3


 アキはもちろんその両親たちも、生まれた時から『陸』というものを知らない。

 ビフォアの時代に人々が暮らした『地上』は、現在すべて海の底にある。

 なぜそうなったかと問われれば、小惑星が衝突した、大規模火山が噴火した、やまない雨が降り続いたなど、答えは人と時代によって様々だ。

 どのみちアフターに生まれたアキが惑星海洋化の原因を知ることはできないし、知ったところで何の意味もない。

 アフターにも文化や学問は存在するが、それはビフォアで言えば有史以前のそれと大差ない。衣服や船に恵まれているだけで、アフターには独自の文明と呼べるものがほとんどない。

 古代の恩恵を当たり前のように海から引き上げ、浮島の上で分配してただ消費する。

 それがアフター――すべてが沈んだ現代だ。

 そんな海洋の時代、アキが塩辛い産湯につかって生まれたのもやはり浮島の上だった。

 アキと両親以外に誰もいない、小さな小さな漂流物でできた島。

 空と海と腐れ木しかない世界で、アキは貝や魚を捕りがらすくすくと成長した。他にすることがないという理由もあったが、体を動かすのが好きな腕白少女だった。

 ある日、父がどこからともなく船を手に入れ、より住みやすい場所を求めて「パラス号」と名づけたカタマランに乗って流れる一家の冒険が始まった。

 アキの父は大柄で豪快な人だったが、ここ一番に気の小さい男だった。褒めて伸ばす方針なのか、何につけても娘を甘やかす優しい船乗りだった。

 母は父に輪をかけて豪放磊落だったが、男勝りなアキに『女の子らしくしなさい』と度々苦言を呈した。しかしそれ以外は父同様にひたすら娘を溺愛していた。

 両親に愛されながらの船旅は楽しかった。

 アキは父から操船を学び、海を知り、星読みの知識を得た。

 母からは泳ぎやらマッサージやら、体に関することを多く学んだ。

 二人に聞かされる星の神話や、海のおとぎ話、そして冒険譚を子守唄にアキは眠った。

 その旅で、アキはほとんど初めて両親以外の人間にも会った。

 大きなフロートでは文化というものを目の当たりにし、アキはひたすら仰天した。長く逗留したフロートを発つ時には、知り合った人々との別れを惜しんで泣いたりもした。

 そんな旅の生活が終わったのは、アキが十二歳になった頃だった。

 父の星読みで帆走中、パラス号は肩や腹にドクロの刺青をした男たちに襲われた。家族を乗せた船は捕獲され、一家三人は海賊たちの大筏に連行された。

 海賊――シーロバーは、アキが生まれて初めて見る『悪』だった。

 両親と別のバラック小屋に押し込められ、アキはただガタガタと震えていた。

 暴力、孤独、闇。

 そういった具体的なものではなく、アキは悪という概念そのものに恐怖して泣いていた。腕白ではあったが、心はおとなしく気の弱い少女だった。父によく似ていた。

 小屋に閉じ込められてからどれくらい時間が経過したのかはわからない。

 アキが記憶しているのは、小屋の外で「うっ」と呻くような声が聞こえ、その後にすぐ父が飛び込んできた時からだ。

 父が自分を助けに来てくれた――アキがそう理解するより先に、父は不可解な言葉を発した。

『アキ、おまえはこれから一人で生きていくんだ』

 父の顔は笑っていた。

 意味がわからずぽかんとしていると、父の大きな手のひらが頭の上に乗る。

『父ちゃんは母ちゃんを一人では死なせない。アキ、たくさん生きろ。海は広いぞ』

 月の見えない夜だった。

 小屋の入り口に横たわる男をまたぎ、十二歳のアキは父に従っておろおろと走る。

 パラス号に乗ると、その周囲がやけに明るかった。夜光虫とも呼ばれるノクチルカが大量に水面に漂い、幻想的な青い燐光でアキと見送る父を静かに照らしていた。

 アキは叫びたかった。しかし声は出せなかった。もし大声で父を呼べば、母の身に危険が及ぶかもしれない。

 アキは両手で口を押さえ、無言で泣いていた。

 見送る父は笑顔で右手を振っていた。左手は握りしめたまま真紅に染まり、顔の代わりに赤い涙を流していた。

 濃い霧が烟る光の海を、パラス号はアキだけを乗せてゆっくりと滑りだしていった――。



 あの日父が救った娘の命は、今にも燃え尽きそうだった。

 アキは天幕の下でただじっとしていた。元々肉付きの目立たない体が、自分でも目を覆いたくなるほど貧相に痩せ細っていた。

 アキがこの名もなき浮島に上陸してから、もう二週間が経っている。

 水はどうにかなっていたが、食料がどうにもならなかった。

 魚を捕る道具と技術があっても、海が完全なサラオ――魚がいない――ではどうしようもない。浮島の底のトコナメ貝もすべて食べ尽くしていた。

 たまに流れ着く海藻に付着したプランクトンを相棒と分けあい、腐れ木の表面に乾いた塩を舐め、アキはただ死んでいないだけだった。

 毎日浮島の頂から眺めても、海上に船影はない。

 飢餓の嵐の中、アキはずっと食べ物のことだけを考えている。眠れば夢に魚や貝を見た。

 二週間前に《サクラジマ》で預かった荷物を、開けたい衝動にも駆られた。

 だが、開けてしまえばそこに期待したものが入っていなかった時、アキは更なる絶望に襲われる。希望を希望のままにしておくことが、メッセンジャーとしてのアキの最後のプライドであり、無意識の生存本能でもあった。

 ゆるりと湿気った風が吹き、すっかり潤いを失った少女の髪を揺らす。

 窪んだ眼窩の目だけ動かし、アキは快晴の空を見上げた。

 あれからニセウミサギも見かけない。海は毎日穏やかで、ゴミベルトも淀んで停滞している。

 一度だけ、メッセージボトルが流れ着いたことがあった。

 中にはビフォアの文字が並んだボロボロの紙が一枚入っていて、こう書かれていた。

『タスケテ』

 言語自体は知らなくとも、最もよく見る四文字の意味は誰でも知っている。助けてほしいのはこっちだ――そう自嘲する気力さえ、アキにはなくなっていた。胃も心も空っぽだった。

 膝を抱えたまま視線だけ動かし、隣のキーちゃんを見る。

 船長も本当に痩せてしまっていた。まったく動いていないはずなのに、水かきに血が滲んでいる。たぶんピン虫にでも刺されたのだろう。あの存外に機敏な船長が、もう自力で虫を避けることもできない。

「ダァジョーブ」

 アキの視線に気づいたのか、キーちゃんはまっすぐ海を見据えながら力なく鳴いた。

 このところ声を出してもケロケロというカエルの鳴き声だけだったのでアキは少し驚く。

 そして、キーちゃんの瞳に老いゆく白鯨に似た諦観を見て、いよいよ限界だと悟った。

 あの嵐の中で希望を見出したつぶらな瞳は、今、別の何かをはっきりと見据えている。

「キーチャン、オイシー」

 立て続けに船長が喋って、アキはぎょっとした。

 何か食べ物でも見つけたのかと隣を見ると、キーちゃんはつぶらな瞳でじっとアキを見上げている。黒い瞳がやけに潤んでいた。それでもその目は笑って見える。

「キーちゃん……?」

 アキは今のキーちゃんと同じ目を、かつて一度だけ見たことがあった。

「ボクスゴクネムイヨ」

「キーちゃん!」

 シーロバーの大筏から、静かにアキを送り出した父の瞳――。

「タクサンイキロ」

 それは、父の最後の言葉だった。アキが挫けそうになる度、いつも頭に響く父の願いと大きな笑い声。

 それを今、オウムガエルのキーちゃんが口にした。

「アキ、タクサンイキロ。ダァジョーブ。キーチャン、オイシー」

 肉が削げ落ち、ほとんど干物のようになった船長がブルブルと小さく震えている。

 もう声帯を震わせる力など残っていないのに、キーちゃんはアキに意志を伝えようとして全身で喉を鳴らしている。

「キーちゃん待って! キーちゃん!」

 アキはキーちゃんがこんなに喋ったのを初めて聞いた。

 キー船長は決して饒舌なオウムガエルではなかった。いつも一言二言アキの言葉をマネるだけで、大きな瞳で見つめた大事なことだけを教えてくれた。

「キーチャン、タノシー。ウミ、タクサンタノシー、アリガト」

 振り絞るような鳴き声が、徐々にかすれていく。意志を伝え終えたオウムガエルの体に、深い皺が一斉に走った。

「キーちゃん待って! ボクを置いていかないで!」

「アキ、アリガト」

 涙で滲んだ瞳の中、キーちゃんが最後に片手を上げて笑った。アキにはそう見えた。

「ボッボヤージ……」

 キーちゃんは、大海(たいかい)も空の青さも知るカエルは、アキに海の男の手本を見せてくれた勇敢なる船長は、今――堂々と目を閉じた。

「なんで、なんでみんなボクを置いていくの……どうして……」

 アキはオウムガエルの体に額をつけて泣いた。

 目からはこんなに涙が流れるのに、キーちゃんの干からびた体はちっとも元に戻らない。

 船長の体も、自分の中から流れる水も、ただ、塩辛い。

「ううっ……、キーちゃん……! キーちゃんっ……! ううっ……わああああああっ!」

 動かなくなった船長を抱きしめ、アキは日が沈むまで延々と泣き叫んだ。


 夜。

 キーちゃんの意思を継ぐべく、アキは浮島の頂点でナイフを握る。

 船長の喉に刃先を入れて口をつけ、海を睨みながら命をすすった。


 ――ボクは、たくさん生きる。


 一片たりとも残さずに、アキは更に一週間生き抜いた。


   4


 海から上がり、タンクトップと下着を脱いできつく絞る。

 脱いだ服を天幕に吊るしながら、アキは自分の体を見下ろした。

 これほど痩せてしまっているのに、胸にはわずかな膨らみがあるのがわかる。かつては裸のままでも男として扱われたが、セイラー服を着忘れたら疑われることもあるかもしれない。

 母に比べればまだまだ小さいそれに手をあてがい、アキはそんなことを考えていた。

「む」

 ふいに視線を感じたような気がしてアキは振り返る。

 もちろんそこにオウムガエルはいない。

「……本当はオバケになって見てるんでしょ? キーちゃん興味なさそうなフリして結構ボクの裸見てたよね?」

 キーちゃんが目を閉じてからアキは独り言が増えていた。無闇に明るく振る舞おうと、益体もない言葉を口にした。そうしなければ孤独に押しつぶされてしまいそうだった。

「一人でもさすがに裸は恥ずかしいかな……」

 アキは着替えに悩んだ末、セイラー服の上下を身につけた。下着をはいていないため、スカートが風にまくれるとヒヤリとする。

 両手でスカートを押さえながらタープの下で仰向けになり、天幕越しに空を眺めた。

 伸ばした足に当たる日差しと影の具合で、そろそろ正午だとわかる。

 キーちゃんの意志を継いでたくさん生きると決めたアキだったが、海は相変わらずのサラオでやることがなかった。

 腐れ木の露をすすって乾いた塩を舐めると、その日一日もう何もすることがない。あとは日がな海を見つめて船影、もしくは漂流物を探すだけだ。

 しかし海には何もない。運良く流れ藻、中でもヒジキに近いホンダワラが流れてきた日などは、それだけで一日中キーちゃんのいた天幕の下に自慢し続けられた。

 が、そんな幸運は滅多に訪れない。

 そして、することがないと猛烈に眠い――。

「ふわぁ……」

 寝転びながらあくびをし、これではダメだとアキはタープの下で体を起こした。

 怠惰に身を委ねまいとして、スカートのポケットから短いシートロープを取り出す。

 父から習ったロープワークは手癖のようになっていた。

 しかし戯れに自分の指をチェーンノットの形で結んで手錠にしても、ハーフヒッチの形を作って腐れ木に投げ縄などしても、浮島の時間はゆったりとしか流れてくれない。

 何をしても虚無的だった。命を持て余している気分だった。

「水浴びしたばかりなのにもう眠い……」

 今日のように日差しが強い時、アキは体温を下げるために何度か水浴びをしていた。

 服が乾くまで半裸でいると、ほどよく緊張感を保てて眠気が覚める。孤独でも人目を意識するのは精神衛生上よいことのはず。そう思っていたアキだが、眠いものは眠い。

「たくさん生きろ!」

 決まり文句で自らを叱咤し、アキは製作途中だったスティックチャートを手に取った。

 シーナイフで腐れ木を削り、棒状にして三十センチ四方の枠組みを作る。短いシートロープをほぐして糸を作り、木枠の間に海流の流れを表すヒゴ状の木を縛る。

 スティックチャートは樹の枝で作った原始的な海図だ。

 アキが通過した海域の体験から、この浮島近海の様子を再現している。この名もなき浮島を表す位置には、トコナメ貝の貝殻や削ったナッツフィッシュの骨を埋め込んである。

 こうしてできあがったスティックチャートは、人のいる浮島やフロートに持っていけば水や食料と交換できた。チャート作りは単なる手慰みではなく、アキの「たくさん生きる」意志の表れでもある。

 アキは黙々と木を削り、時折海を眺めながら午後の時間をチャート作りに費やした。

 そうして傍らに五面のチャートを重ね終わった頃、今日も何もないまま日が沈んでいく。

「夕陽がきれいだよ、キーちゃん」

 ポケットの中からキーちゃんの骨の一部を取り出し、手のひらに乗せる。オウムガエルの骨は薄く脆かったため、肩の部分以外は海に散骨していた。

 肩の後ろを撫でる気持ちで、キーちゃんとともに空を焼き焦がすような夕焼けを見つめる。

 たとえ何度殺されかけても、海も、空も、太陽も、自然はみな美しい。

 雄大な自然を見ている間は、アキはその景色に圧倒されていた。オレンジ色と黒の世界で、未来の不安を忘れられていた。

 だが、夜は寂しかった。

 月の光も星の瞬きも優しく美しくはあったが、そこには闇があった。

 空虚な闇は心の空白を連想させた。ぽっかりと消えてしまった、彼らの存在を――。

「寂しいよ、キーちゃん……パラス号……お父さん、お母さん……」

 涙は出なくなっていたが、夜のアキはいつも同じことを考えていた。



 その日、アキは二つの幸運に恵まれた。

 一つ目の幸運は、昼下がりに水浴びがてらに海に潜った際、運良く六十センチ級のアカメウオを仕留めたことだ。

 爛々と赤く輝く目こそ不気味だが、アカメウオの味はタイに似ていて、刺し身で食べると幸せになれる。この浮島に上陸してから一番のご馳走だ。

 だが、アキの心はまるで弾まなかった。孤独に過ごす日々がまた延びたと思うと、うっすら苦しみすら感じていた。

 このところ独り言も減ってきている。最近はもっぱら心の中でキーちゃんに対し、謝罪のような対話を試みるだけになっていた。

 アキは濡れたままタープの下に寝転んだ。

 白い天幕に透ける太陽はまだ高い。日差しは強いが、今日はいくぶん風がある。

 何もかも面倒になりそのまま寝ようとしていたアキだが、手の中でキーちゃんの骨を握っていると使命感にも似た気力が湧いてきた。

「一日でもたくさん生きないとね」

 そうして義務的にアカメウオの刺し身を食べた途端、自分でも笑ってしまうくらい元気になっていた。胃袋は感情を制御する器官だとつくづく思い知る。

 その後は機嫌よくアカメウオを三枚に下ろし、鼻歌交じりで天日に干した。

 ついでとばかりにアカメウオの太い中骨を削って釣り針も作る。

 午後の徒然にはアラからこそげとった肉をエサにし、海に手糸を垂らしてみた。

 何もしないでいるよりは、釣れない魚を期待して想像を巡らせる方が楽しい。そう思えるくらいに心が前を向いている。

 今日は風がある分、太陽の下でも涼しかった。かつてトローリングで釣り上げた自分と同じ名のアキタロ(バショウカジキ)を思い返す。まだ成魚ではなかったが、あれは素晴らしくうまかった。釣ってしばらくはキーちゃんと二人、毎日膨れた腹を触りあい笑っていた。

 そんな思い出とシートロープのほぐし糸を手に、アキは十五分刻みで釣り場を移動する。

 しかし一時間かけて浮島を一周しても手糸にアタリはなかった。仕掛けに問題があるのではなく、やはり単純に魚がいないのだろう。

 確かに相殺海流で停滞した海域の生物相は、他のそれとは大幅に異なる。

 しかしゴミベルトにはそれを好む種類の魚もいるはずだった。なぜこの海域だけが隔離されたように何もいないのか、アキはずっと気になっている。

 あの日、星を読み違えたことも、初めて見た「白い嵐」のことも。

 二箇所をきつく結んで四方にパラシュートアンカーを打ったパラス号の消失のことも。

「結んだロープが残ってないのは、やっぱり腐れ木ごと流されちゃったのかなあ……」

 十五分刻みで体を動かすのはいい気分転換になった。だんだん頭も働いてきて、アキは様々な謎に推理を働かせる。未知を知ろうとすることは頭の中の冒険だ。興奮しながらあれこれ考えていると時間はあっという間に過ぎてゆく。

 自動巻きのダイバーズウォッチが、午後二時を指した。

「このまま釣りをするべきか。いったん日陰で体力を温存すべきか――」

 ひとまずは次のポイントで考えよう。

 そう思ってアキが移動を始めた時――本日二つ目の幸運に遭遇した。

 アキのいる浮島前方百メートルに、パラス号より一回り大きい三十フィート級のヨットがぽつねんと浮かんでいた。

 あまりに唐突な奇跡のタイミングに、アキはしばしぽかんとしてしまう。

 たっぷり三十秒放心した後、大声で助けを呼ぼうとしてはたと気づいた。

 三十フィート級の船体は新品のように小ぎれいだ。しかしマストに結ばれたセール(帆)はビリビリに裂け、よたよたと垂れ下がったまま風に揺れている。

「ひょっとして、無人船……?」

 もしセイラーが乗船していれば、セールをあんなにボロボロのまま放置することはないはずだ。代替するセールがなかったとしても、物のないアフターで何かに再利用できるものをあんな風に野ざらしにはしない。

 この時代、餓死や落水で孤独に死にゆくシングルハンドのセイラーは少なくなかった。おそらくあの船もそうして船長を失った類だろう。

 そう見当をつけ、アキは結論を出した。

「人がいないなら、こっちから行くしかない」

 三十フィート級のモノハル艇が、ゆっくりと浮島に近づいてくる。

 しかしゴミベルトに向かう海流がある以上、あのままでは数十メートル手前でアキのいる浮島を避ける流れに乗ってしまう。

「……いけるかな」

 アキは自分の痩せさらばえた体を見た。

 腕と足の筋肉はすっかり落ちている。満足な食事をとっていない体に、体力はほとんど残っていない。泳げたとしても十数メートルがいいところだろう。

 だが、これは最初で最後のチャンスだ。躊躇している暇はない――。

「行こう! ……う」

 いよいよ覚悟を決めた時、アキは自分が下着姿であることに気がついた。白地に青いボーダー柄は、遠目に見てもすぐに少女のそれとわかる。

 急いで丘の上にとって返して、まずはセイラー服のスカートをはく。その後に手持ちの荷物をすべてまとめ、もしも船に人がいた場合に備えて上にも男装用のセイラー服を身につけた。

 服の上から念の為にライフジャケットも羽織る。これでひとまず溺れる心配はない。

 準備が整い、アキは浮島のふもと、腐れ木のギリギリ端に立って慎重に潮の流れを見た。

 三十フィート級がその舳先をゆっくりとゴミベルトの方へ向ける。アキから見て約三十メートル程度の距離。今ならまだ追いつける。

 余計な体力を使わぬよう、アキはそろそろと静かに海に入った。なるべくライフジャケットの浮力に頼り、栄養不足の体をゆっくり動かして距離を稼ごうとする。

 が、すぐにふくらはぎがつり始めた。仕方なく腕の力だけで静かな海を泳いでいく。

 三十フィート級の船がゴミベルトへ向かう海流に乗った。アキとの距離はあと十メートル。

 アキは焦らずゆっくり手を動かし、無人船の船尾を見ながら泳いだ。

 やがて体力の限界の三歩手前になった頃、太陽に向けてスピアガンを放った。

 山なりに飛んだスピアが、ドンと無人船のデッキに突き刺さる。

 ゆるやかな流れの中で、ゆっくりゆっくり、休み休み、アキはラインをたどっていく。

 太陽が西へ一つ動いた頃、アキはようやく船尾から数メートルの位置に到達した。

「あ、あと少し。ガバロー」

 赤く染まり始めた空の下、船長の声マネで自らを応援する。

 その時、海中の足元をゆらりと白黒の縞模様が通過していくのが見えた。

 体長三十センチほどの魚だったと思う。色味からするとおそらくブリモドキだろう。

「パイロットフィッシュが単体でいるなんて珍しい……」

 新たな疑問を口にした時、アキは気づいてしまった。

 パイロットフィッシュ――水先案内魚は、船や大型魚類の底に貼りつくように泳ぐ習性がある。今ブリモドキが泳いできた方向から考えると、無人船にへばりついてきたのではないようだ。となるとどこかにパートナーたる大型魚類――すなわちサメがいる可能性が出てくる。

 この海域にまったく魚がいない理由を、アキはたった今理解した。

 そこに縄張りを持つ獰猛なサメがいたら、魚はあらかた食い尽くされる。目についたものは何でも食べる悪食の巨大魚――ゴミザメでもいた日には、船を舫ったロープも、魚も、その貪欲な食欲ですべてが駆逐されてしまう。

「サメの縄張りで、サメが活発に活動を始める夕方に、サメの視覚を刺激する蛍光色のライジャケを着て、素泳ぎ……」

 アキは浮島で飢えていた時以上に、明確な死の予兆を察知した。

 サメは嗅覚も優れているが、頭部に電流センサーのような器官も持っている。この感覚器は海中の微弱な電位差も探知でき、獲物の位置を特定することが可能だ。

 つまり、アキは海中にいるだけで、ゴミザメのレーダー内で「ここにいます」と点滅しているに等しい。

 音を立てないよう、目立たないようなんて無駄だと悟った。

 無人船まで残り数メートルの距離、アキは真っ青になって必死にラインをたどる。バシャバシャと半ば泳ぐようにして、頼みの綱を強引に引き寄せる。

 突然、ガクッとラインの手応えがなくなった。

 まさかと顔を上げて見ると、無人船のデッキに刺さったスピアが抜けていた。かろうじて船尾のハシゴに引っかかったスピアの返しが、カタカタと今にも外れそうに揺れている。

 肌のせいで顔色の変化は目立たないアキだが、今は誰が見ても血の気がすっかり引いているのがわかる。

 ふいに遠くでちゃぷんと波の立つ音がした。

 アキが顔をひきつらせながら見た西の海上。そこにモノハル艇のキールほどありそうな、茶色に白のまだら模様の背びれが見えた。

 ゴミが漂う停滞海域独特の匂いを好み、『目についたものは何でも食べる』貪欲な捕食傾向。その悪食ぶりから、セイラーたちに『浮島喰い(シマクイ)』や『シップイーター』と呼ばれているホホジロザメの巨大種――ゴミザメ。

 本能が、動いた。

 アキは海藻の貼り付いた巨大な背びれから目を引き剥がし、ゴーグルをはめて泳いだ。

 頼りないラインから手を放し、無人船に向かって必死に手足を動かした。

 視界の端でゴミザメの背びれが消える。明らかに獲物の存在に気づいている。

 アキは泳いだ。

 遠い背後でゴミザメの浮上する気配を感じた。おそらく確実に仕留められるよう、獲物を襲う角度を修正している。

 アキは夕焼けの中を必死に泳いだ。

 無人船の船尾はすぐそこに見えているが、橙色の暗がりが心の不安をかきたてる。

 アキは懸命にもがいていた。

 なのに体は波間に漂うクラゲのように、寄せては返して少しも前に進まない。

 アキは泳いでいるつもりだった。

 しかし水と海藻だけで生きながらえた体には、もはや体力は欠片も残っていない。

 海中でこむらがえったふくらはぎをバタつかせるだけの少女は、ゴミザメから見れば最も苦労しない獲物、すなわち「溺れる人間」だった。

 溺れるように泳ぎながら、アキは背中に波を感じていた。先程まではなかった波――ゴミザメが起こしたうねりの先端に、押されるように背筋を撫でられる。

 アキは泳いだ。無人船のハシゴまであと三十センチ。

 アキは泳いだ。ハシゴまであと十センチ。

 アキは泳いだ。あと五センチ。

 アキは泳いでついに無人船のハシゴに手を伸ばした。

 銀色に光る希望に指がかかる。少女が険しい顔を安堵で緩ませたその時――。

「あ……」

 ゴミザメが作った波の返りを受けて、アキの右手は軽い体ごとハシゴから引き戻された。

 安堵の表情は一変していた。絶望が足の先から全身を凍りつかせた。

 ――たくさん、生きられなかった。

 胸に去来する後悔。背負った想いを成し遂げられなかった無念。

 しかしその悲しみの奥底には、決して小さくない安らぎもあった。

 やっと楽になれる――疲れきったアキが解放の喜びに笑いかけた時だった。

「つかまって!」

 突然視界に飛び込んできた白い手のひら。

 気力も体力も失っていたアキの右手が、まるでキーちゃんのように俊敏に動いた。

 無人船の船尾から伸びてくる白い手のひらが、アキの褐色の右手をつかむ。

 体を引き上げられながら、本能がカエルのようにハシゴを蹴り上がる。

 足元にゴミザメの鼻が見えた。何の感情もない無機質なサメの目があった。

 白い手の持ち主ともつれるように、アキは無人船のコクピットに転がり込む。

 肩越しに振り返ると、アキの腕ほど太い牙の並んだ口が、空気を喰いちぎって上昇していくのが見えた。

 続けて、耳を直接叩かれたような海面を打つ激しい音。

 その音に比例した量の海水が、アキの背中にざばりと降りかかる。

「た、たすかった……」

 全身からガクンと力が抜けた。

 同時に、うつ伏せになったアキの顔を柔らかい何かが支える。

 はてと起き上がろうと手をついた先にも、水の詰まった布袋のようにぷにぷにと触り心地の良い何かがある。

「あんたね……。いくら女でも三揉み以上は怒るわよ」

 柔らかい何かの上方には、決して柔らかいとは言えない少女の表情があった。

 アキを睨みつける青い瞳はじとりと芯まで冷えきっている。しかし切れ長の目に肌の白さも相まって、憮然としていても少女には思わず息をのむ美しさがある。

 その美しい顔の上には、アキが見たこともない色の髪が生えていた。ゆるやかに波を打つ長い髪は、夕陽を受けてまるで極細のナイロンハリス(釣り糸)のように薄黄色に輝いている。

 アキにとって初めて見る人種の少女は、人というよりまるで神話の女神のようだった。

「すすす、すいません!」

 取り乱しながら立ち上がり、自分が組み敷いていた女神に非礼を詫びる。

 そして見下ろす形になった女神様が、自分と同じくセイラー服を着ていることに気づいた。

「あれ? 男の人……? 胸……あれ?」

「あんだけ人の胸揉んどいて、どの口が男なんて言うのかしらね」

 腹立たしげに立ち上がる女神様。その手元から伸びてきた白い指先が、ふいにアキのほっぺをぎゅっとつまんだ。

「いだだ……だって、へイラー服ひてるのは男のひほだへ――」

「あんただって着てるでしょうが」

「いだいいだい、ボクは男れふ」

「自分の胸見てみなさいよ」

 女神に頬をつままれたまま、アキは自分の体を見下ろす。

 ライフジャケットの下で濡れて貼り付くセイラー服に、わずかな膨らみがはっきりと透けて見えていた。

 途端に真っ赤になったアキは、「びゃっ」と小さく悲鳴を上げて両腕で胸を覆う。

 そんな「少女」に追い打ちをかけるよう、女神が頬をつねったまま尋問を開始する。

「あんた、名前は? 歳は?」

「あ、アヒれひゅ。十四れす。あの、手をはなひて……」

「あたしはタカ」

「ぶぁかさんいたいれふ。手をはな、ひーっ!」

 新たに伸びてきた白い指が、空いている頬肉もつまんだ。

「誰がバカよ」

「いだいいだい、ひがいまふひがいまふ!」

 きちんと『タカ』と言ったのにと、伝えるすべがアキにはない。

「タカはしたたかのタカよ。あんたより二つおねえさん。そしてこれはお返しよ」

「ふぃっ、ふぃぃぃぃぃぃっ!」

 焚き火のように燃える夕陽が、世界を赤と黒に染めてゆく。

 そんな暮れゆく空の下、アキは頬をつねられたまま、胸をまさぐるタカの手を必死に押し留めていた。


 二十四日間。

 アキはそれだけの日数を何もないゴミの島で生きたが、これはアフターでは見向きもされない記録だった。