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『王手桂香取り!』







第一局 開戦は歩の突き捨てから




       1

「はい、王手ぇ。もうあんたに勝ち目はないよぉ。潔くここで投了しちゃえばぁ」
 僕の対面に座る少年は、吐き捨てるように言って駒を動かした。この相良純一という名の小学三年生は、自分が勝勢になると態度が横着になる。いや、普段から生意気な態度ではあるのだが、将棋の対局になると横柄さが増すのだ。
 この横着な態度を改めさせるには、僕が勝利することが最善の方法だと思われるが、悲しいかな、何度対局しても僕はこの少年に勝てなかった。両手では数え切れないくらい負けている。段位で言うと、僕が初段で相良純一は三段。たった二段の差だが、その壁はとてつもなく高かった。
 何度やられても、何度苛立つ言葉を投げられても、僕は相良純一に戦いを挑み続ける。強い相手と戦わないとレベル・アップできないと思っているからだ。実際、この子は感心する手をよく指す。とても勉強になる。相良純一の父親はプロ棋士である。きっと英才教育を受けているのだろう。中学一年でやっと初段になった僕とは、遺伝子レベルからして違うのだ。
 だが、勝負事に絶対はない。相手は同じアマチュアだ。決して勝てない相手ではないはずなのだ。その一心で今日も僕は一生懸命考えた手を指し続ける。
「まあだ粘るのかよ。棋譜が汚れるだけじゃん。プライドないのか? プロならとっくに投了してる内容だっつうの」
 確かに、もうほとんど勝負は決している状況だ。サッカーで喩えると、後半四十分で3対0とか4対0で負けているようなものだ。いや、もっと大差かもしれない。
「粘ればいいってもんじゃないんだよねぇ。逆転の見込みがあるならどれだけ劣勢でも粘って当然だけど、この盤面のどこにも逆転の可能性は存在してないよ。もう勝負の綾はないの。綾って言葉わかる? そんな指し方してても、強くなれないんだよねぇ。わかんないかなぁ」
 正論だと思う。強くなりたいのなら、ただ粘るだけでは駄目だ。さっさと投了して、詰め将棋の問題集でも解いていた方が、よっぽど有意義だと思う。
 でも、僕は勝ちたいのだ。一度も勝ったことのない相手に勝ちたい。相良純一が大ポカしたり反則の手を指してしまったり、そういうレベル・アップにならない勝ち方でもいい。とにかく僕はこの子に勝ちたかった。
 しかしそんな僕の思いも虚しく、相良純一は一切緩い手を指すことなく、僕の玉を追い詰めていく。
「はい、必至かかったよぉ。ぼくの間違いに期待しないでよぉ。こんな簡単な詰み、絶対間違わないから」
 彼が言ったとおり、僕の玉は一目見て詰む形だった。
 必至(=かけられた側がどう受けても必ず玉が詰む状態)がかかっても、勝敗が決定するわけではない。手番はこちらに移ったわけだから、僕が先に相手玉を詰ませれば勝ちとなる。だから必至がかかっても粘っていいのだが、攻めようにも攻めの糸口がない状態だった。だから僕は投了することにした。
「負けました」
 そう言って僕は頭を下げた。
 相良純一はペットボトルに三分の一ほど残っていたコーラを一気に飲み干すと、ゲップしながら立ち上がった。
「ったく。もうちょっと諦めのいい人間なら、とっくに終わってたのに。時間はもっと大切にした方がいいぜ。それにしても、あんた全く成長しないね。何て言ったらいいのかなぁ、攻めるべき時に守ったり、守るべき時に攻めたりしてるんだよね。ああ、あれだ。大局観ってやつがないんだね。もっとプロの棋譜見て大局観を養わなきゃ。じゃないと、いつまで経っても初段の糞雑魚のままだぜ。じゃあねぇ」
 相良純一はもう一度ゲップをして去って行った。
 僕はテーブルの上の駒と盤を片付けながら、溜息を吐く。
 悔しい。相手がどれだけ強くても、負けてもレベル・アップできるならいいやという心構えだったとしても、やはり負けると悔しい。あんな風に糞味噌に言われたら尚更だ。僕は思う。果たして僕は相良純一に勝てる日が来るのだろうかと。向こうはまだ全盛期ではない。発展途上だ。それでもすでに三段の腕前。一方の僕は、小学五年で一級になって、それから二年かけてやっと初段になった程度の腕。差は明白。そう考えると、相良純一が二歩とかの反則でもやらない限り、僕は永遠に彼には勝てないのかもしれない。
「情けないなぁ」
 ん?
 声が聞こえたので、僕は周囲を見回した。
 日曜日の午後三時。将棋の対局場である室内には、老若男女が集まっている。最大で五十人くらいが入ることのできる室内は、七割ほどが埋まっている。お年寄りが多いが、僕と同じくらいの中高生、小学生もいる。いないのは、若い女性くらいか。ここはいつ来ても、若い女性はいない。最近、囲碁の方は、若い女性のあいだでブームがきているという特集を見たことがあるが、将棋の方ではイマイチのようだ。
 で、僕の耳に届いた「情けないなぁ」という言葉は、若い女性の声だった。しかしどこを見渡しても、若い女性はいない。僕の目に届く範囲で一番若いと思われる女性は、窓際に座っている四十代前半と思われる人だ。
 あの女性が言ったのだろうか。根拠はないが、そうは思えなかった。情けないという言葉は、もっと近くから聞こえたような気がした。僕の耳元で囁くように、呆れた感じで「情けない」と。
 僕は首を傾げる。空耳だろうか。該当する女性が見当たらないので、そう判断する他ない。
 まあ、そちらの方がいい。ただでさえ精神的に疲れているのに、この上情けない奴だなんて罵声を浴びせられたら、涙で前が見えなくなるかもしれない。
 僕は片付けを終えると、道場を後にした。

 電車に揺られること三十分。僕は自分の住む町へと帰ってきた。いくらか悔しさや苛立ちの感情も収まっていたが、相良純一の顔を思い出すとまたムカムカが込み上げてくるので、僕は将棋とは関係のないことを考えて自宅へと続く川沿いの道を歩いていた。
 向こう側から、お爺さんと子供が歩いて来る。孫と思われる幼子の手を、お爺さんは優しく握っている。
 僕は三年前に亡くなった祖父のことを思い出す。
 僕が将棋を始めたきっかけは祖父だった。祖父は毎日縁側に座って、近所のお爺ちゃんと対局をしていた。始めの内はその光景を見ても何とも思わなかったのだが、対局が終わる度に一喜一憂する祖父を見ていると、次第に将棋というものに興味が湧いてきた。
『僕も将棋を指したいから駒の動かし方やルールを教えて』
 その時の祖父の嬉しそうな顔は、今もよく憶えている。
 祖父の腕前は初段くらいで、最初の一年はハンデを貰っても全く歯が立たなかった。負ける度に、僕はよく泣いていた。
『あゆむに負けるまでは死ねないから、長生きしないといけないな』
 祖父はよくそう言って、悔し涙を流す僕の頭を撫でていた。
 でも残念ながら、僕が初勝利を挙げる前に祖父は亡くなってしまった。
 僕は空を見上げる。
 今の僕と祖父なら、きっと好勝負になっただろう。もっと僕が早く強くなっていれば……。祖父のことを思い出す度に、僕は感傷的な気分になるのだった。
 視線を空から正面へと戻した時、川辺にしゃがんでいる女の子の姿が見えた。横顔を見て、すぐにその人が桂香先輩だとわかった。瞬間、僕の胸は高鳴る。締め付けられるように、胸が痛くなる。
 どうしよう。声をかけようか。学校の外で話したことは数回あるが、全て桂香先輩から声をかけてきてくれたもので、僕から声をかけたことはない。校内であれば僕から話しかけることもあるが、決まって将棋に関する話で、プライベートに関する話を振ったことはなかった。桂香先輩は他の人達と将棋以外の話もしているが、僕は緊張してそういう話はできない。本当は将棋以外の話もたくさんしたいのだけれども。
 声をかけようとして近づいて行くが、臆病風が吹いたので素通りすることにした。こんにちはと話しかけてからの話題が、全く思い浮かばなかったのだ。せいぜい『今日のNHK杯を観ましたか? 名局でしたね』という話題しかない。残念だが、私服姿の桂香先輩が見られただけで良しとしよう。
 それにしても、美人は何を着ても似合うな。ブルージーンズに白いTシャツという極めてラフな恰好でありながら、川辺にしゃがんでいる光景は、とても絵になる姿だった。
 目の保養に、もう一度見ておこう。そう思い、僕は振り返った。
 僕の目に飛び込んできたのは、桂香先輩の悲しげな横顔だった。
 先程は気づかなかったが、とても悲しげな目で川の流れを見つめている。そんな表情の桂香先輩を見たのは、初めてのことだった。と言っても、僕が桂香先輩と出会って、まだ二ヵ月しか経っていないわけだが。
 ともかく、僕は心配になる。何かあったのだろうか。当然、何かあったから悲しい顔をしているのだろう。
 進んでいた僕の脚は自然に止まる。
 あんな顔の桂香先輩を残して行けるか?
 行けるわけない。悲しい顔をした女の子を放ってなんかおけない。僕の方が年下だとか、学校の後輩だとか、そんなことは関係ない。男としてこのまま素通りはできない。
 僕は踵を返して桂香先輩へと近付いて行く。自分でも驚くほど力強い足取りだった。将棋の駒で言えば、今の僕は飛車だった。どんな駒が相手でも吹き飛ばす最強の駒、飛車。何人たりとも僕を止めることはできない。
 桂香先輩との距離が十メートルほどになった時、川面に視線を落としていた桂香先輩が不意に顔を上げた。僕と視線が交わる。瞬間、僕の前進は止まった。フリーズしたように、僕は呼吸までをも止めてしまった。
 視線が合って二、三秒のあいだ、桂香先輩は悲しげな瞳のままだったが、僕のことを認識した途端、ぱっと笑顔をつくった。美人には笑顔が似合う。こちらの顔の方が断然良い。
「こんにちは、あゆむくん」
 歩と書いてあゆむ。それが僕の名前だ。親が将棋好きだから駒の歩から名前を付けた、というわけではない。一歩一歩着実に人生を歩んで欲しいという願いから、この名前を付けたと聞いている。まあ、将棋の歩と似たような感じだ。
「こんにちは、大橋先輩」
 僕は照れ笑いを浮かべて会釈する。桂香先輩を前にすると、どうしても頬が赤らんでしまう。胸の鼓動は最高潮だ。声も若干震えている。ちなみに心の中では桂香先輩と呼んでいるが、声に出す時は苗字で呼ぶ。
「どこか遊びに行く途中?」
「あ、いえ、将棋道場からの帰りです」
「N町にある将棋道場?」
「あ、はい」
「そこがあゆむくんのお気に入りの道場だったわね」
 以前僕が話したことを憶えてくれていたことが、僕は嬉しかった。
「最近はネットで指すのが主流だけど、やっぱり顔と顔を合わせて指す方が楽しいわよね。パソコンとか携帯で指しても、何だか味気ないのよね。緊張感も半減するし」
「同感です。緊張感が全く違います」
「まあ、強い人を探すことに関してはネットの方が圧倒的に優れているけれど……あゆむくんの行っている道場には、強い人がいるの?」
 僕が知る限り、あの道場には高段者はいない。初段から三段が集まっている感じの道場だ。
 相良純一のことを話してみようと思った。もしかしたら、父親繋がりで面識があるかもしれない。桂香先輩の父親も、プロ棋士である。しかもただの棋士ではない。棋界の頂点に君臨する、名人である。将棋ファンからすると、名人の娘さんと会話ができるというだけでも、大きな喜びだったりする。
「あの、相良純一って知ってますか?」
 僕の質問に、桂香先輩は少し首を傾げた。
「初めて聞く名前だわ」
「相良義一六段の息子です。その子が、僕の行く道場によくいるんです」
 桂香先輩は少しだけ目を見開いて、
「へえ、そうなの」
「大橋先輩は、相良六段とお会いしたことはありますか?」
 桂香先輩は過去を振り返るような目になって、
「たぶん、ないと思うわ。父の研究仲間ではないし、世代も違うから、そんなに親しくはないと思う」
「そうですか。顔、すごく似てるんですよ」
「その純一くんというのは、いくつ?」
「小学三年生です」
「腕前は?」
「三段です。限りなく四段に近い三段といった感じです」
 桂香先輩は嬉しそうな顔になる。その笑顔は、より強い相手との出会いを求める某漫画のキャラクターを連想させた。
「将来有望な強さね」
「はい。小学生くらいの子供は、攻めに逸るあまり受けが疎かになる子が多いですけど、純一くんは受けもしっかりしてるんです。一手一手が勉強になります。あれで態度が良ければもっといい――」
 僕はそこで口を噤んだ。相良純一は態度や口が悪いが、いちいち人に言うことじゃないと思ったのだ。それに、人の悪口を言うような人間は、きっと桂香先輩は嫌いだろう。まして、子供の悪口を言う男なんて。
 だが、僕のそんな考えとは裏腹に、
「純一くんは、対局の態度が悪いの?」
 と、桂香先輩が僕の言葉を引き継いだ。
 少し迷ったが、僕は首肯した。
「恥ずかしい話ですが、僕は純一くんに一度も勝ったことがないんです。だから、よくいるタイプの、負けて悪態をつくというわけではありません。何と言うか、僕が劣勢になると、もう粘っても無駄だとか、プロならとっくに投了してるだとか、才能がないだとか、今日なんて、このままだと一生初段の糞雑魚のままだとか言われました」
 話の流れでつい言ってしまったが、僕は後悔した。どれだけ態度や口が悪くても、やはり子供の悪口を言うべきではなかった。
 僕の話を聞いた桂香先輩は、寂しそうな顔になっていた。小学生の悪口を言ったことに対して嫌悪感でも抱かれてしまったのだろうかと焦ったが、違った。
「強ければ何をしても良いという考え方だとしたら、将来が心配だわ」
「そうですね。それは僕も思いました」
「その考え方を改めさせる方法があればいいんだけど……」
「純一くんでも勝てないくらい強い人を連れて行って負かしてもらうとかはダメですかね?」
 桂香先輩は首を横に振って、
「今の話を聞く限り、負けたからといって態度を改めるようには思えないわ。あまり言いたくないけど、お父さんの影響でそうなっているところはあると思う」
「相良六段の影響ですか?」
「ええ。相良六段は、勝った時の態度は傲慢で、負けた時は大きく舌打ちして駒を叩きつけたりするのよ。それ以外にも、父からあまりよくない話を聞かされているわ。父が何度か苦言を呈したことがあるみたいだけど、あまり効果はないみたい」
 僕も一度だけ、テレビで相良六段の対局を観たことがあるが、確かにその時の態度はあまりよくなかった。温和な人柄で知られている桂香先輩のお父さんが苦言を呈するくらいだから、相良六段の性格は推して知るべしなのだろう。
「同じ将棋を愛する人間として、純一くんにも《実るほど頭を垂れる稲穂》になって欲しいけれど、私達にできることはないでしょうね。機会があったら、今の話を父に話してみるわ」
 その言葉で、桂香先輩との会話が終わるのだと悟った。せっかくのクラブ活動外での会話、しかも二人きりの会話だったのに、結局将棋の話で終わってしまった。無念。
「はい。それじゃ、また明日」
「ええ。また明日。さよなら」
 桂香先輩は踵を返すと、僕に軽く手を振って去って行った。
 桂香先輩が、僕に、手を振ってくれた。こんなこと、初めてである。
 たったそれだけのことで、僕の心は有頂天になった。天に昇って行きそうなほど、身体が軽くなった気がした。
 相良純一には気分を悪くさせられたが、これでチャラだ。いや、プラマイゼロじゃなくて、大きなプラスだろう。捨てる神あれば拾う神ありだ。僕はデレデレした顔のまま、帰宅の途に就いた。

 玄関のドアを開けて「ただいま」と声をかけたが、誰の返事も返ってこない。どうやら両親は出かけているようだ。僕は洗面所で手洗いと嗽をし、冷蔵庫からジュースを取り出して二階の自室に入った。閉め切っていたカーテンと窓を開けて、部屋の換気をする。壁際のデスクに座ってパソコンを起動させると、すぐに将棋の対局ができるサイトをクリックする。日本最大の会員数を誇るこのネット道場には、初心者から高段者まで数多くいて、対戦相手には事欠かない場所である。僕はほぼ毎日、このサイトにアクセスしては夜遅くまで対局に没頭している。今日は相良純一に五連敗して、一度も勝っていない。どれだけ勉強になるといっても、負け続けるのは精神衛生上良くないので、勝利するまではここで将棋を指し続けることに決めた。対局を希望している人達の中から適当な相手を見つける。過去に対戦経験のない相手。初手合いだ。僕は一つ息を吐いて、対局開始の文字をクリックしようとした。
 と、その時だった。
「本当にあゆむは将棋が好きなんやなぁ」
 僕の背後で、声がした。女の人の声だ。
 え? と声を出して僕は振り返った。
 女の人が立っていた。しかも一人じゃない。一、二、三。そこには三人の女性が立っていた。
「だ、だ、だ、だ、だ」
 誰ですか? 驚きのあまり呂律が回らず、その一言が出てこない。
 僕は慌てて立ち上がると、部屋の中を見回した。
 もしかしたら、ここは僕の部屋ではないのではないかという思いが脳裏を過ぎったのだ。他人の家に間違って入ってしまった?
 そんな思いを抱きながら、部屋の中にある物一つ一つに目を留めていくが、ここは紛うこと無き僕の部屋だった。
 では、今僕の目の前にいる三人の女性は、一体誰なのだ?
「でもそれだけ指しても、毎回同じような負け方になるのが残念なところやなぁ。あの純一という糞ガキはむかつくけど、言ってることは正論やで。あゆむには決定的に大局観が足りん」
 そう言ったのは、僕から見て左端にいる女の子で、ショートカットの黒髪に勝ち気な瞳と、ボーイッシュな容姿の女の子だった。年齢は僕よりも二、三歳年上に見える。七分丈のパンツに、淡い青色のシャツを着ている。上から三番目までのボタンを開けているので、はっきりと胸の割れ目が見えている。下着を着けているようには見えない。目のやり場に困る恰好だ。
「それは言い過ぎですよ。あゆむくんはまだ十二歳ですし、強くなるのはこれからだと思いますわ。なぜ勝てたのかを考えるよりも、なぜ負けたのかを考えることの方が、強くなるために欠かせない条件です。だから、たくさん負けていいんです」
 そう言ったのは、僕から見て左から二番目に立っている、振袖を着た女の子だった。振袖には一面に桜の花弁が描かれている。見惚れるほど、艶やかな着物だ。年齢は僕と同じくらいに見える。小柄な体格とおかっぱの髪型は、日本人形を彷彿とさせた。大きな瞳と透き通るような白く柔らかそうな肌は、本当にお人形さんが人間になったようである。
「あなたは、とても桂馬の使い方が下手。桂馬に謝りなさい」
 そう言ったのは、右端にいる女性。とても派手な恰好をしている。昔の欧州貴族が着るような出で立ちとでも言えばいいだろうか。これで日傘を持っていれば、よく写真で見る欧州貴族の出来上がりだ。ただ、そんなド派手な恰好とは裏腹に、顔立ちは極めて日本的だった。白黒写真で見るような、昔の日本人女性のような顔のつくり。年齢は……女子大生くらいだろうか。大人の色気が漂っている。
 などと、悠長に女の子達の顔や服装を語っている場合ではない。この三人の女の子達は一体誰で、なぜ僕の部屋に上がり込んでいるのだ。
「あの、さっきから話を聞いていると、僕のことを知っているみたいですが、あなた達は一体誰なんですか? 何で僕の部屋にいるんですか? 両親の知り合いの方ですか?」
 矢継ぎ早の僕の問い掛けに対し、誰も口を開かなかった。ただじっと僕を見つめているだけだ。
「な、何で答えてくれないんですか? あなた方が誰か知りませんが、ここは僕の部屋です。部屋に入る時は、ノックくらいしてください」
「それは無理や」
 関西弁の女の子が口を開いた。
「な、なぜ無理なんですか?」
「あたし達は最初から部屋の中にいたから、ノックはできん」
 僕は眉を顰めて、
「最初から部屋の中にいた? そんなわけない。僕が部屋の中に入った時、絶対に誰もいなかった」
 そこまで言ったところで僕は気づく。大事なのはそんなことではないと。
「いや、そんなことよりも、あなた達が誰なのかを教えてください。ま、まさか、泥棒じゃないですよね?」
「まあ、何て酷いことを言うの。私達が盗人ですって? こんな侮辱、あの日以来だわ。今までで一番酷い侮辱の言葉は『桂馬は将棋の駒の中で一番役に立たない』だったけれど、それに匹敵する人格攻撃よ。酷い。最低」
 欧州貴族のような恰好の女の子は僕を強く睨んでいる。
「あ、いや、そういうつもりで言ったんじゃないんです。すいません」
 って、何で僕が謝らなければいけないんだ。おかしい。何かおかしい。
「じゃあ、あなた達は誰なんですか? それを言ってくれないから、僕も変なことを訊かなくちゃいけないんですよ」
「どないする?」
 関西弁の女の子は、他の二人に視線を向けた。
「まずは、話してみましょう。どうしても信用してもらえないのであれば、奥の手を使えばいいと思いますわ」
 と、日本人形のような女の子。
「そやな。とりあえず話すか。ま、奥の手使わんでもあたしがぶん殴って納得させるってゆう手もあるけどな」
「暴力はダメです、暴力は。話せばわかってくれるはずですわ、あゆむくんは」
 関西弁の女の子が、僕の眼前まで進んできた。
「今からあたし達の正体を話すけど、頭を柔らかくして聞くんやで。ええな?」
「は、はい。わかりました……」
「ちなみに、あゆむは宇宙人や幽霊といった存在を信じるか?」
「宇宙人や幽霊ですか? まあ、いても不思議じゃないと思いますが……」
「ほな、話すで。世の中には色々なことがあるんだなあ、という意識であたしの言葉を理解するように努めるんやで」
「はあ……」
「あたし達は、将棋の駒や」

 一瞬、意識が飛んだ。頭の中が真っ白になって、意識が宇宙に行っていた。
 僕は、彼女の言った言葉を頭の中で反芻する。
『あたし達は、将棋の駒や』
 これは一体どういう意味なのだろうか。僕に対して頭を柔らかくしろだとか、世の中には色々なことがあるんだなあという意識を持てとか言っていたが、理解不能だ。
 文字通りの解釈をするのであれば、将棋の駒というのは、飛車とか角とか金とか銀ということになるが、駒に自我はない。どんなに頑張っても人間にはなれない。これは一々確認する必要もないことだ。
 では、文字通り以外の解釈をしなければいけなくなるが……将棋の駒というのは何かの喩えなのだろうか。『私は会社の歯車だ』という喩えのように、自分達を将棋の駒に置き換えたのだろうか。しかし何に対しての喩えなのかがわからない。
「あのぉ、仰っている意味がよくわからないんですが。将棋の駒というのは、何かの喩えですか?」
 僕の言葉に、三人はやっぱりな、という目つきになった。
「やっぱり言葉だけじゃ信用せえへんか。なら、あたしの鉄拳で――」
 関西弁の女の子が握り拳を作って一歩前に出た時、
「だから暴力はダメですよ! 暴力反対!」
 と、日本人形のような女の子がその拳を両手で包み込んだ。
「あゆむくんは、話せばきっとわかってくれますわ。懇切丁寧に、一つずつ話していきましょう」
「そか。ほな、あんたに任せるわ」
 関西弁の女の子が戦闘態勢を解くと、日本人形のような女の子は部屋の奥へと歩いて行き、部屋の片隅に置いていた将棋盤と駒の入った箱を持ち上げた。そのまま僕の方へとやって来る。
「あゆむくん」
「は、はい」
「もう一度言います。わたくし達は、将棋の駒です」
 少女の目を見る限り、僕をからかっているようには見えなかった。頭のおかしい人にも見えない。至って真面目で、真剣な眼差し。詐欺師的な色は、微塵も見受けられない。
 だが、やはり、僕はその言葉の意味を理解することはできない。
「あの、本当に、意味がわかりません。何ですか、将棋の駒って」
 少女は将棋盤を差し出し、
「この将棋盤と駒は、あゆむくんの祖父から貰ったものですよね」
「そうですけど、何で知ってるんですか?」
「この将棋盤と駒がいつ作られたか、ご存じ?」
「亡くなった祖父は、代々受け継いできたものだということしかわからないと言っていました。大正時代から受け継いできたことは間違いないけど、それ以前の記録はないと」
「この将棋盤と駒は、江戸時代の初期に作られた物なの」
「江戸時代? 江戸時代の初期って、四百年も前ですよ?」
「ええ。今から約四百年前に、現在の山形県天童市にあたる場所に住んでいた殿方の手によって、わたくし達は生み出されました。その殿方は職人というわけではなく、完全な趣味でこの駒と盤を作ったのですけれども、同時代に作られた駒達の多くは様々な理由によって姿を消してしまいました。わたくし達が生き延びることができているのは、あゆむくんのご先祖達が大事に使ってきてくれた結果ですわ。感謝しています」
 江戸時代と言えば、将棋の初代名人である大橋宗桂が誕生した時代。それが事実なら、この盤と駒は相当な値打ち品ということになるが……。
「なぜ、そのことを知っているんですか? 祖父や曾祖父でさえ、いつ作られた物か知らなかったというのに」
「なぜ知っているのかと問われれば、わたくし達自身が、その駒であるからという答えになりますわ」
 何だか眩暈がしてきた。僕の今の状況を喩えると、ボードゲームでスタート地点から三マス目が《振り出しに戻る》だった場合、何度サイコロを振っても延々と三しか出ない状況と同じである。
「あの、とてもじゃないですけど、その話は受け入れられません。だって、そうでしょう。将棋の駒って、生き物じゃないんですよ。意識のない、ただの物です。百歩譲って、あなた達が鶴だと言うのなら、理解しようという心が働くかもしれません。何か恩返しをしに来てくれたのかなって。でも、将棋の駒って何ですか? 将棋の駒は、人間の姿に化けることはできませんよ。いい加減にしてください」
 一気に言い終わった僕は、深く息を吸った。
 興奮している僕とは対照的に、少女は冷静なままだった。
「わたくし達も、最初から意識があったわけではないですわ。始まりは普通の駒でした。それがある日突然、自我を持つようになりました。全ての駒が同じ意識を共有するわけではなくて、それぞれの駒が、独立した意識を持てるようになりましたの。覚醒した瞬間、それまで意識がなかった時代の記憶も、わたくし達の頭の中に保存されることになりました。人間の姿になれることは、最近知ったことなので、こうやって表に出てきたのは今回が初めてです。あゆむくんにどうしても伝えたいことがあって、わたくし達三人は出てきたのです」
 ほら。また、振り出しに戻るだ。
 僕は叫びそうになる心を落ち着かせるために、深呼吸した。
 このままじゃ埒が明かない。振り出しに戻らない質問をするべきだ。
「じゃあ、あなた達が将棋の駒だという証拠を見せてください。そこまで言うんだから、当然見せられますよね?」
 さあ、どう出る?
「わかりました。お見せします」
 ほう。表情一つ変えずに答えたか。
「駒を、盤の上に全部出してください」
 僕は言われたとおり、箱を引っくり返して駒を盤の上に出した。
「それで?」
「駒は、全部ありますか?」
 僕は駒を一枚ずつ綺麗に並べていく。対局をする時のように、先手と後手の陣地に駒を配置していく。すぐに駒が足りないことに気づく。
「あれ……桂馬と香車が一枚ずつない。それに……歩も一枚足りない」
「全部で三枚。それが、わたくし達です」
 僕は笑った。これが笑わずにいられるか。
「こんなやり方じゃ、小学校低学年の子供も騙せないと思うよ」
 少女は振り返り、二人を見る。二人は同時に頷く。少女は再び僕に向き直った。
「これが証拠ではありません。証拠は、これからお見せします」
「うん。見せてくれ」
「その前に、座ってもらえますか。あゆむくんが驚いて転んで怪我をするといけないので」
「驚いて転ぶねえ……」
 座らないと証拠を見せないと言われかねないので、僕はその場に胡坐を掻いた。
 少女は駒が並べられた盤の前に立つと、
「驚くなと言っても驚くでしょうけれど、どうか冷静に」
 と言って消えた。

 え? 消えた?
 目の前で起こったことを、僕はさらりと言葉にしたが、何が起こった?
 マジックのように、姿を消す直前に布が覆い被せられたわけではない。煙が出て姿を消したわけでもない。一瞬で、僕の眼前から姿を消したのだ。
 部屋のどこを見ても、日本人形のような顔立ちの少女はいない。一瞬で隠れられる場所なんてあるはずもない。
「うわあああああああああああ」
 まるで映像と音がずれた動画のように、僕は少女が消えてから十数秒後に驚きの声を上げて立ち上がった。
「こ、こ、こ、こ、こ」
 コケコッコーと言いたいわけではない。これは一体どういうことだと問いたいのだ。
「どうや? 信じたか?」
 関西弁の女の子はにやにやして僕を見ている。
 僕は言葉が出ない。頭の中を整理できない。糸がこんがらがった状態。
「一人消えたくらいじゃ、トリックだ何だと言いそうなので、私達も一度姿を消しましょう。しばらくのあいだ、この人を一人にした方が効果的な気がするわ」
 欧州貴族のような恰好の女の子は盤の前に進んで、姿を消した。
「うわああああああああああ」
 僕は総毛立った身体で部屋の隅っこへ逃げた。
「あたしは、まどろっこしいやり方は嫌いや。これだけ見ても信用せえへん言うんやったら、今度こそ鉄拳制裁もあるで」
 関西弁の女の子は盤の前に進んで、姿を消した。
「うわああああああああああ」
 僕は脚が震えて立てなくなり、その場にしゃがみ込んだ。
 僕はしばらくその場を動かなかった。動くのが怖かった。動いた瞬間、何かが起こりそうで動けなかった。
 女の子達が消えてから十分くらい経って、僕はようやく動いた。
 この十分間、僕はじっと盤の上を見つめていた。頭の中は無だった。何も考えていなかった。考えられなかったと言った方が適切だろうか。僕は赤ちゃんのハイハイと同じスタイルで、恐る恐る盤の前まで進んだ。首を伸ばして、盤上の駒を見る。
 増えていた。
 足りなかったはずの香車、桂馬、そして歩の三枚の駒が、盤の中央に載っていた。
 この事実を、どう受け止めればいいのだろうか。これがテレビの中で起こった出来事なら、何か種があるのだろうと勘繰るだろうが、全て眼前で起こったことだ。とても仕掛けがあるようには見えない。
 仕掛けがないということは、この現象は全て真実ということになってしまう。
 人間が一瞬で消える。それは、どういう理屈だ? 学校では習っていないし、そんな能力や道具の存在も聞いたことがない。それは漫画や映画の中だけに存在する超常現象のはず。
 彼女達が人間ではなかったら?
 そんな思いが生まれた。
 人間が一瞬で姿を消すことは不可能でも、人間以外の何かだったら、それは可能ではないのか。本来は人間の姿をしていない何かが人間に姿を変えられるのなら、姿を消すことも容易いことのはずだ。
 こんなことを考えている僕は、彼女達が言っていたことを信じたのだろうか。自問してみる。
 いや、こんな摩訶不思議な現象を見せられても、完全に信用することはできない。将棋の駒が人間の姿に化けているなんて、そんな話すぐに信用できる人なんていないだろう。
 ただ、百パーセント疑ってかかっていた十分前とは違って、僕が彼女達に向けていた疑惑の目の色が薄まったのも事実だった。彼女達の言葉を完全には信用できないが、嘘を言っているとも思えない。相反する思いが、僕の中で殴り合いを続けている。
 僕は盤の中央に載っていた香車、桂馬、歩を、空いていた升目の中に並べた。
 あの少女は、自分達は江戸時代に作られた物だと言っていた。最初は意識はなかったが、ある日突然、自我を持ったと。
 物には魂が宿ると言う人がいる。大事に扱えば期待に応えてくれて、ぞんざいに扱えば機嫌を損ねて能力を発揮してくれないと。僕も、そういうことはあると思う。形がある物には、特に人間の身近にあったり肌に触れたりしているような物には心が宿っていても不思議ではないと思っている。
 でも、でも、でも、それが人間の姿に化けて自我を持つとなると、話は別になる。
「その様子じゃ、丸一日経っても信用せえへんやろうな」
 突然、僕の耳に声が届いた。
 短い叫び声を上げて僕は立ち上がる。室内を見回す。誰もいない。
 と、僕はそこで気付いた。この声、もっと前に聞いている。
 そう、今日の昼間、相良純一との対局を終えたあとに聞こえてきた女の人の声。
 対面している状態だと気づかなかったが、あの『情けないなぁ』という声は、先程の関西弁の女の子にそっくりだった。
「この声、道場で聞いた声にそっくりだ……」
 誰に言うともなく、僕は呟いていた。
「それはあたしの言葉や。あんな糞ガキにいいようにやられっ放しやから、思わず出てしもうたんや」
 また、声が響いた。
 僕は視線を下に向けて、駒を見る。
 本当に……本当に駒が話しているのか。自我を持って、自分の言葉で僕に話しかけているのか。
「そんな言い方をしては、あゆむくんが可哀相ですよ。相手は子供と言っても、将棋の強さに年齢は関係ないわけですから。あゆむくんだって、勝ちたいんです」
 この声は、日本人形のような女の子か。
「で、いつまでこの状態で会話続けるん? あゆむ、さっさと信用せえよ。これだけで十分やろ。これ以上何をすればあたし達が駒だって信用するんや。言うてみぃ」
「僕は……僕は……」
 僕は頭を押さえた。頭が爆発しそうだ。わからない。何も考えられない。
「ああ、もう、面倒臭い。あたしは出るで」
 瞬間、僕の眼前に関西弁の女の子が現れた。
 かと思うと、女の子は僕の胸倉を?んで、
「おい! あたしは決断の遅い男と香車の使い方が下手な男が一番嫌いなんや! さっさと信用せえや! ほんまに殴るで!」
 と言って握り拳を見せつけた。
 僕は大きく仰け反って、
「わ、わかりましたっ。信用しますから、殴らないでっ」
「よっしゃ。それでええ」
 女の子は満足そうな笑みを浮かべて固めた拳を解除した。
「全然よくないですよっ!」
 ふわりと、日本人形のような女の子が現れた。
「それはただ脅してるだけじゃないですかっ。ダメですよ。そんな乱暴なやり方をしては」
「別にええやん。こうでもしないと、あゆむはいつまで経っても信用せえへんて。話があるから出てきたのに、これじゃいつまでも本題に入られへんで」
「いや、ですから、そんなやり方をしても、あゆむくんはわたくし達が駒だということを信用するわけではないですよ」
「でも、実力行使したくなるのもわかるわ」
 いつの間にか欧州貴族ファッションの女の子もその場に立っていた。
「目の前で瞬時に姿を消したり現したりしても半信半疑にしかならないんだったら、殴りたくもなるでしょう。私はそんな野蛮なことはやらないけれども」
 僕は呼吸を整えながら、
「話って、何か僕に伝えたいことがあって、皆さんは人間の姿になって出てきたんですか?」
「せや。声だけの状態で話しかけても、気味悪がって信用せえへんやろうなって、あたし達の意見が一致した結果、こうやって外に出て来たってわけや」
「その伝えたいことって、何でしょうか?」
「伝えたいことはいくつかあるんやけど……まず第一に、あの相良純一って糞ガキに勝てということや」
「相良純一に、僕が勝つ?」
「そうや。あゆむ、悔しくないんか? 毎回あんな舐めた態度とられて。江戸時代やったら、あの糞ガキ斬り捨てられてるで」
「僕も、悔しい気持ちはありますよ。あの態度も、直した方がいいとも思ってます。でも、僕は、純一くんに、憧れを抱いてる面もあるんです。どれだけ態度が悪くても、将棋が強いのは事実ですから。弱い僕は、その強さに惹かれている面もあるんです」
「かぁー、なんちゅうこと言うねん。信じられん。あの糞ガキに憧れやて? 江戸時代やったら、市中引き回しにされとるで」
「何と言われてもいいですけど、僕では純一くんに勝つことはできません。今日の対局をご覧になっていたのならわかるでしょう。レベルが違います」
「そんなことは言われんでもわかっとる。誰も自力で勝てとは言うとらん。あたし達が助言したるから、そのとおりに指せばいいだけの話や」
「あなた達の言うとおりに指す?」
「そうや。相良純一との対局中に声だけで指し手を伝えても、あゆむは自分の頭がおかしくなったのかと思って、そのとおりには指さんやろ? だからこうやって、前以て人間の姿で伝えに来たってわけや。来週の日曜日、あの糞ガキを襤褸雑巾のように負かしたれ」
 僕は言葉を返さずに、ここまでのやりとりを頭の中で整理するように努めた。
 僕の家系に代々受け継がれている将棋の盤と駒。その駒が、人間の姿で現れて、生意気な子供に勝たせてやるという。
 なぜ?
「あの、何で、僕を純一くんに勝たせようとするんですか?」
「むかつくからや。あたし達は、あゆむの先祖達に大事に扱われてきた。で、今はあゆむがあたし達の主や。その主が、毎回同じ相手にボロクソ言われとる。ただ負け続けとるだけなら、あたしも何も言わん。世の中、どうやっても勝てん相手はおるからな。あたしにも、そういう存在はおる。だけど、あたしが、いや、あたし達がむかついとるのは、あの糞ガキの態度や。あたし達は将棋の駒であることに誇りを持っとる。当然、将棋が大好きや。将棋が好きな人間も大好きや。努力してプロ棋士になる人間もおるし、どれだけ努力してもアマチュア三級止まりの人間もおる。全部ひっくるめて、あたし達は将棋好きの人間を愛しとる。でもな、勝った後に相手見下して暴言吐いたり、負けた後に悪態ついて駒を叩きつけたり、そんなもんは将棋好きのすることちゃう。そういうのはな、自分の小さなプライドを満足させるためだけに将棋をやってるだけのチンケな奴や。プライドを保つ手段が、たまたま将棋だったというだけの話なんや。本当に将棋が好きだったら、勝っても負けてもすぐに反省会をするもんや。将棋用語で言うと、感想戦やな。将棋が好きで、今よりも強くなりたいと思ってるんやったら、悪態ついとる暇なんてないはずなんや」
 その言葉は、僕の胸に深く突き刺さった。説教されているのが自分であるかのように、頭が下がる思いだった。
「僕は、暴言を吐いたり駒を叩きつけたりしたことはないけど、勝って得意げになったり負けて機嫌が悪くなったりしたことはあります。僕も、反省しなくちゃいけないのかな」
「別に人や物に当たらなかったらええで。勝って喜びを爆発させるのも、負けて悔しさを表すのも、どちらも自然な行為や。あたしは悟りを開いた坊さんになれと言ってるわけちゃうからな。ただ、あの糞ガキみたいな態度は行き過ぎということや」
 僕は頷き、三人を見回した。
「まだ、頭は混乱した状態ですけど、皆さんの言いたいことはわかりました。でも、僕が純一くんに勝ったとしても、純一くんが態度を改めるでしょうか?」
「そこまでは知らん。あたし達はただ、自分達の主が侮辱されてるのが気に入らんから懲らしめてやろうとしてるだけやからな」
「そうですか……。でも、本当に僕が勝てるんでしょうか? 皆さんがアドバイスしてくれるということですが、皆さんの棋力はどれくらいですか?」
「アホっ!」
 喉ちんこが見えそうなほど、関西弁の女の子は僕の眼前で大きく口を開けた。
「将棋の駒に向かって、棋力はいくつかやて? なんちゅう間の抜けた質問するんや。それな、名人に向かって『駒の動かし方を知ってますか?』って訊くくらい失礼な質問やで」
「す、すいません。皆さんの実力がわからないものですから」
「あたし達の実力は、めちゃくちゃ強い、や」
「めちゃくちゃ強い、ですか……」
「そうや。相手が名人だろうがスーパーコンピュータだろうが、あたし達の敵じゃない。将棋だけに関して言えば、あたし達は神様に匹敵するくらいの強さや。ほとんどのプロ棋士に対して飛車落ちで勝てるレベルなんやからな、あたし達は」
「ほとんどのプロ棋士に飛車落ちで勝てる? そんな、まさか……」
「何や、信用せえへんのか?」
「い、いえ、そういうわけじゃないですが……」
 大駒一枚抜きでほとんどのプロ棋士に勝てるというのが事実であれば、それはもう人間の想像を遙かに超える強さだ。インパクトが強すぎて、喩えさえ浮かんでこない。彼女達は、人間やどんな高性能のコンピュータでもたどり着けない場所にいるのだ。
 そこから見る景色は、どんな眺めなのだろう。
「皆さん、三人とも同じ強さなのですか?」
 日本人形のような女の子がこくりと頷き、口を開く。
「はい。玉である女王様以外の駒は、皆同等の強さですわ。でも、局面によっては、意見が合わないこともあります。最善手がはっきりと見えている局面なら意見が割れることはないのですが、難解な局面においては、それぞれの考えが異なることもあります」
「ほとんどのプロ棋士に飛車落ちで勝てるくらいの強さなのに、最善手が見えない局面なんてあるんですか?」
「もちろん、ありますわ。ただ、人間の言う難解な局面とわたくし達の言う難解な局面とは、かなりの開きがありますけれども」
「なるほど。それは何となくわかります。僕達人間が三十手とか五十手先を読んで最善手を指そうとしているとすると、皆さんは数千、数万という膨大な数の変化を読んでいるということですよね」
 日本人形のような女の子はにこりと笑い、
「はい。そういうことですわ」
「じゃあ、皆さんからすれば、コンピュータが示している最善手というのも、おかしいんでしょうね」
「もちろんや。あんなもん、いちいち信用する必要はあらへん」
 再び関西弁の女の子。
「いや、コンピュータを作った人間がおかしいんかな。まあ、どっちでもええけど、コンピュータが最善の手を示してる時というのは、そのコンピュータ自身が相手の指し手を予想しているわけや。そうやろ?」
「はい。そうです」
「じゃあ、その相手が予想してない手を指したらどうなる?」
「それは……」
「予想を遙かに上回る一手を指された時、そのコンピュータの評価は一変するわな。最善の一手というのは、相手の指す最善手を完璧に予想できる者にしか指せん。部分的には、人間にもそれはできる。ただ百手とか二百手とか、そういった長い手数の将棋では、最善手を指し続けることはできん。人間はもちろん、色んな意味で人間の手を借りないと善悪の判断も付かないようなコンピュータには無理や。完璧な手を指し続けることができるのは、神様かあたし達だけ。たとえばプロ棋士がたくさんの戦型を定跡化しとるけど、あんなもん、あたし達なら簡単に覆せるで。全然最善の応手になってへんからな。何が言いたいかというと、人間やコンピュータが示してる最善手というのは紛い物言うことや。憶えときぃ」
 確かに、今の話は身に憶えのあることだった。
 つい先日、プロ棋士同士の対局を、名人と同等の力を持つと言われているスーパーコンピュータが解析している企画を観た。中盤から終盤にかけてスーパーコンピュータはA棋士を優勢としていたのだが、ある局面においてB棋士が指した一手で、スーパーコンピュータは評価を一変させてB棋士優勢とした。A棋士は悪手を指していない。コンピュータが示していた最善手を指し続けていた。つまり、コンピュータは、B棋士のその一手を予想できていなかったということになる。関西弁の女の子の言ったとおり、それまで示していた指し手は、最善手でも何でもなかったということだ。
「将棋って、奥が深いんですね」
 僕は感嘆の思いで言った。
「深いでぇ。あたし達でさえ、まだ極めてないんやからな。毎日勉強や。さっきも言うたけど、定跡化されている戦型の多くは、完璧じゃない。だから頭空っぽのまま定跡どおりに指すのは止めた方がええ。常にどこかに間違いがあるんじゃないかと疑いながら指した方が、棋力アップに繋がる」
 僕は肩を竦めて、
「初段程度の僕が、プロが作った定跡の間違いを見つけられるとは思えないですが……」
「そういうネガティブな考えがダメなんやて。前向きに行け、前向きに」
「はい、すいません」
 日本人形のような女の子が僕の顔を覗き込むようにして、
「あゆむくん、わたくし達が将棋の駒だということを信じたような様子になっていますけれども、もう信じてくれたのですか?」
 と訊いてきた。
 僕はこくりと頷いて、
「そうだね。信じる心の方が強まっているのは事実だよ」
「それでええ。じゃあ、あたし達の力を借りて糞ガキを倒すことにも異論ないんやな?」
「それは……」
 彼女達の話が真実なら、僕はイカサマをして勝つということになる。それは、将棋指しとしてやってはいけないことだ。ネットで将棋を指すのが主流の現在では、相手の指し手をソフトに解析させながら将棋を指すという不正が多く起こっている。プロ棋士と同等の棋力があると言われているソフトだ。アマチュアが太刀打ちできるはずもない。そんなことをして何が面白いのかわからないが、真面目に指している方としては面白くない。あくまでも人間対人間だから対局の妙味が得られるのであって、喜怒哀楽もなければ緊張もしないコンピュータ相手と戦っても、それは得られない。僕がやろうとしていることは、その不正を行っている輩と大差がないのではないか。
「自分のやろうとしていることが、不正やと思ってるんやな」
 僕の心を読んだかのように、関西弁の女の子は言った。
 僕は無言で首肯した。
「これは不正やないで。別に賞金やタイトルがかかっとるわけちゃうし。場末の道場で、子供を正しい道に導くための指導対局をすると思えばええ。まあ、あたしが絶対に厭とは言わせんけどな」
「もおっ、だから握り拳を作らないでください!」
 結局、悩んだところで僕に拒否権はないのだろう。殴られるのは厭だし、従うしかない。
「わかりました。皆さんの助言どおりに指します」
「それでええ。来週の日曜日が楽しみや。あいつ、あゆむに負けた時どんな顔するんやろ。いつものように猫が鼠苛めとったら、鼠の中からライオンが出てくるんやからな。その瞬間の顔、はよう見たいで」
 関西弁の女の子は、心の底から愉快痛快といった笑みを浮かべている。
 この人、所謂ドSだろうなと僕は思った。
「あの、さっきの話だと、他にも何か僕に言いたいことがあるみたいでしたけど」
「二つ目は、あゆむの棋力アップの手伝いをしてやりたいってことや」
「僕が強くなるためのお手伝い、ですか」
「そや。あゆむは自分には将棋の才能はないと思ってるみたいやけど、そんなことはないで。才能を感じさせる手を、よく指しとる。ただ、今はそれ以上にポカが多いから結果が付いてこないんや。それがあたし達はもどかしくてな。これからは適宜アドバイスしたる。あたし達は将棋の駒があるところだったらどこへでも意識を飛ばせるから、いつでも好きな時に感想戦ができるで。でも脳内で会話をするためには、本体である駒がないといかん。だからこれからは肌身離さず、あたし達三枚の駒を持ち歩くようにするんや。何かあれば、人間の姿になって表に出ることも可能やからな」
「わかりました」
「で、あゆむのためにやってあげたいことの最後なんやけどな、ある意味、あたしがあゆむにやってあげたいことの一番がこれなんや」
「これ、と申しますと?」
「あゆむは、大橋桂香のことが好きやろ? その手助けもしてあげようって、三人で話し合ってたんや」
 ずばりと言われたので、僕の顔はかあっと熱くなった。
「いや、好きっていうか、憧れというか……」
「別に隠す必要も否定する必要もないで。あゆむは桂香と対局する時、無理攻めして自爆することが多いよな。男らしいところを見せようとして、攻めが空回りしてる結果や。いつもは慎重になり過ぎて攻めが遅いのになぁ」
 図星を言われたので、僕はぐうの音も出なかった。
「でも残念ながら、現状では桂香はあゆむのことを男とは見てへん。興味自体、持ってへん」
「そんなことは、言われなくても、わかってますよ」
 と僕は返したが、少し凹んだ。
 別に期待はしていない。そもそも、中学三年生の女子が、中学一年生の男子に恋心を抱くなんて、そんな夢物語を描くほど僕は妄想家ではない。この年代の男女の二歳差は、その数字以上に大きな開きがあると思う。しかも向こうは美少女。僕は普通の顔。向こうは将棋クラブの主将。僕はレギュラーになれるかどうか微妙な立場。更に言うなら、桂香先輩は名人の娘さんなのである。同じ土俵に立つには、あまりにもスペックが違いすぎる。
 重々承知しているのだ。でも、やっぱり、少し凹む。
「いやいや、そんな凹む必要はないで。よお聞け。桂香はな、将棋が大好きで、異性自体に興味がないんや。あたし達に未来を見通す力はないけど、これからも大差ないと思う。そんな桂香を振り向かせる男になるには、イケメンになることでも高収入の職に就くことでもない。将棋が強い男になることや。桂香が何度やっても勝てないくらいの腕前になれば、桂香はあゆむを男として見るようになる」
 その話を聞いても、僕の心は全く浮かなかった。
「そんなの無理ですよ」
「何が無理なんや?」
「桂香先輩の段位は、五段ですよ。僕が全く歯が立たない純一くんよりも強いんですよ。喩えるなら、マシンガンを持った相手に出刃包丁片手に突進して行くようなものです。相手のテリトリーに入る前に、殺されちゃいますよ」
「出刃包丁でマシンガンに勝てる方法があるとしたら?」
「そんな方法あるわけが――」
 言いかけて僕は一度口を閉じた。
「まさか、桂香先輩との対局の時に、僕にアドバイスして勝たせるということですか?」
 関西弁の女の子は、肯定も否定もしない。微笑を浮かべて僕を見つめるだけだ。
「そんなこと、絶対にダメです。それこそ不正です。そんなやり方で勝っても、そしてそんな方法で桂香先輩を振り向かせても、意味がありません。詐欺と同じです。実力で勝って振り向かせないと、真実にはなりません」
「よう言うた。それでこそあたし達の主や」
「えっ」
「いくら主のためとはいえ、あたし達もそこまではできん。桂香のように礼儀正しくて真剣に将棋と向き合っている人間を騙すような真似はな」
「仰るとおりですわ。こちらの頭が下がるくらい、桂香さんは真摯に将棋に向き合っています。そんな方を騙すようなことは、絶対にやってはいけません」
「大橋桂香は、桂馬の使い方が、とても上手」
 僕と違って、桂香先輩の評価は非常に高いようだ。
「それじゃ、僕が桂香先輩に勝つ方法とは?」
「たくさん対局して、たくさん詰将棋を解いて、たくさん強い奴の棋譜を並べて、負けた対局ではどの指し手が悪かったのかを見つけるんや」
「そ、それだけですか?」
「それ以外に何があるんや?」
「いえ、それはそうですけど、それを毎日やっている結果が、今の僕なんですが……桂香先輩に勝てるようになるとは、とても……」
「今までは、自分の手の何が良くて何が悪いか、漠然としかわからなかったわけやろ。でも今日からは、あたし達が解説してやることができる。物覚えの悪いあゆむでもきっちり理解できるように懇切丁寧に説明したるから、安心せぇ」
 一言多いが、将棋の神様が解説してくれるのであれば、確かに僕も格段にレベル・アップできるかもしれない。
「まあ、何か訊きたいことがあったら、その都度それぞれの駒に話しかけてくれたらええ。とりあえず、今すぐ知りたいことはあるか?」
 僕は三人の顔を見回して、
「皆さんがどの駒なのかを知りたいんですが……桂馬さんは、そちらの奇抜……個性的なファッションをされている方ですよね?」
「お、ようわかったな。そや。この派手な恰好してる女が桂馬や」
 これはすぐにわかった。だって、台詞の中に常に桂馬という単語が入っているのだから。
「あたしは香車。着物を着てる子が歩や」
 なるほど。関西弁の子は香車か。後退を知らない前進あるのみの特徴がぴったりだ。
 日本人形のような女の子は歩。なるほど。こちらもイメージにぴったりだった。堅実に一歩一歩着実に歩むイメージ。僕の名前でもある歩は、僕が好きな駒の一つだった。
「あの、意識が宿っている駒は、皆さんだけですか? 他の飛車、角、金、銀、そして玉はどうなんでしょうか?」
「隠し事をするのは嫌いやから、はっきり言うわ。他の五枚の駒はな、あゆむのことが嫌いなんや。自分達の主が弱いのが気に喰わんらしい。特に玉である女王様は、あゆむの顔も見たくないと言うとる」
「そ、そうなんですか……」
 将棋好きの僕としては、駒に嫌われるのは辛いものがあった。将棋の要である玉に嫌われるというのは、全否定されている気にもなる。これから飛車、角、金、銀、玉を動かす時、変な感情が生まれるかもしれない。
「まあ、初段まで腕を上げただけでも評価できるけどな。あゆむはよう頑張っとると思うで」
 と、フォローするように香車は言った。
「あゆむくんは、これからまだまだ強くなりますよ。そうすれば、他の駒達もあゆむくんを認めて表に出てくるはずです」
 と、歩は微笑を浮かべて言った。
「強くなるのは構わないけど、とにかくあなたは桂馬の使い方をちゃんとしてちょうだい」
 と、桂馬は冷めた目で言った。
 何だか、凄いプレッシャーをかけられているな。桂香先輩に勝てるようになるまで、どのくらいの時間がかかるのだろうか。想像もつかない。
 まあ、でも、いいか。僕はもっともっと将棋が強くなりたいと思っているわけだし、こんな奇天烈な体験、普通は望んだってできない。彼女達は、プロ棋士でさえたどり着けない場所にいる存在なのだ。将棋に関するほとんどのことを、彼女達は解決できる力を持っている。そんな存在と一緒に将棋を勉強できるなんて、至上の幸福ではないか。僕は、彼女達に、たくさんのことを聞きたい。そうしたら、僕はもっと将棋が好きになるはずだ。
「あの、これからよろしくお願いします」
 対局を開始する時と同じように、僕は深く頭を下げた。