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『思春期ボーイズ×ガールズ戦争』




プロローグ  逢魔が時


 日が傾き始めていた。夕焼け空の下、俺たちは歩いていた。
 高校に入って二ヶ月半。こんな日が来るとは、夢にも思わなかった。
 道すがらは寂しかった。これからのことを考え、不安が押し寄せる。
 不意に、寒気がした。
 時期は六月。外気は暖かい。しかし、周囲の全ての視線が、俺を見ている。錯覚とわかっている。しかし、際限なく膨らんだ恐怖が心を襲う。強迫観念が俺を戦慄させ、体を震わせた。
 アスファルトの感触が、直に伝わるように思えた。硬さ、凹凸、冷たさ。まるで裸足で歩いているようだ。神経が鋭敏になっている。異常な状況だからだろうか。
 また人とすれ違い、肩をすぼめた。思わず俯く。ばれたのではないか。
 カラスが鳴いた。見上げると、真上の電線に、五羽並んでいる。俺たちの行く末が、不吉なものと暗示しているように思えた。胸が苦しくなる。足取りが重い。つまずき、転倒した。
「大丈夫か、マサミチ」
 隣の男、ジュンが手を差し出した。「悪い」俺は呟き、その手を取って立ち上がる。握り返すジュンの手は、力強かった。ジュンは俺より頭一つ小さいが、胸に秘めた想いは誰より大きい。
「そんなに心配するな。行くぞ」
 ジュンが俺の背中を叩く。俺は頷き、再び歩き出した。もし今一人だったなら、逃げ出していたかもしれない。しかし隣に仲間が居るのは心強い。俺が歩けるのは、ジュンのおかげだ。
 ふと、リュウジの言葉が、頭を過ぎる。
「人生に命を懸ける瞬間があるなら、それは今だ」
 その言葉と共に、リュウジが自らを犠牲にして作ったチャンスだ。無駄にはできない。
 これでは駄目だ。胸を張れ。俺たちの使命は重い。俺たちは歩く。一歩ずつ、ゆっくりと、しかし着実に歩を進める。背中にみんなの思いを乗せて。そして俺たちはこれから。
 女子寮に、忍び込まねばならぬ。
 そのため俺たちは今、女子制服を着ている。みんなで必死に準備したものだ。そしてウイッグを被り、胸に詰め物をした。とても親には見せられない恰好だ。しかし完璧な女装。
 特にジュンは体が小さく華奢で、顔つきも柔らかく、女子にしか見えない。女子が見ても、女子と間違えるほどだ。その影響か、隣の俺もばれていない。全ては計画通りだ。
 西日が目に入り、思わず手で顔を覆った。そのとき、ふと、今日までの日々が思い返された。夕闇が、心を感傷的にさせたようだ。
 考えてみれば、俺たちの不遇は、中学の頃から始まっていた。
 あの日、誓い合ったときから、いつかこうなることは、運命だったのかもしれない。



1  そして退屈な日常が終わる


 思春期だった。
 どうしようもなく思春期だった。
 女子を意識し始めたのは小学生の頃、隣の子の胸が大きくなり始めたあたりだろうか。
 しかしその気持ちの向け方は、わからなかった。何をどうして良いのか見当も付かなかった。
 だから中学生に憧れた。大人だと思った。何か知っているはずだと思った。中学生になれば、ほっといても必ず女子と何かある、口に出して言えないことも起こると心をときめかせていた。
 しかし現実は残酷だった。せっかく中学生になったのに、俺たちはそんな他力本願の考え方ゆえ、自らの人生を何一つ開拓しなかった。だから口に出して言えないことどころか、女子と仲良くなることすらなかった。俺は友人のリュウジとジュンと共に、男三人集まって、下劣な談話に花を咲かせるという華の無いことばかりをしていた。悲しみに打ちひしがれた。
 しかし、泣いていても始まらない。この気持ちを静めるには、もはやプロの女性に頼るよりない。そう思い、ビデオショップへ向かった。変装した上、父の会員カードを借りる念の入れようだった。わくわくしながら、店内を回った。
 そして首を傾げた。心の隙間を埋めるものが無かったのである。代わりにポスターがあった。
『男子制限法により、猥褻物の販売、及び貸し出しを禁止する。  内閣府』
 調べてわかった。その法は数年前、俺たちが子供だった頃に施行されていた。名目は「男子が好む猥褻物の撤去による、クリーンな社会の実現」である。だが現状は、男性を蔑ろにし、女性が住みやすい社会を作る法として機能していて「女尊男卑法」と揶揄されているそうだ。
 この法により、芸術品を除き、男性が喜ぶ助平な雑誌、小説、写真集、映像メディアは店頭から消えた。挙句の果てには、漫画の下着の描写にまで規制が入る始末だ。バトルシーンで、女の子のスカートの中が全く見えない、隠し過ぎだろと思っていたが、これが原因だったのだ。
 社会の閉塞を実感した。そしてフラストレーションだけが、歪んだ形で溜まった。
 女性はどんな下着を着けているのか。
 女性のおっぱいとはいかなるものか。
 女性の下半身はどうなっているのか。
 俺たちは渇望していた。女性に興味津々だった。少しでも情報が欲しかった。
 しかし美術館で裸婦の銅像を見たが、細部がよくわからない。ドキドキしながら、女の子のおままごと用の人形を裸にしたが、よくわからない。保健の教科書の断面図は教える気が無い。
 頭は思春期の妄想で一杯だった。もう女性と目が合っただけで恋に落ちてしまいそうだった。
 そのまま中学の三年間が過ぎた。気持ちをもやもやさせたままだった。
 だから中学最後の思い出に、女子更衣室へ入ってみようと思ったのは、自然の摂理だった。

 卒業の四日前。この日は午前中で学校が終わった。俺たち三人は帰路に付くと見せかけて、昼飯も食べずに、一階のある部屋の前に来た。女子更衣室だ。
 世の風潮に負けず、今日はここに立て篭もってやろうと決めた。
 普段は部屋の中を覗くことすら難しい。着替え中は、カーテンが閉まっている。窓とたった一枚のカーテンが、ベルリンの壁より厚い仕切りを作っている。
 これまで俺たちは、中の様子を想像し、僅かに心を満たしていた。今日までに多くの女子がこの部屋で服を脱いだという歴史的事実、この壁や窓が目撃した真実、それらに思いを馳せていた。中学時代に希望の光を見出せなかったが、こういうところには希望を見出していた。
 しかし今日は違う。中に足を踏み入れようと思った。あのサンクチュアリを、肌で感じたいと思ったのだ。俺たちは飢えていたのだ。
 俺たちは知っていた。鍵が掛かるのは、授業や部活で使用されたときだけだと。だから部活が始まる前に、作戦を遂行しなければならない。そのための大きなダンボールも用意した。
 念のため、耳をそばだてた。人の気配は無い。神は俺たちを見捨てていない。
 俺たちは秘密の花園へ飛び込んだ。

 エデンだった。
 中央には木のテーブル。整然と並ぶ灰色のロッカー。何の変哲もない、寂寞とした更衣室。
 しかし不思議と心地良かった。興奮はせず、むしろ心が洗われるようだった。周囲の無機質なコンクリートの白壁は、まるで教会のそれのように、神聖なものに感じた。空気も違う気がした。春めき始めた外とは、一味違う温かさと香りを持っている。胸一杯に吸い込む。まずはここの雰囲気を楽しむ。いつまでもここに居たかった。俺たちは今、多くの女子が服を脱いだ場所に立っている。空間を共有している。目を閉じれば、女子のキャッキャウフフが聞こえて来るようだ。素晴らしい。素敵だ。やはりこれはもう、実際に見るしかない。
 予定通り、立て篭もりを敢行した。
 この時期は、校内の荷物整理が行われている。その荷物の一部が、更衣室に保管されていた。一つ二つ三つダンボールが増えたところで誰も気付かない。用意したダンボールを組み立てて隠れ、わくわくしながら人が来るのを待った。
 しかし、一時間経ち、二時間経っても誰も来なかった。
 後でわかったが、この日は卒業式準備のため、部活停止期間に入っていたのである。
 しかし帰宅部だった俺たちは、そんなことは露知らず、粘り強く待った。しかし人の気配は全く無い。だんだん腹も減って来て、切なくなったがそれでも待った。
 そして念願が叶った。一人の女子が入って来たのである。
 後姿しか見えないが、モデルのようにすらりとした長身で、スタイルが良い。髪形はポニーテールで、いかにもスポーツをする姿だ。期待大だ。
 彼女はロッカーに鞄を入れると、上を脱ぎ、下着姿になった。後ろしか見えないが、思わず唾を飲み込む。しかしすぐにTシャツを着てしまった。
 だが、これからだ。
 彼女は鞄からスパッツを出した。いよいよ、下を着替える。スカートを脱ぐときだ。
 しかし彼女は、スカートを穿いたままスパッツを穿いた。だから見えなかった。愕然とした。
 ただ、スカートの中に手を入れ、もぞもぞ動く姿はちょっと好きだった。
 そしてスカートを脱ぎ、運動着に変わった、そのときだった。彼女の鞄から財布が落ちて、小銭がジャラジャラと散らばってしまった。
 彼女は慌てて、それを拾い集める。初めて顔が見えた。そして我に返った。
 同じクラスの中崎(なかざき)ミイナさんだ。
 中崎さんは同じクラスの男子矯正委員だ。この委員は、男子制限法の施行に伴い、各学校に設置された役職だ。男子が良くない行動をとった場合に、対話ではなく物理的手段で解決する役割を担っている。つまり力による制裁だ。長身の彼女の力は強く、今まで何人を病院送りにしたかわからない。見つかれば命の危機だ。
 俺たちは息を殺した。彼女が去ったら、すぐにここを出ようと決めた。
「んー……もう、何でこんなとこに転がってくかなあ」
 中崎さんは言った。どうやらロッカーの隙間に入ってしまったようだ。彼女は四つんばいになって、隙間を覗き込んでいる。
 そして息を飲んだ。中崎さんは完全にこっちにお尻を向けている。スパッツだから、綺麗な丸い形がくっきりわかる。しかも彼女は肩を床につけているらしい。だから、よりお尻を突き出す恰好になっていて、下着のラインが透けている。そして時折、左右に振っている。
 それだけではない。シャツがめくれ上がり、股の間から、彼女の裸の胴体が見えているのだ。ブラジャーと下の胸が見えているのだ。目は釘付けになった。
「んー……ん……取れな……あ……」
 中崎さんは、吐息交じりの、やたら艶かしい声を出した。口では言えないようなことをしているときにも、こんな声を出すのだろうかと、つい思ってしまった。
 中崎さんは官能的なポーズのまま、ロッカーと格闘している。
 そのとき、上でガタガタと変な音がした。隙間から見上げると、ロッカーの上に積み上げられたダンボールが、今にも崩れそうなのである。そしてそれは崩れた。
 天罰かもしれなかった。その荷物は、一直線に、俺に降り注いだのだ。
 そして俺は、下敷きになった。ペシャンコになった。かなり痛かった。このとき声を上げなかったのは意地である。
 しかし当然、中崎さんは振り返った。「うわっ! 大変だ!」彼女は言い、こっちに来た。
「中のもの、大丈夫かな」
 大丈夫じゃなかった。しかし見られるのは、もっと大丈夫じゃなくなる。無視してくれ!
 そんな願いも虚しく、中崎さんは俺の箱を開けた。
 そして、静寂が流れた。暫くの間、見つめあった。
 少し、息を吸った。その空気は、まるで冬の外気のように、全身の体温を奪って行った。
 暖かい空気は、いつの間にか、冷たく凍り付いていた。
 部屋から、音が消えた。静かだった。外で遊ぶ少年の声が、遠く聞こえた。
 解決策が思い浮かばなかったので、俺は死んだ振りをした。
 しかし、中崎さんの顔が、見る見る真っ赤になった。
「何やってやがんだ!」
 中崎さんは怒鳴った。顔は般若のようだった。そして中崎さんは、拳を振り上げた。
 死んだ振りは、振りじゃなくなった。

 後から事情を聞いた。彼女はその日の委員会の後、着替えに来た。バスケ部員だった彼女は、卒業を名残惜しみ、個人的に体育館で汗を流そうとしていたのだと言う。
 ボロボロにされた手当てもそこそこに、俺たちは先生に呼び出された。「中崎さんの呻き声が聞こえたので思わず飛び込んだら、ダンボールの山が崩れて来て巻き込まれた」と弁明したが、いまいち信用してもらえなかった。
 同じクラスの門倉(かどくら)リツカさんは、先生に言った。
「親切心で入ったわけですし。それに卒業式前だから、問題にしなくても、良いんじゃありませんか? みんなで卒業したいですから。ね、ミイちゃんはそう思わない?」
 彼女だけは、かばってくれた。あのときは流石に悪い気がした。
 しかし期待はあった。門倉さんと中崎さんは、親友である。彼女なら怒り心頭の中崎さんを宥めてくれるのではなかろうか。しかし中崎さんは低い声で、
「ああ?」
 と睨んだ。門倉さんは、中崎さんの剣幕に押された。
 結局、俺たちの主張は通らなかった。覗き、並びに窃盗未遂で謹慎処分になった。女子には露骨に蔑まれ、男子にはこっそり称えられた。
 こうして俺たちの中学時代は、最低の結末を迎えた。この噂は、すぐに広まるだろう。高校入学前にして、早くも未来は打ち砕かれた。

 その夜は空気がとても澄んでいて、月の輪郭がはっきりと見えていたことを、俺たちは一生忘れないだろう。
 今日は卒業式だった。しかし、俺たちは出席させてもらえなかった。そこでリュウジの家に集まった。そして卒業に際し、女子に言われて嬉しい言葉について検討した。
 少し涙目になりつつ「絶対、同窓会やろうね」はマル。
「高校も同じだから、来年からもよろしくね」そして肩を叩かれる。これもマルだ。
 もじもじしながら「あの……ずっと好きでした! 付き合ってください!」
 花マルだ。素晴らしい。百点満点だ。こんな言葉を掛けられたかった。
 では俺たちの場合はどうだったか。
「死ね」だった。実に端的な罵倒だ。その他「最低」「気持ち悪い」「消滅しろ」などありとあらゆる罵詈雑言を浴びせられた。「アルバムの同じページに入りたくない」は地味にきつかった。
「何だったんだろうな、俺たちの中学時代は」
 リュウジが遠い空を見て言った。長方形に切り取られた空は、より平面的に見えた。
 時計の針が虚しく響く。寂しかった。
 みんなはどんな言葉を交わして、巣立って行ったのだろう。
 下級生からは、祝福の拍手を受けただろう。昼過ぎには卒業証書を受け取り終えたはずだ。打ち上げは、カラオケやボウリングに行ったかもしれない。そろそろ二次会か。
 考えないようにしていたことが、次々に頭を駆け巡る。
 俺は顔を歪ませた。思い出した途端、傷が痛み出した。荷物の下敷きになった上に殴られ、散々だった。ぐらついた歯はくっついたが、切れた唇と口の中は、まだ治らない。
「大丈夫か、マサミチ。まだ傷が痛むのか?」
 頷き、リュウジに顔を向ける。リュウジは顔を踏まれた。鼻血が止まらず、大変だった。
「怖かったね、あのときの中崎さんは」
 ジュンは言った。いつ見ても女子にしか見えない顔の、左目の下が青く腫れ上がっている。
「俺は中崎さんより、女子の視線が怖かった。あれほど死にたいと思ったことは無い」
 今思い出しても、気落ちする。しかし、リュウジが言った。
「俺はドキドキしたぞ。女子のあの、突き刺さる視線。快感ではないか」
 そして顔を綻ばせた。ジュンが溜息をついた。
「リュウジの性癖は流石だね。リュウジみたいな変態になれたら、人生は幸せだろうね」
「ジュンの言う通りだ。だけど俺は、リュウジのようになりたくない。すまない、リュウジ。俺はお前の感性を受け入れる度量は持っているつもりだけど、なかなか理解に至らない」
「問題ない。簡単に他人を理解できるとか言う奴ほど、薄っぺらい。信用できないものだよ。本音をぶつけてくれる友達が居ることが、最も幸せなことだ。俺も自分を曝け出せる」
 照れくさいことも堂々と言う。何だかくすぐったくなる。自分の性癖すら隠さないリュウジの言葉には、いつも心を動かされる。最も感服したのは、前に興味本位で質問したときだ。
「神様から、絶対に手に入らないものでも何でももらえるとしたら、何をもらう?」
「姉をもらって、いじめられたい」
 これ以来、俺はリュウジを天才だと思っている。
 その天才のリュウジは言った。
「一体、誰が悪いのだ? 俺たちか? いいや違う! 悪いのは、この社会だ!」
 世界は残酷だ。強引な政策が、社会に歪みをもたらしたことに目を瞑る。
 間違っているのは俺たちじゃない。この世界なのだ。リュウジは立ち上がった。
「我々は、この世界と戦わなければならないのである!」
「そうだ! 未来は自分たちの手で切り開かなければならない!」俺も立ち上がる。
「この閉塞しきった世界に革命を!」ジュンが高らかに言う。
 俺たちは固い握手を交わした。
 この日、俺たちは、清く正しく生きることをやめた。

 卒業式の翌日、俺たちは学校へ足を運んだ。先生は言った。
「比嘉(ひが)マサミチ、菊間(きくま)リュウジ、飯沼(いいぬま)ジュンの三名を卒業とする。もう馬鹿なことをするなよ」
 そして形ばかりの卒業証書を受け取り、学校を出た。
 それから俺たちは、リュウジの家に集まった。そして沈黙が流れた。
 一晩経って冷静になり、俺たちは気付いてしまったのだ。口で何と言おうと、結局俺たちは、女子と仲良くなりたいだけだということに。それで全て解決するのだ。他に解決策は無いのだ。どこに怒りをぶつけたとしても、それは八つ当たりにしかならない。
 しかしもう、女性関係は絶望的だ。俺たちは出口の無い迷路で、さ迷っていた。
 現実はさらなる追い討ちを掛ける。来月、俺たちは同じ高校に入学するが、門倉さんと中崎さんも同じ高校なのだ。中崎さん……入学を取り消されることはなかったが……終わりだ。
 しかし目を背けていては駄目だ。淀んだ空気を吹き飛ばすように、リュウジが口火を切った。
「諸君! 我々は春から高校生になる。交友関係は広がり、異性の知り合いも増える。ならば我々を好いてくれる方も居るかもしれない。しかしながら、我々の悪評が立つことは、容易に考えられる。そこでまず、どうすれば女の人と自然な会話ができるか、検討しよう」
 低い出発点だった。しかし、交際するなど二の次なのである。まずはここを解決しなければ、振り向いてもらうことすらない。だからリュウジの言うことはもっともだ。
 しかしそこで、俺の頭に疑問が生じた。
「もう少し、掘り下げて考えてみよう。俺たちは何故、女性と仲良くなりたいのか」
「そんなの決まってるじゃないか」
 ジュンが言った。
「エロいことをしたい」
「なるほど。実に的確で説得力のある言葉だ。畢竟、そこに集約されるのだろう」
「やっぱり恋愛の根本は、そこにあるのか」
「そもそも我々が、異性に対して過敏に反応するのは、異性に対する知識がなさ過ぎるからだ」
 その通りだと思った。尿検査の前日に女子だけが集められる理由も、去年まで知らなかった。
 法の影響で、得られる知識が少ない。それでも意識だけ高まる。だからかえって悶々とする。
 以前、新聞に、男子制限法の必要性を説く、こんなコラムがあった。
 法の施行で男性の性欲が高まれば、男性の結婚願望が高くなる。結婚するためには経済的な余裕が必要だ。だから男性は、より仕事に精を出す。その結果、経済の活性化を促す。晩婚化も防ぎ、少子化対策にもなる、と。
「これは詭弁だよ」
 リュウジは一蹴した。流石は一目置くべき男、リュウジだと思った。
 とにもかくにも重要なのは、知識を増やすことだ。俺は言った。
「ということはだ。とりあえず知識欲が解決されれば、俺たちは焦らず、この問題に対処できるんじゃないか?」
「そうかもしれない。高望みはしない。だがパンツくらいは見てみたいものだ」
 リュウジが答えたそのとき、ジュンが少し首を傾げた。
「ちょっと思ったんだけどさ、女の人の下着の呼び方って、それで良いのかな?」
「どういうことだ?」俺は訊く。
「だって、パンツはズボンの意味にもなるから」
「そう言えば、パンティーとかショーツとかいう呼び方もあるな」
 そのまま、女性用下着の正しい呼称はパンツかパンティーかショーツかという、社会的には何の役にも立たない議論をした。答えは出なかった。
 残ったのは、虚しさだった。
「何故こんなことになってしまったのだ……」
 リュウジは頭を抱え、呟いた。
「せめて俺たちに、幼馴染みの女の子が居たら、こうはならなかったであろう」
 そして俺に目配せした。そう、中学に入学しても何一つ良いことが無かった俺とリュウジは、あの女の子のことばかり考えていた。
 もうこの世に居ない女の子のことだ。
 あれはまだ、俺とリュウジが幼稚園児だった、ある夏の日。公園で遊んでいたときの話だ。
「ねえ、ボクも一緒に遊んで良い?」
 声を掛けて来たのは、麦藁帽子に白いワンピースの少女だった。女子なのに自分を「ボク」と呼ぶのは変に感じた。それに女子と一緒に遊ぶなんて、恥ずかしかった。そもそも話が合わないと思った。
 しかし彼女は、俺たちと共に走り回り、転んで服が泥だらけになっても、楽しそうだった。特撮ヒーローの話も詳しく、よくヒーローごっこをして遊んだ。
 ところが小学校入学を転機に、彼女と会わなくなってしまった。
 中学入学後、女性関係に希望を見出せなかった俺たちは、彼女のことばかり考えていた。
 切ないことに、女子とあんなに楽しく過ごした日々は、あれが最初で最後だったからだ。
 彼女は可愛かった。きっと美人になっているに違いない。今は、どうしているだろう。是非再会したい。そしてまた、あの頃のように楽しい時間を過ごしたい。
 妄想の中で、俺は彼女と恋人気分を味わい、心を満たしていた。
 強い思いは実を結んだ。
 中学二年の、クラス替えのことだった。掲示板に張り出されたクラス名簿を見て、俺たちは舞い上がった。そこに思い出の少女の名前があったのだ。興奮のあまり、眠れなくなった。
 ついに迎えた始業式、俺たちは期待に胸を膨らませ、教室に飛び込んだ。
 俺たちに気付き「やあ、久しぶり」と微笑み掛けて来たのは、間違いなくあの子だった。
 感動が込み上げて来た。
 弾けるような笑顔。整った目鼻立ち。活発そうなショートカット。昔の面影がそのままだ。思い出の少女、ジュンだ。その華奢な体を包むのは、俺たちと同じ男子制服。男らしい平らな胸。ああ、何て可愛らしい男子に成長したんだ。
 一旦教室を出た。あれは誰だ? 何故ジュンが俺たちと同じ制服を着ている?
「どうしたんだよ」ジュンが顔を出した。
 その顔を見た。とても可愛い。すぐにでも抱きしめたい。首から下を見た。男子だった。
「飯沼……ジュン……?」
「おう。マサミチとリュウジでしょ? 子供のとき以来だな」
 思い出は、音を立てて崩れた。
 現実を受け止められなかった。楽しそうなジュンに対し、愛想笑いしかできなかった。俺は一日メシが喉を通らず、リュウジは翌日、学校を休んだ。
 こうして、彼女はこの世から消えた。
 そして、俺たちは歪んだ。しかし誰が俺たちを責められようか。
 スカートを穿いた子を女子だと思うのは自然だ。そして「ジュン」という、男女どちらにも使える名前が、勘違いに拍車を掛けたのだ。
 勿論、ジュンが悪くないことは理解している。あの恰好も、当時親にさせられていたらしい。しかしそれでも、裏切られたという思いは募っていた。
 俺たちは、よほど女の子と縁がない星の下に生まれたのだ。
 俺はちらりとジュンを見た。
「僕のせいだって言うのかよ」
 ジュンがムッとした表情で言う。「そんなことはない」と、俺は首を振った。
「ただ俺は『ジュンが本当は女でありますように』って、お星様にお願いした」
「気色悪いことをするな」
「俺の中で、何かが変わる気がした」
「そもそも歴史が変わってるじゃないか」
「そうだぞ、マサミチ」リュウジが口を挟む。「そんなことになったら、一人の幼馴染みを取り合う、憧れの展開になるではないか」
「そうしたら、俺はリュウジに負けない」
「いやいや、選ばれるのは俺だ」
「リュウジは変態だから無理だ。そうだろ、ジュン!」
「二人とも死ねば」
 ……不毛だ。
「何故俺たちは、こうなってしまったんだろう」俺は項垂れた。
「そんなの決まっているではないか。気持ちだけが先行して、実態が付いて行かないからだ」
 要するに、欲求不満は積もり続けるのに、女子との縁は遠くなっているということだ。
「俺たちは焦り過ぎているのだ。そもそも、無理に女子と仲良くなる必要は無い。それなのにこんなに苦しんでいる。性的な欲求が満たされないから、こんなことになるのだ」
「僅かでも、俺たちの心の隙間を満たすものがあれば良いんだけどな……」
 心の隙間を満たすもの。それは何か。
 簡単だ。エロ本だ。そう、エロ本さえあれば、俺たちの悩みも、少しは解決するのだ。
 俺たちは気付いた。恋愛感情はエロい気持ちと表裏一体だ。助平なものを見て知識や好奇心を満たせば、鬱屈した思いも緩和され、一石二鳥なのだ。
 しかし社会は、これを許さない。それどころか、社会は男子制限法なる悪法を作ってまで、歴史の上から猥褻物の存在そのものを抹殺しようとしている。
 だがそれは不可能だ。
 世界から風紀を乱すものが撤去されれば、若い世代は存在を知らなくなるだろうと思いきや、男子はどこかで知ってしまう。どんなに世界がそれを隠しても、そういうものがあったということ自体は、どこかで調べてしまうのだ。男子はこういうときに、やたら強さを発揮する。
 しかし未来永劫、それらは俺たちの手には入らない。
 エロ本を読んでみたい。そして心を解放したい。
 そうして気持ちが悶々とし始めた最中(さなか)、ジュンが思い立ったように言った。
「そうか。何でこんな簡単なことに気付かなかったんだろう」
「何か、良い案が閃いたのか?」
「僕たちはエロ本を読みたい。でもこの世に無い。それでも読みたい」
「そうだ。でもどこにも無いから困っている」
「だったら僕たちで描けば良いんだよ!」
 全てはジュンのこの一言から始まったのだった。