※本ページ内の文章は制作中のものです。実際の商品と一部異なる場合があります。


C.S.T. 情報通信保安庁警備部


 遠くから聞こえていたサイレンの音が徐々に近づき、高く大きく聞こえるようになる。
 ガラス張りの壁の向こうには、四車線からなる車道が見えていた。車の列が初夏の日差しを反射しながら、赤信号で停止している。空いた車線を救急車が通り過ぎていき、サイレンの音はまた次第に低くなっていく。
 イベントホールの吹き抜けになった階段を上りながら窓の外を見ていた御崎蒼司は、「ドップラー効果」という言葉を思い浮かべたが、どういう理屈だったかは思い出せなかった。情報通信保安庁に入る前、学生時代に習ったような気がするが、毎回直前の丸暗記でテストを切り抜けてきたので知識に根がない。
「なあ、最近救急車多くねえ?」
 外に顔を向けたまま御崎が言うと、後に続いて階段を上っていた新入隊員の萩谷が、緊張の残る声で答える。
「夏ですからね……今年も電力不足だし、熱中症が多くなりそうですよね」
 御崎の視界の隅には、現実の風景に重なるようにしてデフォルメされたライオンのキャラクターが座っており、アナログ電話の受話器を耳にあて、通信中であることを示している。これは情報通信保安学校に入学した当初、教材としてインストールさせられた学習アプリケーションのアシスタントキャラクターで、任意の名前に変えることもできたが、御崎はデフォルトのトルコ語名「アスラン」をそのまま使っていた。
〈僕も熱中症っぽいや。班長、僕もう帰っていい? 暑いし〉
 一斉通信で会話に割り込んできたのは、御崎の同期の浅井で、話しながらも時々発音がもごもごと不明瞭になっている。
〈おい、てめえ、何食ってる〉
 班長である御崎が声を低くして尋ねると、回線の向こうから後輩の丸山の腹立たしげな声が聞こえてきた。
〈御崎さん、僕は止めましたからね! この人、売店でソフトクリーム買ってるんですよ! 仕事中なのに!!〉
〈丸山、もうそいつのことはほっといていい。セキュリティゲートの方に回れ〉
 ため息をつきながら、御崎は言う。
 イヤーフック型端末「ビーンズ」の通信ランプが点滅している以外、外から通信中であることをうかがい知ることはできない。ビーンズは脳とコンピュータを仲介するブレイン・マシン・インターフェース――通称BMI技術を利用したウェアラブルコンピュータだ。言語活動の際には、実際に声を出さなくても声帯が動く。その動きを読み取り、各人の音声パターンに変換して伝達するのがビーンズの音声通信だった。
 CSTと呼ばれる情報通信保安庁警備部の制服は、チャコールブラックのブレザーに同色のスラックスの組み合わせ。ブレザーには情報通信保安庁の略称JCGの刺繍が入り、銀色を基調とした隊員章と階級章が胸と肩にそれぞれついている。珍しいものでも見るようにその制服に目をやりながら、観客らしい男たちが階段を下りてすれ違っていく。
 夏休みに入って最初の月曜日。イベントホールは予想以上の人出だった。開場の二時間前にはすでに、ホール周辺や施設内の飲食店に若い男たちがあふれていた。
 入り口や施設内のあちこちにポップな書体で「東方見聞録」と書かれたポスターが貼ってあり、十代前半だと思われる六人の少女たちが笑顔を作っている。
 芸能関係に疎い御崎は、「名前を聞いたことがある」という程度の認識しか持っていなかったが、人気のあるアイドルグループらしい。ナショナリズムの高揚を背景として、日本の伝統的な生活様式に回帰しようとするネオ・ジャポニズムの風潮が広がっていた。このアイドルグループも和風を売りにしているようで、和服をアレンジした華やかな衣装を身に着けている。
 事の発端は、明け方、このアイドルグループ・東方見聞録のファンサイトの掲示板に書き込まれた内容だった。
〈今日のミニライブで爆発が起こる  ΑetΩ〉
 その日、音楽データ購入者を対象としたミニライブが開催されることになっていた。ネットワーク上での犯行予告は情報通信保安庁がチェックしており、通報も受け付けるが、オフラインでの事件は警察の管轄である。警察は爆破予告と見て警備にあたることにしたようだ。情保からの出動は念のためだった。
 警察の話では、会場とその周辺を確認したが爆発物は見つかっていないという。
 主催者側が入り口に組み立て式のセキュリティゲートを設置して爆発物のチェックをしているし、犯行予告が実際に実行に移されることは多くない。爆破予告の直後には、「お前、抽選に漏れたんだろ」と茶化す書き込みが続いており、今回もいたずらの可能性が高かった。予告文の最後にあった〈ΑetΩ〉が意味不明だったので検索をかけたところ、ギリシア文字とラテン語の組み合わせで、聖書に出てくる言葉のようである。
 気取った中高生のいたずらなのでは、というのが警察との共通見解だった。


 萩谷を連れ、御崎がライブ会場に戻ってくると、ホール内にはハイテンションな音楽が流れ、ステージ上で少女たちの立体映像が踊っていた。
 若い男たちが通路を行きかう中、CSTの制服を着て客席に座っている男の後ろ姿が目に入る。浅井忍だった。ソフトクリームを舐めながら、背もたれに寄りかかってくつろいでいる。まだ客の来ていない席に勝手に座っているらしい。
 御崎は無言で背後に近づき、その頭をはたいた。わあ! と声を上げて、浅井が振り返る。
「なんだ蒼司か。びっくりするじゃない」
 寝癖をつけたまま口をとがらせているその様子は、口調ともあいまって子どものようだ。二十四歳の男のしぐさには見えない。声を押し殺し、御崎は言った。
「何回も言ってるけど、仕事中に菓子食うな」
「だめだよ。こまめに水分取らないと熱中症になるからね」
「水でも飲んでろ! 遠足じゃねえぞ。今すぐ捨てて来い」
「やだよ。なんで仕事中にお菓子食べちゃいけないのか、全然わからないよ。お菓子を禁止したからって効率が上がるとは思えないなあ。脳の主要なエネルギー源はブドウ糖だよ? ブドウ糖を補給してこそ、脳の働きがよくなって生産性も向上するってもんじゃない?」
 口のまわりを汚したまま、浅井がとうとうと自己を正当化する演説をはじめる。
「そりゃあ仕事は大事さ。この貨幣経済の社会じゃ、労働してお金を手に入れないと生活が成り立たないからね。でも、僕たちは何のために生きてるの? 自由と引き換えにお金を稼ぐため? 我慢して仕事するため? 日々の楽しみを犠牲にして、なにが人生? そりゃあ、蒼司はいいよ。我慢大好きだもんね。七年も……痛い痛い痛い!!」
 御崎に髪をつかまれて、悲鳴を上げながら浅井が立ち上がる。観客席から引きはがされた浅井が、頭皮を手で押さえながら不満げに言った。
「なにもこんな暑い日に、爆破予告なんかしなくてもいいのにさ。だいたい、何さ、東方見聞録って。人気あるの?」
 その途端、うっとりとステージ上の立体映像を眺めていた萩谷が、ものすごい勢いで振り返った。顔つきを一変させて、浅井に食ってかかる。
「なに言ってんですか、東方見聞録はいま一番人気ですよ! このライブだって、倍率二百五十倍なんです! 僕、応募コード目当てに楽曲データ二十回買ったけど外れちゃったんですから!」
「へ、へえ……」
「特にあのブルーの衣装のユイユイが人気なんです。僕はイエローのカナさんが好きなんですけどね」
 東方見聞録は十二歳から十五歳の少女たち六人で構成されたグループで、カナさんというのはその中でも最年長のため、ファンの間でも「さん」付けで呼ばれているのだという。
 唾を飛ばさんばかりの勢いでまくしたてる萩谷にたじろぎつつ、御崎は言った。
「全っ然わかんねえわ。俺、グラビアアイドルとAV女優しか顔覚えてねえし。はあ……でも、そのカナさん? AV女優に似たやついるよな。ほら、あの……タイトル忘れたけどナースのやつが抜けんだよ」
「最低!! カナさんを汚すな!!」
 萩谷が上司への礼儀もかなぐり捨てて激昂し、それを見た浅井が爆笑している。
〈御崎さん、制服着てるんだから自重してくださいよ!〉
 ホール外のセキュリティゲートにいる丸山から、音声通信で苦情が入る。
〈悪ィ悪ィ。何かあったか?〉
〈こちらは特に。ゲートでスキャンかけてますし、一応、液体も没収しました〉
 ライブ開始のアナウンスが流れて、会場内が暗くなった。
 音楽が変わり、カラフルなライトがホール内を駆け巡る。大音量のサウンドエフェクトとともに、ステージの上に六人の少女たちが姿を現した。立ち上がった観客が口ぐちにメンバーの名前を叫び、ホール内は地鳴りのような低い歓声に満たされた。
 収容人数百五十名の小さなホールだ。それだけアイドルたちが身近に感じられるのだろう。開始直後から会場は興奮に包まれていた。ファンたちは曲に合わせて手拍子を打っている。一曲めが終わると、少女たちの自己紹介が始まり、そのたびに名前を呼ぶファンの声が響き渡る。
「カナさーん!!」
 叫び出した萩谷の後頭部を、御崎は無言ではたいた。
 ポップなメロディと甘い歌声。ステップを踏みながら、ステージの上でくるくると回るように踊る少女たち。和風のコスチュームがひらひらと踊りに合わせて翻り、客席では色とりどりのペンライトが蛍の大群のように揺れていた。
 萩谷は勤務中であることを忘れているとしか思えない笑顔で手を打っているし、浅井は棒つきのキャンディを舐めていた。いつの間にか、また売店に行って買ってきたらしい。
 平和だった。爆破予告など現実離れしている、と御崎は思った。
「結局は現実なんだよな」
 浅井からキャンディを取り上げ、ホール内を眺めながら御崎は言った。
「どうせ、このライブの記憶データも売られるんだろ。そのデータとビーンズがあれば、ここにいた人間と同じものを見たり聞いたり感じたりできるわけだよな。でも、ファンのやつらは同じ楽曲データ二十回買ってでもここに来たいわけだ」
 キャンディを奪い返し、浅井が答える。
「ヴァーチャルリアリティって言っても、現実と等価になる前に規制がかかっちゃったからね。ビーンズが普及したときにはもう、BMIの研究は停滞しちゃってたって言うし」
「そうなのか?」
「BMIは見切り発車で広まっちゃったんだよ。脳のことだって、全部わかったわけじゃない。安全かどうかわからない状態で普及しちゃったから、規制された。アクセス可能な脳の部位も限られてるし、処理能力は向上したけど、BMIでできることって僕らが小学生だったころとそんなに変わってないじゃない。中学生になるころには、つまんない暗記科目なんか全部脳にデータをインストールして済むようになると思ってたのにさ。ダウンロードはいいけどインストールはダメって、結局、PCで見たり聞いたりしてるのと変わんないよね」
 キャンディを取り上げた御崎の手に浅井がかみつき、御崎が汚れた手を浅井の制服になすりつける。二人が子どものような取っ組み合いをしていると、不意に観客の手拍子が乱れた。
 見ると、相変わらず客席は総立ちになっていたが、手拍子はまばらになっていた。
「わあああああああああああああああああああああああ!!」
 いくつかの咆哮が響き渡った。
 歓声とは異なる雄叫びに、ステージの上の少女たちが踊りながらぎょっとしたようにあたりを見回す。
 突然、客席は混乱の渦に投げ込まれた。客席の男たちは叫び声をあげながら周囲の人間を突き飛ばし、拳を振り上げ、隣の人間に殴りかかった。何が起こったのか、誰にもわからなかった。
「落ち着いてください!」
 警官の怒鳴り声で、呆然としていたアルバイトらしき警備員が慌てて割って入るが、一斉に発生した百五十人の乱闘になすすべはなかった。音楽が止まり、スタッフのアナウンスが入る。着席してください、落ち着いてください! 閉じられていたゲートのドアが開き、待機していたスタッフと警官がホールになだれ込む。
 観客の混乱を観察していた御崎は、部下に待機を命じて人ごみの中を走った。警察の責任者は顔見知りの三十代の男だった。その男をつかまえて言った。
「正気のやつとそうでないやつがいる。正気のやつをホールの外に出しましょう」
 その場で簡単に警察との役割分担をして、音声通信で班のメンバーに命じる。
〈正気のやつだけゲートから外に出せ。ただしこの階から外へは出すな。暴れてるやつはホールに閉じ込めて警察が拘束する〉
 少女たちはとうにステージ奥へと引っ込み、それを追おうとするファンを警備員たちが押しとどめていた。見ていると、獣のような叫び声をあげながら周囲に殴りかかる人間は二、三人に一人の割合だった。目を剥き、口の端に泡をつけて手当たり次第に人を殴りつけている。皆同じような表情をしていた。
 ステージの上で馬乗りになって警備員を殴りつけている男がいる。御崎はその男に後ろからつかみかかり、羽交い絞めにした。警備員にホール外へ出るように言い、男を後ろ手に拘束する。
 暴れている男たちは、特別な訓練を受けているわけでも、喧嘩に慣れているわけでもなく、がむしゃらに攻撃しているだけのようだった。虚を突くと簡単に押さえ込むことができた。ただ、何かに憑かれたように次々と攻撃してくるのが厄介で、一人と格闘していると別の男がマイクスタンドを手にして殴りかかってきた。左脛を殴打され、御崎は顔をしかめた。第二撃をかわすために拘束しかけていた男を手放さなければならなかった。
「御崎三保正!」
 警棒で応戦しようとしたところへ、若い男が走り寄ってきた。マイクスタンドの男にタックルを決め、手際よく押さえ込むと手錠をかける。Tシャツにジーンズ、スニーカーというありふれた服装だったが、体は鍛えられているのがわかる。何より、自分を階級名で呼ぶのは身内の証拠だ。
「第六部隊の水元です。手伝います」
 年は自分と同じくらいに見えた。見覚えがあるような気もする。警棒と手錠を手にしているところを見ると、休暇中ではないようだった。なぜ第六部隊がここに? と思ったが、今はそれどころではなかった。
「ゲートの外でうちのやつらが警備にあたってる。ゲート付近がもめてるからそっちの応援に回ってくれ」
「了解です」
 殴り殴られ蹴り蹴られを繰り返しているうちに気分が高揚してきて、痛みの感覚も麻痺してくる。
 手錠が足りないのではないかと思ったが、警察が応援を呼んだらしく、三十分後にはようやく鎮静化した。数えたわけではないが、ざっと見たところ、ホール内で拘束された男は六十人を超えていた。
 まったく、何が平和だ。
 腹立たしく思いながら御崎が階段をのぼり、ゲートを出ると、班の三人と水元がゲート脇に集まって立っていた。ゲート外の廊下の床には、客席にいた正気の男たちが座り込んでいる。警官が順に一人ひとりの身元を確認して回っている。
「御崎さん、大丈夫ですか!?」
 丸山が言う。
「大丈夫じゃねえよ」
 仏頂面で答え、御崎はのろのろと近づいていった。萩谷はなにやらうつむいてしょげている。パニックに陥って役に立たなかったのだろう。
「おい萩谷」
 ガッ、と勢いをつけて萩谷の肩に腕を回し、御崎は言った。
「しけたツラしてんじゃねえよ」
「なに、どうしたの蒼司。イイ先輩じゃん」
 浅井がからかうように言った。萩谷に寄りかかったまま、ますます不機嫌な顔をして御崎は言った。
「脚折れてんだよ! マジで痛いんだって!」 
 遠くから聞こえてきたサイレンが近づき、またイベントホール前の車道を通り、遠ざかっていく。
 その日、御崎が救急車のサイレンを聞いたのはそれで四度めだった。

◇◆◇

 きっかけは、小さな無人島だった。
 南西諸島に属する一つの無人島に新しく地下資源が発見され、周辺諸国との間でその領有権をめぐる紛争が勃発。その争いは、それまで日本が未解決のまま抱えていた領土問題のいくつかを再燃させ、周辺諸国と日本の関係が急激に悪化した。そうして「東アジア危機」と呼ばれる一触即発の状態に陥ったのが、十八年前。百年ぶりの戦争が懸念された、その極度の緊張状態の中、前哨戦として起こったのが日本の中央省庁と金融機関、インフラへのサイバー攻撃だった。
 コンピュータウイルスに感染したコンピュータが一斉に攻撃を行う原始的なDDos攻撃と、内部に持ち込まれた不正プログラムによって、通信・水道・電気・ガス等のライフラインが停止し、数日にわたって日本社会の機能が麻痺させられる事態が起こった。大国の介入で戦争は回避されたが、このサイバー攻撃は、日本の主要インフラのサイバー依存度の高さと防衛力の弱さを浮き彫りにした。
 そんな中、東アジア危機のどさくさに紛れて、その安全性が十分に審議されることもなく、コンピュータと脳を仲介するBMI技術を利用したウェアラブルコンピュータが一般向け商品として登場する。その端末は、本体とイヤーフックから構成された形態が発芽した豆に似ていることから、ビーンズと呼ばれて急速に普及した。
 サイバー防衛、そしてBMIによって起こりうる事故への対応は急務だった。そうして、行政機関が再構成される中、サイバーポリスの機能を警察庁から切り離し、文化省の外局として情報通信保安庁が設立された。

◇◆◇

 萩谷正巳が情報通信保安庁に入って、もうすぐ四か月になろうとしていた。
 最初の三か月は新入隊員だけが集められて、情保学校で習った知識の確認や実践演習、訓練に明け暮れていた。実際にCSTの各部隊に配属されたのは、六月末のことだった。
 第一部隊配属の辞令を受け取り、二名の同期とともに庁舎の隊長室に挨拶に出向いた。
 隊長室のドアを開けた瞬間、「間違えました」とドアを閉めたくなった。第一部隊隊長の荒垣は、自分の父親世代だと思われたが、どう見てもその筋の人にしか見えなかった。筋骨隆々、色眼鏡の奥の眼光は鋭く、一瞥されただけで心臓が縮み上がった。地を這うような低い大声で、普通にしゃべっていても脅迫されているようだった。脇に控えた副隊長の相模も細面のインテリヤクザ風。直属の上司になる班長として紹介された御崎は、五人の班長の中ではいちばん若かったが、第一印象は「チンピラ」だった。短い髪に、ストイックに鍛えた体つきはスポーツマンに見えないこともなかったが、スポーツマンのさわやかさはチンピラめいた言動によって完全に打ち消されていた。
 第一部隊が他の隊から「第八九三部隊」と呼ばれているのを後から知った。ヤクザのように柄が悪い、というのだ。隊長室を退出したときの萩谷は、ヤクザの親分とチンピラの下で、どつきまわされてこき使われる日々を思い、まさに「お先真っ暗」な気分だったが、三週間もたつとそれなりに順応した。
 ふだん接することのない荒垣や相模はやっぱり恐ろしく、遭遇すると一礼したまま全身が硬直してしまうが、御崎はそれほど悪い人間でもなさそうだ、というのが現在の萩谷の評である。
 第一部隊や寮の先輩たちによる御崎の人物評は、主に「体育会系のチンピラ」「脳の成分の八十%がエロ。残りは筋肉」「女に手が早い」の三つだった。最初の二つは、三週間でなるほどと腑に落ちた。入隊六年めですでに階級が萩谷より三等も上だというのも納得できた。御崎の同期は優秀な人材がそろっていて、その入隊年度から「54年組」と呼ばれているらしい。御崎も見た目にそぐわず、情保独自の上級試験を突破して入隊してきたキャリア組なのだった。上下関係と礼儀にはうるさいし、しょっちゅうどつかれはするが、先輩の浅井の方が怒られている。浅井が隠れ蓑になって、今のところ、理不尽な目には遭わされていない。
「これは着替えです。こっちはタオル。あと、頼まれてた新聞と煙草も」
 情報通信保安庁付属病院の一室。寮から持ってきた紙袋をベッドの脇のソファに置き、萩谷は言った。
「悪ィな」
 一応礼らしきものを口にはしたが、ベッドの上の御崎は不機嫌でふてくされている。
 額にいくつも擦り傷が見える。左脚もギプスで固定されていた。ホール内で格闘して、骨折したらしい。頭も打っているというので、検査のために入院させられているのだ。
 今日、萩谷は休みの予定だったのだが、昨日の騒ぎの処理のために出勤せざるを得なくなってしまった。報告ついでに、御崎の身の回りの品を届けに来たのだった。
「機嫌悪いですね」
 来る途中で買ってきた紙パックの緑茶をグラスに注ぎ、萩谷が言うと、うんざりした顔で御崎が答えた。
「当たり前だろ。病院入れられて上機嫌な奴なんかいるのかよ。メシはまずいし、クーラーは入らねえし、最悪だぜ。楽しみなのはナースの乳とケツだけだと思ったら、担当はおっかねえ鬼ババアだしよ」
 電力不足のため、冷房を入れているのは高齢者をはじめとする一部の患者の病室だけなのだという。窓は開けっ放しで、入り口近くに設置されている一代の扇風機だけが涼を得る手段だった。御崎も同室の三人も、トランクス一丁でだるそうに寝そべっている。
「これ、浅井さんからです。『元気出して☆ これ、ぼくのお宝動画集♡』だそうです」
 バッグから取り出したスティック状のELCメモリを差し出して言うと、御崎は受け取ってため息をついた。
「どうせ熟女コレクションだろ……いらねえ……」
 窓から七月の可視光線と午後の生暖かい風が吹き込んでくる。緑茶の入ったグラスを御崎に渡し、視界のスクリーンにメモを開いて萩谷は言った。
「掲示板に書き込んだ人物は特定できました。通信経路の隠匿もせずに投稿してたんで、すぐわかったそうです。神保町に住む結城光弘、二十四歳。今朝、アパートに乗り込んで身柄を押さえました。ビーンズとPCも押収済みです」
「ゲロったのか?」
「いえ、これから丸山さんと浅井さんが事情聴取するんですが……丸山さんが『早く戻ってきてください!』だそうです」
 今朝も浅井に仕事させるのに苦労したのだと萩谷は話した。丸山が班長代理を務めているのだが、先輩で階級も上の浅井をコントロールするのが大変なのだ。いちばんいいのは浅井が指揮を執ることだが、そんな無謀なことを荒垣が命じるはずがない。「眠いよう、もう疲れたぁ!」 と子どものように駄々をこねる浅井を、丸山と二人がかりでなだめなければならなかった。エロ話と冗談しか口にしていないように見えて、御崎はそれなりに浅井をコントロールしているらしい、と初めてわかった。
 なぜクビにならないのか、萩谷には不思議で仕方がないのだが、変人伝説に事欠かない浅井は「こんなはずじゃなかった」と周囲が嘆くエリートなのだという。
 情報通信保安官の育成を目的とした情保学校では成績優秀で、主席で卒業。上級試験に余裕で合格し、キャリア組として入隊すると、浅井は解析を主に担当する第四部隊に配属された。特にプログラミングで才能を発揮していたので、幹部候補生として期待されていたのだそうだ。
 ところが、浅井の最初の教育係だった班長は、その奔放すぎる言動に振り回されて不眠症に悩まされ、次に浅井を押し付けられた別の班長はノイローゼになって休職。仕方なく伝令として浅井を自分の身近に置くことになった第四部隊の岡田隊長は、ストレスで胃に穴を空けて「これ以上こいつの面倒を見なければならないなんて、耐えられない! 放出したい!」と発狂しそうな形相で警備部長に訴えたという。
 浅井を引き取ってくれないかという部長からの打診は隊長たちに断られ続け、結局浅井は、強面で抑えが利きそうな第一部隊の荒垣隊長のもと、同期の御崎の班へ回されてきたのだった。人の言うことなど聞きもしない、叱られてもまったく応えない男だった。コミュニケーションの基本が暴力である荒垣のもとでもけろりとしているので、案外第一部隊の気風にはあっているのかもしれない、と萩谷は思う。
「……なんだったんでしょうね、昨日のあれ。爆発じゃなかったけど、書き込みと関係あるんでしょうか」
 萩谷は言った。
「組織的な暴動か、集団ヒステリーか、ってことになってるな。今のところ」
 新聞に目を通しながら、御崎が答えた。人気アイドルグループのイベントだったこともあって、新聞での扱いも大きめだった。警察は一応、暴れていた男たちを中心に観客全員を取り調べているらしい。
 萩谷は声を落として言った。
「情保の仕事って、こんなこともあるんですね。僕、昨日、もうどうしていいのかわからなくて……」
 聞けば、御崎と同室の三人も他の部隊の隊員で、職務中に負傷したのだという。
 階級は東アジア危機を機に軍事色を強めた海上保安庁のものに準じているし、前身が警察庁のサイバーポリスだったことからも、CSTの仕事にそういう要素があることは承知していた。情保学校でも入隊直後の研修でも、逮捕術や武器の扱いは学んでいたし、演習の一環として殴りあいのケンカをさせられたこともある。ただ、それは形式的なものであるような気がしていた。サイバー犯罪はあくまでもサイバー空間上の出来事であって、実際に仕事の上で、他人を殺傷するような行動を取る人間と立ち回りを演じなければならない事態が起こるとは思っていなかったのだ。
「いっつもこんなことばっかりじゃねえよ。ションベンちびんなかっただけマシじゃねえの?」
 肩をそびやかして御崎は言った。
 慰められているんだろうか、と思ったがよくわからなかった。
 そのとき、不意にノックの音がして、室内がかすかにざわめいた。
 萩谷が目をやると、開け放された戸口にCSTの制服を着た二人組の男女が立っていた。
 ドア付近のベッドに寝そべっていた隊員二人が慌てふためいてベッドから降り、姿勢を正して一礼する。遅れて、御崎の向かい側にいた隊員がそれにならう。
 ひときわ目を引いたのは、手前に立っていた小柄な女性のほうだった。チャコールブラックのブレザーに同色のスカートは一般の女性隊員の制服だったが、その胸に銀色に光る隊長章をつけていた。結い上げたつややかな長い髪が右肩にかかり、耳元にはビーンズにつけた薄紅の花飾りがのぞいている。小作りな顔に大きな目と赤いくちびるが品よくおさまり、白い肌が内側から発光しているようだった。
 その大きな目が、不意に後ろから手で塞がれる。
「服を着ろ!!」
 隊長の目を塞いで言ったのは、後ろに立っていた若い男で、副隊長章をつけている。端整な顔立ちをして、背が高かった。
 確かに、すね毛とわき毛をさらした半裸の男たちの姿を、美しい人の目に入れるのは忍びない。男たちが慌てて寝間着を身に着け始める。御崎も面倒くさそうに頭からTシャツをかぶった。
 窓辺に向かって歩む美女の一挙一動に視線が集まっていた。息が詰まるような濃密な沈黙が室内を覆っている。
「思ったより元気そうだな」
 御崎のベッドの傍らに立ち、首をかしげるようにして隊長が言った。
 低めの声が涼やかで柔らかく、言葉遣いの割にはぶっきらぼうな印象がなかった。
「検査で入院させられただけで、ただの骨折だ。たいしたことねえよ。明日には退院だ」
 言いながら、御崎がそれとなく「熟女コレクション」のELCメモリを枕の下に隠しているのを萩谷は見た。
「腕自慢がやられて、気落ちしているのかと思った」
「そんなことでいちいち落ち込んでられるか」
 まばたきのたびに上下する隊長の長いまつげと、赤いくちびるを、萩谷は息をひそめて見つめていた。陶器のようななめらかな肌も襟からのぞく細い首も、すぐ近くにいるのに、現実の人間のものだとは思えなかった。
 隊長が、御崎から萩谷へ視線を移す。その黒目がちの瞳で見つめられて、萩谷は跳ね上がるようにして背筋を伸ばし、頭を下げた。
「第一部隊に配属になりました萩谷です」
 声がうわずった。隊長が静かに答えた。
「第六部隊の伊江村だ」
 同期の誰かが、隊長がきれいすぎて緊張すると話していたのを思い出した。これがその隊長に違いない。階級章を見ると、一等保安正だった。御崎より二等上、萩谷より五等上だ。
 情保は歴史も浅く小さな組織だが、その中でもここまで階級が離れていると、もはや雲の上の人である。新入隊員が直接接する機会などめったにあるものではない。
「副隊長の篠木だ」
 続いて自己紹介した篠木の階級は三等保安正で、御崎と同じだった。涼しげな切れ長の目をしていて、歳も御崎と同じくらいだと思われた。
 美男美女、そして二人ともかなり若い。萩谷は、ヤクザの親分のような荒垣隊長とインテリヤクザ風の相模副隊長を思い浮かべた。部隊によってずいぶん雰囲気は違うらしい。
「御崎から聞いている。射撃が上手いそうだな」
 萩谷に目を向けたまま、伊江村が言った。表情は薄いが、少し口の端が上がって微笑んでいるように見えた。
 御崎さんがそんなことを、と萩谷が嬉しくなって見ると、御崎は苦々しげな顔をしていた。もともと口数の多い男ではないが、さっきから妙に居心地悪そうに黙っている。
「で、何しに来たんだよ。勤務時間中に」
 つっけんどんに言った御崎に、伊江村が答える。
「調査に出た帰りだ。うちの水元も腕を折って入院している。その見舞いに来た」
「なんでお前んとこの隊員があそこにいた」
 御崎の質問に、伊江村は答えず、そっと立てた人差し指を自分のくちびるの右端にあてた。謎のしぐさだったが、御崎はそれ以上訊かずに不機嫌そうにしている。上下関係にうるさい御崎が敬語を使わないところを見ると、個人的に親しいのだろう。
 美しい隊長の横顔を盗み見ながら、萩谷が見舞客の分の茶をグラスに注いでいると、篠木が「皿あるか?」と訊く。これなら、と持ってきた紙袋の中から紙製の皿を出すと、篠木は見舞いの品らしき箱の包装紙を外し、まめまめしく給仕の支度をし始めた。
 窓際のソファに腰かけて、伊江村が言った。
「隊長会議で書き込みを見たが、神を名乗るとは不遜な奴だ」
 御崎が伊江村の方に顔を向けて答える。
「最後に書いてあったΑだかΩだかいうやつか?」
「あれはラテン語で、“アルファ・エト・オメガ”――『アルファでありオメガである』という意味だ。アルファはギリシア文字の最初のアルファベットで、オメガは最後。創造者にして完成者、すなわち神のことだそうだ。 “わたしはアルファであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終わりである。”神がそう語ったと『ヨハネの黙示録』に書いてある」
「中坊が気取って書いたのかと思ったら、俺と同じ歳らしいぞ」
「年を重ねれば自動的に大人になるわけではない」
「浅井みたいなやつもいるからな」
 御崎の言葉に伊江村がわずかに口の端を上げ、尋ねる。
「書き込みと暴動には関係があるのか?」
「どうだかな。爆発じゃなかったし。俺は、クスリでもやってんじゃないかと思った」
「わたしも隊長会議で記憶データを見て、幻覚症状ではないかと思った。爆発というのは、メタファーかもしれない。『爆破する』ではなく『爆発が起こる』だったし」
 会話をしているのに、異常に静かだった。篠木はまったく気にかけていない様子で箱詰めの最中を皿に移しているが、萩谷は落ち着かなかった。なにか息詰まるような緊張が漂っていた。
「まあ、これからだ。書き込んだやつを締め上げる」
 言いながら、御崎が篠木の手にした最中の箱に手を伸ばす。篠木がバチンと音を立てて、その手を素早く叩き落とした。
「俺の見舞いじゃねえのかよ!?」
 御崎の言葉に、篠木がハァ? と眉をひそめた。 
「なんで俺が御崎さんの見舞いを買ってこなきゃいけないんですか! これは隊長のおやつです!」
「だったらそれ置いて、てめえは帰れ!」
「篠木。見舞いだ。皆で分けるといい」
 伊江村が言葉少なく、篠木と御崎の双方に言った。
 たしなめられた篠木は、「食いたかったら食えばいいですよ」とふてくされたように箱ごと御崎に押し付ける。そして伊江村の隣に腰を下ろし、紙の皿に移した最中を菓子楊枝で切り分けている。
「はい、隊長、あーん」
「自分で食べられる」
 顔をしかめた伊江村が皿と楊枝を受け取る。
 御崎から箱を受け取って、萩谷は最中を同室の隊員三人に配る。口に入れた求肥入りの最中は冷えており、高級品らしく美味だったが、萩谷は落ち着かなかった。
 篠木は攻撃的だし、御崎はイライラしているし、二人の仲が良くないことは十分にわかった。御崎は伊江村に対して何やら構えているし、事情のわからない萩谷はひたすら居心地が悪かった。伊江村一人が涼しい顔で最中を食べていた。
「現場の記憶データをコピーさせてくれないか?」
 最中を食べ終わって緑茶を飲みながら、伊江村が御崎に言った。
「荒垣隊長に提出したぞ」
「それは見た。騒ぎが起こるあたりからの記録しかなかった。会場に着いてからの記録を全部見たい」
「……いや、それはちょっと……」
 目をそらしながら、御崎が言いよどむ。
 記憶データというのは、五感を中心とした感覚をBMI技術を使ってリアルタイムで記録し、データ化したものだ。人間の感覚自体が不確かで、改変されることも多く、また、同じものを見ていても焦点をどこに持ってくるかで解釈が異なる。事実そのものとは言い難いのだが、総合的な感覚と連続した情報を他者と共有できるだけでもたらすものは大きかった。御崎に言われて、班の全員が会場に着いてからのデータを取っており、荒垣に提出していた。
「何か不都合があるのか」
 首をかしげるようにして言い、伊江村は御崎の顔を見ている。頭を抱えた御崎は、くそ……とつぶやき、意を決したように顔を上げた。
「……いいけど、バカ話は無視しろよ」
 伊江村の差し出したELCメモリを受け取り、御崎がベッド脇の棚に置いていたビーンズを装着して起動させる。メモリを接続してデータを移しているようだった。
「明日退院だったか? 御崎がいないと浅井が退屈だろう」
 メモリを受け取り、伊江村が立ち上がって言った。
「浅井より先に後輩が参る。もう胃に穴が空きそうだってよ」
 御崎の言葉に、伊江村がかすかに笑う。
「おい、伊江村」
 帰りかけた伊江村を御崎が呼び止めた。
「危ねえことすんなよ」
「いつも危ないことをしてる人間に言われてもな」
「お前のほうが大がかりに危ねえだろうが」
 不思議そうな顔をしただけで何も答えず、伊江村は病室を出て行った。篠木に付き添われたその後ろ姿が壁の向こうに消えるまで見送り、萩谷は訊いた。
「何でしぶってたんですか。記憶データ」
「お前が『カナさんを汚すな!』とか叫んでたのも見られるんだからな」
 不機嫌そうに御崎が答え、萩谷は肩をすくめた。
 あの美しい隊長は、人に緊張を強いる。襟を正させる雰囲気がある。カナさんカナさんとしゃべりすぎた。あの人にアイドルオタクぶりを観察されるのかと思うと、確かに恥ずかしくて落ち着かない。
「伊江村隊長も54年組なんですか」
「あいつがいるから54年組って言われてんだよ。同期の出世頭だ」
「すごい美人ですね。びっくりしました」
 御崎はどうでもいいといわんばかりに生返事をしている。萩谷は声をひそめて言った。
「……でも、ぺっちゃんこですよね」
 顔立ちの美しさにばかり目が行ってしまうが、男の性で胸のチェックは欠かさなかったのだ。
 いきなり後頭部を力任せにはたかれて、よろけた。御崎が目をむいて怒り出す。
「てめえ! ぺーぺーの癖に隊長をエロい目で見んな!!」
 御崎の剣幕に、反射的に謝ってしまった。
 体育会系のチンピラは、階級が上の人間に対してだけはエロ禁止らしい。