第一話 ヒップホップ・ハイスクール


 タイマーがセットされたステレオコンポから、美しい旋律が流れてくる。
 ペール・ギュント第一組曲より『朝』だ。素晴らしい音楽が部屋を満たしていくと同時に、ベッドの中の真一も、少しずつまどろみから覚醒していく。この曲はいつも、目覚まし時計のアラーム代わりに流しているものだ。
 作曲家や演奏者の魂が込められた名曲には、魔法が宿る。清々しい朝をイメージして作られたこの曲を聞けば、どんな朝でも快適に起きられるというわけだ。
 たとえ恐ろしい悪夢を見ていたとしてもな……真一はベッドの中で考える。それにしても、ひどい悪夢だった、と。
 確かあれは、いつものように鏡波学院で放課後の見回りをしている夢だった。魔法陣が描かれた教室に入ったあと、マミラダと名乗る悪魔に出会った。チビ巨乳の美少女悪魔だ。その悪魔は教室を破壊しまくった挙句、俺を担いで窓の外に飛び出したのだ。
 マミラダは俺を担いだまま、夕暮れの街を駆け抜けた。なんだか俺に「世界を掌握できる力を与える」なんて言っていたっけ。
 しかし、そんな悪魔の声に耳を傾ける俺ではない。しっかり「俺の前から消えろ」と言ってやった。それでもあの悪魔は俺を担いだまま離れなかった。
 そこで俺は機転を効かせた。「わかった、ちょっとトイレに行かせてくれ」とマミラダを振り切り、近くの公園のトイレに駆け込んだ。その公園は派出所のすぐ傍にある。そして個室内から携帯電話で110番をかけて、警察を呼んだのだ。
 公然わいせつ罪ギリギリの怪しい格好をしていたマミラダは、即座に職務質問の対象となった。その隙に俺はトイレの窓から脱出。彼女を撒くために無理してタクシーに乗って帰路についた。念には念を入れて、途中で何度か乗り継ぎながら。
 そこからはいつもと変わらない日常。遅めの夕食をとって、風呂に入って、部屋で寝た。
 夢にしては妙にリアルで、細部まではっきりと覚えている。押しつけられた胸の柔らかな感触も、舌まで入れられたキスの甘い味も。でもあれは夢に違いないのだ。悪魔なんて現実にいるはずがない。それも、あんなにいやらしい格好をしたチビ巨乳なわけがない。昨日は普通に見回りを終えて、普通に帰宅したのだ。そうに決まっている。
 真一がそう結論づけたとき、ちょうど組曲『朝』の再生が終わった。
 さて妙な悪夢は忘れて、今日も一日がんばろう。生徒会長の職務は忙しいのだ。
 ベッドから起き上がろうとすると、腰に何かが巻きついてきた。横向きで寝ていた真一の背に、温かくて弾力のある何かが押し当てられる。むにゅっとしたその感触には覚えがあった。
 身を起こしながら掛け布団をめくってみる。
 ……まだ悪夢の続きを見ているのだろうか。そこには例の金髪チビ巨乳がいた。
 小さな寝息を立てていたチビ巨乳は、ゆっくりと大きな二重まぶたを開いた。そして唖然とする真一の顔を見たあと、にっこり微笑む。
「んー、おはよ」
「うぎゃああああ!」真一はベッドから転がり落ちた。「な、なんでお前がここにいる!?」
「悪魔は契約した人間の居場所がわかるんだよ」チビ巨乳マミラダも体を起こすと、寝ぼけ眼をこすりながら言った。「人間界にきたのは久々だからさー、昨晩はいろいろ見物して回っていたんだ。ここは二十一世紀の日本なんだね。日本に来たのは初めてだから感動したなー」
 突っ込みたいところだらけだったが、一番大事なのは「契約した人間」という部分だ。
「契約ってなんのことだ!?」
「えー、昨日したじゃん。しっかりと真一の唇で押し印をもらったけど。唾液の交換までしたよね? ねー?」
 マミラダは小さな唇を突き出して、そこに人差し指を軽く添えた。
「どど、どうなっているんだ……あれは夢じゃなかったのか? 俺は今も夢の続きを見ているのかッ!?」
「いちいち面倒くさい反応をするなー。夢じゃないってば」
 ベッドから降りたマミラダは、昨日と同じく、超ショートブラウスにガーターベルトという過激な格好だった。そして暗記した英単語をそらんじるように、人差し指を立てて言った。
「キミの名前は音川真一。鏡波学院高等部の二年生。規律を重視する真面目な男の子。規律に反する人を見ると、どんな相手でも注意せずにはいられない性格。生徒会長であることにプライドをもっていて、曲がったことが大嫌い。だけど心の中は、どす黒くて破壊的な負のエネルギーに満ち溢れている。趣味はクラシック鑑賞」
 彼女が口にした真一の人物像は、見事に的中していた。
「ま、待て待て。なぜか知らんが、確かに部分的には当たってる。だけど俺は、心の中まで品行方正な正義の男だぞ。負のエネルギーとやらに満ちているわけがないだろ」
「隠さなくてもいいよ? ちゅーをすれば、契約者の情報が全部私に伝わってくるんだから。真一の心にある悪魔的などす黒さにはしびれたなー」
「バ、バカな……」
 そう、こんなことは馬鹿げている。マミラダが本当に悪魔だとすれば、その「契約」とは何を意味するのか。真一は本の知識で知っていた。
 人間は悪魔から力を授かり、悪魔は人間から魂を徴収する。
 ドイツの作家、ゲーテが記した『ファウスト』ではそうだった。メフィストフェレスという悪魔があの世での魂の支配を条件に、ファウスト博士に若返りなどの力を与える話だ。
「お、俺は契約なんてしないぞ!」
「だからもう、契約してるんだってばー」
「勝手にかわされた契約なんて不当だ! 消費者契約法の第一節『消費者契約の申込み、またはその承諾の意思表示の取消し』では……」
「人間界のルールなんて知らないよ。とにかく真一と私は契約したの。あとは力を受け取ってもらうだけ」
「だ、だって魂を取るんだろ?」
「あははっ、契約したくらいじゃ取らないよ。今ならなんと無料無料! タダなんだから、これはもらっとかないと損だよー? よーよー?」
 またしてもマミラダは舌足らずな口調でそう言いながら、人差し指だけ伸ばした両手を軽く二度突き出してきた。ラッパーのようなその仕草が、非常にうっとおしい。
 真一はゆっくりと深呼吸して気持ちを落ち着かせると、毅然とした態度で言った。
「……仮にお前の話が全部本当だったとしても、だ。俺は悪魔と取引なんてしない。なぜなら俺は、正義に生きる男、音川真一だからだ」
「もう、真面目さんのフリしちゃってー。そもそも私が真一と契約したのは、ひと目見ただけで邪悪な素質を感じたからだよ。私が与える力は、真一の心の中にある破壊的なエネルギーを開放させて、あらゆる人間を屈服させるものなの。世界征服だって夢じゃないかもだよ?」
「だから俺に邪悪な素質なんてあるわけがないだろ。悪魔の力なんて、正義を愛する俺にはもっとも無縁な力だ」
「あははっ、そんなことを言う真一が、悪魔の力を使いこなして堕落していくところが見たいなー、見たいなー」
「誰が堕落なんてするか! とにかくお前は、すでに住居不法侵入を犯している! 法律違反だ! 今すぐ警察に突き出してやる!」
「警察って昨日の人だよね。公園のトイレ前で私に声をかけてきた人」
「ああそうだ。日本の警察は優秀だぞ。なにしろ検挙率は世界でナンバーワンなんだ。きっと悪魔を名乗るお前でも……」そこで真一は、ふと疑問が浮かんだ。「……そういえばさ、昨日の警察官はどうなったんだ?」
「爆発しちゃった」マミラダはにっこりと笑って、ベッドの縁に腰掛けた。
「……は?」
「だって失礼なんだもん。『中学生のくせに、そんなやらしい格好で街を歩くなんて何を考えているんだ』とか言っちゃってさ。私はもう充分にオトナだっての。ああ大丈夫。殺してないから。まあ、全治一週間ってところかな?」
 ベッドの縁で両足をぶらぶらさせながら、恐ろしいことを平然と言う。笑顔のままで。
「ひ、ひい……」そんな情けない悲鳴が、真一の口から漏れた。
「ね? 私と一緒に世界を征服しようよ。私、真一のこと気に入ったし」
 立ち上がったマミラダは「ふふっ」と妖艶に笑いながら、壁際の真一にしなだれかかった。
 マミラダのふくよかな胸が押し当てられる。ドキドキしているのは身の危険を感じているからか、密着する女の子の体温を感じているからか。おそらくその両方だろう。
「や、やめろ! 俺は生徒会長なんだぞ! 清廉潔白な男なんだぞ!」
「真一、もう起きたの? さっきから誰と話してるの?」
 そのとき、ノックもなしに部屋のドアが開け放たれた。
 入室してきたのは真一の母親だった。
「あ……」今真一は壁際で、下乳が見える超ショートブラウスに小さなショーツ、ガーターベルトの女の子に密着されている。そんな様子を一番見られたくない相手に見られてしまった。
「あ、あんた……朝からそんな不埒な格好の女の子を部屋に連れ込んで、一体何を……」
 真一の母はドアを背にして、震える指を真一に向けた。
「ち、違うんだ母さん!」
「お母さん悲しい!」母は顔を覆いながら、泣き崩れてしまった。「あんたは昔から優しくて、いい子だったのに! 滑り台で遊んだあとも『次の人が使うから』ってハンカチで拭いていたくらい優しい子だったのに! そんな真一が、なんてはしたない……!」
 真一は「違うんだ母さん!」と泣き続ける母をなだめるのに必死だ。
「なんか面倒なことになってきたねー。ねえねえ、この人も爆破しちゃおっか?」
 間延びした口調でそう言ったマミラダは、ゆっくりと真一の母に向かって手をかざした。
「お、おい、冗談だろ。やめ……」
 真一が止めるよりも早かった。「ドカン!」という爆発音と同時に「ぎゃん!」という切ない悲鳴をあげた母は、部屋のドアをぶち壊しながら勢いよく廊下まで吹っ飛んだ。
 まさに悪魔。マミラダは本当に魔術で母を爆撃してしまったのだ。
「う、うわああああああ! かあさーん!?」
 母はぷすぷすと硝煙をくゆらせながら、廊下で気絶していた。

            ◇

 真一は気絶した母親をベッドで寝かせて、逃げるように家を出た。そのため朝は何も食べていない。昼食の弁当も受け取っていない。今日は空腹に悩まされる一日になりそうだった。
 しかし今の真一にとって、食料問題など些細なことである。隣で勝手にキッチンから持ち出してきたフランスパンをかじっている悪魔の問題と比べたら、本当に些細なことである。
「このパンかたーい。やっぱり血の滴る肉じゃないとダメだなー。真一、食べる?」
 マミラダが残り五センチほどになったフランスパンを差し出してきた。文句を言いながらも結構食べたらしい。
「……頼むから、もう帰ってくれ」心の底から懇願する声を絞り出した。
「帰らない」マミラダはパンの残りを一気に口に入れた。「まだ真一に力を与えてないもん」
「だから、そんなものはいらんって言ってるだろ。もうついてくるなよ……」
「なんでさー。ついて行くかどうかは、私の勝手じゃんかー」
「そんな格好でウロウロされたら、周りの視線が気になって仕方ないだろ!」
 真一とマミラダが歩いている通学路は閑静な住宅街だ。人通りは少ないが、たまに出くわす通勤途中の眠そうなサラリーマンたちは、マミラダとすれ違うたびに、全員が目をひん剥いて振り返る。彼女の過激な格好は、強力な目覚まし効果になっているようだった。
「そんなに目立つかなー?」
 マミラダは首をかしげて、自分の格好を改めて確認した。そしてもう一度首をかしげる。
「目立ちまくりだ! 俺は近所でも品行方正な男で通っているんだぞ。それなのに朝からお前みたいな格好の女の子と一緒に歩いていたら、変な誤解をされてしまうだろ!」
「もう、仕方ないなー」
 そう言ったマミラダは、風に散る煙のようにゆっくりと姿を消した。
 あたりには朝特有の静寂が戻った。真一は周囲を見回したあと、大きくため息をつく。
「……ふう、やっと帰ったか。それにしてもいきなり消えるなんて、あいつは本当に悪魔だったんだなぁ」
「はいはーい、本当に悪魔でーす!」
 周囲には誰もいないはずなのに、真一にとって非常に耳障りな声が聞こえた。
「……な、なんだと? ど、どこにいる?」
「私に気づいて、抱きしめてー、そして優しく髪なでてー♪」
 マミラダの声で謎の歌が聞こえてきた。同時に路上に落ちていたジュースの空き缶がふわりと浮いた。
「な、なんだこれ、空き缶が……浮いてる?」
「透明になった私が持ち上げてるんだよ。ほらほらー」
 ほらほら、の発声とともに空き缶も上下に揺れる。
「と、透明になっただと?」
 真一は驚きながらも、宙に浮かぶ空き缶をもぎ取ると、そのまま近くの空き缶回収ボックスに入れた。ゴミはゴミ箱へ。どんな状況でも規律を守るのが真一である。
「ねえねえ、私にさわってみてよー」
 真一は見えない何かに手をつかまれて、ぐいと引っ張られた。そして何もない空間で何かにふれた。ふにょん。感触はそんな感じ。手のひら全体に吸いつくような張りと大きさ、そして柔らかく押し返してくる弾力をあわせもった不思議な物体が、確かにそこにあった。
「こ、これは……?」
「わかってるくせに。えっちー」
「おわああああああああッ!」真一は悲鳴をあげて、見えないそれを振り払った。「ほ、本当に透明になってるのか……?」
「そうだよー。健全な青少年の夢だよね。真一だって、もし透明人間になれるとしたら、やっぱり悪いことを考えるんじゃないの? 女風呂を覗いてみたい、とかさ」
「そんなわけあるか! 俺は誰も見てないところでも清廉潔白な人間だ!」
「じゃあ、透明人間になったら何をしたいの? 興味あるなー。教えて、教えて!」
「…………ろ、路上で腕立て伏せとか?」
「つまんない人」
 びっくりするほど無感情な声で、バッサリと斬られてしまった。
「と、とにかく、透明になったからといって、俺に付きまとわれても困る」
「まあ真一が、どうしても悪魔の力を受け取らないって言うなら、別に帰ってあげてもいいんだけどねー。私だって暇じゃないしー」
 マミラダの口調は少し拗ねているようにも思えた。
「よし、お互いの意見が一致したな。じゃあ早く帰ってくれ」
「でも人間界に来たのは久々だし。せっかくだから、もう少し見て回りたいって気持ちもあるんだよね。日本に来たのも初めてだしさ」
「久々の人間界って……昔にも来たことがあるのかよ」
「今回で四回目なんだ。初めて来たのは二十年くらい前のニューヨークだったんだよ」
 二十年前……それが事実なら、この女は一体いくつなんだろうか。体つきはともかく、顔だけは十四歳くらいの中学生に見えるのに、と真一は思った。まあ悪魔と名乗っているのだ。人間と同じ物差しで考えてはいけないのだろう。
「そのとき私を召還した人は、有名な音楽家だったんだ」
「音楽家?」その言葉に真一の好奇心が突き動かされた。「なんていう名前の人だ?」
「えっとね、セカンドパックって名乗ってた」
「うーむ、音楽を心から愛する俺としたことが、知らない名前だな。で、その人のジャンルはなんだ? クラシック……じゃないよな。それならジャズか?」
「ヒップホップだよ。よーよー」
 聞き間違いかと思った。マミラダの返答は、それだけ予想外なものだった。
「は?」
「だからヒップホップだってば。ヒップタッチじゃないよ」
「誰もお尻を触りたいとは言ってない」
「真一はヒップホップって知らないの?」
「いや、知ってるけどさ……あれって音楽じゃないだろ。ダジャレみたいな言葉を、ただ適当に喋ってるだけなんだから」
「……む」透明化しているためマミラダの表情は見えないが、明らかに不満を抱いた口ぶりになった。「適当に喋ってるだけ? ヒップホップをディスった(けなした)な?」
 かすかに大気が震えだす。それにあわせて、道路脇にある民家の庭先の木々が、風もなくざわめきだした。あたりの湿度は一気に増大し、空気が重く蒸し暑いものに変わっていく。
 これはマミラダがやっているのか。真一はゴクリと生唾を飲み込んだ。
「ま、待て待て。別にバカにはしてないぞ」
 本当はバカにしているのだが、ここはおとなしく従っておいたほうがいいと判断した。
「でも真一は、ヒップホップなんて音楽じゃないって言ったよ? ただ適当に喋ってるだけって言ったよ?」
「い、いや、そんなことはないぞ。ヒップホップも立派な音楽だ、うん」
 真一は吐き気を覚えていた。昔から清廉潔白に生きてきた真一は、嘘をつくと強烈な嘔吐感に襲われる特殊な体質だった。
 これは自分の命を守るために必要な嘘なんだ。そう思い込んで、必死に吐き気をこらえる。
 唐突に大気の震えが止まった。そしてマミラダの嫌になるほど明るい声が聞こえてきた。
「だよねー! やっぱヒップホップっていいよねー! さあ、真一も一緒に叫ぼう。レミヒアセイHO!」
「れ、れみひあせい、ほー……?」
 まったく意味はわからないが、とりあえずマミラダの言葉を復唱してみた。そうしないと、また怒り出しそうだったから。
「セカンドパックは、九十年代のニューヨークのヒップホップシーンを代表するギャングスタラッパーなんだよ。マイク一本でスラム街からのしあがった本物のラッパー。彼に出会って、私もヒップホップを愛するようになったんだ。ようするに、ヘッズ(ヒップホップ中毒者)の仲間入りをしたってわけ!」
「……へえ」まったく興味がないことなので、適当に相槌を打った。
 それでもマミラダは、意気揚々と続ける。
「ヒップホップミュージックは本当にすごいんだよ。同じパートを繰り返すシンプルなバックトラックの上に、ラッパーが韻を踏んだ言葉を乗せるだけ。たったそれだけで、魂の込もったメッセージを伝えることができるんだ。バックトラックもサンプリングって言って……」
 あまりにも退屈な話なので、真一は適当に切り上げることにした。
「それにしても、ヒップホップ好きの悪魔なんて聞いたことがないぞ。本当に悪魔が存在していること自体、未だに信じられないっていうのに」
「そっかなー? 人間界では、悪魔の存在も常識っぽい気がするんだけどな。いろんな本にも書かれてるし。私のパパだって、人間界の小説に登場してるじゃん」
「いやいや、だってあれはフィクションだろ」
「……む」またしても大気がビリビリと鳴動を始めた。「私のパパがフィクション? パパまでディスる気なんだ? ふーん……」
「そ、そういうわけじゃないんだ。そうそう、悪魔はいるよな。いて当然だ、うんうん」
 悪魔の恐怖を身近に感じた真一は、認めざるを得なかった。途端にマミラダの口調が、またしてもパッと明るいものに変わる。同時に大気の震えも収まった。
「だよねー! 実際に私も、こうしてここにいるわけだし! ほらほら、さわってみて!」
「……だからさわらないってば。それで、そんな悪魔のお前は、どこまでついてくるつもりなんだよ?」
「もちろん真一の学校まで見学に行くよ。ちょっと気になることもあるしね」
 その発言こそが気になるものだったが、いくら尋ねても教えてくれなかった。

            ◇

「ほうほう、ここが日本の学校だねー。昨日は教室しか見てなかったから、興味深いなー」
 正門をくぐった真一は、マミラダの言葉には反応せずに、黙々と校舎までの道を歩く。
 小中高の一貫教育を行なっている鏡波学院の敷地は広い。正門を抜けると、左右にヤシ科の樹木が植えられた学院のメインストリートが伸びている。その中程にある円形の噴水が分岐路になっており、左に行けば小等部の区画、右に行けば中等部の区画、まっすぐ行けば真一が在籍する高等部の区画だ。
 高等部の校舎は四棟あり、それぞれが渡り廊下で連結している。一番手前にある第一校舎の正面入口は生徒の出入りがもっとも多い場所なので、大型の連絡掲示板が設置されていた。
 その掲示板前に大勢の人だかりができている。今日は特に連絡事項もなかったはずだが。興味を惹かれた真一は、自分も掲示板前に近づいた。
「みんな、おはよう」あたりの生徒たちに、わざとらしく生徒会長の腕章を見せつけながら言った。「今日も一日がんばろうな」
 真一は多くの生徒から敬遠されている。だから挨拶をしたところで、みんな適当に挨拶を返して、逃げるように立ち去るのが通例だった。しかし今日はいつもと様子が違っていた。
 掲示板前の生徒たちは挨拶を返すどころか、ただ冷たい視線で真一を睨んでくるばかりだった。そして無言のまま、蜘蛛の子を散らすように、そそくさと退散していった。
 掲示板前に一人取り残された真一は、呆然と彼らの後ろ姿を見送った。
「……なんだあいつら。今日はやけに冷たいじゃないか。生徒会長に挨拶もなしかよ」
 その原因は、掲示板を見たことで判明した。とんでもない号外がデカデカと貼られていたからだ。号外の見出しは次のようなものだった。
『生徒会長、夕暮れの教室から愛の逃避行!』
 扇情的な見出しを冠した写真は、夕陽を背に体育館の屋根を疾走しているマミラダと、その肩に担がれている真一だった。逆光になっているので、二人の顔は微妙にわからない。ただし真一の腕に巻かれた生徒会長の腕章は、バッチリと写っている。
「なな、なんだこれはぁぁぁッ!?」真一はキレた。
「なんだよー、顔がちゃんと撮れてないじゃんかー」マミラダは別の理由でキレた。
 記事の内容もひどかった。抜粋すると、こんな内容だ。
『品行方正を装っている生徒会長・音川真一の正体は、嫌がる女の子に無理やり悪魔のコスプレをさせるド変態だった。さらに三年八組の教室で破壊の限りを尽くしたあと、騒ぎを聞いて駆けつけた教師たちを撒くために、窓から脱出。嫌がる女の子と一緒にホテル街へ消えた』
 誇張するにも限度がある。こんな記事を書く人間は一人しかいない。二年五組に在籍する新聞部の部長、梨田公造だ。部長といっても、新聞部の部員は梨田一人なのだが。
 梨田は学院内のスキャンダルを追うことに命をかける男だった。その内容はあまりにも誇張が多すぎることから、真一同様に多くの生徒たちから敬遠されている。ただしなかには、そんな梨田の記事を絶賛するワイドショー好きの生徒たちも少なからずいるのだった。
 最近の梨田は、生徒会長のスキャンダルを押さえて、その地位から引きずり下ろそうとしているという噂があった。真一は自分の油断を悔いた。もう少しで生徒会選挙があるのに、どうしてもっと慎重に行動できなかったのだろうか、と。
 くっ、あのゲス野郎がぁ……! 品行方正な俺のイメージを落として、何が楽しいっていうんだ!? 過去の学内新聞もろとも、この号外を全部ちり紙交換に出して、新聞部の部室を仮設トイレにしてやりてーよ! そうなったら奴は、仮設トイレ部の部長だ。もちろん俺も大便をぶちかましに行ってやるから、覚悟しとけよコラァ……!
 いつものように心の中で汚い言葉を吐露していると、マミラダがのんきな声で言った。
「さっき気になることがあるって言ったでしょ。それがこれなの。昨日、教室の窓から飛び降りたとき、体育館の下でカメラを構えていた人を見つけてさー。とりあえず、撮りやすいように体育館の屋根を走ってあげることにしたの」
「お、お前はバカなのか!?」思わず姿の見えない悪魔の言葉に反応してしまった。
「そうだよねー。顔が写ってないんだもん。私って本当にバカだ。体育館の下を走ってあげればよかったんだね」
 このアホ悪魔と話していても無駄だ。真一はそれ以上、何も言わなかった。そんなことよりも、これ以上この号外を人目にさらさないようにすることが先決だ。
 掲示板に貼られた号外を急いで回収しようと手を伸ばす。まさにそのときだった。
「おい音川、ここに書かれているのはお前のことか!」
 上下黒のジャージに身を包んだ、生活指導の体育教師が駆けつけてきた。彼は号外の一部を手に持っている。どうやら梨田のゲス野郎は、学院のどこかでこのセンセーショナルな号外を手渡しで配布しているようだった。
「い、いえ、違います!」
 真一はまたしても嘘をついた。それによって嘔吐感に襲われる。おえええ。
「違うと言うなら、この号外に写っている男は、どうして生徒会長の腕章を巻いているんだ! お前は毎日、自主的に放課後の校内巡回をしていたな? 昨日はそれを何時に終えた? ちゃんと正門から帰ったんだろうなぁ!?」
 体育教師は噛み殺しそうな剣幕で真一の胸ぐらを掴みあげた。そして激しく前後に揺さぶる。ただでさえ真一は吐き気をもよおしているというのに、揺さぶられるのはきつい。おええ。
「どうしたの真一? その人にいじめられているんだね。よーし」
 マミラダの最悪な声が聞こえた。それによって今朝の惨事が思い返される。
「お、おい、ちょっと待……」
 ドカン!
 爆発音を立てながら、生活指導の体育教師は数メートルほど派手に吹っ飛んだ。
 突然起こった不思議な事態に、遠巻きで見ていた野次馬の生徒たちが騒ぎ出す。
「な、なんだなんだ? 急に先生が吹っ飛んだぞ……?」
「あれって、足を滑らせたわけじゃ……ないよな」
 なんてことをするんだ……真一がそう思っていると耳元で「威力は最弱にしておいたよ」という声が聞こえてきた。いや、そういう問題じゃないんだ。
 吹き飛ばされて仰向けに転がっていた体育教師は、全身をバネのようにしならせて飛び起きた。そして首をコキコキと鳴らす。さすがは体育教師。体力はかなりのものだ。
「なんだ今のは? 俺は学生時代、ワゴン車に跳ねられたことがあったが、それと同じぐらいの衝撃を受けたぞ?」
 比較対象がおかしい。マミラダは本当に手加減したのだろうか。というか、自分の母親はそんな衝撃に耐えられたのだろうかと、空恐ろしくなる。
「すごーい! すぐには立ち上がれないはずなのに。よーし……」
 マミラダは再び爆撃を浴びせるつもりだ。第六感でそう察知した正義の男真一は、体育教師の命を守るためにも彼の傍に駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか先生!? すいません、僕がつまずいて突き飛ばしちゃって……」
「なにぃ? 今のはお前の仕業だったのか。生徒会長のお前が、教師の俺を突き飛ばすなんて……ずいぶんと暴力的な男になったもんだな、音川ぁ?」
「い、いや、もちろんわざとじゃなくて、不可抗力というか……ははは」
 どうして俺がこんな目にあわなければならないんだ。すべては梨田のゲス野郎と、マミラダのバカ野郎のせいだ。二人とも正義の名のもとに爆発してしまえ。
 心の中でそう毒づいていると、姿の見えないマミラダが耳もとで囁いてきた。
「面白い先生だね。もう少し強めに吹き飛ばしたら、どうなるんだろ? やってみる?」
「もうやめろ! かばいきれん!」
「何を言っているんだ、音川?」体育教師が怪訝な顔で睨みつけてきた。
 真一は今にも暴れ出したい気分だった。自分が規律を重んじる生徒会長でなければ、きっと意味不明なことを叫んで逃げ出していただろう。
 体育教師は精神に異常をきたしそうな真一の首根っこを?まえると、
「とにかく、この号外の件で話がある。ついでに、さっき俺を突き飛ばしたことについても話を聞こうか。生徒指導室に来てもらうぞ」
 そしてブルドーザーを連想させる力で、真一を連行していった。
「ねえねえ真一、どこに行くの?」
 マミラダがそう耳打ちした。怒り心頭の真一は「いいから、お前はどこかでおとなしくしていろ!」と大声を出してしまった。
「ほほう、俺におとなしくしてほしいと?」体育教師は不気味に笑った。
 最悪。考えることに疲れた真一の脳内には、その簡潔な二文字のみがぐるぐる回っていた。

            ◇

 生徒指導室へ連行されたあとは、昨日の三年八組の教室が破壊された事件について、根掘り葉掘り詰問された。教師たちの間でも気味の悪い事件として、話題になっていたらしい。
 なにしろ爆発音を聞きつけた教師たちが三年八組のドアを開けてみれば、床一面に魔法陣が描かれているし、黒板は壁ごと陥没しているし、掃除用具入れはいびつな形に歪んで倒れているし、窓ガラスは粉々。いたずらにしては度が過ぎている。
 もちろん真一は「やっていません」ときっぱり否定し続けた。別に嘔吐感はない。なにしろ嘘ではないのだから。やったのはマミラダで、自分はその場に居合わせただけなのだ。
 ただし「号外に写っているのはお前じゃないのか?」との質問に「違います」と答えたときは、強烈な嘔吐感に襲われた。教師から嘔吐用のビニール袋を手渡されたほどだ。
 結局、具体的な証拠がないため釈放となったが、真一は嘘をついてその場をやりすごしたことに大きな罪悪感を覚えていた。
 それというのも、あの悪魔に関わったせいだ。俺は生徒会長なのに。嘘なんて今までついたことがないほど、誠実一直線で生きてきたのに。
 マミラダは朝の一件以来、どこに行っているのかわからない。おそらく学院内をいろいろと見て回っているのだろう。学院の敷地は広いので、迷子になっているかもしれない。
 ……まあ俺も正義の男だ。困り果てているなら、探してやらんこともない。ただし報復だけはさせてもらうぞ。そうだな、あいつの尻尾に整地用のトンボを結んで、グラウンドを百往復させてやるか。尻尾がちぎれたら、それをフライパンで炒めて夜食にしてやろう。スタミナがつきそうだぜ。ククク……。
「会長、聞いていらっしゃいますか?」
 そこで我に返った。コの字型に並べられた長テーブルに座る五人の生徒会役員たちは、全員が訝しげな顔で真一を見つめていた。
「会長自身のことが議題にあがっているんですよ。ちゃんと会議に参加してください」
 真一の隣に座っていた生徒会の副会長、森崎留架が言った。
 今は毎週水曜日の放課後に行なわれる生徒会会議の真っ最中。真一はいつの間にか思考の闇に落ちており、会議にまったく身が入っていなかった。
「あ、ああ……悪かった。気をつけるよ」
 真一が答えると森崎は「お願いしますよ、ホント」と横目で睨みながら髪をかき上げた。左の手首に巻かれたロザリオがチャラリと鳴る。
 森崎の実家は教会らしく、彼女自身も敬虔なクリスチャンだった。学院の生徒たちは、愛称として森崎を「シスター森崎」と呼んでいる。
「それにしても、ひどい話ですね。会長が三年八組の教室を破壊した犯人にされるなんて。正
義の使徒である会長が、そんなことするわけがないのに。きっと悪魔の仕業なんですよっ!」
 シスター森崎が言ったように、あれは本当に悪魔の仕業なのだ。その事実を知れば、クリスチャンの彼女なんか卒倒するかもしれない。
 シスター森崎は真一より学年が一つ下の一年生だ。さらさらのショートボブに、大きな二重まぶたの瞳、モノが食べられるのか疑いたくなる小さな唇。妹にいたら溺愛しそうなほど愛らしい顔立ちと、明朗快活な性格が合わさって、学年や性別に関係なく、多くの生徒たちから慕われていた。ようするに、真一とは真逆の評価である。
「とりあえず会長に言われた通り、休み時間に簡単なアンケートをとってきましたよ」
 シスター森崎は生徒会役員全員に、ホッチキスでまとめられた書類の束を配った。
 それは全校生徒を対象に「今朝の号外を見て、生徒会長にどんな気持ちを抱いたか?」という意識調査をまとめたものだ。真一は黙ってそれらに目を通した。
・口うるさい人だけど、規律に厳しい面は生徒会長として評価していたのに。裏切られた気分です(二年女子)
・お前が一番ルールを守ってねーじゃん。さすがに体育館の屋根を爆走した生徒なんて、不良にもいねーだろ(一年男子)
・隣に写っているスケベな格好の女の子は誰ですか?(一年男子)
・今の生徒会長は、口ばっかりでマジでうざい(三年女子)
・隣に写っているスケベな格好の女の子は誰ですか? 答えてくれないのなら、あなたの住所と氏名をネットの掲示板で公表してください(一年男子)
「……これはひどい。しかも同じ奴が二度も回答しているぞ」
 書類を置いた真一は心底脱力した。パイプ椅子の背もたれが「ぎし」と悲鳴をあげる。
「私の推計では今回の号外によって、会長の支持率も三十パーセントほど低下していますね。このままでは、来月の生徒会選挙にも確実に響いてきますよ」
 シスター森崎が言った。
 鏡波学院では毎年四月と十月に生徒会役員選挙が実施される。現役員が任期の続行を希望した場合、対立候補がいなければ全学年の生徒による信任投票が行なわれる。過半数の生徒たちが「信任」としなければ不信任決議となり、その役員は辞職しなければならない。そして推薦によって新たな役員候補が数人選ばれ、改めて選挙が行なわれる。
 今のところ真一に対立候補はいない。だからこのまま来月の十月になれば、信任投票が行なわれる予定なのだ。口うるさいと敬遠されていても、一年生のころからそれなりの信任投票数を得てきた真一だったが、さすがに今回は分が悪くなりそうだった。
「だから俺は、あの事件となんの関係もないんだってば!」
 泣きそうな声でそう言う真一。また嘘をついてしまった。気分が悪くなる。なんだかマミラダと出会ってから、嘔吐感に襲われてばかりだ。おえええ。
「当たり前ですっ!」シスター森崎が言った。「梨田さんの差し金だってことは、わかっているんです! 正義の使徒である会長を陥れようとするなんて、神をも畏れぬ所業! 悪の新聞部はいずれ、『熾天使の光(セラフィム・レイ)』によって焼き尽くされることでしょう!」
 ようするに、新聞部にはいずれ神の裁きが下りる、と言いたいのだ。アニメの影響なのか、シスター森崎は「正義」という言葉とともに、よくわからない横文字を口にする癖がある。
 そんな彼女は、学院で唯一ともいえる真一の信奉者だった。真一同様に規律を重視し、秩序を乱す輩を許さない。だからこそ、鏡波学院に秩序をもたらす生徒会長は、真一を除いてほかにいないと常日頃から吹聴していた。
「とりあえず当面の問題は、もうすぐ生徒会選挙という大切な時期なのに、あんな号外を発表されてしまったことなんです。このままでは会長の再選が危ういんですよ? 今後どうやって、学院の正義を守っていくおつもりですかっ!」
「……なんとかイメージを回復させるしかない。俺は何があっても会長職を続投するぞ」
「面倒なことは重なるものですね」生徒会書記のメガネ男子が言った。「まだ三号棟の立ち退き問題も片付いていないのに……」
「そうか、まだそんなくだらない問題も残っていたっけか」真一は呆れた口調で返す。
 三号棟とは、広大な敷地面積をもつ鏡波学院の隅っこにある、第三クラブハウスの通称だ。
 一フロアに三部屋ある二階建て。合計六部屋あるので、六つのクラブが部室として使用することができる……はずなのだが。
 三号棟には二つのクラブしか入居していない。それがオカルト研究部と、悪名高いヒップホップ研究部だ。新しいクラブが三号棟に部室を構えても、みんなすぐに出て行ってしまう。
 その理由は主に二つ。ヒップホップ研究部の部室から漏れてくる音楽が、あまりにも爆音すぎること。そして僻地にある三号棟周辺が、日陰を好む不良生徒たちの吹き溜まりになっていることだ。どうしてオカルト研究部だけは、劣悪な環境にある三号棟にいて我慢していられるのか不思議で仕方がない。
 そんな感じで悪の巣窟となっている三号棟だが、現在取り壊し案が検討されている。
 ちょうど学院側が高等部の区画のどこかに第二体育館を建設しようとしていたので、真一がその建設候補地として、三号棟周辺を挙げたのだ。三号棟を取り壊して、そこに巣食う不良どもを一気に追い出してしまおうという算段である。
 それを認めてもらうためにも真一は、膨大な量の書類を作り、自ら理事会に出向いてプレゼンテーションを行なうなど、積極的に働きかけた。そのかいもあってか、学院側に三号棟周辺を体育館の建設候補地の一つとして了承させることに成功した。
 ただし学院側が三号棟を取り壊すためには、当たり前だが「現在、三号棟内に部室を構えているクラブに、立ち退きを了承させること」が条件だった。
 これがなかなかうまくいかない。オカルト研究部は別に立ち退いてもいいと言っているのだが、ヒップホップ研究部が頑として拒み続けているのだ。これまで三人の生徒会役員を説得に向かわせたのだが、すべて物を投げつけられるなどして、追い返されている。
 ちなみに真一自身が出向いたことは、まだ一度もない。その理由は至極単純な四文字。
 恐いから。
 いくらルールに厳しい真一でも不良は恐い。そう思うようになったのは、昔ひどい目にあったことがきっかけだ。
 真一は小学生のころから規律を守る真面目な少年だった。下校時に買い食いしているクラスメイトがいれば注意したし、駐車禁止の場所に車を停める大人に対しても、遠慮なく注意していた。
 そんな真一が不良連中と衝突するのは必然だった。近所の小さい子供をカツアゲしていた不良連中に注意したところ、いきなり殴られたのだ。どうして殴られたのか、まったく理解できなかった。自分は正しいことをしたはずなのに。不正を取り締まっただけなのに。小学生ながらに本で読んだ、宇宙誕生の謎に迫る超弦理論のほうがはるかに理解しやすいと思えた。
 理由がさっぱりわからないまま、小学生の真一はルールを守らない不良生徒たちに注意し続けた。そのたびに殴られた。お小遣いも巻き上げられた。やがて連中は、真一の姿を見かけるだけで、追い回してくるようになった。
 それはもう恐怖だった。単純に殴られることが恐ろしかったわけではない。正義は自分にあるはずなのに、聞く耳をもたない人種がいるということが恐ろしかったのだ。
 だから不良を前にしただけで足がすくむ。襲われた体験もトラウマになっている。
 それでも幼少時から、規律を守る真面目な人間として育ってきた真一の根本部分は変わっていない。いかに恐ろしい不良が相手でも、規則違反を目撃したら条件反射的に注意せずにはいられないのだ。たとえ殴られることがわかっていたとしても。
 とにかく真一は人一倍、不良を恐れている。そして人一倍、不良を唾棄している。それはもう憎悪といってもいい。だからこそ、不良のたまり場である三号棟の解体を自ら理事会でプレゼンしたように、彼らを排除するためならなんでもやる。しかし直接の関与はできるだけ避けたい、というのが本音だった。
「でもまあ、ヒップホップ研究部が立ち退きを拒否する理由もわかりますがね」メガネの書記が言った。「鏡波学院の規定では、部室のないクラブは部活動として認められず、活動できないことになっているんですから。会長は連中を三号棟から追い出したところで、代わりの部室を与えるつもりはないんでしょう? それってつまり、三号棟からの立ち退きは、実質ヒップホップ研究部の消滅ってことになるじゃないですか」
「もちろん俺は最初からそのつもりだ。三号棟を解体して、ヒップホップ研究部も解散してもらう。相手は校則違反の常習者、ようするに悪なんだから、遠慮することはないだろ」
 強気な真一とは対照的に、シスター森崎以外の役員たちは一斉にうつむいて弱音を吐く。
「……そんな強引なことをして、部長の司馬坂が黙っているとは思えませんが」
 三年四組に在籍するヒップホップ研究部の部長、司馬坂軍馬(しばさか・ぐんば)。彼は鏡波学院で最も危険な男として有名だった。なにしろ「パトカーを一分間で五台も燃やす」「プロボクサー相手にパンチだけで倒す」といった数々の恐るべき伝説を残しているのだ。ついた異名がクレイジーホース。真一の「会いたくない不良生徒ランキング」第一位に輝く人間である。
 何度も言わせるな、と告げながら真一は、胸ポケットから生徒手帳を取り出した。パラパラとめくって該当ページを読み上げる。
「クラブ・同好会廃部規定、第二章『活動内容について』第六条。文化部は文化祭を始めとした各種行事で、その活動内容を発表する義務がある。一年以上発表を放棄した場合、そのクラブは活動していないものとして廃部処分とする」
 ようするにクラブを名乗るなら、発表の機会に何かしろ、というわけだ。
 しかしヒップホップ研究部は、文化祭や音楽祭、新入生歓迎会などでも、まともなライブをしたことがない。体育館や視聴覚室の使用スケジュールを決める部長会議には、いつも無断で欠席する。自分たちで野外ステージを組んでライブをするのかと思いきや、準備が間に合わないとかで結局は何もしない。
 校内の適当な場所でゲリラ的にライブをすることはあったが、そんなもの公式な活動と認められるはずがない。所構わず無断でライブをされたら、非常に迷惑である。
 真一は生徒手帳を閉じながら、全員を見回して言った。
「この規定に違反しているからこそ、ヒップホップ研究部には即刻三号棟から立ち退いてもらい、クラブ活動自体を停止してもらうんだ。校則で決められているんだから、生徒はそれを受け入れる義務がある。正義はこっちにあるんだから、もっと強気で行けよ。たとえクレイジーホース司馬坂が何を言ってこようと、耳を貸す必要はないだろ」
 自分が直接説得に行かないからこそ、このような高姿勢でいられるのだが。口ばかりが達者な国会議員を彷彿させる姿である。それでも純粋なシスター森崎には、そんな真一が頼もしく映ったらしい。一人拍手を送りながら、勢いよく立ち上がった。
「そのとおりです会長! 私もヒップホップ研究部には、強硬策を取るべきだと思います! これはほかの不良たちに対する牽制にもなりますし、学院の大幅な秩序回復に繋がりますっ! そもそも正義に反する不良というものは……」
 シスター森崎は起立したまま、両拳をぶんぶん振り回して熱弁をふるっている。ほかの役員たちはその剣幕に飲まれて、ただ耳を傾けることしかできないでいた。
 真一は考える。まあ三号棟の件はシスター森崎が言うように、有無を言わせず強制退去させたらいいだけの話なので、それほど問題ではない。
 当面の問題は三号棟の件ではなく、今朝の号外で下落した自分のイメージ回復だ。このままでは、次の選挙で確実に響いてくるし、一体どうすれば……。
 考え事をしたままテーブルの湯呑みに手を伸ばした。中のお茶はまだ予想以上に熱かった。
「ほあちゃァッ!」
 香港映画のアクション俳優のような叫び声をあげて、椅子から飛び上がった。あまりの熱さに少しこぼしてしまい、ズボンを濡らしてしまった。
「だ、大丈夫ですか会長!?」
 シスター森崎がハンカチを取り出して、真一のズボンを拭き始めた。考え事をしている間に役員の一人が沸かしたばかりの熱いお茶を注ぎ直していたのだが、真一はそれにまったく気づいていなかった。
「どうしたんですか会長? 今日はボーッとされていることが多いみたいですけど……」
 メガネの書記が銀縁メガネをかけ直しながら、訝しげに言った。
「はは……疲れてるのかな。少し顔を洗ってくる。会議は続けていてくれ」
 真一は作り笑いを見せながら、生徒会室をあとにした。

 生徒会長ともあろう者が、役員の前であんな失態をさらすなんて、とんだ恥だ。
 真一は濡れたズボンの感触に負けないほどの不快な思いを抱きながら、静まり返った放課後の廊下を、とぼとぼと歩く。
 これというのも、全部あの悪魔のせいだ。今度目の前に現れたら柱に縛りつけて、あの巨大な胸をパンチングボール代わりに、高速ジャブの練習台にしてやりたい。
「左を制す者は世界を制す! くらえくらえ!」と俺。
「や、やだぁ、やめてよ真一」とマミラダ。
「はあはあ、やめられるものか! 次はクリンチの練習だ! ふんふん!」
「ちょ、ちょっと、そんなに顔を押しつけてこないでよぉ……」
「聞こえんなぁ! さあ次は、クリンチ状態からのデンプシーロールだ! オラオラァ!」
 ……いかんいかん、俺は品行方正な生徒会長なんだ。低レベルな妄想をするのは、それだけ疲れている証拠だ。こんなときは『パッフェルベルのカノン』でも聞いて、気持ちを落ち着かせたい。今日は早く帰ろう。
 そう考えながら男子トイレのドアを開けた。
 そこで真一の体は硬直した。とんでもない光景が、網膜に飛び込んできたからだ。
 床に仰向けで転がっている女子生徒。その腹部からは大きなダガーナイフが生えている。
 真紅の血液で彩られた女子生徒の真っ白なセーラーブラウスは、まるで日の丸をモチーフにした革新的な現代アートのように見えた。彼女は死にかけのゴキブリよろしく、ぴくぴくと僅かに痙攣している。それが余計に生々しく感じられた。
「う、嘘だろ……?」
 突然やってくる非日常に対して、人間は悲しいほどに無力である。情報を整理することに手一杯で、反射的に行動を起こすことができないのだ。
 ご多分に漏れず真一も呆然と佇んでいると、その女子生徒はまだ息があったらしく、年老いた老人のような緩慢な動作で、ゆらりと起き上がった。
 そしてナイフを抜くこともせずに、血まみれの手を前に伸ばし、ふらふらと近づいてくる。
「い、痛い、痛いよぉ……」
「お、おい! だ、大丈夫なのか!?」
「大丈夫なわけ、ない、じゃん……」
「す、すぐに救急車を呼ぶ! 犯人はまだ近くにいるのか? 一体誰にやられたんだ!」
「生徒会長の、音川真一に……」
「…………は?」
 真一は携帯電話を操作する指を止めた。そしてもう一度、ナイフが刺さったままの女子生徒をよく観察した。
 さらさらの金髪ロングヘアーに、二重まぶたの大きな瞳。ブラウスのボタンが弾けそうなほど、その内側から存在を主張している豊かな胸。
「……マミラダか?」
 羊型の大きな角や、先端が矢印型になっている尻尾は見当たらない。しかしその顔は間違いなく、あのチビ巨乳の悪魔マミラダだった。
「はいはーい、あなただけの悪魔、マミラダちゃんでーす!」
 血だらけの女子生徒が元気よく挙手した。同時に、腹部に刺さったナイフや身につけている制服が、風に散る砂のように霧散した。そして頭から角、お尻から尻尾という、いつもの悪魔の格好に戻った。どうやらマミラダは、人間の姿に変身することもできるらしい。
「…………ああ、よかった」真一は心の底から安堵して、壁に手をついた。「本当に人が刺されているのかと思ったよ。びっくりさせやがって……」
「これが魔界で噂の、デビルジョークでーす!」その声は腹が立つほど快活だった。
「……絶対に姿を見せるなって言ったはずだよな?」
「だって、ずっと姿を消しておくのは疲れるんだもん。そんなことより、生徒会室の前でこっそり聞いてたんだけどさー」マミラダはそこで一旦言葉を区切ると、揉み手をしながら真一ににじり寄った。「三号棟ってところは、ヒップホップを愛する連中の巣窟だとか?」
「それがどうした?」
「連れてって!」目をらんらんと輝せるマミラダ。
「ば、バカを言うな。あそこは不良の巣窟なんだぞ? あんなところ、頼まれても行きたくない。何度言っても校則を守ろうとしない連中とは、あまり関わりたくないんだよ」
 一番の理由は、連中が恐いからなのだが。
「ねえねえ、連れてってよぉ。連れてってくれるなら、いいことしてあげるからさぁ」
 マミラダは童顔のくせに艶やかな笑みを浮かべながら、真一にしなだれかかってきた。
 大きな胸の弾力で、真一の体は柔らかく押し戻されそうになる。それでもマミラダが両腕を背に回してくるため、胸がより深く密着する。この感触はやばい。やばすぎる。マミラダの美しい金色の髪から香る甘い芳香も手伝って、真一の脳はくらくらしていた。
「お、おい、やめろってば……不純異性交遊になる!」
「そんなこと言っても抵抗しないんだから。口では嫌がっていても、体は正直だよねー? だよねー?」
 どこで覚えたのか、古くからエロ業界に伝わる名文句を述べてきた。そして抱きついたまま顔をあげると、ゆっくり目を閉じて小さな唇を突き出してきた。
「ちょ、ちょっと……本当にダメだって。俺は生徒会長なんだぞ。選挙が近い大事な時期なのに、こんなところを誰かに見られたら……」
 まさに真一がそう言った瞬間だった。
 パッと強烈な光が男子トイレを満たした。カメラのストロボの閃光だ。続いてその場に満たされたのは、浅ましくも不気味な笑い声だった。
「フラーッシュッシュッシュ! 今度こそバッチリ撮ったでゲス!」
 男子トイレ前の廊下には、センター分けにビン底メガネという風貌の男子生徒が、一眼レフのデジタルカメラを構えて立っていた。
「な、梨田……!」
 この男が二年五組に在籍する新聞部の部長、梨田公造だ。
 音もなくターゲットに近づくそのスキルは、忍者の末裔と疑われるほど。そして決定的瞬間を撮影し、誇張を織り交ぜたスキャンダラスな記事で、知名度のある生徒をこきおろすことを生きがいとしている。これまで学院内で二股をかけていたバスケ部のエースや、塾をサボってゲーセン通いをしていた一見真面目な優等生などが、梨田の餌食となってきた。
「フラッシュシュ……生徒会長、これであんたも終わりでゲス。会議を放ったらかして、学院のトイレで破廉恥な格好の女子生徒と逢い引きするなんて、あんた悪い男でゲスね!」
「こ、これは違うんだ! 俺はただ顔を洗いに来ただけで……」
「事実なんてどうだっていいでゲス。吾輩のモットーは真実を報道することじゃなくて、報道した内容を真実とすることなのでゲス。さて、さっそく次の号外を作るでゲスよ!」
 梨田は「フラーッシュシュ!」とバカみたいに笑いながら、廊下を走り去っていった。
 廊下は走るな。そんな言葉が条件反射的に喉までせり上がってきたが、声にはならない。
 真一は目の前が真っ暗になり、膝からがっくりと崩れ落ちた。
「行っちゃったねー」マミラダが呑気に言った。
 今こそお前の出番だ。梨田を爆破しろ。いや、心臓を引きずり出してナマで食え。
 心の中でそう言うだけで精一杯だった。
「ああ、最悪だ……」
「んー? なんでそんなに落ち込んでるの?」
「俺がお前に抱きつかれているところを撮られたんだぞ! もう終わりだ……!」
「ふーん、そうなんだ。ま、あんまりがっかりしないで。真一には私がついてるんだから」
「そのお前のせいで、こうなったんだろうが!」
 真一はめまいがした。この悪魔に関わったために、昨日から最悪なことばかりだ。教室から飛び出した瞬間を撮られる。母親は爆破される。生活指導の教師まで爆破して、さらに印象を悪くさせられる。そして梨田に無駄なスキャンダルを提供してしまう……。
「ああ、こいつ、ホントに悪魔だよ……」
「はいはーい、本当に悪魔でーす!」マミラダが元気いっぱいに挙手した。「悪魔だからこそ、私と契約した真一に、あらゆる人間を屈服させる力を与えることができるんだよ」
 今まで何度も聞かされてきた言葉だが、このときほど真一の胸に響いたことはなかった。
 こいつの言うことが本当ならば……と真一は考える。
「……なあマミラダ。あらゆる人間を屈服させる力ってことは、ひょっとして梨田を屈服させて、今あいつに撮られた写真のデータを消すことも…………できたりするわけ?」
「もちろん。真一が本当にそれをしたいと思ってるならね。ここ重要だよ。赤線引いとく?」
 マミラダが手のひらをくるりと回すと、そこに赤いサインペンが出現した。
 デビルジョークです、と笑っているマミラダを無視して、真一は思考を巡らせた。
 このままだと、梨田はさっきの写真を公表してしまう。ただでさえ、今朝の号外で支持率が低下しているところに、トドメの号外を作られては、もう生徒会長の再選は確実に不可能だ。
 それだけではない。特徴的な格好のマミラダと一緒に写っている以上、やはり今朝の号外に写っていたのも真一自身だ、ということがバレてしまう。すると今度こそ、三年八組の教室を破壊した件についても言い逃れができない。
「ねえねえ、どうする真一? 悪魔の力を使ってみる?」
 悪魔がもう一度囁いた。その声色は今まで聞いてきたなかで、もっとも蠱惑的だった。

            ◇

 新聞部の部室は、未使用の教室を改良したものだ。
 そこへ戻ってきた梨田は、書類やファイルの山に埋もれているデスクトップ型パソコンと、愛用のデジタルカメラを接続して、さっそくデータを取り込んだ。
 やがてモニターには、先ほどトイレで撮影した真一とマミラダが抱き合っている画像が鮮明に映し出された。それを見て「フラッシュシュ」と不気味に笑う。
「バッチリ撮れているでゲスね。それにしても生徒会長め、いつの間にこんなかわいい女の子と仲良くなっていたんでゲスか。しかも吾輩好みのコスプレまでさせて、ますます気に入らないでゲスよ。このおっぱいは一体、何カップなんでゲスかね……尻尾もお尻に直接くっつけているんでゲスか……? ご、ごくりでゲス……」
 梨田がモニターのマミラダを食い入るように見つめているとき、新聞部のドアが「バン!」と大きな音を立てて乱暴に開かれた。
 部室内に入ってきたのは真一だった。マミラダの姿は見当たらない。
「なんでゲスか、勝手に人の部室に入ってくるんじゃ……」
「さっきお前が撮った写真のデータを消してもらう」梨田の言葉を待たずに真一が言った。
「はあ? 消すわけがないでゲス。それとも暴力に訴えるつもりでゲスか? まあそれでもいいでゲスがね。『スキャンダルの発覚を恐れて、報道の自由を侵害しようとした悪の生徒会長』っていう記事も作ってやるでゲスから。フラーッシュシュシュ!」
 真一は大きく深呼吸をしたあと、右手を真横にまっすぐ伸ばした。そして羞恥心に頬を赤らめながら、たどたどしくこう告げる。

「……の、ノイズを取る、このマイクバトル」

 右手が一瞬だけ発光する。そして一本のマイクが、真一の右手の中に出現した。
 そのマイクは一見、どこにでもあるような普通のマイクだ。先端が丸い形をしたアイスクリーム型で、ケーブルはないワイヤレスタイプ。ただしよく見ると、丸い集音部分のやや下側に小さいブローチのようなドクロの装飾品が取り付けられている。
 唐突にドクロの両目が赤く光った。梨田がその怪しい光を見た途端、どこからともなく単一のフレーズを繰り返すだけの、シンプルなバックトラックが流れてきた。
「な、なんでゲスか、この音楽は? 一体どこから……」
「お、お前にフリースタイルのラップバトルを挑む!」
 相変わらず頬を赤らめたままの真一が言った。フリースタイルのラップバトルというのは、ラッパーが即興で韻を踏んだリリック(歌詞)を作って、お互いに攻撃し合う論争のことだ。真一が嫌うヒップホップカルチャーの一つである。
「はあ? 何を言ってるでゲスか?」梨田は目を丸くした。「吾輩はそんなものをするつもりはないし、生徒会長だってヒップホップは嫌いだったはず……」
「こ、このマイクについているドクロの目を見つめた者は、強制的にラップバトルをすることになるそうだ。い、行くぞ梨田!」
 真一は強くマイクを握り締めると、羞恥心を押し殺しながら、部室に流れるバックトラックに合わせてリリックを紡ぎ出した。
【俺は鏡波の生徒会長。みなが平和ならゲット快調。学院のために尽くす人事、達人の域に達した真一。それを邪魔するクズ野郎、梨田っていうゲス野郎。書く記事全部クソばかり。誇張だらけの嘘ばかり。こちらは学院愛してる。そちらは学院汚してる。なぜならテメェは……】
【ストップ、ストップ、ロボコップ】梨田が握りしめた自分の拳をマイク代わりにして、割り込んできた。【吾輩の記事には需要がある。世間の求める希望がある。あんたの本性暴く記事、それを生み出す吾輩の意地。読者の期待、さらに拡大。そして量産、ゴシップの死体】
 不思議なことに梨田も自分の意に反して、真一との論争……すなわちラップバトルに参加していた。相手を強引にラップバトルに引きずり込む力。それが真一の持っているマイクの魔力である。そしてこのマイクの魔力は、それだけではない。
 梨田のラップが終わると、また真一のターンだ。
【聞け愚者の帝王、梨田公造。グシャッと潰して梨田逃亡。校則の守護神が送る、高速のリリック。こいつはまさにマシンガンのライム。未来を照らす羅針盤のチャイム。俺を叩く記事には、米軍からの一斉掃射。受けたテメェは絶対(ぜってぇ)敗者】
 真一が紡ぎ出したリリックは、立体的な黒い文字として中空に浮かび上がった。その浮遊する黒い文字の一つ一つは、真一のラップに合わせて彼の後方に集まっていく。
 するとそれらの文字の塊が、マシンガンを構えたアメリカ陸軍の兵士たちに変化した。すべての銃口は梨田に向けられている。次の瞬間、兵士たちのマシンガンが「ぱららら」と銃声をあげて一斉に火を吹いた。梨田は無数の銃弾を受けて、後方に大きく吹っ飛ぶ。
「ゲスゲスゲスうううッ!?」
 そのまま窓際にある書類だらけの長テーブルに突っ込んだ。書類がバサバサと散乱する。
 梨田はうめき声をあげながら、ゆっくりと立ち上がった。その体からは大量の血が……出ていない。銃痕すらついていない。
 今梨田が見たものは、真一がラップに魂を込めたことで出現した、ただの幻なのだ。
 梨田は未だ悪魔のマイクの魔力下にある。だから自分が見た幻影に怯えるよりも先に、自然と口から次のラップが放たれた。
【吾輩の姿勢は変わらない。米軍なんて怖くない。欧米人ごと囲む報道陣、総動員で浴びせるフラッシュの光。作り出すのはスキャンダルの嵐。吾輩は学院のエンターテイナー、そこのところ、わかってねーなぁ】
 すると今度は、梨田のリリックまでもが、立体的な黒い文字として中空に出現した。文字群は、それぞれがカメラを構えた報道陣となって、真一が生み出したアメリカ陸軍の兵士たちを取り囲む。そして一斉にカメラのフラッシュを浴びせ始めた。報道陣のなかには、望遠レンズが取りつけられた大型カメラで、兵士に殴りかかっている強者もいる。
 悪魔のマイクが構築するラップバトル空間は、対戦相手のリリックさえも幻影として出現させるのだ。真一はそれに怯むこともなく、さらに攻撃を続けた。
【テメェがエンターテイナー? 嘘記事ばかりで笑わせんな。クソ新聞部は戦場化、炎上だ。正義の炎を召し上がれ、俺の画像を消しやがれ。下がれゲス、黙れカス。何がフラッシュだ、パソコンがクラッシュ。機材にシュートで未来はグッド】
 またしても真一のリリックが、立体的な黒い文字となって出現した。今度はそれが新聞部の部室を包む正義の業火へと変化した。もちろん幻影だ。
 業火の幻影は、梨田が生み出した報道陣たちの幻影とともに、梨田本人も包み込んだ。
「ゲッスうううううううう!」
 幻影でも梨田は、頭を抱えて大いに苦しみだした。そしてがっくりと膝をつく。
 今のラップを最後に、部室内に流れていたバックトラックが鳴り止んだ。同時に部室内の炎やアメリカ兵たちといった幻影も煙のように消え失せる。真一の手にあったマイクも同様だ。
 それはラップバトルの決着を意味していた。その勝者は、真一だった。
「そ、そうでゲス……吾輩はゲス野郎でゲス」ゆっくりと立ち上がった梨田の瞳には、ある種の狂気が浮かんでいた。「学院の未来を真剣に案じている生徒会長を、吾輩のゲスな記事でこき下ろそうとしてしまうなんて……吾輩は最低の男でゲスよ!」
 そして突然、パソコンに繋いでいたデジタルカメラをケーブルごと引っこ抜くと、「こんなものは、こうでゲス!」と、そのまま床に叩きつけた。
 ガン、と硬い音を立ててカメラは床に転がった。梨田はそれを何度も足蹴にすると、中からメモリーカードを取り出して、それを真っ二つにへし折った。さらにパソコンの本体を高らかに持ち上げると、それも床に叩きつける。そして力の限り蹴りつけた。
「フラーシュシュシュ! こんな機材なんて、全部吾輩がシュートを決めて、ぶっ壊してやるでゲスよ! 生徒会長万歳でゲスぅぅッ! くらえドライブシュートォォッ!」
 
            ◇

 梨田が狂気じみた目で、画像データの入った機材を破壊したことを見届けた真一は、静かに新聞部の部室をあとにした。
 廊下に出ると同時に、今まで姿を消していたマミラダがパッと出現した。
「すごい、すごいよ真一! 超かっこよかったよ! よーよー!」
 マミラダは興奮した様子で頬を紅潮させており、嬉しそうに真一の周りをくるくると飛び回っている。時折、指先で体をつついてくるところが、かなりウザい。
「うう、まさかこの俺が、人前であんな恥ずかしい歌を歌うなんて……人生の汚点だ……」
「真一には才能があると思っていたけど、まさかあそこまでメッセージ性の強いラップを繰り出せるなんて、予想以上だったよ。『米軍からの一斉掃射、受けたテメェは絶対(ぜってぇ)敗者』。くううう、しびれるぅッ! マジドープ(最高)ってやつだね!」
「……頼むから真似しないでくれ。それ以上聞くと死ぬ」
「これでサタニックマイクの使い方は、だいたいわかったかな? 自分が絶対に押し通したい意志を口にするだけで、それがラップっていう音楽を借りた言葉の弾丸になるんだよ」
 マミラダの言っていた「人間を屈服させる力」というのがこれだった。
 悪魔のマイクの名前は、サタニックマイク。マミラダを初めて召喚した史上最強のギャングスタラッパー、セカンドパックが使っていたマイクに魔力を注入したものだそうだ。以降マミラダは、契約した人間にこのマイクを与えるのが通例となっているらしい。
 サタニックマイクは「ノイズを取る、このマイクバトル」という呪文を唱えることで出現する。そのマイクに取り付けられたドクロの目を見せることで、相手を強制的にラップバトルに引きずり込むことができるのだ。たとえそれが、どんな状況で、どんな相手だろうと。
 ラップの知識や技術は、別になくても問題ない。サタニックマイクが構築するバトル空間では、自然と韻を踏んだリリックを生み出すことができる。重要なのは、相手に押し通そうとする意志の力、つまりはメッセージ性だ。それが強ければ強いほど、韻を踏んだリリックは強力な魔力を含んだ言葉の弾丸となる。
 そして言葉の弾丸は、意志の強さを反映した召喚魔法となって、相手の心に突き刺さる。意志の強さが相手より上回っていれば、どんな相手でも従わせることが可能となるわけだ。
 あまりにもバカバカしい。悪魔と契約して受け取る力が、相手とラップバトルをするマイクだなんて聞いたこともない。バカバカしいが、その力は本物だった。バトルに負けた梨田は、実際に真一の痛手となる画像データを自ら消去したのだから。
「つまりサタニックマイクの攻撃力は、思いの強さ次第ってわけ。それが強い人なら、世界中の人間を屈服させることも可能なんだよ。セカンドパックもこのマイクで、ラップ界の帝王にまでのし上がったんだから。歌い手が魂を込めた音楽には、魔法が宿るってことだね」
 常日頃から真一が考えていたことを口にしたマミラダ。ラップを音楽と断定されたことに、やや不快感を覚える。
 俺はラップが音楽だなんて認めてないけどな、という言葉がこぼれそうになったが、寸前で止めた。それを言えば、マミラダが激怒しそうだからだ。
「真一は天才だよ。ほとんどの人は、あれだけ攻撃的で破壊力のある幻影を召喚することはできないんだから。セカンドパックの再来といってもいいね!」
 それは、真一が普段から心の中で攻撃的な悪態をついていることも、要因の一つかもしれない。鬱憤だけは日頃から溜まりに溜まっているわけだし。サタニックマイクは、そんな思いを汲み取って、攻撃的な魔力を含んだリリックに変換しているのだ。
「こんなものに天才って言われても、まったく嬉しくないけどな」
「でも、真一がサタニックマイクを使えば無敵だよ? きっと最強の召喚魔法使いとして、あらゆる人間の頂点に立つ男になれる。さすがは私の旦那さま候補だね!」
 ……今マミラダがおかしなことを言った。あまりにも平然と言われたため、まだ真一は具体的にどの部分がおかしかったのか理解していない。ただ、何かが引っかかったのは確かだ。
 だからこう聞き返した。一番的確なひと言だ。
「…………は?」
「だから旦那さま候補だってば。真一は世界を支配する魔王の素質があるんだもん。私の結婚相手は、魔王の器のある人しか認めないって、いつもパパが言ってるし」
 言っている意味がわからない。
「あのさ、なんで俺が、悪魔の旦那候補にされてるんだろうか?」
「魔王の素質があるから?」
「だから勝手に決めるな! 俺は正義の男だぞ、そんなものを承諾するわけがないだろ!」
「えー、せっかく才能があるのに、もったいないー」マミラダが駄々をこねだした。「真一くらい強力なリリックを紡げる人なら、サタニックマイクで世界も思いのままなんだよー?」
「何度も言わせるな。俺は正義に生きる男だ。品行方正な生徒会長だ。そもそも悪魔と結婚なんてバカげているし、世界を支配するなんてことも……」
 そこまで言ったとき、マミラダの両目いっぱいに、涙が浮かんでいることに気づいた。
「ひ、ひどい真一……魔界では私と結婚したいって言ってくる人が、山ほどいるのに……バカげてるとか言っちゃったよ……」
「い、いや、言い方が悪かったかもしれないけどさ、泣かなくても……」
「パパに言っちゃおうかな……でも、さすがにそれはかわいそうかな。そうなったら真一は、イースト菌としての人生を百万回も繰り返す呪いをかけられちゃうかもだし……」
「待て待て、さすがに微生物はキツすぎる」
「だったら世界を支配して、私と結婚してくれる?」
 両目に大粒の涙を溜めたまま、真一の顔を見上げてくるマミラダ。イースト菌にするなんてとてつもない脅迫だ。ヤクザの取立てにあっている人でさえ、「貸した金を返してくれないと、パンの材料になってもらいますよ?」なんて言われたことはないだろう。
 真一は頭を抱えた。もう本当に勘弁してほしい。ただでさえ面倒な問題がたくさんあるっていうのに、これ以上面倒な話をもちこまないでいただきたい。
 そこで、待てよ、と思った。面倒な自分のイメージ回復問題も、三号棟の立ち退き問題も、同時に解決できる方法があるじゃないか。まさに俺の手の中に。