※本作はniconico「ニコニコ連載小説」内「電撃文庫チャンネル」で掲載された作品の再録です。


【C.S.T. 情報通信保安庁警備部】『情報保安学校の春』


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 赤ペンはきゅっと音を立て、おまけのように最後の○を書き終えた。
 伊江村がペンのキャップをしめ、机の上に置く。黙ったまま、伏し目がちに“/”だらけの答案を見ている。
「……」
 無言の時間が過ぎた。
「……すいませんでした……!」
 向かい合わせに置いた机の反対側に座っていた御崎蒼司は、うなだれて言った。背の高い彼が縮こまっている姿は滑稽であったが、身の置き所がないという心情のアピールである。
 いつもはポニーテールに結い上げている長い髪を、伊江村織衣は下ろしていた。白いシャツとクリー ム色のカーディガンの上にゆるやかに波打った髪が流れている。白い肌と、長いまつげに縁どられた大きな目。彼女の人形めいた容貌に、白い花を模した髪飾りが似合っていた。
 四月の初め、季節は春。情報通信保安学校の授業を終えた放課後、十七歳と十六歳の男女が教室に二人きりである。なのに、ロマンスとは程遠い雰囲気だった。
 今の御崎は、宿題を忘れて教師の前で委縮している生徒である。
 五月に行われる情報通信保安官上級試験に向けて、伊江村に指定された範囲の勉強をしてくることになっていたのだが、チェックテストの点数は100点中24点だった。テストは彼女の自作である。御崎のためにわざわざ作ったのだ。申し訳なさ倍増である。
「覚えればできるところができていない。言い訳を聞こう」
 涼やかな声音で淡々と伊江村が言う。
 普段の柄の悪さもなりを潜め、顔を伏せたまま、御崎は教官に対するように敬語で応じた。
「……バイトから帰ってきてすぐに寝落ちしました」
「試験が終わるまで、アルバイトはやめるべきだと思う」
「いや、人手が足りないって言われるとやめづらいし……」
「曜日ごとの労働時間と時給は?」
「うん? 時給870円。土日に8時間ずつ、水曜日に4時間」
「明日から上級試験までアルバイトをやめた場合の損失は、870円×104時間で90480円。上級試験に合格してキャリアになった場合の基本初任給は237100円、ノンキャリアの場合は197700円。合格すれば三か月で回復できる損失だ」
 え、今暗算した? と口を挟む間もなく、伊江村は言った。
「初任給だけの問題ではない。その後の給与体系も変わる。ささいな気まずさに拘泥している場合ではない」
 ハイ……と御崎が殊勝に答えると、伊江村は御崎が机の端に置いていた紙媒体の参考書に人差し指の先を置いた。
「今から三十分、自習。三十分後に再度テストする」
 静かに言って、伊江村は窓際の自分の席に移動した。PCを立ち上げ、ケーブルでビーンズに接続する。キーボードの上を白い指がすべりだす。ビーンズは、脳とマシンを接続するBMI技術を利用したイヤーフック型のウェアラブルコンピュータだ。伊江村は視界のBMIブラウザに展開した参考書をもとにして、テストを作り直しているらしい。
 試験勉強につきあってもいい、と彼女が言い出したのは一か月ほど前のことだ。御崎が机の上にPC端末の成績画面を開いたまま放置していたのを目にしたらしく、深刻そうな顔で言い出したのだ。
 年下の女の子に勉強を教わるのは情けないのではないかと思ったが、彼女は中学課程を卒業後、飛び級で二年次に編入してきたエリートなので、事情は別である。それからというもの、彼女の指定してきた範囲を寮で自習し、毎日平日の放課後にチェックテストを受けることになってきた。
「なあ」
 参考書を開いて、御崎は呼びかけた。
「なんで勉強見てくれんの」
 そわそわしながら御崎が訊くと、伊江村が不思議そうにこちらを見て口を開いた。
「山上と浅井は大丈夫だけど、今のままだと御崎は確実に落ちる。落ちた御崎に気を遣うのは嫌だ」
「……ですよね」
 声のトーンを落とし、御崎は言った。彼女が頬を染めて自分に都合のよいセリフを口にしてくれる可能性はゼロに近かったが、改めてその気がないと思い知らされると落ち込む。
 遠くからグラウンドの歓声と吹奏楽部の楽器の音色が聞こえてくる。教室の中には紙のページをめくる音とPCのキーを叩く音だけが響いていた。
 その静寂を破るようにして、廊下からタタン、タタン、とスキップでもするような足音が近づいてくる。
「ねえねえ、ニュース! おもしろいから見に行こうよ!」
 がらりとドアを開けて、同級生の浅井忍が顔を出す。大きな目を輝かせ、ソフトクリームとポリ袋を手にしている。いつものように髪には盛大な寝癖がついていた。
 伊江村が眉をひそめて言う。
「浅井。五時までは御崎の邪魔をしない約束だ」
「頑張ってる蒼司のために差し入れ買ってきたんだよう。織衣の好きな大福アイスもあるよ」
「それなら仕方ない」
 簡単に大福アイスにつられた伊江村に御崎が苦笑していると、近づいてきた浅井が御崎の前にアイスクリームを置いた。パッケージには「おっぱいアイス」という何かひとこと言わずにはいられない商品名が書かれ、擬人化された牛のイラストがセクシーなポーズをとっている。
 浅井が期待していることはわかっていた。御崎だって下ネタを口にしたい。口がむずむずする。しかし、ここはスルーしなければならない場面である。幸いなことに席が離れていて、伊江村からアイスは見えない。御崎が作り笑顔で「気が利くな」と言うと、浅井がわざとらしく驚いた顔をした。
「あれあれ、また織衣の前だからってぶりっこしちゃって! ほら、いつもみたいにエロ――」
 言いかけた浅井の顔を即座に参考書で叩いて口を封じ、顔で威嚇したまま御崎は尋ねた。
「――で? 何を見に行くっていうんだよ」
「さっきみちるとコンビニに行ったんだけどさ、帰ってくる途中で、みちるが男に呼び出されたの。あれね、たぶん同期の子だと思うよ。名前知らないけど! たぶん、あっちに行ったと思うんだよねえ」
 ソフトクリームで口の周りを汚したまま浅井が言い、廊下へ出る。
 山上みちるは、明るく華やかな美人である。それだけでなく、彼女の魅惑の胸は、男子寮で実施された「お世話になりたいおっぱいランキング」において栄光の一位に輝いている。磁石の回りに磁界が発生するように、ブラックホールが周囲の物質を吸い込むように、彼女はまわりに男を引き寄せるのである。
 また魔乳の犠牲者が出たか……と御崎は言いたかったが、黙っていた。伊江村の前ではエロ禁止である。俺の中には性欲など微塵もありません、という風を装っている。
 御崎が伊江村を誘って廊下に出ると、廊下の突き当たりのドアが開いており、その向こうの非常階段で浅井が「こっちこっち」といわんばかりに手を振っていた。ドアの外に出ると、春の午後の生暖かい風と日差しが頬を撫でた。
 西側の非常階段のあたりは、グラウンドからはちょっとした死角になっている。手すりから身を乗り出してのぞくと、階段の下で山上が男子生徒と話しているのが見えた。浅井を右肘で小突き、御崎は自分の左側に伊江村の場所をあけてやる。
 内容はさすがに聞き取れないが、話している声はかすかに聞こえてくる。山上はやけに明るい顔をして、陽気に相手の肩を叩いていた。
「あいつ、大西じゃん。去年、同じクラスだったぞ」
 カップ入りのアイスを食べながら御崎はそう言ったが、他人に関心の薄い浅井と伊江村は覚えていないらしい。
「あ、ほんとだ。どうりで見たことあると思った。一般クラスだって」
 ビーンズの画像認証で、視界に入った大西の顔を学内ネットワークの生徒名簿と照合したらしく、浅井が言った。
 背伸びをしながら下を見ていた伊江村が、安心したように言う。
「揉めごとではないようだ」
「え、もう、織衣はなに言ってんのさ! 同級生の男に改まって呼び出されたら口説かれるに決まってんじゃん!」
 浅井があきれたように言い、御崎は顔をしかめた。
「しっかし山上、あいつ、なんだあの笑顔……」
「“もう、そんなに落ち込まない! あたし今彼氏いるから仲良くできなくて残念だけどさ、大西くんは背も高いし、顔もいけてるし、たいていの女の子は大西くんにそんなこと言われたらまいっちゃうよ。自信持って!”」
 浅井が山上の口真似をしてアテレコをはじめ、御崎は笑った。振られている最中であろう大西には気の毒だが、いかにも山上が言いそうなセリフである。振った相手を励ますのが姉御肌の彼女らしい。
「“本当に残念。大西くんも情保に行くんでしょ? 長い付き合いになるんだし、またタイミングが合えばよろしくね!”」
 芸の細かいことに、途中から浅井はビーンズの音声サンプルを使って女声でしゃべり始める。
 御崎は笑いながら、隣で大福アイスを食べている伊江村を見た。小さな口の端に大福アイスの白い粉がついていた。白い肌が春の日差しを跳ね返し、まぶしいくらいだった。色恋沙汰の渦中にいる友人を見下ろしながら、彼女が何を考えているのかわからなかった。
 階段の手すりについた御崎の左肘に、伊江村の肩が接している。風に吹かれて、彼女の髪が腕を撫でる。もどかしいような、いてもたってもいられないような気分になる。
 浅井がのんきな口調で言った。
「まあ、タイミング合えばって言っても、みちるはキャリアになるだろうし、フリーになったらすぐに出世コースにのった上官とくっついちゃって、ノンキャリアの男には見向きもしないんだろうけどね……あれ、どうしたの蒼司。泣いてる?」
 うなだれて手すりに額をくっつけた御崎の顔を、浅井が覗き込む。
「泣いてねえ!」
「どこ行くのさ」
「勉強」
「ええっ! どうしよう織衣、蒼司がおかしい!」
「茶化すんじゃない。浅井はふざけすぎだ」
 生真面目な口調で伊江村が言い、御崎の後を追って歩いてくる。

 御崎が上級試験において奇跡の合格を果たしたのは、その二か月後のことである。
 合格の報に接し、心底不思議そうに「え、どうやってカンニングしたの?」と言い放った浅井は、自分の言葉が御崎を奮起させたことを知らない。

<おわり>