族の令嬢が着るような色鮮やかなドレスを見下ろして、俺はヒゲをひくつかせた。
「だ、そうだ。別のを頼む」
 ゼロの言葉に、店主はすかさず次の服を広げて見せる。
「ではこちらのドレスなどは――」
「旅装束だっつってんだろうが! 面に似合わねぇひらひらしたドレスばっか出してんじゃねぇよハゲ野郎!」
「うるっせぇな、だぁってろ、この毛玉野郎が! 俺はこちらの美しいお嬢さんにお召し物をおすすめしてんだ!」
 ねえお嬢さん、などと、酒で潰れた喉で気色の悪い声を出す。ゼロは広げられたドレスを眺め、「趣味じゃないな」と一蹴した。途端に店主の表情がうっとりと緩み、そうでございますよね、こんな古びたドレス、お嬢さんにゃあ釣り合わねぇやと店の奥へと引っ込む。
 ゼロが顔を見せたのがまずかった。言いたかねぇが、どうしたって否定できないほどに絶世の美女だ。店に入ってゼロがフードを脱いだ瞬間、店の空気が一瞬にして凍り付き、次の瞬間でれでれに溶け出し、店主はゼロの下僕になり下がった。
「ここまで来るといっそ哀れだね……」
 今にも平伏せんばかりの勢いで、完全にゼロの機嫌取りに走っている店主の姿に、アルバスがぽつりと呟いた。言ってやるなよ、と俺はそっと肩を落とす。
「ガキと違って大人の男にゃいろいろあるんだよ……特に醜男ってな娼婦も相手にしてくれない事があるからな。金があるなら話は別だろうが……」
 ゼロほどの美女ともなれば、同じ空気を吸えるだけでもありがたいという男が世の中にはごまんといるだろう。俺があの店主の同類にならないで済んでいるのは、ひとえにゼロが魔女で、俺が魔女嫌いだからだ。そうでなければ俺もあの顔にひれ伏しているだろう。
「傭兵、傭兵」
 くいと袖を引っ張られ、俺は下方に視線を下げた。
「我輩これがいいと思う」
 言って、魔女はついと店の片隅に下がっている一着の黒い外套を指差した。長い袖がついており、見るからに男物だ。ゼロが着たら裾は腿の半ばまで届くだろう。
「頑丈なのに軽くてな、温かそうなのもいい。フードも気に入った。傭兵はどう思う」
 手に取ってみると重たげな見た目に反してふわりと軽く、裏地はしっかりとしていて確かに頑丈そうだった。旅装束の外套としてはまずまずだろう。自分の服なんだから自分で決めればいいんだが、一応、旅慣れた傭兵としての見識を買ってくれているようだ。
「いい物だな。悪くねぇ。ちぃと、でかいが――」
 答えると、ぱっとゼロの表情が華やいだ。
「いいのだ。我輩、これが気に入った。傭兵がいいのなら、我輩はこれがいい」
 ――随分、信頼されたもんだ。もし俺が反対してたらやめてたのか?
 と、あれこれと店の商品を見て回っていたアルバスが、急に店の奥に駆け出した。
「あ、靴下! ねえよーへい。これ便利なんだよ。足にいちいち布巻かなくても簡単にはけるし、靴ずれしないし、あったかいんだ」
 アルバスが俺に示して見せたのは、えらく長い靴下だった。はくと腿の半ばくらいまで来るだろう。それを、飾り紐で縛って固定するらしい。外套とは対照的に、かなり装飾性の高い女物だが、実用面でも十分そうだった。防寒にも役立つだろう。
「おい、ま――」
魔女、と呼びそうになって慌てて黙った。
さすがに人前だ。まずいだろう。
「……ゼロ」
 呼ぶと、外套を広げて満足げに眺めていたゼロが顔を上げた。
「靴下だとよ」
 アルバスの方に目配せすると、アルバスが靴下を抱えてゼロに元に駆け戻ってくる。
「あと靴はね……あ! これがいいよ。絶対これ!」
 自分の服を選ぶようなはしゃぎ方だ。純粋に、買い物という行為が楽しいのだろう。アルバスが持ってきたのは、膝まで届くロングブーツだ。がっしりとした革製で、水にも泥にも強そうだ。俺はアルバスの頭を撫でた。
「結構な目利きじゃねえか。悪くねぇぞ」
 ふふん、とアルバスは胸を反らす。
 ゼロは並べられたそれらを眺め、ふーむと難しげな声を出した。
「我輩は裸の足が好きだ。土が温かくて、草は柔らかい。露に濡れるのもいい」
「怪我するだろうが」
「ゆっくり歩けば問題ない」
「たまには急げよ……毎度抱えて走ってもらえると思ったら大間違いだぞ」
「では置いて走るのか? 薄情な男だな」
「情が深い男に見えてたのか?」
「毛深くはあるな」
「殴るぞてめぇ。とにかく靴は必要だ」
 そっけなく言うと、ゼロはつまらなそうに唇を尖らせた。
毎度抱えて走ればいいものを、けちけちするな、でかいくせにと、聞こえよがしに言ってくるので全力で無視をする。
「こうなってくると、ズボンは短いのしかはけないよね。動きやすくていいだろうけど」
 そんな事を言いながら、アルバスは盗賊の女がはいているような、死ぬほど丈の短いズボンを手に取った。動きやすくはあるだろうが、皮膚の保護という点では落第だ。しかし、ロングブーツと靴下、それに外套を合わせれば、多少の薄着でも目をつむれるか……。
「おいおっさん! 決まったぞ、勘定だ!」
 店の奥に向かって怒鳴ると、両手一杯に色鮮やかな布の塊を抱えた店主が、いかにも残念そうな表情で顔を出した。
「ここで着替えてけ。今着てるのは燃しちまえよ。荷物になる」
「長年連れ添った友を燃やせと言うのか?」
「付き合いが長けりゃいいってもんでもねぇだろう。新しい出会いには別れも必要だ」
「冷酷な男だな。我輩は嫌いじゃないぞ」
 笑いながら、ゼロはぼろ切れと大差ないローブを脱ぎ捨てる。
 瞬間、俺は固まった。アルバスは顎を落とし、店主は鼻血を吹いて昏倒する。
 目が覚めるような白い肌に、細くくびれた腰。――その体は、稀代の芸術家が生涯をかけて作り上げた女神像にも勝るとも劣らない完璧な形をしていた。
 それが、今、余す事なく見えている。
ゼロはローブの下に服を着ていなかった。
「――なんだ。女の裸がそれほど珍しいか?」
 ひゅ、と俺は鋭く息を吸う。
 次の瞬間言葉にならない謎の罵声をひたすらに喚き散らしながら、俺はゼロに今脱いだばかりのローブをひっ被せた。ひっくり返っている店主を叩き起こして下着のひとそろいを用意させ、他の服とまとめてゼロと共に店の奥へ叩き込む。全て着るまで絶対に出てくるなと腹の底から脅して吼えると、ゼロが店の奥から文句を言った。
「痛いだろうが! 乱暴が過ぎるぞ! 女はもっと優しく扱え!」
「そう思うなら恥じらいっつう言葉を辞書で引いてその意味を一年熟考しろ!」
 怒鳴り合う俺達の後ろで、アルバスと店主が座り込む。
「び、びっくりした……びっくりしたぁ……!」
「美しかった……俺ぁ、俺ぁ今日死んでもいい……!」
 魔女という生き物は、明らかに世間からずれている。中でもゼロは、飛び抜けてずれている部類のようだった。
 

 
 丈の短いズボンに、腿の半ばまである長靴下。ロングブーツに、巨大なフード付きの外套。正直言ってまっとうな人間の格好とは言えなかったが、それでも随分まともになった。こいつが顔を見せたらどんな高級な宿でも喜んで一級の部屋を差し出してくれそうだが、逆に落ち着かない気がするので目的地は場末の安宿に据え置きだ。
 燃やすつもりだった古いローブは、店主が全財産と引き換えでも構わないと喚き出したので、結局服一式の代金をゼロの使用済みローブで支払う事で決着がついた。長年ゼロの素肌に触れていたローブだ。美女とは無縁のおっさんにとって、それがどれほどの価値を持つかは想像するまでもない。
 一応、ハゲのおっさんに自分のローブをくれてやる事に抵抗はないのか確認すると、別れを告げた友がどう扱われようと自分には関係がないと断言したゼロである。冷酷な女だと思ったが、思わず笑った俺も大概に冷酷だろう。
「傭兵、傭兵」
 ゼロを抱えて歩いていると、ぐいぐいと耳を引っ張られた。いてぇよ、クソ魔女。
「いい匂いがする。我輩、腹が減った」
 俺はゼロが指差す方に首をめぐらせる。雑多な商店が寄り集まった裏通りの一角で、そこには無数の屋台が軒を連ね、あらゆる食べ物を通行人に精力的に売りこんでいた。
 皮を剥いた果実を売る屋台に、肉の塊を焼く屋台。確かに――腹が減った。宿に行く前に腹ごしらえでもしていくか――と俺が口に出す前に、アルバスが屋台へとすっとんで行った。するとゼロも俺の腕から飛び降りて、アルバスを追って屋台へと駆けていく。
「……って――ちょっと待てお前ら! はぐれたらどうする気だ!」
 などと怒鳴ってみても、俺の声は二人には届かない。しかたなく走って追いかけ、雑踏をかき分けてようやく追い付いたとき、ゼロとアルバスはそろって同じ食べ物にかじり付いているところだった。すなわち、こんがりと焼いたたっぷりのクズ肉を、野菜と共にパンに挟んで食う大衆料理を、だ。
 ゼロが相場もわからずに過剰な金額を渡してしまったらしく、屋台の店主はほくほく顔だ。俺がゼロの連れと見るや、俺にも特大のパンに挟んだ肉の塊を押し付けてきた。
「肉、うまいぞ傭兵。君も食べるといい」
「野菜、シャキシャキ。美味しい!」
 口の周りを溢れる肉汁でべたべたにしながら、口一杯にパンを頬張る二人の姿を前にしては、説教というのもあまりに野暮だろう。俺は大人しく肉入りのパンにかじり付いた。
 
 宿を見つけるのは難しい仕事ではなかった。
これほど大きな町ともなると、わけありの客を扱う宿も少なくない。獣堕ちの俺を見ても受付のジジイは顔を顰める事もなく、首尾よく二人部屋と一人部屋を取る事ができた。
「坊主。てめーは俺と同室だ」
「えぇー! なんでよ、やだよ! 僕は自分の部屋を取る」
「だめだ。逃げ出さねぇって保証もねぇからな。常に目の届く位置にはいてもらう」
「僕なんかと同室になったら、寝てる間に首がなくなるかもしれないよ?」
 俺は静かに腰から下げた縄を取った。あいにく俺は、ガキを縛り上げて部屋に隅に転がしておく事に罪悪感を覚えるような善人ではない。
「ゼ、ゼロ助けてぇ!」
 情けない声を上げて、アルバスはまたもゼロの背後に逃げ込んだ。
「子供に無体を働くものではないぞ、傭兵」
「その子供に俺は首を狙われてるんだがな……」
「じゃあ僕、ゼロと同じ部屋で寝る! 一人にならなきゃいいんでしょ?」
 ゼロの腰にしがみ付いたまま、アルバスがふざけた要求をし始めた。エロ餓鬼が。顔がいいからってなんでも許されると思ったら大間違いだ。俺は無言でアルバスの襟首を引っつかむと、暴れる体をずるずると部屋まで引きずっていった。
 散々暴れて喚いていたアルバスだが、ベッドの上に放り出してしばらく放置しておくと、いくらも待たずにすうすうと寝息を立て始めた。獣臭くて寝られないと言っていたわりには、あっけない陥落だ。よもや寝たふりをして何か狙っているのではあるまいなと、一応眠っているか確認したところ、どうやら本当に寝入っているようだった。
「ガキだな。マジで」
 余程疲れていたのだろう。獣堕ちの俺を森の中で追い回し、ゼロの〈岩蔵(エトラーク)〉とやらに捕まったのを一晩かけて脱出し、その朝に再度俺を襲撃してからこっち、まともに休んでいないのだ。昨晩の廃屋では眠りも浅かっただろうし、柔らかなベッドと暖かなシーツがあれば眠気に抵抗できるわけもない。
「力が欲しいって気持ちは分からないじゃねぇがな……」
 丸く削った爪の先で、軽くアルバスの頬をつつく。
 すると不満そうに顔を顰めて丸まるのが、なんとなく動物のようでおもしろかった。軽く悪戯心がわいたが――まあ、相手はガキでも魔術師だ。下手な事はやめておこう。
 とにかく、湯を浴びて長旅の汚れを落とさなくては。清潔過ぎる傭兵ってのも不気味だが、あまり不潔だと皮膚病が怖い。獣堕ちだとノミがわく事もある。
 まずは受付のジジイに頼んで湯を用意してもらう必要があった。全身が毛で覆われているわけだから、布を湯で湿らせ、体を拭けば済むというような簡単な話じゃない。巨大な桶に湯を張って、その中で全身を丸洗いするのが、唯一獣堕ちが汚れとノミに別れを告げられる手段だ。
 日が暮れる前に、裏庭で湯を浴びて毛皮を天日干しにする心地よさを妄想しながら俺は部屋を出かけ――抜け目なくアルバスをベッドに縛りつけてから改めて部屋を出た。
 
「湯浴みか、傭兵」
 裏庭である。
 血やら泥やら潰れた草やらで汚れた俺に危機感を覚えたのか、宿屋のジジイの対応は完璧だった。風呂用の桶を一つに、つぎ湯を手桶に三杯。いくらかの手間賃と、使った分の水を俺が井戸まで汲みに行く事で話がついた。
 これはおまけだと言ってよこした練り石鹸は明らかに洗濯用だったが、まあ布も毛も大した違いはないだろう。つまり俺は全身を泡だらけにしていた。そんな俺にてくてくと歩み寄り、ゼロは興味深いものを見るように俺の側にしゃがみ込む。
「毛と泡の怪物だな。物陰で近所のわっぱらが覗いていたぞ。それはもう、うずうずとな」
「ビクビクと……の間違いじゃねぇのか?」
「恐怖とは後天的なものだ。君が脅かしたりしなければ、幼子ならば過度に恐れないはず」
「の、わりには小さいガキにもびびって泣かれるんだが」
「過度には、と言ったんだ。巨大な肉食獣が目の前に現れれば、本能的に誰でも恐れる」
 つまり怖がるんじゃねぇか。思って睨むと、ゼロはちらとだけ物影に視線を投げた。確かにガキが三人、見世物のように俺の方を窺っている。
 牙を剥いて吼えてみせると、大げさに悲鳴を上げて逃げていった。
「……怖がられたいのか?」
「期待されてる事をやったまでだ。――実際、獣堕ちにゃあ近づかねぇ方がいい。ガキん頃から化物扱いされてんだ。実際化物じみた性格の奴が多くなるのは当然だろ?」
「人が化物を作る――か」
「そういう事だ。まぁ、獣堕ちの性かもしれねぇがな」
「それは違う。実際、君の魂は極めて人間らしさをとどめている」
「どうだかな」
 自分が人間らしいかどうかなんて、自分では判断できない。その上、人間とまともに関係を築けない体だ。他と比べて自分はどうか、比べる対象がそもそも近くにいないのに、考えたところでどうにもならない。人道的にどうだとか、人としてなんだとか、そういう話を聞いていると、俺は随分と人間離れした性格のように思えるが――。
「そんな顔をするな。もしも君が人でないなら、我輩は世界が人でなしで溢れるようにと願う」
「魔女にそう願われたところでな……」
 まあ、悪い気はしない。だがそうとは口にしてやらない。俺は空を見上げて、細く息を吐いて泡を吹き上げた。ふわふわと飛ぶ泡をつついて、ゼロは思い付いたように立ち上がる。
「体が大きいと洗うのも難儀だろう。背中を手伝ってやる」
「お優しいじゃねぇか。汗をかくのは嫌なんじゃなかったのか?」
「無論、汗をかかない程度にだ。それに巨大な獣を洗うのはきっと楽しい」
 俺の背中に、ゼロの両手が恐ろしく無遠慮に触れた。毛をかき立てるようにして石鹸を泡立てる指の感触が、くすぐったくて落ち着かない。
「なあ、傭兵。町というのは楽しいところだな」
「あん?」
「人がたくさんいる。彼らはそれぞれ違う仕事をしていて、違う考え方をしているんだろう? とても不思議な気分だ。屋台の食べ物も気に入った」
「このくらい、ちと大きな町に行きゃあどこでも――」
 言いかけて、俺は黙った。
 そうか。ゼロは今まで穴ぐらの外に出た事がなく、町にも入った事がないんだったな。
 それならはしゃぎもするだろうし、驚きもするだろう。俺にとってはうざったい雑踏も、どうという事もない屋台の飯も、ゼロから見ればどれもが新鮮なのだ。
 ゼロは魔女で、俺には想像もできないような膨大な知識を持っている事は間違いない。
 だが、あまりにも世界を知らない。ゼロの常識が俺にとってそうでないように、俺の普通や常識もゼロには通じないのだ。同じ物を見ていても、見えている世界がまるで違う。
「……ウェニアスは旅人の国だからな。フォーミカムは、その商業の中心地だ。世界中から物と人が集まってる。規模はそれほどでもないが、濃縮されてるってのはあるだろうな」
 そうか、とゼロは目を輝かせた。
「我輩一人では、この町には入れてもらえなかった。入れたとしても大変な騒ぎになっていただろう。君は我輩一人では決して知り得なかった事を、この短期間で我輩にもたらした。我輩は、君に会えてよかったと思う」
 ――これも、世間知らずのなせる技か。ゼロのこそばゆい台詞に、俺はことさら顔を顰めて肩越しにゼロを睨んだ。
「……お前な。そういう事を言うのはやめろ」
「そういう事?」
「好きだとか、会えてよかったとか、そういうクソ寒い台詞だよ。女は無駄に好意をふりまくもんじゃねえ。特に俺みたいな男にはな」
 好意、と。ゼロは不思議そうに繰り返す。
「だが、事実だ。我輩は、君と話すのが楽しいし、黙っているのはつまらない」
「だからやめろって――」
「我輩と話すのは……不愉快か?」
 ぐっと。俺は言葉に詰まった。
 そうではない。そうは言わねぇが……。
「話し方が分かんねぇんだよ……基本的に、罵り合い以外の会話はしねぇから……」
 だから、好意をもって話かけられるとひどく戸惑う。俺が顔を顰めて吐き捨てると、そうか、とゼロは呟いた。
「なら、我輩と練習すればいいな。我輩はこれからもたくさん話すぞ」
 だめだ。俺にはゼロを言い負かせられねぇ。どうやら慣れるしかなさそうだ。
「無視しても怒るんじゃねえぞ」
「もちろん怒る。我輩は会話がしたいのだ。一人で喋るのはつまらない」
「じゃ、勝手に怒ってろ」
「冷たい男だな。我輩にもっと優しくしてくれてもいいだろう。雇い主だぞ、我輩は」
「傭兵は仕事以外の事はしねーもんだ」
 ふうん、とゼロは気のない声を上げ、背中を洗うにしては奇妙な指の動きをさせている。何か書いているように感じた。文字かと思って意識を集中してみたが分からない。
 と、くすくすとゼロが笑った。
「何がおかしい」
「内緒だ」
「おい……」
「いずれ分かる。そして我輩に感謝して、我輩に尽くさずにはいられなくなる。これはそういう呪いだ。恐ろしいだろう?」
「ふざけんな! 今すぐ解け!」
「いーやーだ。ほら、後ろを向け。洗えないだろう」
 ゼロに俺の脅しは効かず、脅しが効かないのなら俺には従う以外にない。俺は大人しくゼロに背を向けた。全身をすっかり洗い上げ、仕上げにつぎ湯で全身の泡を流すと、随分とさっぱりした気分になった。ゼロはそんな俺の全身を眺め、どこか難しそうな顔をする。
「すっかり綺麗だな。うん……あー……見違えたぞ」
「濡れた猫だって言いてぇんだろう、分かってるよ……」
 濡れた動物が哀れみの象徴になるように、濡れた獣堕ちの見てくれも相当に惨めだ。乾いた布でがしがしと拭いていると、ゼロがきょときょとと周囲を気にし始める。
「おい、何やって――」
「内緒だぞ」
 笑って、ゼロはすいと指を一振りした。――瞬間、乾いた。俺の毛が。
 思わず――思わずだ。
「す――げぇえ! おい何やったお前どうやった? これ普通乾かすのに半日かかるんだぞ! なんだこりゃふかふかじゃねぇか! 今の俺なら王城の床の敷物になれるぞ!」
 叫んでしまった。王城の床の敷物はさすがに自虐的過ぎか? だが、毛皮にとっちゃ最大の賛辞だろう。
「って……馬鹿お前――街中でなんつう事してんだ!」
 そして理性が戻ってくる。ゼロはすこぶる面倒そうに俺を見た。
「褒めるかさとすかどちらかにしないと、どちらの効果も半減以下だぞ……? 人目は気にした。大丈夫だ」
「そんなら……まあ、いいんだがよ」
「ところで、傭兵」
「あん?」
「下をはかなくていいのか? 古着屋では我輩をしかったくせに、君は随分と開放的だな」
 ついと、ゼロが俺の下腹部に視線を落とす。
 俺は叫んで慌ててズボンに足を通し、ゼロの高笑いに顔を覆った。
 その時、不愉快な雰囲気が唐突に裏庭に満ちた。
 建物の角から姿を現したのは、三人の女と一人の男。その、一際目立つ犬面の男に、俺は背中の毛を逆立てた。嫌な臭いがすると思ってたら案の定、同類だ。
「お。お? おぉんやぁ? なんだ、ご同類かぁ?」
 誰が同類だ。一緒にすんな犬っころ。
「行くぞ」
 俺はゼロをうながすと、桶のたぐいをまとめて抱えて歩き出した。
 基本的に、獣堕ち同士は馴れ合わない。お互いの獣臭がきつくて不快というのもあるし、そうでなくても妙な反発感がある。野生の猫を一つのかごに入れて大人しくしているかって話だ。
「おいおい無視かよ。寂しいねぇ。めったにいない化物仲間だってぇのに」
「悪いが犬と違って群れる趣味はないんだね」
「俺は狼だ! ふざけんな!」
 別にどっちでも同じだと思うが、狼の獣堕ちは犬扱いされると必ずこう返してくるな。
「どちらにせよ、獣くせぇのは自分だけで間に合ってるんでな」
 そっけなく言うと、犬面の狼はつまらなそうに鼻をならす。
「ま、ちげーねぇやな。……だからよ、今日は女どもに全身くまなぁーく洗わせようと思ってんだ。なあほら見ろよ、俺の女ども。ほーらいいだろ?」
 立ち去ろうとする俺の肩に腕を回して、犬面は怯えたように固まっている三人の女を指差した。心底面倒くせぇが、馴れ合わない代わりに対立もしないのが獣堕ち同士の暗黙の了解だ。
 俺は大人しく、犬面が自慢したがる女達に目を向ける。
 確かに上玉だった。それに若くて、犬面の趣味なのか全員が見事な金髪だ。一体いくら積んだんだ? ってーか、とても娼婦に見えな――。
 思い至って、俺は軽く息を止めた。
「――狩ったのか?」
 犬面の口が、にぃい、と耳まで裂けた。
「そ。狩った。あれなぁ、魔女なんだってよ。で、じゃあ王都でおさばきを受けさせようと思ったんだが……ほら、裁判は厳しいって話だ。かわいそうじゃねぇか! あんなに若くて可愛いのによ。だから俺がかくまってやる事にしてな」
 じりじりと、全身の毛が逆立った。
村に魔女がいると因縁を吹っかけて、若い女を差し出させただけだろう。魔女を差し出さなければ村を潰すと言えば、農村なんかは従う以外に道がない。
 獣堕ちは化物だ。そして化物はいつだって、力のない人間を食い物にする。
「――傭兵」
 ゼロが声を上げた。やべぇ、と思って咄嗟にゼロを庇おうとしたが、位置が悪かった。女の声だと気付いた瞬間、犬面がゼロのフードに手を伸ばし、乱暴に引き剥いだ。
「こいつぁ……」
「何しやがる! 勝手に触ってんじゃねぇ!」
 犬面の腕からゼロを奪い返し、フードを被せて背中に隠す。
「おい、おいおいおいなんだそれ、どこで拾った? どうやって手に入れた? 狩ったのか? 買ったのか? そんないいの見た事ねぇぞ! 俺も欲しい!」
 犬面はしきりにゼロの匂いを嗅ぎ、ふと何かに気付いたように顔を上げる。
「――あんた、まさか」
 魔女だとばれたか? 俺は内心舌打ちし、ゼロを隠すようにして歩き出した。これ以上この場にいるのはまずい。
「こいつは俺の雇い主だ。気安く触るんじゃねぇよ。行くぞ」
「傭兵、あれは魔女ではない」
 ゼロの声が、妙に高く響いた気がした。ゼロが怯えた女達を指差し、いかにも怪訝そうに俺を見る。分かっているだろう? あれが魔女じゃない事くらい一目見れば分かるはずだ、とでも言うように。そして――そうとも、分かってる。あの女達は魔女じゃない。
「いいんだ、行くぞ」
「だが、傭兵」
「いいから――!」
「我輩、不愉快だ」
 正直、縮み上がった。
 その目が、声が。数分前まで笑っていたゼロのものとは思えないほど冷たく硬い。
「……俺もだよ」
 低く抑えるように答えると、ゼロの目にすうと感情が戻った。不愉快だが、無視しなければ。ここで騒ぎを起こせば面倒な事になる。俺達がこれは魔女じゃないと言ったところで、村の誰もがあの女達は魔女だと証言するだろう。そうすれば、疑いはこちらにかかる。
「おいおいおいおい……そりゃ言いがかりってもんだぜ。なあお嬢ちゃん達? お前ら魔術使うよなあ? 実際俺ぁ、こいつらの魔術にすっかりやられて、こいつらを殺せずにいるんだぜ? でなきゃこんな小娘ども、狂うまで犯して売っちまってるってぇの!」
「傭兵」
「あ?」
「――内緒だぞ?」
 笑って、ゼロは指を一振りした。瞬間、抜けた。犬面の毛が全部、唐突にごっそりと抜け落ちたのだ。濡れた獣堕ちも惨めだが、毛のない獣堕ちほどみっともないものはない。
 俺は噴き出しそうになるのをどうにか堪えて、ゼロを抱えてその場から逃げ出した。
 一拍遅れて、犬面の悲鳴が空気を揺らす。俺はもう堪える事ができず声を上げて笑い出し、ゼロも俺の首に腕を回してひぃひぃと腹を抱えて笑っていた。
 立場が逆なら笑えないが、被害者が俺じゃなければこれ以上の笑い話はない。
 
 その夜、犬面野郎が閉じこもった寝室から頑なに出てこなかったのは当然で、更に翌朝、奴自慢のかわいい魔女達が忽然と姿を消す事件が発生したが、俺は関与していない事を一応主張しておこう。
 ま、夜の散歩くらいはしたがな。散歩中に寝ぼけてどこかの部屋をこじ開けたような気もするが――それも夢だろう。
 それよりも、だ。俺個人的に重要な事件は別にある。
 朝になって目覚めてみると、一人部屋を取ったはずのゼロが当然のような顔をして俺のベッドの俺の腕の中で寝ていたのだ。
 俺と相部屋だったアルバスは当然その状況に気付き、なぜか俺を攻撃し始めた。さんざっぱら「ケダモノ」だの「堕落の象徴」だの罵られ、投げ付けられた椅子が直撃した頭が朝っぱらから不快に痛む。この年頃のガキってのは、妄想力逞しいくせに潔癖だ。
「だーから誤解だっつってんだろうが。大体なんでてめーが怒るんだよ」
「うるさいな! お前の首は僕のなんだぞ! 生贄として狙ってる首の持ち主がいかがわしいなんて最悪だって分かるだろ!」
 いや、分かんねぇよ。そもそもまだ俺の首狙ってたのかよ。
「こら、わっぱ。これは我輩のだと言っただろうが。首はやらんぞ」
 ああ、美女と美少年が俺を取り合って口論か……凄いな、まったく嬉しくねぇや。
「いいじゃんー! 首だけ頂戴よ!」
 やらねぇよ。心の中で吐き捨てる。
 ああ――早く【ゼロの書】を見つけて魔女やら魔術師やらから解放されてぇ。
 ゼロとアルバスの、俺の首を巡る下らない言い合いをどこか投げやりに聞きながら、俺達は学舎を目指してフォーミカムを後にした。