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※実際の作品には挿絵イラストが入ります。




『地球は青かった』

 ビフォアの時代、ソビエト連邦の宇宙飛行士だったユーリ・ガガーリンの発言は、いくつかの意訳を経てそんな風に世間に伝わった。

 当時の埃った地面やコンクリートの森に住んでいた人々は、その言葉に大いなるロマンを覚えたという。

『我々が暮らすこの灰色の世界は、本当は美しい水の星なのだ』

『どこまでも広がる大陸も、宇宙から見れば小池に浮かんだ落ち葉にすぎないのだ』

 ――と。

 一方、後の世代であるアフターの人々は、乾いた大地でスケールの感動に浸った先祖たちを不思議に思っていた。

『地球が青いのは当たり前ではないか』

『宇宙から俯瞰するまでもなく、この惑星(ほし)に緑や黄土の色はない』

『あるのはただ――』





































 プロローグ あるセイラーの出港



















「青!」

 雲ひとつない蒼天と、正午の日差しをきらきら返す、透き通るような青い海。

 どこまで行っても二色の青しか存在しない美しい世界を、今、一艇のカタマランヨットが帆走している。

 二艘のカヌーをつないだような平たい船体に、五メートル超のマストが一本。

 真横からの風を真っ赤なセール(帆)で受け流し、マリンブルーに飛沫を上げて一直線に白を引いてゆくカタマラン。

 滑る如くに海を行くそのスピードは、およそ二十ノットほど出ていた。ビフォアの卑近で換算すれば、陸上選手の百メートル走世界記録とほぼ同じ時速になる。

「すごい! 二十ノットだよキーちゃん! 新記録だよ!」

 セールに受けた風の揚力だけで進むカタマランは、その四十五度に傾いた船体にセイラーを一人ぶら下げていた。

 日に焼けた肌は若々しく、幼さの残る顔立ちは少年にも少女にも見える。

 しかしセイラーが身につけた襟付きの服と紺のスカートは、紛れもなく「海の男」のユニフォームだ。

 傾いだ船を押さえこもうと、セイラーは海に身を乗り出して背中を反らせていた。マストと自分をハーネスでつなぎ、全体重を乗せて必死にワイヤーを引いていた。

 しかしその顔に恐怖はなく、目にも口にも笑みがこぼれている。

「シロカモメ! ……あ、クロカモメ!」

 セイラーが弾んだ声を上げた時、遠くに浮いていた前時代のライトブイ(灯光浮標)からシロカモメの一群が飛び立った。出遅れた一羽のクロカモメが、カァカァとけたたましく鳴いて集団を追いかける。

 同時にセイラーのすぐ後ろで、ざっぱん、どぱんと連続して海面を叩く音が響いた。

「う」と小さくうめいたセイラーの周囲。高速で走るカタマランの両舷で、三匹のハンドウイルカが若いセイラーを煽るように飛び跳ねている。

 先程イルカたちに挑発されてスピードレースに応じたセイラーだが、時に時速五十キロを超えるハンドウイルカに勝利するには、今日は少々風が弱すぎた。

「うう……もう追いつかれた。ごめんなさい完敗です……」

 ワイヤーにぶら下がったままがっくり肩を落とすセイラー。

「ドンマイ」

 そう聞こえたのはイルカの鳴き声(エコー)か同乗者の慰めか。

 楽しげにジャンプするイルカたちを見て、セイラーは次こそはと風を探して首を動かす。

「あ、ほらキーちゃん。コウテイマンボウだよ」

 風のかわりに魚を見つけ、セイラーは遠い洋上を指さした。

 セイラーと同乗者の視線の先、そこにぷかりと一匹のマンボウが浮いている。

 平たい体を水面に横たえ、無表情に日光浴するユーモラスな巨大魚。そのあまりに大きな体の上で、二匹のウミガメが気持ちよさげに甲羅を干していた。

「大きいねえ」

「オキーネー」

 セイラーと同乗者が柔らかい目で海の共生を見守る。その視界の中央、マンボウの無気力な奥目の向こう側に、わずかに黒い島影が映った。

「キーちゃん、サクラジマに戻って来たよ。今日でこの浮島(うきしま)ともお別れだから、島長(しまおさ)さんにちゃんとお礼しようね。……あ、帽子かぶらないと」

 セイラーが同乗者を置いて、いそいそと小さなキャビン(船室)に消えていく。

 無人となったカタマランが、アクリルのように透過した青い波を滑ってマンボウの脇を通過する。

 テニスコート二面分の、陸のように巨大なコウテイマンボウ。

 その上をひたひたと這う、ベッドサイズの二匹のオサガメ。

 カタマランに鎮座したオウムガエルが「オキーネー」と鳴き、高速で海を運ばれていく。



 乾いた血の色をしたウミワリヒルギや、ボコボコと荒れた木肌のバオバブヤシなど。

 遠い南の海の底に生える巨大な塩性樹が朽ちたものを、アフターの人々は腐(くさ)れ木(ぎ)と呼ぶ。

 朽ちた腐れ木が潮に運ばれ、やがて循環海流が相殺しあう海の吹き溜まりに堆積すると、それは浮島と呼ばれるようになる。

 陸なき世界にぷかりと浮かぶ、湿った樹木と海洋ゴミの塊。

 それが文字通りアフターの人々の「暮らしの足場」であり、若きセイラーが訪れたここ《サクラジマ》も、そんな浮島の一つだった。

「坊主、今日の仕事も助かったぜ。……もうここを出ちまうのか?」

 船上で艤装をチェックしていたセイラーが、呼ばれて島を振り返る。

 腐れ木の島から海へと横たえられた油膜まみれの木製ハシゴ。それをこの浮島では桟橋と言い、セイラーに声をかけてきたのは橋の端(は)に立つ、気風の良さそうな白髪の男だった。

「ハイっ! おかげさまで水も食料も十分補給できました。島長さんには本当にお世話になりました」

 セイラーが白地に紺のラインの入ったセイラー帽をぺこりと下げる。首から下げたセイリングゴーグルが揺れ、正午の太陽をキラリと反射した。

「寂しくなるな。ところで坊主はメッセンジャーしかやらねぇのか? 人も運べるってんなら行き掛けの駄賃に客付けてやるぞ」

「ええと、人運び(パッセンジャー)もやりますけど、その、お客さんは女の人限定というか……」

 若いセイラーが口ごもると、島長と呼ばれた白髪頭がニヤリと笑った。

「おいおい。その歳でスケコマシってか? 海の男の勲章、セイラー服が泣いてるぜ」

 セイラーはバツの悪そうな笑みを浮かべ、風にはためくスカートを両手で押さえている。チラリと見えた太ももに、ゴムのベルトとナイフシースが巻かれていた。鞘から覗くシーナイフのグリップには、年季を感じさせる細かい傷が無数に散っている。

「おいーす!」

 気まずい空気を切り裂いて、海の方から聞こえた朗らかに野太い声。

 セイラーが顔を上げると、一艘の古ぼけたディンギー(一人用小型ヨット)がカタマランの隣にぴたりと滑り込んできた。

 あらよっと、と声を出し、ディンギーの乗り手が立ち上がる。

 こんがり焼けた黒い巨体に、サンゾクヒゲの面構え。そのむくつけき顔の下には、はちきれんばかりの肉体が、やはりセイラー服とプリーツの入ったスカートに包まれている。

 若きセイラーは、むくつけき筋肉セイラーに小さく会釈した。《サクラジマ》を拠点に仕事をしていた際、同業者と思われる筋肉氏の姿を何度か見かけたことがあった。

「じいさん、仕事くれ!」

 むくつけきセイラーが船上で仁王立ちのままに求職する。

「バカ野郎。十人も住んでねぇゴミ島に、そんなバカスカ仕事があってたまるか」

「なら、じいさんがおっちぬ前に金目の物をくれ。俺はもう少しでアイツを迎えに行けるんだ」

 島長が再び男を怒鳴りつけようとした時、ひらりと一陣の風が吹いた。

 若いセイラーの目の前で、むくつけき男の巨大なスカートがふわりとまくれ上がる。

 下着は――身につけない主義らしい。

「む。どうした少年」

 めくれたスカートを気にもせず、むくつけき男が首だけ向けて若いセイラーに問う。

「坊主、顔が赤いぞ。日射病か?」

 島長も心配の素振りで若いセイラーの様子をうかがう。

「だだだっ、大丈夫ですっ! なんでもありませんっ!」

 若いセイラーが顔を伏せたままバタバタと手を振った時、再び風が吹いた。セイラーのかぶった帽子が大きく空へ舞い上がり、艶のある黒髪がさらりと風に流れる。

 セイラーは口元をわななかせ、今度は顔を真っ青にして両手で隠すように頭を押さえた。

 その様子を見たむくつけき男が「よっ」と手を伸ばして帽子をキャッチし、セイラーの方へ差し出して言う。

「少年、いい船だな。しかしその女の子みたいな髪はいただけない。海の男は角刈り(クルーカット)だ! それがロマンだ! わかるか少年」

「は、はいっ。すみませんっ」

 若いセイラーは受け取った帽子をかぶり直し、黒髪をぐいと内側へ押し込んだ。うつむき加減の幼な顔が、安堵したようにほっと小さく息を吐く。

「ま、ロマンはともかく坊主のチャート(海図)は出来がいいって評判だったぞ。機会があったらまたこのサクラジマに寄ってくれよな」

「うむ。こんな腐れ島、このじいさんと同じでいつまで残っているかわからないぞ、少年」

 島長とむくつけきセイラーが揃って太い声で笑う。

 それは浮島に暮らす人々の決まり文句だった。いつ崩壊するかわからないゴミの島での生活は、望むと望まざるとにかかわらず一期一会になることが多い。

「じゃ、坊主。最後の仕事頼んだぞ」

 言った島長の視線は、若いセイラーの手にしたFRP製の防水ケースに注がれていた。

「はい。北のフロート、『シキバ』宛てですね」

「ああ。バカみたいに遠い場所だが、トカイはイッペコッペに人が溢れてる。坊主みたいに仕事熱心なメッセンジャーなら、そうそう食いっぱぐれることもねぇだろう。中身は俺の大切な思い出だ。一年後でも十年後でも構わねぇから、必ず届けてくれよな」

 若いセイラーは「ハイっ!」と力強くうなずいた。そうして大事に抱えた預かり物を、すぐにコクピット(操縦席)の中央にしつらえた防水ボックスにしまう。

 やがてナイロン製のテントをリメイクした真っ赤なセールがマストに揚がり、カタマランが風を受けてゆっくりと《サクラジマ》を出港していく。

 若いセイラーは船上ではにかみながら、見送る男たちに手を振った。

 むくつけき男が「おつかれちゃーん」と、旅立つ同業者を軽い言葉で労う。

 隣に並んだ島長も、若きセイラーに最後の言葉をかけた。

「坊主! 最後にもう一度名前言ってきな!」

「アキです! メッセンジャーのアキ。この子はオウムガエルのキーで、船はパラス号です!」

 島長が満足そうにうなずき、むくつけきセイラーとともに大きな声で叫んだ。

「アキ、よい航海を(ボン・ボヤージ)!」























 Ⅰ あるメッセンジャーの漂着


















   1


 月からはぐうぐうと。星からはケロケロと。

 さざ波の音も聞こえないほど海が静かなら、夜空からはこっそり秘密の音が聞こえる――。

 優しい夜の海の上、メッセンジャーのアキはそんな夢を見ていた。

 双胴のカタマランヨット――パラス号の航海は順調で、穏やかな波に浮かぶ彼女は、今はゆりかごとなってアキを揺らしている。

 かつての船には多くの男たちがまとわりついていた。それゆえビフォアの時代には船を「それ」や「あれ」ではなく「彼女」と代名したが、その意味では長くアキを育ててきたパラス号は女というより母かもしれない。

 仕事を終えてセイラー服を脱ぎ、タンクトップにショートパンツといういつもの格好に着替えたメッセンジャーのアキは、小さな母船(マザーシップ)に揺られて気持よくうとうとしていた。

 口の端から、とろりと秘密をはみ出させて。

「……今ボク寝てたね」

 かくんと落ちた頭を上げ、まぶたと口元をこするアキ。

「ふぁあ……。キーちゃん、どうしよう。ボクすごく眠いよ」

 アキがあくび交じりに話しかけた相手は、コクピットの中央でやはり眠そうな目で押し黙っている。

「キーちゃん、ボクのかわりにワッチ(見張り)してよ。何もしなくていいからさ」

「ボクスゴクネムイヨ」

 ケロケロと喉を鳴らして答えるオウムガエルを見て、アキは「だよね」と肩を落とした。

 現在、パラス号は南東の風を受け、東へ向けて三ノットの速度で航行している。

 その船尾に腰掛けてティラー(棒舵)を握るアキは、目下睡魔と格闘しながら悩み中だった。

 全長十四フィートのパラス号には、この規模にしては珍しく後付けのキャビンがある。

 そのせいで見た目はトリマラン(三胴船)に近い船体だが、小さな船の手作りキャビンは足を伸ばして眠れるほど広くはない。キャビンにあるのは寝床などとはとても言えない、モフ葉を敷いた腐れ木のベッドだけ。

 今アキが迷っているのは、その狭い寝室に潜り込んで眠ってしまうか否か、だ。

 通常、シングルハンドの航海で夜間にまとまった睡眠を取ることはない。セイラーは常に眠い目をこすりながら海と空とを確認し、自身と船の安全維持に努める。

 やむなく眠る場合でも、ティラーと自分をセイフティラインでつなぎ、細切れにまどろむだけに留めておく。夜が明けるまで本格的に眠ることはない。それが海の一人旅での常識だ。

 その上アキにとってこの海域は未知だから、なおさら眠るわけにいかない。うっかり寝こけてビルデン礁にでも乗り上げれば、そのまま目覚めず悪夢を見続けるハメになる。

 だが、アキは十四歳だった。いくら寝ても寝足りない年頃だった。

 日に焼けた頬を叩いても、すぐに体は下を向く。

 黒髪頭をかきむしっても、うっとりまぶたが重くなる。

 眠気覚ましに星を見上げてスティックチャート(木枠海図)なぞ作れば、口を開けたままアキ自身がこくりこくりと船を漕いでしまう。

「夜の海って眠いよね……」

「ネムイヨネ」

 防水ボックスの上にぼてんと鎮座したまま、オウムガエルがケロケロと鳴き返した。

 マングローブ雨林など、海水の混じった汽水域で生活していたこのカエルは、ビフォアから生き残った数少ない魚類以外の生物と言われている。知能が高く人の声帯を模写できるため、アキのようなシングルハンドのセイラーが旅の道連れとして――時に非常食として――飼育することが多い生き物だ。

「ちょっとトイレ」

 アキは半分閉じた目をこすりつつ、立ち上がってショートパンツのベルトを外した。

 そうしていざ下を脱ごうとした時、じっとこちらを見つめる両生類と目が合う。

「む」

 じっとりと咎める視線をキーちゃんに向けるアキ。

 しかしオウムガエルは悪びれもせず、純粋な目でただ人間を見つめている。

 しばし無言で見つめ合った後、アキはその十五センチほどの生き物を両手で抱え、くるりと向きを船首に変えた。

 同乗者の視線を封じると、いったん夜の海を見回してからショートパンツと下着をおろす。念のために左腕のダイバーズウォッチにラインを巻き、腰から下を手で覆いながら船尾のハシゴをそろそろと下りる。

 下半身を海に浸して用を足すと、手すりに備え付けたモフ葉で体を拭いた。

 毛羽立った糸毛(いとげ)はほとんど水を吸わなくなっている。モフ葉は布団に腰巻きにと、利便性と吸水性に優れていたが、海水を吸わせると劣化が早かった。

 こういう時、アキはいつも男に生まれたかったと思う。

 下着も脱がず、終わったら振るだけでいいなんて――と。

 メッセンジャーの仕事をする。そのためにセイラー服を着て男として振る舞うたび、アキは自身の女性を持て余していた。日々女の不都合ばかり感じていた。

「男に生まれたら色々楽だったのに……」

 肩をくすぐる髪を疎ましげにいじりつつ、アキは独りごちる。

『クルーカット』と言わないまでも、本当はこの髪だって短く切ってしまいたかった。

 アキがそれをしないのは、『せめて髪でも伸ばして少しは女の子らしくしなさい』と口うるさかった母のせいだ。

 あれやこれやと小言をいいつつも甘やかしてくれた母は、もういない――。

「そういえば、キーちゃんってオスメスどっちなんだろ……?」

 コクピットで船長よろしく海を見据えるカエルを見てつぶやく。

 なんとなくオスであってほしい気がした。海で女二人旅というのは少し心もとない。

 しかし自分と異なる「男」という性に、アキはうっすら畏怖もしていた。アキが父以外に出会った男たちは、皆恐ろしい海賊(シーロバー)だった。

 それも含めて考えると、やはり自分は男に生まれるべきだったとアキはつくづく思う。

 とはいえ大海原にひとりぼっちではないというだけで、キーちゃんはアキにとって家族同然の存在だった。

 老いも若きも男も女も人もカエルも関係ない。真には会話をしていなくとも、キーちゃんがそこにいてくれるだけでアキの孤独は癒やされる。

 うっすら優しくなった目をカエルの船長から外し、アキは明るい夜空を見上げた。

 雲はほとんど見当たらない。星の位置も瞬き具合も、いつもと変わらない。

 そこに天候が変化する兆しは、微塵も見受けられない。

 海面に目を戻す。ビルデン礁が作る白波はおろか、周囲には島影も漂流物も見当たらない。

 すべての視界が水平線で、夜の帳に静かな波がただひたひたと揺れている。

 ――小一時間くらい眠っても、きっと何も変わらないよね。

 そう思った途端、アキの口からふわぁと大きなあくびが出た。

「じゃあキー船長、目的地はシキバで。あとは宜しく候」

 試しにそう言ってみると、

「ヨーソロー」

 と、孤高の背中が鳴き声を返す。

 アキは遠慮無くキャビンに潜り込み、丸くなってもなおつかえる狭い寝室で眠った。

 月の寝息も星の鳴き声も聞こえない、深い眠りだった。



 ひゅっ、と高いところから落ちる感覚に、アキは身を縮めながら目を覚ました。

 同時に背中に大きな衝撃があり、すぐにパラス号がぐぐっと持ち上がる動きを見せる。

 アキは寝床から大きく弾き飛ばされ、天井で頭をしたたかにぶつけた。

「いったたた……」

 しかめた顔の額をごしごしとさする。しかしその痛みが引くより先に、窓を打つ激しい雨音が耳に飛び込んできた。

 体をモフ葉でくるんだまま、血相を変えてキャビンを飛び出す。

 時化ていた。

 夜の黒をのっぺりと覆い隠す、灰色の乱層雲。

 荒天の空からは船体を削る石のような雨がバラバラと落ちてきている。

 遠くの闇で高波が立ち、今にもパラス号に襲いかかろうとしているのが見える。

「空も海もあんなに穏やかだったのに、なんでこんな大シケに……」

 自然を読む力に長けたセイラーは、事前に天候の変化をある程度察知することができる。それゆえアキは今まで荒天を避けてきた。その分、時化での航海経験は乏しい。

 未知の恐怖に体がこわばり、膝から下が小刻みに震え出す。

 しかし嵐に怯むアキとは逆に、パラス号は荒波にぴたりと船底をつけて頼もしく海を滑っていた。

 双胴のカタマランは三角ヨットのモノハルに比べて接水面積が大きい。その構造上揺れも少なく、船底に竜骨もないため、波の上を横滑りして横転しにくい。仮に大きく水をかぶったとしても、バラスト(重り)もないので沈(ちん)することもない。

 だが、それがゆえ復元力の大きいモノハルとは異なり、もしも嵐の中で転覆すれば独力で船体を起こすことは不可能だ。海のうねりにはめっぽう強いが、帆走時の横風に対してカタマランはとことん弱い。今は怯えて震えている場合ではない。すぐに対策を為す必要がある。

 アキは大急ぎでキャビンに取って返し、フード付きのビニルカッパを羽織った。

 更に上からライフジャケットを身につけて、首に下げていたゴーグルを装着する。両手にはしっかりと指ぬきのセイリンググローブをはめた。

 再びコクピットに戻る。泰然と海を見つめていたキーちゃんをケージに押し込み、ライフジャケットのハーネスとラインでつなぐ。

 その間も、パラス号は三角波を伝うようにして激しく船首を上下に揺らしている。

 近くで大きく弾けた白波を見て、アキは反射的に四つん這いになった。

 キャビンの上で大波をかぶり、必死でブーム(帆桁)にしがみつく。

 船尾を振り返ると、手すりのモフ葉がさらわれていた。キーちゃんのケージはコクピットの隅に追いやられ、ティラーの持ち手を固定する位置にしっかりと引っかかっている。

 本当に船長のようなオウムガエルの勇姿を見て、アキの士気は高揚した。

 そのまま這うようにデッキを移動する。遊ばせていたジブセール(副帆)の無事を確認すると、ゴーグル越しに毅然と空を見上げた。

 篠突く雨は激しさを増している。風は攻撃性を伴って強く吹きつけてくる。

 だが、雷はない。

 アキは死に物狂いでハリヤード(揚げ索)を引き、セールを張った。

 こんな大荒れでの帆走は自殺行為だとわかっている。しかしこのまま何もせずとも、横転の可能性がゼロになるわけではない。

《サクラジマ》の島長によると、このまま北へ行けばスカベンジ済みのゴミベルトがあるはずだった。循環海流で停滞した海の吹き溜まりには、小さな浮島ができることが多い。

 幸い風向きは真南からと一定している。メインとジブ、両方のセールをカンノンビラキで展開すれば、船の安定性も少しは増す。

 今はどこでも何でもいいから浮きものを見つけ、とにかくいったんパラス号を停泊させる。それが船とクルーにとって一番生存率が高い。

 そう信じて、アキは嵐の中でパラス号を走らせると決めた。

 風はアキを飛ばしそうなほどに強く吹いている。

 海に木片(ログ)を投げるとあっという間に見えなくなった。船速も相当に速い。

「キーちゃん、ありがとう!」

 ティラーを死守していたオウムガエルに声をかけ、アキは持ち場を交代した。

 コクピットに浅く腰掛けて、キーちゃんのケージを足の間で挟む。片手で背後の手すりをつかみ、もう片方で慎重にティラーを操舵する。

 効率よく航路を選ぶ余裕などない。今のアキにできるのは、パラス号に振り落とされぬよう必死にティラーにへばりつくこと。そして襲い来る波にカウンターで舵を当てることだけだ。

 覆いかぶさるように体全体でティラーを握り、アキはしっかり前を見据えた。

 横殴りの雨がびっしりとゴーグルのレンズを覆う。口に入る雨は甘いが、すぐに海水が入り込んできて渇きに変わる。

 風が吠え、波が唸る。

 パンチングの連続で視界が激しく上下に揺れ、耳には嵐の轟音しか聞こえない。

 うねりと緊張で、胃が吐き気を催す。

 一人で海に出て二年も経つのに、どうしようもなく心細い。心臓がひゅっと奥に引っ込むような感覚があり、めまいに似た症状で頭がふらつく。

 張ったセールも見えない激しい雨の中、アキは救いを求めるように足元を見た。

 そこに、勇敢なる船長がいる。

 久しぶりの天の恵みに、キーちゃんは嬉しげに喉を鳴らしていた。この嵐に何を悠長なと思うも、孤独でないと感じるだけでアキにはその存在が頼もしい。

 セールが破れそうなほど大きく風をはらみ、パラス号が高速で海を滑ってゆく。

 嵐から逃れようとするそのスピードも船長同様頼れるが、勢いに乗ると高波を下る時にバウダイビング――船首からの沈没――してしまう可能性もある。集中を切らせてはいけない。

 密度を増したゴーグルの水滴を拭いながら、アキは必死に舵を当てて波を斜めに切った。

 五メートル以上あるパラス号のマスト。それを優に越える波の壁を、パラス号は勇敢に上っていく。

 波の頂点から海を見下ろし、アキの頭に墜落のイメージがよぎった。

 身をすくめて足元を見る。キー船長がケージの中で、微動だにせずアキを見上げている。嵐に臆さぬつぶらな瞳は冷静と言えなくもない。

 ふっと力を抜いたように、アキの焦りが沈着していく。

「キーちゃん、嵐を抜けたらおいしい方のプランクトンあげるね!」

 口に出すと勇気が湧いた。クルーにとって船長との約束は絶対だ。

 叩きつけるように船の上から襲いかかる波濤。そのひとつひとつにアキはキー船長のような冷静さをもって、丁寧に舵を当てていく。

 慎重に波の方向を見極めねば、ラダーがロックされて真正面から高波へ突っ込んでしまう。この荒天で装備が破損したならば、修理は絶対に不可能だ。

 次から次へと押し寄せる波浪の見極めに、アキは文字通り命がけで集中する。

 しばらくの間はティラーにかじりつき、死に物狂いで操船していた。

 やがて波の合間にわずかな猶予を見つけ、チラリとダイバーズウォッチに目をやる。

「え……」

 愕然とした。

 三時間は嵐を走ったという感覚がたった十分のこととわかり、アキの瞳孔が収縮する。

 射るような雨が襟元から入り込み、薄い胸を冷たく濡らす。

 底冷えと心細さとに、歯の根がカタカタ止まらなくなる。

 獰猛な吠え声とともに高波が、上から横からまさに怒涛と襲いかかってくる。

 アキは片手でケージを押さえ、自分も必死に手すりを握った。背中を打つ波の衝撃と痛みに負け、心がたまらず悲鳴を上げる。

 もうセールを下ろしてキーちゃんとキャビンに引きこもりたい。カタマランは簡単に横転しない。横転してもすぐには死なない。楽になりたい。怖い。早く楽になりたい――。


『アキ、たくさん生きろ。海は広いぞ』


 アキが弱気になった時、いつもどこからともなく聞こえてくる父の声。

 それは父の命令だった。父から託された願いだった。

 そして――父の最後の言葉だった。

 アキの体が言葉に反応して奮い立つ。心は恐怖していても、生存本能が弱気な少女を無理やり戦いへと引き起こす。

 海を睨みつけながら、時にキーちゃんと父に励まされながら、アキは邪念を振り払い、必死にティラーにかじりついて波と戦った。

 再びダイバーズウォッチを見ると、今度は一時間ほどが過ぎていた。

 嵐はまだ抜けない。そろそろティラーを握る手に力がこもらなくなってきている。

 セールの裏に風が入って船体が大きくヒールする場面が二度あった。

 海水を直接飲むような傾きの中、アキは涙を流して必死に手すりにつかまっていた。体力の限界が近づいている。

 夜の海は相変わらず周囲のすべてが水平線だった。

 世界にはパラス号しか存在しなかった。

 いつまでこの嵐は続くのか。自分はここで死ぬのだろうか――。

 ざばざばと顔にかぶる水が塩辛い。アキの胸中で弱気がどんどん膨れ上がる。

 闇から押し寄せる孤独と現実的な死が、父の言葉を恐怖で塗り込めていく。

 ここで自分が死んでも悲しむ人はいない。両親に少し早く会えるだけだ。二人が生きているか死んでいるかはわからないけれど、でもたぶん死んでいる。だったら――。

「助けてキーちゃん!」

 アキはたまらず叫んだ。震えが全身に回っていた。

 十四歳の少女は心の底から助けを求め、足元のオウムガエルに泣きついた。

「怖いよキーちゃん!」

 キーちゃんは、相変わらず荒れる海をじっと見据えている。

 キーちゃんはいつでも微動だにしない。晴れていようと、嵐になろうと。虫をあげても、アキが服を脱いでも。

 キーちゃんはいつでもつぶらな瞳でアキを見上げ、ケロケロと喉を鳴らすだけだ。

 キーちゃんはアキを助けない。

 けれど、見捨てもしない。

 アキは何度も頭を振り、ゴーグルの中でしっかりと目を見開いた。

 海には逃げ場なんてない。キーちゃんに助けてもらうのではなく、自分がキーちゃんを助けるのだ。そう自らを奮い立たせ、牙の如くに襲いかかってくる白波を睨みつけた――その時。

 南の空に浮かんだ積乱雲から、突然ドンと轟音が響いた。

 船尾を振り返ると、波の上が白く煙っているのが見えた。

 真っ白に色のついた風が、一斉にパラス号に向かって吹きつけてくる。

「白い、嵐――」

 一瞬呆けたアキの体が揺れる。風に体を持っていかれる。

 コクピットに転がった少女の体を、白い気流が突き刺すように吹きすさぶ。

 ゴーグルの表面を氷の粒がみしりと覆い、瞬時に熱を奪われてアキの体が芯から凍える。

「なんでっ……夏に、吹雪が……っ!」

 真夏の寒気に吹き飛ばされ、パラス号が空を舞う。

 ジェット気流が伴う雹。全身の骨が砕けたような痛み。息をするのも億劫な重い疲労。

 ――寒い。寒い寒い寒い。

 アキの体はただ本能だけでティラーにしがみつく。

 身動ぎするとビニルカッパの背中からパリパリと氷の割れる音がした。じっとしていると次第に背中が重くなっていくのがわかる。

 母が聞かせてくれたおとぎ話に出てくる海底に住む大男。あのウミボーズに船尾をはたかれたようなスピードで、パラス号が上下左右に飛び跳ねる。

 真後ろから背中を殴る雨。それを凍らせた刃のような礫の飛来。

 ゴーグルの中でも目を開けることができない寒さとスピードの中、弱り切った十四歳の少女は再び思ってしまう。

 ――もう、楽になりたい。

 そうしてアキが諦めかけた時、ガタガタと揺れながらキーちゃんが報告した。

「ワッチ、ワワワ、ワッチ」

 寒さと痛みと恐怖の中で、どうにか細く目を開ける。

 ほとんどゼロに近い視界の中央に、わずかに水平線を歪ませる影が浮かんでいた。

「うき、しま……?」

 東の海面にうっすら黒く盛り上がった陰影。それはゴミベルトの周囲によく発生する、腐れ木の積み重なった自然の浮島に思われた。

「すごい! キーちゃん、この嵐であれが見えたの?」

 口の中にざぶざぶと水が入るのも構わず、アキははしゃいでキーちゃんに話しかける。くりくりとつぶらな船長の黒い瞳は、まったくもって伊達ではなかった。

「あそこに行けばボクたち生きられるよ! がんばろうキーちゃん!」

「ガバロー」

「大丈夫!」

「ダァジョーブ」

 歌うように二人で励まし合いながら、パラス号は勇気と希望を得て果敢に進む。

 波間にたゆたうオキアミほどにしか見えなかった島影が、うねりを越える度に大きくなって近づいてくる。

 ――みんなが、ボクを守ってくれた。

 アキは神話における乙女パラスの父――海神トリトンと、頼もしきキー船長、そして自分にパラス号を遺してくれた両親に感謝する。

 その上で、自分もまたパラス号とキーちゃんを守ったのだと誇らしく面舵を切った。