2


 真夏に吹雪いた「白い嵐」は、一瞬の出来事だった。

 しかし空はいまだに黒い高層雲が広く覆っている。普段は停滞しているであろう浮島周囲にも、荒ぶる波が激しく打ち寄せている。

 アキは激しい雨に打たれながら、ゴーグル越しに浮島を仔細に見た。

 海水に溶けない漁網やプラスチックなど、あらゆる漂流物で淀んだ海の墓場。

 そこにさながらウミダヌキ(ビーバー)の巣のように積み重なった腐れ木の集合体が、アキの目指す浮島だった。

 浮島は中央でわずかに膨らみ丘を作っている。しかし一番高いところでも海抜三メートルほどで、激しい雨で全景を見渡せないが、島の面積もそう大きくはなさそうだ。

 干満差が少ない停滞海域の浮島は、規模が大きければ大抵は《サクラジマ》のように十人前後の人間が住んでいる。しかし見える範囲に居住の跡はうかがえない。

 海に安全地帯はない。アキのサバイバルは、まだ終わっていない。

 嵐に揺れるパラス号の上、アキは決意の表情でスピアガン(水中銃)を構えた。

 しっかりと浮島の土台を狙い、トリガーを引く。

「ディン」とキー船長が喉を鳴らすと同時に、ビンと音を立てて、アキの手元からスピア(銛)が飛んでいった。このつぶらな瞳のオウムガエルは、なぜかスピアの射出音を好む。

 腐れ木の土台部分にめり込んだスピアが、パラス号との間に一本の線を渡した。伸びきった十メートルの硬テグスラインが、ゆらりと海中に沈んでいく。

 アキはスピアガンを足元に置き、銃床をしっかりと踏みつけた。ツナヒキザメのヒゲのように海上に垂れたラインを握り、力を込めてゆっくり片手で引き寄せる。同時にもう片方の手でパドルを握り、荒れる海の上をしっかりと漕いだ。

 ビフォアの時代なら船外機(エンジン)で楽に寄せられる接岸も、アフターでは基本的に曳くか漕ぐかしかない。三十フィートを超える船を単独で曳くのは厳しいが、軽量小型のパラス号ならある程度人力でも推進が可能だ。

 強風にあおられぬよう、セールはメイン、ジブともすでに畳んであった。パラス号の四方にはパラシュートアンカーを浅く垂らし、船体の重心も整えてある。

 あとは辛抱強くラインを引き、浮島に船を接岸させれば休める――。

 パドルを漕ぎつつラインを手繰るアキは、それだけを考えていた。

 本当は上陸したらすぐに天幕を張って雨水を貯めなければならない。なぜ天候を読み違えたのか考えなければならない。

 しかし余計なことに頭を使うと、想像力がひとり歩きする。浮島が底からガラガラ崩れるような、スピアのラインが解けるような、島にはタチの悪い虫がたくさんいるような――そんな嫌なイメージばかりがアキの頭に湧き上がってくる。

 ドシャ降りの豪雨の中、アキはほとんど無心でラインを手繰っていた。揺れる船体のタイミングを見ながら。グローブに伝わるラインのテンションを確認しながら、徐々に。

 ドーム状に堆積した腐れ木の島が、あと少しで手の届く距離に近づく。

 波が船体を一番高く持ち上げたタイミングで、アキは浮島に飛び移った。

 瞬間、踏んだ木皮がずるりと剥げ、足を滑らせ膝を強打する。

「んぐっ!」

 あまりの激痛に膝を抱えて悶絶した。しかし痛みが引くのを悠長に待っている暇はない。

 アキは涙目のまま歯を食いしばり、安定した腐れ木を探してパラス号から伸びたロープを舫(もや)った。船首のクリート(係船具)にもロープをかけ、複数の腐れ木を経由して一番太い丸太に舫う。

 船体が固定されたのを確認すると、アキは太もものシースからシーナイフを取り出した。

 腐れ木に打ち込んだスピアを引き抜くため、濡れた木皮を刃先でえぐりとる。

 無事にスピアを回収してパラス号に戻ると、今度は四カ所に下ろしたパラシュートアンカーの手応えを確かめた。横波に抵抗する重みがしっかり手に残る。利きに問題はなさそうだ。

 雨を避けるため、アキはいったん狭いキャビンに潜り込む。

 二カ所を浮島に固定し、四方向に横流れ防止のアンカーを下ろした。

 それでも嵐の中のパラス号は、魚に引かれた浮子(うき)のように大きく上下に揺れている。たいして物があるわけではないが、キャビンの中はしっちゃかめっちゃかだ。

「ここで寝るのは、無理だね……」

 先刻天井で強打した額をさすりつつ、キャビンの床に落ちていたバックパックを拾った。中には一日分の水と食料、そしてアキにとっての『貴重品』が入っている。

 バックパックにスピアガンをねじ込むと、意を決してコクピットに出た。

 ビニルカッパの届かない脛から下に、一瞬で雨粒がしたたる。火傷の痛みに似た底冷えが、ふくらはぎから背中へじわじわ這い上がってくる。

 雨を避けるように素早く足踏みしつつ、アキはパラス号の片胴収納を開けた。中から何かと便利な白い天幕を取り出すと、最後にキーちゃんのケージを小脇に抱える。

「さて上陸……あ」

 いざ浮島へ移ろうとしたところで、アキはある意味「命よりも大事なもの」を忘れていることに気づいた。いったんキーちゃんのケージを足元に置き、防水ボックスの中から《サクラジマ》の島長より預かった荷物を取り出す。

「あぶないあぶない」

 アフターで自分を生かしてくれる大事な「仕事」を抱え、アキは再び浮島に上陸した。

 安定した足場に荷物を置き、激しく揺れるパラス号に舫ったロープを手に取る。

 浮島と船を係留したロープを握りしめたまま腐れ木の上に腰を下ろし、アキはようやく一息ついた。

 緊張が解けた途端、どっと疲れが襲ってくる。

 雨は思う以上に人の体力を低下させる。何か硬いもので殴打されたかのように、体中の筋肉がきつく収縮していた。

 ぐったりと疲弊した顔で嵐の空を見上げる。

 雨も風も一向に止む気配がない。自分の体力に関係なく、この天候ではどのみち何の作業もできそうにない。

 顔を流れる雨を舐めながら、アキは足掻くことを諦めた。

 ビニルカッパの上から天幕――フッ素樹脂素材のテント布――をすっぽり被り、常よりも手間取りながらシートロープでライフジャケットと結ぶ。ねじ結び(ティンバーヒッチ)は自然に解けることがない結び方だ。休んでいる間に天幕が飛ばされることはないだろう。

「きっと今のボクは、無理やり大人のポンチョを羽織った子供みたいに見えるね……」

 ぶかぶかの白いフードを被った自分の姿を想像し、アキは苦く笑う。

 現在の間抜けた格好だけでなく、アフターを一人で生きる十四歳の少女は、実際無理をしている子供だった。大人のように自分で食い扶持を稼がなければ、海で孤独に死んでゆく。大人と同じくどれだけ必死に生きてみせても、誰にも褒めてはもらえない。

「というか、テルテルボーズだこれ……」

 しかしおかげで雨は凌げる。アキは天幕の中でぼんやりグローブの指先を見つめた。

 日頃慣れ親しんだロープワークに手こずったのは寒さのせいだろう。吹き荒れた白い嵐の影響で、かじかんだ手足の感覚が鈍麻している。それでいて背中にはピリピリと刺すように痛む冷えを感じる。

「もう少し浮島の発見が遅かったら、凍傷になってたかも……」

 バラバラと天幕のポンチョを叩く雨音の下、アキは両手で膝を抱えて船長のケージと身を寄せ合った。

「キーちゃん、ありがとね。嵐が過ぎたら島を探検しようね」

「オイシー」

「うん。きっとキーちゃんの好きな虫もたくさんいると思うよ」

 言って相棒に手を差し伸べようとした時、グローブの先から出た指先が真っ赤に染まっていることに気づいた。

 先程強打した膝がぱっくり裂け、雨に流されながらも血が染み出してきている。

 パラス号に戻れば治療用の清潔なタウエル布が少しだけ置いてあった。湿布代わりのクスリ菜のストックもある。取りに戻るべきだと思う。

 だが、アキは疲労の限界だった。フードの中で絞れるほどに髪を濡らした少女には、もはや立ち上がるだけの気力も体力もなかった。まぶたの重みに抗うことができなかった。

 じくじくとうずく膝の痛みも忘れ、アキは天幕の中で気を失ったように眠りに落ちた。



 目が覚めると、アキの前から二つのものがなくなっていた。

 一つは嵐。

 テルテルボーズのご利益か、アキが寝ぼけ眼で見上げた空には、辺りの影をかき消すような白い太陽が燦々と輝いている。あの暴風も今はなく、海は膜を張ったように穏やかだ。昨夜の寒さが嘘のように暖かく、背中の悪寒もすっきりと雲散している。

 アキは体に巻きつけていた白い天幕を脱ぎ、思い切り伸びをしながら立ち上がった。

 凝り固まった体を揉んでほぐす。節々に痛みはあったが、疲労の蓄積は感じない。

 顔から自然と笑みがこぼれた。足元に「やったね」と声をかけると、キーちゃんが「ヤタネー」と鳴いて返す。

 浮島の端まで歩き、息を大きく吸い込んだ。母なる潮の香りとともに、ゴミベルトに淀んだ臭気が鼻の奥を不快に刺激する。

 うっと顔をしかめつつ周囲を見回した時――アキは二つ目のなくし物に気づいた。

 途端に顔を蒼白にし、腐れ木の丘を駆け上がる。湿った木皮に足を取られつつ、ほとんど四つ足になって頂上へ向かう。

 心臓が奥に引っ込むあの感覚があった。体を動かした以上に動揺で呼吸が乱れていた。

 頂上に着く。流れる汗を拭いもせず、アキはぐるりと周囲を見渡した。

 上陸前に考えていた通り、浮島は小さかった。外周は三十フィート級が五艇も停泊すれば一周できるだろう。周囲には他の浮島も見当たらない。

 アキの上陸したこの浮島は、全方位を水平線に囲まれた絶海の孤島だ。

 そんな浮島を作った停滞した海には、外洋から集まった漂流ゴミがのたりと浮いていた。赤く淀んだ潮の中には、様々な無機物の欠片が漂っている。

 ――それなら、きっとどこかにいるはず。

 アキはしっかりと目を見開き、近くに遠くに穴の開くほど海を見つめた。

 だが、島影も、船影も、視認できるような漂流物も、海の上には一切何も見当たらない。

 不安と焦燥で何十回と見回しても、アキの血眼には淀んだ赤潮と、腹が立つほど健やかなブルーしか映らない。


 パラス号は、どこにも見当たらなかった――。


 アキは浮島の頂点でくずおれた。

 怒りや悲しみに声を発することもできなかった。

 世界から陸が失われ、両親が失われ、とうとうパラス号も失われてしまった。

 両親の形見というだけでなく、アキにとってパラス号はすべてだった。生まれ育った浮島を離れてから、アキはずっとパラス号とともにあった。パラス号は生活のすべてを載せた家であり、アキの自我だった。

 今、アキは自身を失ったのと同等の衝撃――死で心を塞がれていた。

 濡れた腐れ木にへたりこみ、放心して風に吹かれる。

 何も考えられなかった。

 何もできなかった。

 照りつける太陽が赤く沈むまで、アキはただ呆然と海を見つめていた。



 単調な海面が月を映し始めた頃、アキの耳がケロケロと抗議の声を拾った。

 浮島の頂点からぼんやりとうつろな目で見下ろすと、忘れ去られた船長のケージが今にも波にさらわれようとしていた。

 潮が満ち始めているのだと気づく。愛用している白い天幕も、アキに合図を送るように夜の海面にゆらゆらと漂っていた。

「に、にもづっ」

 アキは掠れた叫びを上げて立ち上がる。

 が、ずっと座っていた足が痺れたのか、体が思うように動かずつんのめった。

 悲鳴を上げる暇もなく、アキは腐れ木の上を跳ねるように転げ落ちていく。

 体中を湿った樹木が殴打した。朽ちた木皮が小麦色の肌をひっかいた。しかし転がる少女は止まらない、止まれない――。

 当然の帰結として、アキは静かな海にどっぱんと白い王冠を作った。

 ややあってから、ライフジャケットの浮力が少女を海面へ引き上げる。

 海水を吐きながら浮島を見上げると、くりんとつぶらな目をしたキーちゃんと目が合った。

「タスケテ」

 きちんと言葉の意味を理解しているような鳴き声に、アキは思わず噴き出した。

 そうして力が抜けた途端、体中に血が巡る感覚に気づく。痺れで動かないと思われた体は、実際は疲労と恐怖で強ばっていただけのようだ。

「うっ」

 心身ともに緊張が解けたところで、強烈な飢えと渇きが一斉に襲ってきた。海の中でなければ立ちくらみしていたかもしれない。

 同時に血は頭へもまわり始めた。自分が海へダイブした理由をアキはようやく思い出す。

「荷物!」

 ばしゃばしゃと海面を見回すと、コンと後頭部にFRP素材のケースが当たった。

「よかった……!」

《サクラジマ》の島長に託された防水ケースに、アキは愛おしげに頬ずりする。

 メッセンジャーは人から人へと希望を運ぶ仕事だ。この小さなケースには島長の希望が詰まっている。メッセンジャーはいつでも誰かの希望を背負っている。

 そのことは、アキ本人も気づかぬうちに生きる希望につながっている――。

「うん。落ち込んでばかりもいられないよね」

 絶望の中で希望を拾い、アキはざぶんと海から上がる。

 波にさらわれかけていた天幕とバックパック、そしてキーちゃんのケージを回収すると、再び丘の上へと登った。

 痛覚にも血が巡ったのか、体中から悲鳴が聞こえてくる。

「そりゃこっから落ちれば痛いよね……うう」

 丘の頂点で尻をさすりながら、アキは月明かりを頼りに足元の腐れ木を覗いて回った。隙間に海の見えない木の密集度が高い場所を見つけ、そこに荷物をまとめて置く。

 次いで腰掛けに具合の良さそうな丸太に座り、ケージから解放したキーちゃんを隣に招いた。

 ふうと大きく一息つくと、ぐうと腹の虫も鳴く。

 バックパックから水筒とアシツキの干物を一枚取り出し、相棒と食料を分け合う。

 夜は静かだった。

 一人と一匹が乾物を咀嚼する音が、わずかに聞こえる潮騒のリズムにアクセントを付ける。

「オイシー」

 キーちゃんがケロケロと満足気に鳴いた。その口元からは、人間の足のように見えるアシツキのヒレがはみ出している。

 ――オウムガエルはなんのために生きているんだろう?

 アキはふとそんなことを考えた。やっぱり食べるためだろうか。生きていくために食べ、食べていくために生きる。それは人間も同じだろうか。

 取り留めのない自分の行く末、そして来し方を考える。

 たぶん、今は自分も食べるために生きていると思う。食べなかったら死ぬ。死んだら何が困るのだろう? 両親もパラス号も失い、自分は何をすればいいのだろう? 他の人たちはなんのために生きているのだろう――。

 アキには生きる目的がよくわからない。両親以外の人間をほとんど知らないアキは、誰かの生き方を想像してみることがうまくできない。

「おいしいね」

 詮無き思索を放棄して、アキは隣の船長に遅い相槌を打った。

 ――今はただ、食べることだけ考えよう。キーちゃんと同じように生きよう。

 自然に本能と向き合って、アキは生きるために再び眠った。



 名もなき浮島の東側に、夜明けの光が広がり始める。

 朝日よりも早く起床していたアキは、腕立て伏せをするような姿勢で腐れ木にキスを迫っていた。

 震える唇をすぼめ、ゆっくりと木のウロに溜まった水に口を付ける。

 ズズっとすすってみると甘い。まさに甘露だ。乾いて前歯に貼りついたアキの唇が、潤いを得て徐々に剥がれていく。

 ああ生き返ったと幸せ満面に目を閉じた時、口の中にチクリと刺すような痛みが走った。飲み込む直前だった朝露を、ぺっと顔の前に吐き出す。

 小さな水泡をまとって腐れ木の上でのたうっているのは――ピン虫だった。

 もぞもぞと木皮に潜り込んだT字型の昆虫を見て、アキはげっそりとつぶやく。

「サイアクだ……」

 アフターに生きる者として致命的だが、アキは虫が苦手だった。

 苦手になったきっかけはまさにこのピン虫で、この五ミリほどの虫の尻から伸びた針に刺されると、患部がひどく腫れ上がる。悪質な種のガビョウムシであった場合、毒を注入されて最悪肉体が壊疽する。

 木皮の隙間に潜り込んだピン虫は、取り立てて毒々しい色には見えなかった。

 が、かつて口内を刺されて膨れ上がった自らの舌で呼吸困難に陥ったことのあるアキは、今後の生活に絶望を禁じ得ない。

 ピン虫は腐れ木があればどこにでもいる。一匹見たら、百匹は、いる――。

「でも、水の確保は命の確保だしね……」

 独りごちつつ浮島を回り、半泣きで腐れ木のウロに溜まった露をすする。

 甘みを感じたのは木肌の乾いた丘の腐れ木だけで、下層はほとんど海水混じりだった。そちらの方は塩に強いキーちゃんに担当してもらうことにする。オウムガエルは賢い生き物だ。虫が好物でも、ピン虫を口に含む人間のようなヘマはしない。

「オイシー」

 水を得たオウムガエルはケロケロと機嫌よく鳴いた。

「キーちゃんが楽しいようで何より……」

「タノシー」

 そうしてアキはオウムガエルを携えてビクビクと島を一周し、食料となる動植物の存在がないことを確認してがっくりと肩を落とす。

 ここはビフォアのゴミと腐れ木しかない、真に純粋な浮島だった。

 ――この何もない浮島で、いったい何日生き延びられるだろう。

 アキが現実的な生存戦略を練り始めた頃、東の空が本格的に白んできた。

 日が昇り切る前に、いったん丘の上に移動する。

 頂点に着くと、手頃な太さの腐れ木を堆積した木々の間に差し込んで回った。

 できあがった四本の柱の上に、天幕を本来の使い方で張る。隅をしっかりとシートロープで固定すると、簡素なタープ式のテントが完成した。

 日中に活動しない時はなるべくこの日陰で過ごし、余計な水分の蒸発を抑える腹積もりだ。パラス号を失った今、このテントがアキの新しいホームとなる。

 アキは早速ホームの下に潜り込み、今後の方針を考えた。

 最優先で行うべきは水と食料の確保。

 次いで浮島からの脱出方法の模索。

 水と食料の確保のため、まずは手持ちの道具を確認する。


 ・一リットル水筒(残量約二百五十ミリリットル)

 ・食料(魚の干物二枚)

 ・天幕

 ・シートロープ(五メートル二本、二メートル三本)

 ・バックパック(三十リットルサイズ)

 ・装備(ダイバーズウォッチ、シーナイフ、スピアガン、ゴーグル)

 ・衣類(ライフジャケット、ビニルカッパ、セイラー服、セイリンググローブ)

 ・《サクラジマ》島長からの預かり物(内容物不明)


 直接生存日数を延ばすようなものは、ほぼないに等しい。

 そのくせ衣類だけはやたらに充実しているが、これはアキだけに限ったことではない。

 海に沈んだビフォアの建造物――ビルデン礁の多くは浅い部分に衣類があり、食料は限られたダイバーしか潜れない海の底にあることが多い。衣類の流通が多いわけではないが、食料に比べればアフターでは比較的安価に取り引きされている。

 セイラー服はまた別で、これはアキが父から譲り受けた『貴重品』だ。ある意味では食料よりも大事なものと言える。

「これだけ……か」

 大事なものは残っていたが、気落ちして大きなため息が出る。

 膝をケガした時にパラス号に戻らなかったことが今更のように悔やまれた。

 キャビンには溜め込んだ二十リットルの雨水があった。滅多に使うことはなかったが、船上設置型のフラッシュ式海水淡水化装置もあった。温かいモフ葉だってあったし、食べかけのゲッチャ(魚の肝臓の塩漬け)や、フリントボール(ワックスコートの玉マッチ)もあった。

 しかし嘆いていてもしょうがない。パラス号を失ったショックは大きいが、幸か不幸か、アキは今までの旅でサバイバルには慣れている。

 自らを鼓舞するように一度大きくうなずくと、アキは早速行動を開始した。

 水筒のコップを外し、井戸状に堆積した腐れ木の底に置く。周囲の腐れ木にゴーグルですくった海水をたっぷり含ませる。バックパックとライフジャケットも海水に浸し、コップの脇に並べる。最後にビニルカッパで井戸に蓋をし、木片で四隅を固定した後に中央をたわませた。

 こうして太陽熱で海水を蒸発させれば、水蒸気はビニルカッパに付着して冷やされた後、水滴となってコップの中へ落ちる。これが浮島で作れる最も簡易な海水蒸留システムだ。

 とはいえ天候に左右されるし、一日に得られる水の量は微々たるものでしかない。アキの体重なら日に最低でも1リットル以上の水分が必要になる。

 アキは腕組みしながら水分を得る方法を考えた。

 たとえばゴーグルのレンズ集光で火を起こしても海水を蒸留できるが、水の染み込んだ腐れ木の島には火種を作れる乾いたものが何もない。

 ならばと海水をそのまま飲めば、今度は塩分により利尿が促進される。すなわち貴重な水分を体外に排出してしまう。水分補給に海水を飲むのは寒さしのぎに衣服を燃やすようなものでしかない。やむをえず飲む場合は、真水で薄めるのが常識だ。

 となると、蒸留以外で水分を得る方法を考えなければならない。

「魚釣り、かなあ」

 魚類は脊髄周辺にほどほどに淡水化した水分を蓄えている。丸ごと食べることができれば、他の食料よりも多くの水分を得ることができる。それをアキは知っていた。昔父に教え込まれた、海で生き抜く知恵の一つだ。

 天幕の下でじっとしているキーちゃんに荷物番を頼み、アキは再び浮島を巡回する。プラスチック片のゴミは多いが、釣り針に使えそうな材料は見当たらなかった。

 いったん天幕の下の日陰に潜り、膝を抱えて海を見つめる。

 風も波もない完全なベタ凪だった。

 おかげで一昨日の「白い嵐」とうってかわって、やたらと背中に汗をかく。

 地域的にも温暖湿潤気候であるし、夏という季節が暑いのも当たり前だ。しかしアキは周囲のゴミが不快な湿度を底上げしている要因のように感じていた。

 海に潜りたいな、と思う。

 以前立ち寄った《サクラジマ》では、近海に生息する危険な大型魚の話は聞かなかった。この海域で潜水しても、さほど問題はなさそうに思える。あるとすれば――。

 アキは立ち上がって周囲を確認した。

 遠くに半円のきれいな虹が見えるだけで、水平線には相変わらず何もない。服を脱いでも誰にも見られる心配はない。現状それは悲しむべきだが、それはそれ、これはこれだ。

「キーちゃん、ちょっと潜ってくるね」

 アキは返事を待たずに船長の体をくるりと回し、おもむろにショートパンツを脱いだ。

 とはいえ念には念をと、タンクトップの裾を思い切り引き下げ、下着を隠しながらそそくさと腐れ木の丘を下る。

 ゴーグルをはめて深く息を吸い、アキは海へと飛び込んだ。

 停滞海域の水中は、海洋ゴミとマリンスノー――微小なプランクトンの排泄物と死骸――でひどく懸濁していた。透き通った海では深淵を見て恐怖を感じることもあるが、今は数メートル先の様子も見えない。

 アキはいったん海面に浮き上がった。

 息を継ぎながら浮島を見て、自分が流されていないことを確認する。

 再び大きく空気を吸い込むと、今度は浮島の下へ潜り込むように泳いでいく。

 予想した通り、浮島の下部には堆積した腐れ木にところどころ隙間があった。上半身を動かせる程度のスペースを見つけ、アキは虫を警戒しながらゆっくりと浮上する。

「ぷはっ」

 水面から顔を出し、浮島の内側を見上げた。櫓のようにみちりと詰まった腐れ木の間から、ビフォアとは違う意味での「木漏れ陽」が差し込んでいる。存外明るい内部を見回すと、積み重なった腐れ木の一部に目が止まった。

 引き潮時にだけ露出する高さに、トコナメ貝が数匹はりついている。トコナメ貝はフジツボの一種だが、ナイフを使わずに身を取り出せ、生食も可能だった。その上味も悪くない。

 アキはトコナメ貝を片手いっぱいに握り込み、他に何かいないか、できれば甲殻類――とウキウキしながら腐れ木を見上げる。

 すると、視界に黄色い物が入った。

 色味から連想したのは、腐れ木とは種類の違う白木の流木。それなら乾かせば薪に使えるかもしれない。そう思ってよく目を凝らすと――それは人骨だった。

 衣服の類は端切れすら身につけていない。木樹の間で押しつぶされるように横たわる、黄ばんだ人の亡骸。

 アキの背筋を冷たいものがタラリと流れる。一番見たくないものを見てしまった――。

「おおお、お邪魔しましたっ」

 先輩への挨拶もそこそこに、アキは海へと逃げ込んだ。



 スピアガンを片手に潜水範囲を広げ、休み休みの三時間。

 それだけの時間をかけて、アキはようやく一匹のナッツフィッシュを仕留めた。

 少ない獲物と多大な疲労を得て、へろへろとホームへ戻る。

「キーちゃんごはん!」

 テントの前で誇らしげに獲物を掲げてみせると、

「オツカレチャーン」

 と、船長に労われた。

 いったいどこでそんな言葉を覚えたのか。アキは不審に思いつつも、さりげなくこちらを向いていたキーちゃんの体を再びくるりと回し、タンクトップと下着を脱いだ。

 ぎゅっと両手で絞った服をタープテントの端に吊るす。

 風はなかったが日差しは強い。夕方までには乾くだろう。そう考えてひとまず素肌にそのままショートパンツをはき、上には急場しのぎでセイラー服をかぶった。

 袖を肩までまくり上げ、余り気味な腰の部分を片方に寄せてきゅっと縛る。

「キーちゃん、ちょっと待っててね」

 言いながら、アキは拾ってきた平たい腐れ木の皮を剥がし、露出した木肌にナッツフィッシュを寝かせた。

 その生命をいただく前に、まずはじっくり相手を観察する。

 体長四十センチほどのナッツフィッシュは、見た目はボラに似た魚だ。火を通すと身がほろ甘く、濃厚なタンパク豆のような味がする。

 が、残念ながら臭みが強いため、生食には適していない。

 アキはごくりと覚悟の唾を飲む。

 ナッツフィッシュのエラからナイフを入れ、ぐいと力を込めて頭を落とした。首のないグロテスクな魚を両手でつかみ、そのままえいやと口に咥える。リンパ液や血液の混じった水分を絞り出し、きつく目を閉じ思い切りすする。

 生臭い。味もひどい。猟奇的な行為に対する嫌悪感もある。

 だが、今のアキにはこれ以上ない貴重な水分だ。

 涙目になりながらじゅるじゅるとナッツフィッシュをしゃぶっていると、突然手の中で首なし魚が暴れだした。

「もががっ!」

 たとえ頭を断ち切ったとしても、脊髄の神経自体は数時間生きている――。

 次回は先に神経を締めようと、げほげほと咳き込みながらアキは心に留めた。

 地獄の水分補給を終え、ようやく食事のための調理に取り掛かる。

 くり抜いたナッツフィッシュの目玉を口の中で転がしつつ、身を三枚に下ろす。頭のアラはぶつ切りにしてキーちゃんに供え、自分は切り身の一枚を刺し身にして食べた。

「う……」

 汚水に浸したタウエル布をしゃぶるような味が、口の中いっぱいに広がる。マズいというのはわかっていたが、ここまでひどいとただただ悲しい気持ちになる。

 それでもアキは生きるため、鼻をつまんで刺し身を一腹(ひとはら)飲み込んだ。

 残った切り身は木肌に乾いていた塩を一振りし、天幕の上に並べた。一夜干しで味が変わることを密かに期待しておく。

 次いで、浮島の底で見つけたトコナメ貝を食すことにした。

 指先で貝を強くつまみ、ポンと身だけ弾いて口に入れる。

「あ、おいしいこれ」

 やや塩辛いが、ねっとりとした肉にはホヤに似た海の旨味があった。

 五匹の貝のうち三匹を自分で食べ、残りをキーちゃんの前でポンと弾いてやる。

 静かなる船長が、らしからぬ素早さで飛んでいる身をキャッチした。

「オイシーコレ」

 ねっちょ、ねっちょと人間のように咀嚼して、満足そうに喉を鳴らすキー船長。

 アキも船長を見下ろして笑っていたが、その実、先行きの不安は拭いきれないでいた。

 ここがゴミの溢れる停滞海域であるからか、さっき潜った限りでは生物の生息をほとんど確認できなかった。エサとなるプランクトンがいるのに魚がいない。その事自体が不気味でもあるし、何よりアキが長期生存するための条件を欠いている。

 シングルハンドのセイラーたちは、ライフワークであるかのように頻繁に漂流する。

 その際、水や食料を得られなければ人は三日で死ぬというのが定説だ。

 本来ならば人間は水だけで一ヶ月過ごすことができる。にもかかわらず漂流者の多くが三日で息絶えてしまうのは、水や栄養の欠如ではなく「生への絶望」によるところが大きい。

 メッセンジャーとして誰かの希望を運ぶ以外、アキにはさしたる旅の目的がない。

 その上唯一の拠り所であるパラス号も失い、何も持たずに無人島で朝を迎えた。

 水と食料はほとんどなく、浮島の底には自身の未来を暗示するような白骨があった。

 今のアキには生きることに前向きになれる材料、「生への希望」がまったくない――。

 暗い考えにぐるぐる取り憑かれていると、やがてそれは胃の方にも回ってきた。

「う……。気持ち悪い……」

 このじれったい吐き気には覚えがある。海暮らしのセイラーたちが、揺れのない場所に戻ると突如平衡感覚を失うという「陸(おか)酔い」だ。

 あれほど辛い思いをして食べた魚を出すものかと、アキは両手で口を押さえながらこみ上げてくるものを必死に飲み下す。

 胃液の酸味がやけに口の中に染みた。昨夜丘から転げ落ちた時にどこか切れたらしい。

「なんか、面白いようにひどい目に遭ってるよね、ボク……」

 アキの愚痴に返事をよこしたのは、じんと疼いた自身の膝だった。

 あの時帆走せずにキーちゃんとキャビンに引きこもっていれば――。

 浮島に上陸した時、もっと強くパラス号を固定していたら――。

 膝をケガした時、せめてモフ葉とタウエル布だけでも取りに戻っていたなら――。

 今を不幸と捉えると、すべてのたらればが悔やまれてくる。

 だが、今ある命を自ら拾ったと思えば、その判断は正しかったとも言える。

 チラリと島長に託された防水ケースを見て、アキは言葉にできない何かを感じ取っていた。

「ワッチ、ワッチ」

 そんなアキに発破をかけるように、キー船長がケロケロと鳴く。

「えっ、えっ」と動転しながら、アキもつぶらな黒目の先を追う。

 オウムガエルが見上げた空に目をやると、そこに一羽の鳥が滑空していた。

 耳をそばだてると、聞こえてきたのはゲェゲェという品のない海鳥の鳴き声。

「ニセウミサギだ」

 ニセウミサギは渡り鳥ではない。視力が著しく退化しているため、海面を飛ぶ魚を捕らえるような器用なマネはできない。食物連鎖のピラミッドでは下層に位置する存在だ。

 だが逆に言えば、ニセウミサギを見かけたら、そこからそう遠くないところに彼らの食料が存在する「場所」があるということでもある。

 見上げた空の白い鳥は、アキのいる浮島を無視してまっすぐ北へ飛んでいく。

 浮島を脱出するすべを持たない少女にとって、それは希望とは言えないかもしれない。

 しかし、近くに食べ物のある島がある、もしかしたら人がいるかもしれない島がある、そう知ったことは、やはりアキにとっては一縷の望みとなる。

 たとえ本人が自覚をせずとも、アキの生存本能は生への希望をはっきり感じ取っていた。

 こうしてアキの浮島生活三日目は、ほんのわずかに前を向いて終わった。



 浮島上陸四日目。晴れ。

 アキは起きてすぐに朝露と蒸留装置の塩辛い水を舐めた。魚は見つからない。採取した五匹のトコナメ貝のうち二匹をキーちゃんに与える。念の為にもう一度ぐるりと浮島を回ってみたが、腹の足しになるようなものは何もなかった。夜は空腹でなかなか寝つけず苦労する。



 浮島上陸五日目。晴れ。

 朝露と蒸留海水をすする。船は通らない。魚は見つからない。腐れ木にシーナイフで彫りつけた四本の傷に、斜めに一本線を足した。浮島に漂着して五日目。ずっと食べ物のことを考えている。かつて捕まえたエビの卵をキーちゃんに食べられた恨みがよみがえり、アキは一方的にオウムガエルを罵った。キーちゃんはカエルの面になんとやらか、まん丸の目でアキを一瞥し、その後は黙して海を眺めていた。




 上陸六日目。晴れ。

 流れ着いた海藻に付着したプランクトンを、キーちゃんとともに涙を流してついばんだ。プランクトンは遊泳能力のないクラゲのような生物の総称で、肉眼で見えない微生物から、呆れるほどに巨大なコウテイマンボウまでを指す。しかし一般的にはミジンコやクリオネ、死ぬ前の「星の砂」などを指すことが多い。海藻に付着していたのは、波に逆らって泳ぐほどの力を持たないエビカニ類の幼生だった。虫に似た姿が多かったが、アキは喜んで飲み込んだ。





 上陸七日目。晴れ。

 船も見ない。魚もいない。早くも島底のトコナメ貝を採りつくした。試しにそこらの腐れ木の欠片を口に入れてみたが、自分の指をしゃぶっている方がマシだった。キーちゃんはじっとしている。肩の辺りに触れてみると、薄くなった皮膚越しにゴリゴリと骨の感触が伝わった。このスキンシップがお気に召したようで、キー船長はケロロロと気持ちよさげに喉を鳴らした。






 上陸八日目。晴れ。

 魚はいない。雨が降らない。薄めた海水と塩だけでアキは生きながらえている。体重は減っているのに体が重い。立ち上がるとすぐにめまいがした。「水さえあれば一ヶ月は生きられる」という人間の体が逆に恨めしい。楽になりたいと思い始める。







 九日目。晴れ。

 目の前でスピアガンを射出してもキーちゃんは『ディン』と鳴いてくれなくなった。肩に触れても反応しない。目を凝らして探してみたが、こんな時に限ってピン虫もいない。無性にイライラする。しかし何かに当たり散らすような気力もない。







 十日目。晴れ。

 腐れ木のカレンダーに二本目の斜め線を彫る。排尿に海に入るのも面倒になった。







 十一日目。

 もうどうでもいい。楽になりたい。







 十二日目。







 十三日目。







 それでも、アキは本能で生きていた。