Ⅱ あるフッカーの漂流
















   1


 海面に尾を引きながら、名残惜しそうに夕陽が沈んでいく。

 静止した海に浮かぶヨットの影が、細く長く伸びていく。

 三十フィート級のシルエットは細身だが、彼女はその中(うち)に二人の子供を抱えていた。

 無人と思われた船のキャビンで、浮島を脱出したアキは感動に打ち震えていた。

「すごい……! すごい……!」

 救世主タカに渡されたモフ葉で体を拭きながら、アキは三十フィート級の船内を見て驚愕するばかりだ。

 案内されたキャビンには、奥に体を伸ばして眠れるベッドがある。床も壁もきれいな木張りで、小さなキッチンもあるしチャートを検討できるテーブルもある。おまけにアキが人生で一度しか見たことのない、海水汲み上げ式のトイレまでもある。

 自らの乏しい語彙では「すごい」としか言いようのない船の設備に、アキはただひたすらに感激していた。時に「ふおぉぅ!」などと新語を創って感極まっていた。

 だが、アキの目を一番丸くさせたのは、キャビンの窓枠に括りつけられた「鉢」だった。

「これ……食べられるんですか?」

 丸窓の下に固定されているのは、ペットボトルの容器を半分に切った透明な器のように見えた。三分の二ほど満たされた水の中には、赤や黄色の色とりどりの植物が浮いている。

「塩性野菜の水耕栽培よ。今育ててるのはトマト、ムカシニンジン、ミディコーンとかね。それにイシャイラズとアイスプラント。どっちもビタミン豊富で薬になるわ。何か食べてみる?」

 タカが手近にあった球根のようなものの皮を剥き、アキに手渡してくれる。

 マグロの目玉ほどの大きさの、すべすべした真っ白な果実だった。こんな食べ物は未だかつて見たことがない。

 知り合ったばかりのタカを信用していいのかどうかもわからないが、アキは考える以上に飢えていた。手にした白いその果実を、こわごわながらもガブリとかじる。

 瞬間、鼻孔を強烈な刺激が駆け抜けた。

「辛っ! あっ、甘っ! うぇっ! なんか涙が……」

 アキの大げさな反応に、タカが遠慮無く笑い転げる。

「あんた想像以上にいいリアクションするわね。それ、ハマタマネギって言うのよ」

「タマ、タマ……?」

「シモネタもいけるクチ? ハマタマネギはビフォアの終わりに生まれた植物よ。ビタミンの王様ね」

 ハマタマネギどころか、シモネタもビタミンも、王様すらもアキには何語かわからない。

 露骨に困り顔をしているアキに、タカが丁寧に言葉を補う。

「ちょっと聞くと昔の言葉っぽいけど、一応は三種混合文字(トレス)よ。元々の『ハマ』って言うのはビフォアの陸と海の境目のこと。いわゆるナミウチホライゾンね」

 ホライゾンは知っていたけれど、アキにとっては『水平線』以外の意味はない。

「タマネギは火を通すととっても甘くなるのよ。貸してごらんなさい。料理してあげ……あんたもう食べちゃったの?」

 飲み込むようにタマネギを食べ終えていたアキを見て、タカが呆れている。

「す、すみません……うう」

 ハマタマネギはとてもおいしかったが、鼻にツンとくる痛みと涙が止まらない。

「魚の肝、卵、それからプランクトン。あんたたちセイラーはなんでもかんでも生で食べて、知らず知らずのうちに栄養を摂取してるけどね。それは同時に寄生虫もたくさんお腹に飼うことになるのよ。普通は魚は火を通して、ビタミンは野菜から摂るものよ」

 寄生虫と聞いてアキは冷や汗を流した。

 たまに魚の腹に紐のような虫を見つけて絶叫するアキだが、あんなものが自分の腹にいると思うと胃袋を取って投げ捨てたくなる。

「ま、タマネギには虫下しの効果もあるからちょうどいいわね」

 安堵した。アキは神を崇めるような目でタカを見つめる。

「あの、タカさんは、ドクターなんですか?」

「あたしはただのフッカーよ。若い女ができる仕事なんて、フッカーとアマダイバー以外ないでしょ。あんたはどっち?」

 質問で返されて困ってしまう。アキはメッセンジャーだ。

「ボクはメッセンジャーをしてます……してました」

「女なのに?」

「セイラー服を着ていればバレないから。まだ子供ですし……」

「……あんたすごいわね」

 今度はタカが泡を食う番だった。

 ビフォアで言えばメッセンジャーはポストマン、あるいは宅配ドライバーにあたる職業だが、アフターでは「使い走り」の意味も含み、その成り立ちにはスモウレスリングのような文化的側面がある。

 海は男女を隔てない。しかし船は男のもの。アフターはそういう時代だ。

「あの、タカさん。フッカーってどんな仕事ですか?」

 アキは未知との遭遇に感激しつつ、無邪気に質問を繰り広げる。

「そんなに目をキラキラされたら答えにくい仕事よ」

「す、すみません……」

「別に謝んなくたっていいけど。ま、ひとことで言えばミズ商売ね。基本はお客を癒やすこと。簡単なマッサージをしてあげたり、膝枕で耳掃除したり。人によっては踏んだり蹴ったりムチで叩いたり」

 アキは『ミズ商売』と聞いた瞬間、「ボクと同じだ!」と顔を輝かせ、『膝枕』と聞いて火が出たように赤くなり、『踏んだり蹴ったり』で見る見るうちに青ざめた。

「場合によっては……体の一部を切り離して売ったりもするわね」

「ヒッ」

 いよいよガタガタと身を震わせ始めたアキを見て、タカが楽しげに笑った。

「あんたほんといいリアクションだわ。ちなみにあたしは『寝物語』専門よ」

「ネモノガタリ?」

「そのうちあんたにもしてあげるわ。それより話のレベルが合わせにくいから、先にアキの身の上話を聞いてあげる。あんた、漂流してたんでしょ?」

 言ってタカはこちらに背を向けキッチンに立った。シンクの下から円形のコッヘルを出し、ポリタンクから水を注いで沸かし始める。料理をしている間に話せ、ということらしい。

 アキはチャートテーブルの椅子に座り、トントンと赤い野菜を刻むタカの背中を観察する。

 ――ちょっと意地悪だけど、悪い人じゃないよね。

 シイラの鱗のようにキラキラ揺れる髪を見ながら、自分にそう言い聞かせる。

 そうしてアキは、今までの経緯をたどたどしく話し始めた。

 両親は海賊に捕らわれて、たぶん死んでしまったこと。

 自分には船を動かすことしかできないから、性を偽りメッセンジャーとして生きてきたこと。

 両親の形見でもあったパラス号を嵐にさらわれてしまったこと。

 たった一人の大切な友達を失ってしまったこと。

 だから、これからどうすればいいのかわからないこと――。

 話を終えて顔を上げた途端、アキはビクリと体を仰け反らせた。

「あんた……今までエラかったわね」

 すぐ傍らでタカが瞳に涙を浮かべて立っている。ハマタマネギでも使ったのかとキッチンを見ようとすると、いきなり視界を塞がれた。

「でも、もう大丈夫よ」

 椅子に座ったアキの頭を、タカが体全体でふわりと包み込む。

 タカの髪からはいい香りがした。甘くて、優しい、母の匂いがアキの鼻孔をくすぐった。頭の後ろを撫でてくれる手にも、母のような愛情を感じた。

 アキの顔をふんわり受け止める胸も、母のように大きかった。柔らかくて、温かい、自分にはないもので、タカは慈しむようにアキを抱きしめてくれた。

 懐かしく幸せな気持ちになると同時に、アキはむずむずと気恥ずかしさを覚える。

 それでも抵抗はできなかった。タカの柔らかい谷間に顔をうずめ、アキはただ真っ赤になって固まっていた。

 名残惜しげにタカが体を離し、火にかけていた料理をアルマイトの皿によそう

「はい、できたわよ。おねえさん特製の『バカラオ』。干物と海藻のトマト煮ね」

 バカ……? と言いかけた言葉をアキはぐっと飲み込む。また頬をつねられたくない。

 目の前に出された皿の中身は、まるで血のように真っ赤に染まっていた。

 こんなもの本当に食べられるんだろうかと訝しむも、立ち上る湯気と鼻孔を刺激する風変わりな香りに、思わずスプーンを握った手が動く。

 一口食べたその瞬間、アキの目からぽろっと涙がこぼれた。

「あれ……?」

 おいしいと感じたことはもちろんだが、なぜ涙が出たのか最初はよくわからなかった。

 意志に反して落ちた涙に首をひねりつつ、アキはそのままもう一口すする。

 久方ぶりのまともな食事は暴力的にうまかった。味付け自体はさほど強くない。しかし鮮烈な青臭さと野性味溢れる魚の旨味が、滋養となって舌に吸収されていくのがわかる。何よりその温かさが、五臓と六腑に優しく染み渡る。まさに体が求めていた「栄養」だ。

 アキはむさぼるようにスプーンを動かした。取り込むように器に満ちた海をすすった。

 そうして夢中でバカラオを食べながら、無意識に干物のひとかけをすくって隣に弾く。

 ぽとり、と相棒の取り分がキャビンの床に落ちた。

 ハッと身を固くしたアキに、「あんた何やってんの……?」とタカが不思議そうに問いかける。

 いつの間にか頬を伝い始めた涙の意味を、アキはようやく理解した。

 またしばらく無言でバカラオを口に運ぶ。床のかけらも拾って飲み込む。

 ぼんやりと感謝の念が浮かんだが、それは悔しさにも似ていた。

 口の中に広がるのは、生きている喜びと、生き残された悲しみの――命の味だった。

 アキは泣きながらがむしゃらに食べ始めた。食事をきれいに平らげた後も、器とスプーンを舌で残さず舐めとった。

 傍らに座ったタカが、察したように優しく頭を撫でてくれる。

「おいしかった?」

「おいっ……しかっ……ですっ……。キーちゃんにも……うっ、食べざぜで……」

 嗚咽が律動的に胸を打ち、激しく咳き込んでまた涙が出る。

 再び抱いてくれたタカの胸の中で、アキはぐずぐずと長く泣いた。



 日はほとんど暮れていたが、キャビンの中は明るい光で照らされていた。

 夕方にタカが調理に使ったポリ油が、今は天井に吊るした二灯ランプの底でジラジラと低く燃えている。

 心安らぐ明かりの下で、アキは両手でブリキのカップを抱えていた。

 タカが身の上話を語りながら入れてくれたこの飲み物は、ミディコーンをすりつぶしたスープだという。あの窓枠に並んだ植物の中で、一際異彩を放つタカの髪と同じ色の野菜だ。

 薄皮の下につぶつぶと実のついた形はアキの嫌いな虫――ハナムグリの腹のようで気持ち悪かったが、壊血病の予防だから飲めと言われて渋々口にする。

 いざ飲んでみるとまた涙が出そうになった。こんなに甘い物は飲んだことがない。

「――それで、目が覚めたら男がいなかったってわけ。あたしは船の動かし方なんて知らないし、放っておいたら……セールっていうの? あれがいつの間にか破れちゃった」

 タカの話を聞き、この小ぎれいな船が漂流していた理由はひとまず納得できた。セールはそうそう破れるものではないが、アキには心当たりがないでもない。

 しかしタカはお喋りが好きなのか、なかなかこちらに口を挟ませてくれない。

 仕方なく聞き役に徹していたが、スープを飲みながら聞くタカの話の破天荒さに、アキはあんぐりと口を開けるばかりだった。二人が暮らしてきた世界はあまりに違っている。

 タカは浮島と筏のある大きなフロートで『フッカー』をしていたという。

 アキが理解したところでは、その仕事はどうやら小屋の中で男と二人きりになるらしい。そうして二人でタカの言葉を借りれば『寝物語』をするらしい。

 それが何を意味するのかはわからないが、アキの頬はなんとなく熱を持つ。

 その述懐通り、タカは自分で船を動かすことはできなかったが、多くの寝物語を経験して世界を知っていた。

 北から来た赤ら顔の男に植物の種子を分けてもらい、西のシーロバーたちから世界の広さとまだ見ぬ景色を聞く。東の勤勉な民からは歴史と神話とロマンを教わり、南の温かい客たちからは歌と踊りとナンクルナイ人生観を学んだ。

 やがてタカは自分の知らない世界をこの目で見たいと思い、シングルハンドで旅をしていた客の男をそそのかして出帆した。

 タカは男の船で植物を育て、料理を作り、時々寝物語をして世界を旅した。操船や食料入手は男の仕事だったという。男は若かったらしいが専門的な職を持っていたようだ。

 ある日タカが目覚めると、船に男がいなかった。

 おそらく深夜のワッチで海に落ちてしまったのだろう。旅慣れた人間ほど油断してハーネスを忘れる。蒸し暑い船内から出てくると、涼しいデッキに転がりたくなることも多い。

 そうして一人になったタカは、尾羽打ち枯らしも泣きもせず、野菜を育てながらのんびり優雅に海を漂っていたのだった――。

「じゃあタカさんも……今まで辛かったんですね」

「なんで? あたしは別に苦労してないわよ。なんてったって女神様だからね。下僕はこうして勝手に寄ってくるのよ」

「げ、下僕?」

 確かドレイに似た意味だったとアキは頭の中を探る。シーロバーに捕らえられた人間はいずれそう呼ばれるのだと、どこかの浮島の水先人に聞いたことがあった。

「ねえアキ、あんたの旅の目的って何だった?」

「別に……目的はなかったです、けど……」

 つぶやくように答えつつ、チラリとバックパックに目をやる。

 しいて言えば《サクラジマ》で託された荷物を届けるのがアキの使命だが、パラス号を失った今となってはもうメッセンジャーを続けることができない。そして船を動かすことしかできないアキには、身一つから船を入手する手段がない。そうタカに伝える。

「じゃあ、あたしと一緒に世界中を旅すればいいじゃない。この船あんたの自由にしていいわよ。まさにワタリに船ね」

「そっ、そんなことっ!」

 滅相もないとアキは即座に首を振った。

「何あんた。命の恩人の言うことが聞けないっていうの?」

 そう言われるとアキには何も言えない。あの時タカが手を差し伸べてくれなければ、今頃自分は間違いなくゴミザメの腹の中だったと思う。

「いい、アキ? この世界にはあんたの知らないことがいっぱいあるの。トカイには海から突き出たビルデン礁に暮らしている人もいる。三十フィート級を百艇搭載できるタンカーのマチだってある。軍艦の砲塔で寝起きする人だっているのよ。あたしたちはビフォアの定義で言えばイナカ者。あまりにも世界を知らなさすぎるわ。だからこれから二人でまだ見ぬ世界を見て回るの。どう? ワクワクしてこない?」

 三十フィート級を百艇のところで既にぽかんとしてしまうアキ。

 明るい炎が揺れる二灯ランプの下、タカが大きくため息をついて眉を下げる。

「あんたにもわかる身近なところで言えば……たとえばこのモフ葉とかね。あんたこれ植物の葉っぱだと思ってるでしょ?」

 アキはこくりとうなずいた。

「じゃああんた、モフ葉が生えてる植物見たことある?」

 今度はふるふると首を横に振る。

「そうでしょ。これはね、ビフォアでは『ゲンカンマット』って呼ばれてたの。今で言うなら足拭き専用のタウエル布ね」

 言われてまたぽけーと口を開ける。アキには足と手を別々のもので拭く必要性が理解できない――というレベルですらなく、タカの言葉の意味がまるで頭の中に入ってこない。

「他にもこのセイラー服。スカートが海の男の正装なんてのはアフターだけの話よ。ビフォアではスカートは女の子のもの。男がはいてたらヘンタイよ、ヘンタイ」

 そう言われてもやはりアキにはピンとこない。アキの知っている浮島暮らしの女たちは、皆カッパズボンを下にはくか、それも持てない者はモフ葉を腰に巻くだけだ。

 こんなヒラヒラしたスカートをはけるのは偉い男の人だけと決まっていた。父が子供の頃に着ていたセイラー服を受け継いだ時、アキはとても誇らしかったのを覚えている。

「あの、タカさん。ヘンタイって何ですか?」

「アフターの文化で言えば、女なのにメッセンジャーやってるあんたみたいな変わり者ね」

「ボクは、ヘンタイだったんだ……」

 口に出すと、じんわり悲しい気持ちになった。アフターにおいては、《サクラジマ》で会った下着をはかないむくつけきセイラーこそが正常なのだから仕方がない。

「アキ、人生は楽しまなきゃ損よ。あんたにとって楽しいことって何?」

 アキは空になったカップを見つめながら考える。

 父と母と、火を通したナッツフィッシュをかじっている時は本当に幸せだった。

 モノハル艇にはマネできない、パラス号での高速走行がとても楽しかった。

 人と人とをつなぐメッセンジャーの仕事は、アキにささやかな誇りを与えてくれた。

 キーちゃんとのとぼけたやりとりも好きだった。大好きだった。

 こうして考えてみると、もう二度とできないことばかりだった――。

「もう、ないかもしれません……」

 アキが涙ぐんで答えると、タカはカップにおかわりを注いでくれた。

「あっ、やっ、スープを催促したわけじゃっ」

「ねえアキ。こうしてあたしの話を聞いたり、ごはんを食べるのも楽しくない?」

「そっ、それはすごく楽しいです! びっくりします。タカさんは本当に神様に見えます」

 だからアキは困っている。それはタカがいなければ楽しめないことだから。そんなこと恐れ多くて言えるわけがない。

 アキの返事が気に入らないのか、女神の表情はぶすっとすぐれない。

 また頬をつねられないうちに何か言わなければと、アキは焦って口走った。

「あ、あのっ、トイレがたくさん出た時とか、すごく楽しいです!」

 実際、シングルハンドのセイラーたちはほとんどそうだった。溜めに溜めた排便後のすっきり感は娯楽になる。もちろん寒期でなければだが。

「……アキ」

「はっ、はい」

 タカの目が白い。ものすごく冷たい。でも長いまつ毛がとてもきれいだと、アキは身を震わせつつも見惚れてしまう。

「誓って。コンリンザイそのことを口にしないで。あたしの前でも、それ以外でも。あんたのためだからね」

 そんなにまずいことを言ったつもりはなかったが、タカの目が恐ろしくてアキはぶんぶん首肯した。

「ねえアキ、あんたとあたしのセイラー服。まったく同じデザインって気づいた?」

「でざいん?」

「ビフォアの時代にはね、『学校』っていうのがあったの。そこでは子供たちが集まって『勉強』したり、『校庭』でお昼を食べてお喋りしたりするの。このセイラー服を着てね。『校庭』ってわかる? コウテイマンボウの名前の由来よ。昔はあのくらい大きなジメンが世界中を覆っていたのよ」

 なんだか急に話が難しくなってきたと、アキは弱々しく眉を下げる。

 アキは母に教わる『勉強』があまり好きではなかった。読み書き以外必要ないと言っては、父親に『おまえは俺にそっくりだ』とため息をつかれていた。それが嬉しくてアキが喜ぶと、母はなぜか父を怒った。

「ほら、襟のところに同じマークが付いてるでしょ。あたしとあんたのセイラー服を着ていたビフォアの女の子は、きっと友達同志よ」

 セイラー服の白い襟には、底の見えない深い海のような群青のラインが走っている。その襟元の片方に、ロープがハートの形で錨に結ばれた小さなマークがあった。

 子供が集まって勉強するイメージは浮かばないけれど、タカと友達だったらきっと毎日が新鮮で楽しいだろうと思う。

 コウテイマンボウの上でタカと並んで昼寝する自分を、アキはぼんやり想像した。

「だからね、これは運命の再会なの。以上を踏まえてもう一度聞くわよ? アキ、あたしと世界中を旅しなさい」

「でっ、でも、ボクなんて、勉強嫌いだし、船も持ってないし……」

 それはとても魅力的な提案……命令だったが、自分にそんな資格があるとはアキには思えない。何よりキーちゃんを差し置いて自分だけ幸せになるようで罪悪感がある。

 アキはもごもごと口ごもりつつ、ポケットの中でシートロープをいじり回す。

 しびれを切らせたタカがじりと片眉を上げ、アキの額に指を突きつけた。

「いい、アキ? あんたは船を動かせるでしょ。それはあたしにできないことで、あんたにしかできないこと。あたしにはあんたが必要なの」

「ボクが……必要……」

 その言葉が、アキの胸の中で大きく膨らんだ。

 両親も、パラス号も、キーちゃんも。自分が必要としていたものは皆いなくなってしまった。

 必要としているものがない。それは自分が必要とされていないから。そう考えてしまうのが今のアキだった。必要とされないのは、とても悲しい。

 だが、目の前にいるタカはアキを必要だと言ってくれている。

 真っ赤なバカラオを食べてアキが泣いた時、タカは何も言わずに優しく頭を撫でてくれた。慰められて嬉しかった。アキにもタカが必要かもしれないと思う。

 必要なものを持つこと。

 必要なものになること。

 あの時キーちゃんが自分を生かそうとしたのは、アキの『必要なもの』になりたかったからだろうか。父もそうだったのだろうか。それが、生きることの意味だろうか――。

 アキは目を閉じ深く考える。

 ほとんど無意識にシートロープが詰まっていない方のポケットに手を入れた。キーちゃんの肩骨が、指先に触れる。

 すると、『アキはもっとワガママに生きるべきだよ。君の両親みたいにね』と、頭の中で船長が流暢に喋りだしてアキは仰天した。

 そして、笑った。

 それは理想の船長像だったのかもしれない。ケロケロと泣くキーちゃんの声を、自分はいつもそんな風に翻訳していたのかもしれない。船長が言うならきっとその通りなのだろう。つまりはそれが、自分のしたいことなのだろう。

 アキはゆっくり目を開いた。

「あの、タカさん、しばらくお世話になっても――」

 言い終わる前に、これではダメだとかぶりを振る。

「この船を、ボクに任せてください!」

「嬉しいわ。じゃあまず敬語と『さん』付けをやめて。よろしくね、船長(キャプテン)アキ」

 ニッコリ笑って差し出されたタカの手を、アキはなけなしの勇気とともに両手で握った。

「よろしくお願いし、よろしく、タカ……ちゃん」

 本当はヨットの場合「艇長(スキッパー)」と言うのだが、そんなことは言えないアキだった。


   2


 アフターは四季を通してビフォアよりも気温が高く、夏の船内は特に蒸し暑い。

 少し外の風で涼もうかとタカに誘われ、アキはデッキへと出てきていた。

 しかし夜の海には不思議とまったく風がない。キャビンの蒸し暑さよりは幾分マシだが、熱を帯びた湿気が背中にセイラー服をじとりと貼りつかせる。

「あっつ。なんなのここ。波もないし、まるでミズウミね」

 タカがセイラー服の襟をつまんでパタパタと内側に風を送る。

 言葉の意味はわからないが、アキも倣って襟元を扇ぎながら海を眺めた。

 夜の停滞海域は、ねっとりとした海苔のようだと思う。アキたちの乗った船は、ゴミベルトの中で液状化したサルガッソー(赤藻)にまみれ、固まってしまったかのようだった。

「セールもないし、船を運んでくれる風も潮の流れもない……」

 難儀な現状が口をつく。ここからの脱出は今まで以上の幸運を必要とするだろう。

 ともあれ、ひとまずは明るいことを考えようとして、アキは大事なことに気がついた。

「そうだ。タカちゃん、この船の名前は?」

「アテナよ。そんなことより見てアキ。満天の星空よ」

 こちらの質問を聞き流し、タカが目を輝かせて夜空を見上げる。

 アキも隣で見てみると、夜に散った星たちが真昼の海のようにパチパチと瞬いていた。

「あそこにギリギリ見えるのがアンドロメダ。その足元にいるのがペルセウスね。英雄ペルセウスは、海獣を倒してアンドロメダを救った神の子なのよ」

 アフターの人々にとって、星を見るという行為は娯楽に等しい。

 特に夢見がちな少女たちは星座にまつわる物語にロマンを感じ、今のタカのようにうっとりした顔で講釈を垂れるのが常だ。

「へ、へー」

 アキも星を見るのは好きだったが、見てもせいぜい「きれいだな」と思うだけだった。セイラーにとって星は道標であり、航海の無事を祈るもの。その連なりに星読みのランドマーク以上の興味はない。

 不器用な相槌を打ちつつ、アキは夢見る乙女の機嫌を損ねまいと辛抱強く話を聞く。

「――そこでペルセウスはメドゥーサの目を直接見ないように、鏡のように磨いた盾に怪物の姿を映したの。この盾は女神アテナが授けたものね」

 タカの英雄物語が終わりに差し掛かった頃、ついでのようにこの船――アテナ号の名前の由来の話になった。

 夜の海に落水したという元船長が、タカを海神ポセイドンと戦って勝利した女神アテナになぞらえて付けた名らしい。海を知らずに海を行くタカは、まるで軍神アテナのようだと。

 持ち主が死んでしまった以上タカは幸運の女神ではなさそうだが、星屑が照らす横顔は確かに神々しい美しさを備えている。

 アキもこれまで何人も女を見てきたが、タカのように清潔な美しさを持つ人は初めてだった。

 朗々と語るタカを眺めていると、その髪に、その頬に、触れてみたいという衝動が湧き上がってくる。

 しかし同姓とはいえ、海の男として暮らしてきた自分が触れたら汚してしまいそうで、アキはただのぼせたように頬を上気させるばかりだ。

 自分に注がれる憧憬の視線を気にもとめず、タカの英雄譚は第二章に入ろうとしている。

 アキはためつすがめつ機嫌を見ながら、どうにか女神の語りを引き止めた。きれいな顔をずっと眺めていたくはあったが、新任船長としては夜のうちにやっておきたいこともある。

 クロカモメの卵に似た青緑色の月の下、アキはアテナ号の装備を確認し始めた。

 アテナ号は一般的な三十フィート級のモノハル艇だ。いわゆるセイリングクルーザーと呼ばれるタイプで、パラス号と同じく船外機は取り外されている。

 ざっと見た限りではマストやブーム、それに各種金具に損傷はなさそうだ。前の持ち主がきちんと手入れしていたようで、キャビンには修理用の工具もたくさんある。

「修理し放題……!」

 興奮でアキの小鼻がむふーと膨らむ。

 さりとてアキが乗船したことでアテナ号が動かせるようになったわけではない。

 破れたセールはまともに使えそうにないし、ベンチシート下部の収納にもスペアセールは残されていなかった。

 船体を一周してひと通り装備を確認した後、アキは脱出のヒントを求めて海を観察する。

 右舷方向にはかつてアキが滞在した名もなき浮島があった。おそらく今もあの辺りには、巨大なゴミザメが泳いでいるのだろう。

 今になって考えてみれば、丁寧に四点でパラシュートアンカーを打ち、二箇所も舫っていたパラス号が波にさらわれたのは、雑食なゴミザメにロープを食いちぎられたからではないかという気がする。というよりその可能性が一番高い。

 今更合点がいったところでどうしようもないが、海に入ることができない今、船内にトイレがあるのは実にありがたいことだった。尻を丸出しでサメに食べられるなんて、セイラーとして恥ずかしすぎる。

「何もこんな夜中に調べなくてもいいでしょ。あんたまで海に落ちたらどうすんのよ」

 マストに寄りかかり、タカがじっとりした目でアキに不満をぶつけてくる。

「でも、なるべく夜の様子も見ておきたいですし。それにボクはライン結んでますから。あの、できればタカさんも一応ハーネスを……」

「敬語」

「うう……。え、えっと、タカちゃんもハーネスさんを……」

 焦って安全帯にさん付けをしたアキを見て、タカがプッと噴き出し軽やかに笑った。

 そんなに簡単に馴れ馴れしくできないよと、アキは身を縮こまらせて下を向く。

 タカは年上だし、命の恩人だし、何でも知っている。

 おまけに不服を瞳にたたえていても、タカという少女は美しい。月下でケラケラと邪気なく笑っている今は尚更だ。

 アキはセールの張りを確かめる手を止めて、思わずタカに見惚れてしまっていた。

「何よ人の顔じっと見て。あんたそっち系?」

「いやっ、えっと……あんまりキレイだったから、あっ、すっ、すいませんっ!」

 そっちがどっちかわからないけれど、アキはひとまず謝った。兎にも角にもタカという少女には人を自然と平伏させる力がある。

「あたしがキレイなのは当たり前でしょ。というか、あんたさすがに遠慮しすぎよ。ほんとに下僕になりたいの?」

 居丈高なタカの物言いに、ますますうろたえてしまうアキ。

 最早手のひらに乗りそうなほど萎縮した少女を見て、タカがいかにも面白いことを思いついたという顔でニタリと笑う。

「決めた。アキ、今夜は二人で寝物語しましょ。まずは仲良くならないとね」

「えっ」

「あんたに世界を教えてあげる。たっぷり楽しませてあげるわ」

 ヒッ、と身を固くしたアキの手を引き、タカが勇んでキャビンへ向かう。

 天井の低い寝室に連れこまれ、アキはベッドに突き飛ばされた。

 仰向けのまま怯えて見上げると、タカがおもむろにセイラー服を脱ぎ始める。

「ほら、あんたも脱いで。女同士なんだから遠慮しない」

「えっ、ちょっ、えっ、あっ」

 動揺したまま身ぐるみを剥がされ、アキの長い夜が始まった。



「昔はね、世界の七割が海だったの。残りの三割が『陸』ね」

 マットレスのスプリングは硬いが、腐れ木の寝床に比べれば羽毛のようなベッドだった。清潔な白いシーツからは、ずっと鼻に押し当てていたいようなほのかに甘い匂いがする。

 その匂いの元はたぶんこの人だと感じながら、アキは体に上掛けシーツを巻きつけてタカの「寝物語」を聞いていた。モフ葉以外にくるまれて眠るのは初めてだと、時々夜具の肌触りにも感動しつつ。

「そして今は十割が海。この世界はもう何度も終わっているのよ」

 ベッドにうつ伏せになったタカが、アキの顔を覗きこむようにして話してくれる。小さな丸窓から差し込む月光が、女神の肌をいっそう白く見せている。

「世界が……終わった?」

「そう。ヒョーガキが来て世界は何度も氷漬けになった。ある日地面が大きく揺れて、小さな陸はオムレツみたいにきれいにひっくり返った。氷の大陸が溶けだして、人々はみんな海の底。止まない雨が降り続き、方舟に乗った生き物は病気と食料不足で死に絶えた。天に届かんとする塔は、隕石が落ちてへし折られた。世界で一番高い山が爆発して世界中がカルデラになったこともあるし、その火山灰が太陽を遮ってまたヒョーガキが来たこともある。オンダンカとカンバツのせいで、生き物と水がカラカラに干上がったこともあるわね」

 言葉の意味は半分くらいわからないが、アキはタカの寝物語にわくわくしていた。そこには子供の頃に父が聞かせてくれた話と同じ、未知の世界の冒険があった。

「その度に人類は絶滅した。でも毎回しぶとく生き残ってるのがいて、せっせと文明を構築するのよね。今のあたしたちはそんなビフォアの遺産に頼って暮らしてる区分。アキ、ビルディングは知ってるわよね?」

「えっと、海の底に生えてる四角いの。ビルデン礁の一本」

「そうね。今から百年もすると、あの海に埋まってるビルをあたしたちの子孫が造れるようになるかもしれない。今は文明の過渡期なのよ。あたしたちは貧乏くじを引いたとも言えるけど、だから面白いとも言えるわけ。時間が経つと『未知』は減るからね」

 だんだん話が難しくなってきた。言葉も難しいし、話が壮大すぎてイメージが湧かない。

 アキの困ったような顔を見て、タカが「もっと勉強なさい」とウェーブのかかった髪先で鼻をくすぐってくる。この髪の色は「金色」というのだとさっき教わった。タカのような金色髪の女の人は「パツキン」というらしい。

 鼻に残ったシーツと同じ甘い香りに、アキの胸がトクンと一つ脈を打つ。

「最近頻繁に海底噴火が起こってるのよね。おかげで周辺の生物相が変わったり、スタナビ(星読み)が当てにならなかったり。水蒸気爆発が起こるから局地的に天候も影響を受ける。今までの経験が役に立たないって、セイラーたちがしょっちゅう嘆いてたわ」

 そう聞いてアキはハッとした。アキ自身も天候を読み違えた。

 そして思い出す、あの――。

「白い嵐……」

 真夏に突然凍りつくような突風が吹いたことを、タカに説明する。

「それ、ビフォアで言う『ダウンバースト現象』ってやつね。積乱雲の中で冷却された空気が一気に放出されるのよ。早い話が変種の竜巻だけど、雹が混じったり、凍てつくような寒風が吹いたりもするらしいわ。ま、こういうのは気流の関係で発生するものだから、どっかに新しい陸ができてるのかもね」

「陸……?」

「そういう現象はすべて、世界がどんどんつながっていく兆候なのよ。現に南では海底火山の噴火で軽石の島ができた。ヒヨッコリー島っていって人も大勢住んでる。北のゴミベルトでは大きなホンダワラがプラスチックを抱え込んで、人が住めるくらいの浮きモノになった。ビフォアで山地だったあたりでは、真っ白な塩の結晶がフロートの代わりだそうよ。ロマンティックでしょ? そのうちそんな島がたくさんできるわ。そこに植物が生えて生き物が暮らすようになれば、やがてはそれが陸になるのよ」

 タカの話が壮大過ぎて、アキには『陸』がはっきりとイメージできない。

 アキにとって「島」と言えばそれは浮島で、大きくてもせいぜい四、五十平方メートルの腐れ木の塊だ。ビフォアには陸を見ながら現在位置を把握する「地文航法」という技法があったというが、アキはそう聞いても、「あんな小さな島を見ながら帆走できるなんて、昔の人は目がよかったんだ」としか思えなかった。

「ピンと来てない顔ね。ま、あんたに足りないのは文明よりもまずは文化ね。これからおねえさんが色々教えてあげるわ。まずは――」

 タカがシーツを腰まで下げて、横になってアキの方に向き直る。

「あんたブラって知ってる? こういうの」

 白い指先が指しているのは、自身の胸を覆ったハーネス状の衣服だった。

「お、お母さんがしてたから、見たことはあるけど」

 なのに、どうしてか直視することができない。

「あんたもう十四でしょ。そろそろつけないと困るでしょうに」

「だって、それってタカちゃんみたいな胸の大きな人がするための――ひゃっ!」

 突然シーツの中の胸を触られた。

「違うわよ。ブラは防具。あんたの弱点を守るものよ」

「じゃ、弱点?」

「ほら」

「ひっ、ふわっ、やめっ」

 もぞもぞと胸をまさぐるタカの手を、アキは必死に押し留める。ぞわぞわしたくすぐったさが肌の内側を走り、腰のあたりで滞った。

「わかった? まあ他にも色々意味はあるけど、あんたもせっかく女に生まれたんだから、新しい時代に備えて少しは女の子らしくしなさい。じゃないと船から降りてもらうわよ」

「そっ、そんなこと急に言われても……」

 荒い呼吸を整えながらアキは戸惑った。今までずっと男として生きてきたのに。というか船に乗れと言ったのはタカなのに。

 しかし、『女の子らしくしなさい』とは、かつて母からも言われていたことだった。

 懐かしいバツの悪さを感じてしまい、アキはタカから視線をそらす。

「かわいくなれるのは女だけの特権よ。大丈夫。アキも顔はかわいいから、あたしみたいないい女になれるわ」

「かわいい……?」

 その言葉を自分に向けたのは両親以外ではタカが初めてだった。だからアキはどう感じればいいのかわからない。一応は褒められた気がする。なんとなく頬が熱くなる。

「とりあえず、明日あんたにもブラ作ってあげるわ。あたしのお古の仕立て直しだけどね。はい。今夜の寝物語はこれでおしまい。また明日ね」

 たくさん喋って満足したのか、タカは一方的に話を終わらせシーツを思い切り引き上げた。

 おかげでアキの足先がすぽんとシーツの外に追い出される。タカは自分よりずっと大人だと思っていたが、どうやらアキの方がほんの少しだけ背が高いらしい。

 そう気づいた時、アキの内からくすくすと笑いがこみ上げてきた。

 ――タカちゃんは神様じゃない。体はボクと同じ子供なんだ。

 もちろん背が高ければ大人というわけではないけれど。

 それでもアキが努力をせずに笑えたのは、パラス号とキーちゃんを失ってから初めてのことだった。


 深夜。

 幸せな気分で眠っていたアキは、突然タカに抱きつかれて目を覚ました。

「タカちゃん……?」

 返事はない。代わりに胸の下でぐずぐずと鼻をすする音が聞こえる。

 すがりついてくるタカは、寝ぼけているようでもあるし、何かを訴えているようでもある。

 怖い夢でも見たのだろうか。あるいはタカも寂しかったのかなどと思うも、アキにはどうしてあげればいいのかわからない。

 ひとまず手近な肩に手を置くにとどめ、アキもそのまま眠ってしまった。