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九月二十六日(月)





 六時に起床。同、四十六分発の電車に乗る。八時三十五分、会社に到着。席に座ると同時にパソコンの電源を入れる。

 十二時から一時間の昼休憩。席を立ち上がったところで上司に声をかけられ、解放されたのは十二時十五分。歩いて三分の安いラーメン屋には長蛇の列。並ぶこと十五分。ようやく飯にありつける。注文が来るまで三分。湯気の立ち上るラーメンを胃袋に吸い込むこと五分。すぐに席を立ち、会社の玄関横にある小さな喫煙スペースで、缶コーヒーを片手に立ったままタバコを吹かす。この半年でタバコの量は二倍に増えた。ここでやっと、ホッと一息をつく。時刻は既に十二時四十五分を経過している。

 十二時五十八分、自分の席に戻る。十三時二十七分、本日三度目の上司の怒鳴り声。

 十九時三十五分、やっと、上司が退勤。頼むからもっと早く帰ってくれ。

 二十一時十五分、ようやく退勤。この時間になると、電車の本数が少ない。二十二時五十三分、帰宅。二十五時零分、就寝。以下、繰り返し×六日間。


 サラリーマンに憧れなどなかった。だが、熱を上げるようなやりたいこともなく、いつの間にか周りと同じように、就職活動に勤しんでいた。

 自慢じゃないが、そこそこ名の通る大学をストレートで卒業した。それでも簡単に内定のもらえないこのご時世。とにかく手当たり次第に面接を受けまくった。周りの奴らになんて負けたくない。確固たる自信など何ひとつないくせに、プライドだけは山よりも高い。自分よりレベルが低いと思っていた奴らが一流と呼ばれる企業の内定をもらった時は、酷く嫉妬した。

 ひとつでも多く、少しでも有望な企業から内定をもらうことが、俺たちにとって最大のステータスだった。


 今、俺が勤める会社は名高い一流企業ではない。中堅の印刷関係の企業だ。しかし、ことごとく希望の企業の面接に落ちまくった俺にとって、この会社からの内定をもらえた時は、正直かなり嬉しかった。この会社の役に立ってやろう、利益を上げて、俺を落とした企業を見返してやろう。意気込んで入社し、がむしゃらに努力した。

 あの頃はまだ、少しの夢と、希望と、やる気があった。


 鼻先をかすめるように、特急電車がスピードを緩めず走り過ぎる。数日前まで蒸し暑かったはずの風は、いつのまにか少し冷気を含んでいた。

 人波に溢れたプラットホームの先頭で、俺は自宅へと向かう快速電車を待っていた。

 突風に煽られた前髪が、非常にうっとうしい。そろそろ切らないといけないが、美容院に行く時間がもったいない。

 俺の後ろには、皆同じような暗い色のスーツに身を包んだ、サラリーマンの列。年齢はバラバラだが、皆一様に疲れた顔をしている。


 俺はいつから笑わなくなったのだろう。ビデオを巻き戻したような、時間をひたすら消化していく毎日。

 どんなに頑張っても給料は横這い。しかし、成績が上がらなければ当然、上司にどやされる。サービスという名の残業ばかりが増えていく。俺たちには少しのサービスもないくせに。

 土曜出勤は当たり前。日曜に死んだように眠っていると、けたたましい携帯電話の音に叩き起こされる。電話口では部長が、取引先からのクレームだと、俺の担当だと気が狂ったように叫んでいる。

 なんだよ、元は先輩の担当じゃねーかよ。ややこしい取引先だけ押し付けてくるんじゃねーよ。俺が入社する前の話されてもどうすりゃいいんだよ。そもそも先輩が辞めたのだって、お前のせいだろ。クソ上司。


 俺だって辞めたいよ。こんな会社だと思わなかったよ。説明会ではいいことばっかり言いやがって。何が、頑張っただけ稼げるシステムだよ。何が、実力を正しく評価する環境だよ。今すぐ辞めてやりたいよ。

 でも入社半年足らずで辞めれるわけがないんだよ。そんな根性のない奴、次の企業が雇ってくれるわけないんだよ。

 今月はもう、二週間ぶっ通しで働いている。こうなってくると眠いんだか、腹がへってるんだか、わかりゃしない。

 この半年間、体調はずっと最悪だ。

 くたくたになってようやく家に辿り着いても、数時間後にはまた、会社へと向かう電車に揺られている。

 そんな現実に押し潰されそうになる。


 自宅にいるときの体感時間は、ほんの一瞬。会社にいる時はあれほど長く感じるのに。相対性理論の本でも読んでみようかと思うけど、そんな時間を持てるはずもない。

 そして、その心が解放される一瞬は、眠りについた瞬間に終わってしまう。

 身体は眠りたいはずなのに、脳みそが眠りを拒否しているような感覚に陥る。


 人は何のために働くのか――――

 入社してから三か月ほどは、そればかり考えていた。

 けれどもう、考える気すら起こらなくなった。

 辞められないなら働くしかない。余計なことは考えない。

 ただひたすらに、一週間が過ぎるのを待つだけ。


 次の日曜にも予定はない。彼女なんてつくる暇もない。暇があったらつくれるのかって突っ込みは勘弁してほしい。今の俺には彼女どころか、友達すらいない。

 中学校の頃、いわゆる青春時代を共に過ごした良き友人は、大学に入り新しい人間関係ができると共に、少しずつ連絡を取らなくなった。

 そして、その大学時代にできた数多くいたはずの友人も、就活が佳境に入った辺りからあっけなく疎遠になってしまった。

 社会人になってから数回飲みの誘いがきたが、今は他の奴と仕事の話をする気にはどうしてもなれない。もしそいつが俺よりいい給料をもらっていたら…………考えただけで吐き気がする。こんな自分が情けないとは思うけど、そう思ったところでどうしようもない。

 今はただ、来週の日曜はトラブルが起こらないで欲しいと願うのみだ。

 いくら予定がないとはいえ、一日くらい何も考えずにダラダラしていたいんだよ。

 贅沢は言わない。ただそれだけだから、どうかそれくらいの願いは聞いてください。

 頼むよ、神様。


 昨日は休日出勤だけあって、十八時には家に戻れた。コンビニで買った弁当を機械的に口に運び、見るでも見ないでもなく、テレビをつけていた。

 すると、子供の頃から記憶に馴染んだ、軽快な音楽が聞こえきた。

 俺はしばらく、子供の頃とは違った感情で〝その音楽〟を聞いていたが、いつのまにかリモコンの電源ボタンを押していた。

 真っ暗になった画面には、まだアニメの中の幸せそうな家族が映っているような気がした。

 子供の頃、それを楽しみに見ていた時の感情と、今の感情とのギャップに涙が出そうになった。

 ふと、学生の頃に女友達の朱美から聞いた話を思いだした。



 就活のために髪色を変えたばかりの朱美は、学食で俺の姿を見つけると、チャンスとばかりに走り寄ってきた。美しい栗色だったロングヘアは、不自然なほどの漆黒に染め上げられていた。

「ねえねえ、橘先輩って覚えてる?」

 誰かに話したくてウズウズしていたのだろう。その表情は、少し興奮しているようにも見えた。

 以前の髪色のほうが良かったなあ、などと考えていた俺の返事を待たず、朱美は話し始めた。

「橘先輩、入社してから三か月で『サザエさんシンドローム』になったらしいよ」

 俺はその『サザエさんなんとか』が、何の意味であるのか知らなかった。

「なにそれ」

 気のぬけた返事をした俺に、朱美は少しオーバーに驚いたような表情を見せながら言った。

「えー知らないの? 鬱みたいなもんだよ。サザエさんのエンディングを聞くとすごく憂鬱になって、死にたくなるんだって」

「なんでサザエさん?」

「日曜日の終わりだから。それが終わって、寝て起きたら月曜日になるからだよ」

 いかにも深刻そうに話す朱美をよそに、俺は「へえー」と気のない返事を続けた。

「もう、ぜんっぜん興味ないじゃん」

「いや、そんなことはないけど……」

 朱美の言う通り、あまり興味を持てる話題ではなさそうだと思った。

 この時はまだ、社会のことを何も知らなかった。

 自分のことを社交的だと思っていたし、社会に出てもなんとなくうまくやっていける自信があった。酒を酌み交わし、他愛もない話をするような友人なら数多くいたし、人間関係に深刻な不安を抱いたこともない。

 鬱なんて、自分とは無縁の世界だと思っていた。


 朱美は、興味を示さない俺に、一生懸命話し続けた。

「ちゃんと聞いてよ。あのアメフト部のエースの橘先輩がだよ? ほら、大学最後の試合でもタッチダウン決めてさー。超カッコよかったよね」

 まったく女って生き物は、どんな話題の最中にも必ず一度は話を脱線させる。

 残念ながら、カッコいいアメフト部のエースの話題ほど、どうでもいいものはない。

 俺は、面倒くさい方向に逸れていきそうな話の流れを修正した。

「で、その橘先輩が鬱なのが心配なの? 朱美、仲良かったっけ?」

「心配ってゆーか、ちょっと怖くない?」

 眉間にしわを寄せた朱美の表情には、不安の色が伺えた。

「怖い?」

「だって、アメフト部だよ? うちの大学けっこう強いし、練習も厳しくて有名じゃん。そこでエース張ってた人が、たったの三か月で鬱なんてさ。社会で働くことがアメフト部の練習より厳しいなんて、そんなのどうしたらいいの? 私、考えただけで倒れそう」

 朱美はより一層、両まぶたの辺りに力を込めた。その不安気な表情は、俺には大げさ演じているようにも見えた。

「先輩はちょっと、精神的に弱かったんじゃないの?」

「えーそんなことないよ。精神的に弱い人が、試合に出て活躍なんてできる?」

 期待していた答えと違ったのか、不服そうに頬を膨らませた朱美に、俺はわかったような口を利いた。

「スポーツの体力的な厳しさと、社会に出てからの厳しさなんて全くジャンルが違うだろ。先輩はたまたま、そっち方面のプレッシャーに弱かったんだよ。それか、よっぽど会社との相性が悪かったんだね」

「そうかなあ」

「先輩にはアメフトの才能はあったかもしれないけど、サラリーマンの才能はなかったってこと」

「サラリーマンの才能ってなによ」

 さらに口を尖らせた朱美は、少し突き放すように言った。

 俺はなぜか、朱美よりもずっと人生の先輩のような口ぶりで、自信満々に言った。

「本当に出来る人間っていうのは、どんな環境にいてもできるんだよ。社会に出てから一番重要なのは、体力でも、我慢強さでもない。頭のよさだ。どんな人とでもやっていける適応能力だ。要は『人間力』がある奴が一番強いってこと」

 俺に話しても無駄だと思ったのか、あの時以来、朱美との会話に橘先輩の話題が出ることはなかった。


 もしもタイムマシンがあったなら、あの時に戻って、得意満面に話している俺の胸倉を摑み、「黙れ、馬鹿野郎!」と怒鳴ってやりたい。

 朱美はあの頃から、俺よりもずっと冷静な視線で社会を見つめ、敏感にその怖さを感じ取っていた。

一方俺は、その『人間力』とやらが自分には備わっていると思っていた、ただの阿呆だ。社会というものを完全になめていた。

 そして今、阿呆の勘違いは見事に打ち砕かれ、社会の厳しさと、自分の無力さを痛感している。

 橘先輩は、今頃どうしているんだろう。

 その後のことを聞いておけばよかったと、今更ながら少し後悔した。


 ふと、隣の男に目をやる。見るからに使い古したスーツに身を包み、薄くなりかけた頭には隠しきれない白髪が、ホームの明るい電灯に照らしだされている。

 お世辞にも小奇麗とは言えない。しかし、横顔がどことなく俺の親父に似ている。

 彼はこの数分間、微動だにしていない。俺が見ていることにすら気付かず、うつろな目の奥にはかすかな光さえ見えない。

 何十年か後の俺は、こんな感じなんだろうか。くたびれたスーツに身を包み、満足するには程遠い額の金を稼ぐため、片道二時間弱の道のりを満員電車に運ばれ続けるのだろうか。



 ようやくホームの電光掲示板が、家へと向かう電車を表示した。

 やっと帰れる。

 大きな溜め息をついたその時、スーツのポケットがブルルルルと振動した。

 ――――マジかよ。

 振動しているポケットから携帯を取りだし、表示画面を見る。

 眩暈がした。

 クソ上司が。

 気づかなかったことにしよう。もう今日は帰りたいんだ。取引先には土下座せん勢いで謝っただろうが。俺は何にも関係ないのに謝っただろうが。これ以上なんだっていうんだ。どうせ明日も出社するのに、何でこんな時間に電話をかけてくるんだ。

 もういい。

 もう帰ろう。帰って寝よう。

 携帯はしつこく振動している。

 全てが面倒くさい。

 俺は携帯の電源を切って、またポケットに仕舞った。

 明日出社したら、思いっきりキレられるんだろうな。そうだ、充電が切れたことにしよう。そのまま気づかず眠ってしまったと言って……。

 無駄だな。言い訳なんて通用しないことは、重々承知だ。

 眠ってしまうと今日が終わる。

 目覚めた時にはもう明日だ。

 眠りたくない。眠らなければ明日は来ない。

 家に帰っても眠りたくないならいっそ、ここで寝てしまおうか。

 なんだかわけのわからないことを考えながら、俺はゆっくり目を閉じてみた。

 すると、頭がふわふわしてきた。気持ちがいい。

 このまま立ったままで眠れるんじゃないか。

 だんだん地面もふわふわしてきた。

 こんなにいい気持ちになったのは久しぶりだ。飲んでもないのにほろ酔い気分か。

 周囲の音が遮断されていく。騒々しいホームにいるとは思えないほど、静かだ。

 このまま、この心穏やかなままで気を失ったら、ホームに落ちるんだろうか。


 そうしたら明日、会社へ行かなくても済むかな。


 三十秒くらいだろうか。体感にしたらもっと長く感じたが、きっとそのくらいだろう。

 目を閉じていると突然、右腕に衝撃が走った。

 驚いて振り向くと、俺のあまり引き締まっていない腕の肉に〝誰か〟の指がガッチリ食い込んでいる。あまりゴツくはないが、明らかに男の指だ。

 その指先から腕へと、少しずつ視線を這わせていく。

 肩まで辿ったその先には、全く見覚えのない、俺と同い年くらいに見える男が、満面の笑みで俺の真後ろに立っていた。

 わずか二十センチほどの距離で、笑顔の男とバッチリ顔を見合わせる形となってしまった俺は、ギョッとして少し後ろに仰け反った。

 無駄にデカい頭に体重が掛かり、上半身がぐいんとホームからはみだした。

 線路上に大きく傾いた俺の身体を見て、隣の親父似の男が息を呑み、目を見開いたのがわかった。

 どうやら彼にも感情は残っていたようだ。

 俺はなぜか、少しほっとした。


 落ちる――――

 そう覚悟した瞬間、俺の身体は凄い力でグイッと引き戻された。

 どう見ても貧弱そうに思えた〝その腕〟は、一七五センチある俺の身体をいとも簡単にホーム上へと引き戻した。その頼りない風貌からは、とても想像できないような強い力だった。

 茫然とする俺に、男は満面の笑みを崩さぬまま言った。

「久しぶりやな! 俺や、ヤマモト!」

 ……ヤマモト? 誰だっけ。

 俺は戸惑いながらも、なんとか頭を回転させ、記憶を巡らせてみる。

 が、ヤマモトという名前にも、この男の顔にも覚えはない。

 ヤマモトと名乗るその男は、子供のように無邪気な笑顔で話し続けた。

「ホンマに久しぶりやなあ。小学校以来か。でもすぐわかったで。お前、変わってへんなあ」

 ヤマモトは、歯磨き粉のCMのように歯を見せてニカッと笑うと、俺の右肘の上あたりを力強く摑んだまま、列の後ろの方へと移動し始めた。

「え……」

 俺は、呆気に取られて抵抗することも忘れ、ヤマモトにズルズルと引きずられるようについて行った。

 ホームの真ん中ほどまで来て、ようやくヤマモトは俺の右腕を解放してくれた。

 改めてマジマジとその男の顔を見つめてみる。

 小学校以来ってことは同級生なのだろうか。しかし全く思いだせない。

 関西弁の奴なんてクラスにいなかったような気がするが。

「あの……、悪いけど俺、お前のこと……」

 正直に「覚えていない」と言おうとした瞬間、ヤマモトは俺の話を遮るように、凄い勢いでペラペラとしゃべりだした。

「いや、でもホンマ懐かしいわ。こんなところでお前に会えるとはなあ。ほら俺、小学四年なる前に大阪に引っ越したやん。だから、もう東京の友達なんて誰とも連絡とってないねん。会えてめっちゃ嬉しいわ。今から帰るんか?」

「う、うん。まあ……」

 ヤマモトの笑顔と勢いに圧倒されて、なんとなく「知らない」と言いだし辛くなった俺は、曖昧な返事をした。

「マジか! めっちゃええタイミングやん。よし、飲みに行こうぜ」

 突然の誘いに「え、いや、あの」とあたふたする俺を気にも留めず、ヤマモトは続けた。

「よーし、行こう行こう。オレ、いい店知ってるから! 刺身食える?」

「いや……、食えるけど……」

「よっしゃ、決まりや!」

 ヤマモトは嬉しそうに叫んだ。

 俺は、ただただ戸惑っていた。

「うわあ、こんな偶然ってあるんやなあ」

 ヤマモトはニコニコと、改札へと続く階段に向かって歩きだした。

 どうしよう。

 その場で立ちすくむ俺に、ヤマモトが振り向いてとびっきりの笑顔を見せた。

「マジで、神様に感謝やわ」

 きれいな前歯をキランと光らすヤマモトは、心から喜んでいるように見える。

 もしかしたら、昔はそれなりに親しくしていたのかもしれない。

 そう思うと、彼を思いだせない自分がなんだか申し訳ないような気持ちになってきた。

 とりあえず覚えているフリでもして話を合わせるか――――

 俺はまだ少しぼうっとした頭のまま、ふらふらとヤマモトの後に続くように歩きだした。



 お世辞にも綺麗とは言えない店構えの居酒屋は、月曜の夜であるというのに、地元の人らしき客で繁盛していた。

 あまり座り心地のよくなさそうな、木製に薄い座布団を敷いただけの椅子は、相当年期が入っているように見えた。

 ヤマモトはその椅子にどっかと腰を下ろすと、そそくさとメニューを手にした。

 俺はどうしていいのかわからず、その場に立ちすくんでいた。

「はよ、座りや」

 にこやかにそれだけ言うと、ヤマモトはいくつかあるメニュー表の中から『本日のおすすめ』と書かれた和紙のようなものを取りだし、真剣な表情でにらめっこを始めた。

 勢いでついてきてしまったものの、さて、どうすればいいのか。

 とりあえず、俺はそのまま席にはつかず、ヤマモトにトイレへ行く旨を伝えた。

 ヤマモトは俺のカバンを預かると、「ビールでええか?」と、ホームで見せたのと同じ歯磨き粉スマイルを見せた。俺は、「ああ」と、ヤマモトのとはまるで違う、ぎこちない微笑みを返して、トイレの中へと逃げ込んだ。

 トイレは店の内装から想像していたよりも、清潔に保たれていた。一人になった狭い空間で、急いで携帯を取りだす。画面をスクロールすると、久しく見ていなかった懐かしい名前が羅列される。

 俺はその中から、丸二年以上連絡をとっていなかった一人に電話をかけた。

 意外なことに電話番号は変わっていなかった。数回のコール音の後、携帯の奥から少し訝しんだ彼の声が聞こえた。


 ――はい?

 ――あっ、あのー、俺、青山だけど……か、岩井?

 俺は一瞬、「一樹」と呼ぼうとして、改めた。

 久しぶりに連絡して、以前のように馴れ馴れしく呼んでいいものか迷ったからだ。

 電話口の岩井一樹は、俺の名前を聞いて声のトーンを上げた。

 ――おーっ、やっぱ青山か! 久しぶりだなあ。え、どうしたの?

 ――あのさ……ちょっといきなり変なこと訊いて悪いんだけど、お前、ヤマモトって覚えてる?

 ――ヤマモト?

 ――うん。たぶん、小学校の時、同じクラスだったと思うんだけど……。

 ――何年の時?

 ――いやーそれがさ……あっ四年になる前に転校したって言ってたから、その前かな。

 ――あー、ヤマモト……ケンイチ? 小三で同じだった。

 ――あーっ! ヤマモトケンイチ……いたな、確か。俺と仲良かったっけ?

 ――えっ? 何、いきなり。青山と……そんなにすごい仲良かった印象はないけどなあ。でも覚えてねーよ、そんな昔のこと。

 ――だよな。悪い、いきなり。

 ――ヤマモトがどうかしたの?

 ――いや、別に大したことはないんだけどさ……ちょっと気になって。

 ――ふーん?

 ――いや……いや、もう大丈夫。ありがとな。

 ――おー、なんかよくわかんねーけど。てか、お前今なにしてんの?

 ――えっ?

 ――仕事だよ、仕事。全然連絡とってなかっただろ。

 ――ああ……まあ、普通に営業だよ。

 ――営業かあー、大変だよなあ。俺もさあ、今、四葉物産の営業やってんだけどよ、もう大変だよ。今度、情報交換しようぜ。

 ――ああ、また、そのうちな。ごめん、ちょっと今、時間なくて……。

 ――あーわかった。じゃあ、またな

 ――ああ、助かった。またな。


 携帯を切ると、色々な感情が押し寄せてきた。

 岩井、四葉物産にいるのか……。俺が落ちた企業だ。大本命だったのに。

 四葉物産のあいつとどんな情報交換をしろって言うんだ。印刷物があれば弊社にお任せくださいって頼むぐらいしかない。中学の頃までは、俺のほうが成績よかったのになあ。

 ぼーっと考えていると、キイ―と扉の軋む音がした。誰かが入ってきたようだ。

 俺は急いで、トイレの水だけを流すと、狭い個室から外に出た。


 席に戻るまでの短い道中、頭の中で彼の名前を復唱する。

 ヤマモトケンイチ……

 やはり、彼との思い出深い出来事は、これといって思い浮かばない。

 それどころか、彼の顔すらあまり思いだせない。あんな、特徴のある笑い方してたっけな。どちらかというと、大人しいほうのクラスメイトだった気がする。それとも、大阪に住んだら人は明るくなるんだろうか。有り得るかもしれないな。


「悪い、待たせて」

 席に戻ると、ヤマモトに預けていたカバンを受け取り、小さな座布団になんとか尻を収めた。

「いや、待ってなかったから、ええよ」

 ヤマモトのジョッキの中身は半分に減っていた。ニカッとした歯磨き粉スマイルも見慣れてきた。

「泡、消えてもうたで」

 ヤマモトは俺のジョッキを指さすと、いかにも残念、というように眉を下げ、下唇を尖らせて見せた。

「ああ、いいよ。トイレ混んでてさ」

 俺は、目の前にあるヤマモトの豊かな表情と、記憶に薄っすら残っている、昔のヤマモトの面影を重ねて見ようとしたが、やはりうまくいかなかった。

 思いだせない記憶を、いつまでも辿っていてもしかたない。

 泡のなくなったビールは、まだ冷たさがしっかり残っていた。それを三分の一ほど喉に流すと、俺は素直にヤマモトに訊いてみることにした。

「なあ、なんで俺のことわかったの?」

 ヤマモトは枝豆を指先で弄びながら、少し考える表情を見せた。そして、またニカッと笑った。

「顔、変わってなかったから」

「そうか?」

「自分じゃわからんやろ」

 確かに。自分の顔が昔と比べて変わっているかどうかなんて、わからないし、気にしたこともない。

「ヤマモトは、なんかちょっと変わった気がする」

「そう? 大阪弁になったからとちゃう?」

「ああー、確かにそれはあるよ。絶対。やっぱ大阪行ったら大阪弁になるんだ」

「まだ小さかったからなあ。もう完全にネイティブ大阪人やで」

「はは、なるほど。やっぱみんな面白くなるんだな」

 俺が笑った瞬間、ヤマモトは俺を指さし、大きな声を出した。

「それー!」

「はっ?」

 突然のことに、俺はすっとんきょうな声を出してしまった。

「それ、アカンやつやで。大阪人が全員おもしろいとか思ったら絶対アカン。それでどんだけハードルあがって、どれだけの大阪人が傷ついてきたか」

「えっそうなの?」

「最近テレビでも、大阪のノリとか、漫才みたい~とかようやってるやん。でもあんなん、周りにフォローする人間がおってこそやからな! こんなどアウェイで、いきなり面白いことやってーとか、もうリンチと同じやで」

「そうなんだ。わかった。周りに言っとくわ」

 俺はヤマモトの勢いと剣幕が可笑しくて、クスクス笑いながら言った。

「おう、それはしっかりゆーといてや。ほんまに! 笑ってるけど」

 そう言いながら、ヤマモトもニヤニヤと笑いながらビールを飲んだ。

「お前も笑ってんじゃん」

「おーいいねえ、今のツッコミ。コレあるんちゃう」

 ヤマモトは、自分の二の腕をパンパンと叩いて、ニカッと笑った。


 不思議な気分だった。

 十何年か振りに会ったのに、まるで久しぶりな感じがしない。

 ずっと前から仲の良い、友人のような気がする。

 やっぱり、昔の俺たちは仲が良かったんだろうか。

 あっというまにビールを二杯飲み干した俺たちは、当然のように三杯目のビールをおかわりして、昔話を始めた。

「ヤマモトはさあ、小学校の頃の俺とのこと、何か覚えてる?」

「んー……覚えてない!」

「なんだそれ」

 俺は苦笑した。

「青山は? 昔の事、なんか覚えてる?」

 ヤマモトが同じ質問をした。

「んー……」

「別に、俺とのことじゃなくてもいいよ。昔話しようや。たとえば、昔は何になりたかった、とか」

 そう言ったヤマモトは、はっとするほど優しい目をしていた。

 楽しい、という感覚を思いだしたのは、本当に久しぶりのことだった。もしかしたら、働きだしてから心の底からリラックスしたことは、一度もなかったのかもしれない。

 三杯目のビールがテーブルに届くと、俺は舌もなめらかに話しだした。

「昔なりたかったものかあ。なんだろなあ。一番最初はサッカー選手かな。ヤマモトは?」

「俺は、映画監督」

「えー渋いなあ。小学校の頃なんて、アニメしか見なかった」

 他人の夢を聞く機会なんてなかなかない。昔の話とはいえ、ちょっとした秘密を共有しているようでワクワクした。

 気がつけば、今の時間も、明日の仕事も、今日が悪夢の月曜日だったことも、すっかり忘れていた。

「あーほら、ムラセンって覚えてる? 小三のとき担任だったじゃん。いっつも黒のジャージ着てた」

 今まで食べた中で一番うまいと思うホッケをつまみながら、俺はビールを喉に流し込んだ。今日はいくらでも飲める気がする。

「あーあー、めっちゃ懐かしいなあ」

 ヤマモトが目を細めながら言った。

「あいつ、まだサッカー部の顧問やってるらしいよ。俺がいた頃ですら、走るのしんどそうだったのに。よく続けられるよなあ」

 ムラセンのスイカが丸ごと入ったような腹を思いだした。あの腹は今頃どうなっているんだろう。頭の禿げたムラセンが、でっぱった腹をさらに突きだして走っている姿を想像して、俺は少しニヤけた。

 ヤマモトは、一生懸命ホッケの身をほぐしていた手を止めて言った。

「ムラセンの小さい頃の夢は、サッカー部の顧問やったんかもしれんぞ」

「それなら、すげー夢叶ってんじゃん。でも、普通はサッカー選手だろ」

「だってその頃って、まだプロサッカーなかったんちゃうか?」

「あーそっかー。確か、俺らが生まれてからだな。Jリーグできたの」

「それまではプロ選手って言ったら、野球一択やったんやろなあ」

「でも俺、あれ覚えてるよ。フランスワールドカップ。確か、フランス大会だったと思う。あれが人生で初めて、サッカーの試合見た日かも。ルールとかよくわかんなかったけど、なんかすげー興奮して、必死に応援してたの覚えてる」

「今は、やってへんの? サッカー」

「高校までかなあ。大学に入ってからはサークルでフットサルやってたけど、お遊びって感じだったしな」

「花のキャンパスライフってやつやな」

「古っ」

 俺とヤマモトは同時に声を出して笑った。高校生の頃に戻ったように。

 高校生の頃のヤマモトは知らないけれど、きっとこんな感じだったのだろう。きっと友達も多くて、クラスの人気もので。俺がクラスメイトなら、間違いなくあだ名は『歯磨き粉』にする。


「そろそろ終電か?」

 ヤマモトがここに来てから初めて、腕時計に目をやった。

 ちょうど、四杯目のビールを飲み終わるところだった。

「ああ、そうだな」

 俺は、名残惜しい気持ちを隠し、なんでもないような顔でカバンを探ると、財布を取りだした。

「今日はええよ」

 ヤマモトが俺の手を制して言った。

「えっなんでだよ」

「俺から急に誘ったし」

「べつにいいよ、そんなの」

 日本人らしい押し問答をしながら、レジへ向かう。そういえば価格をちゃんと見ていなかった。

 レジ前でも財布を仕舞わない俺に、ヤマモトが言った。

「次はお前に出してもらうから」

 この一言で、俺は素直に財布をカバンに引っ込めた。

 ここで割り勘にして、次の約束が消滅するのが嫌だったのかもしれない。

 それほどまでに、ヤマモトと過ごした時間は楽しかった。


 思っていたよりリーズナブルだった居酒屋を後にし、駅に向かって歩きながら、ヤマモトと連絡先を交換していないことに気がついた。

 携帯を取りだそうと、ポケットに手を入れた時、ヤマモトが急に立ち止まった。

「青山、携帯教えて」

 なんていいタイミングだ。思わず頬が緩んでしまう。

「なに、ニヤついてんねん」

 そういうヤマモトも、負けじとニヤニヤしている。

「べつに……」

「そこは、『お前もニヤついてんじゃん』やろ!」

 ああ、しまった、と思った瞬間、ヤマモトがすかさず言った。

「あーあ、やっぱりまだまだやなあ。次会う時までにもっと腕、磨いといてや」

 そう言いながらヤマモトは、自分の二の腕をパンパンと二回叩いて、ニカッと笑った。

 本日最後の歯磨き粉スマイル。

 俺も、本日最後の不器用な微笑みを、ヤマモトに返した。