第一章 『落下する彼』(前)




 話を少しだけ巻き戻そう。チャプタースキップ……。
 パラパラとスライドショーのようにシーンが飛び、そして、ピタリと止まる。
 ……電話が鳴っている。オブジェだ。目の前には気味の悪いオブジェがある。手に温もりを感じる。姉。姉が僕の手をしっかりと握っている。
 いや、これは違う。もっと手前の話だ。
 再び、スキップ。
 ……ベッド。ボロボロのベッドの上。注射器。赤い液体が入った注射器。
 違う違う、これも違う。さらに手前、ついさっきの話。
 ……糸。
 そう、これだ。僕は、赤い糸を追っていた。
 左手の小指に蝶々結びで結びつけられた赤い糸。僕はその糸の先を追っていた。
 いや正確には、僕が向かっていたのは今日から転校する飾(かざ)梨(なし)高校だ。
 その道すがら、進行方向と同じ方向に糸が伸びていたものだから、いつしか目的は糸を追うことへと変わっていた。
 一ヶ月ほど前、僕の身にある出来事が起き、糸が見えるようになった。
 糸は、とても鮮やかな赤で、糸というよりかは光に近い。ピンと張られているわけではなく、まるで波のようにユラユラと伸びている。
 どうやらこれは僕にしか見えないらしく、これが何なのか、誰からも説明を受けていないので確かなことは分からない。
 一般的に言えば、いやこんなものに一般的という言葉が当てはまるのかどうかも分からないが、よく少女漫画などに出てくる『運命の』あれだとするならば、この先に待っているのは……。
 糸が見えるようになってからの転校――正常な思春期を迎える男子高校生ならば、否が応でも妄想するだろう。
 やはり、僕の運命の相手は、飾梨高校の生徒だろうか。
 今まで誰にも見向きもされなかった、何の特徴もない冴えない自分のことは、ひとまず棚の奥の見えない場所に置き、次々とシチュエーションを思い浮かべる。
 同級生でもいいし、先輩でも後輩でもいい。もしかすると、先生という線もある。いやいやアイドルが通っているなんてこともあるかもしれないぞ。
 フフッと思わず笑みがこぼれる。
 真っ先に想像したのは、定番中の定番、曲がり角を曲がったら、という展開だ。
 遅刻しそうな美少女、パンをくわえた美少女、派手に転び大胆にパンツを見せる美少女。
 フフッとまたしても笑みがこぼれる。
 まさかな。
 だが、そのまさかだった。
 曲がり角を曲がった先に彼女はいた。
 ただ、ぶつかったときの音は、ドンッではなく、ヌチャリだった。
 僕は自分の制服が真っ赤に染まっているのを見て、何が起きたのか分からず、慌てて顔を上げる。目の前には、同じ飾梨の制服を着た髪の長い女子生徒が立っていた。
 そう、この女子生徒こそ、僕の運命の相手、水木しげ子さんだった。
 僕の左手の小指から伸びる赤い糸は、間違いなく、確実に、強く、しっかりと、しげ子さんの左手の小指に結びつけられていた。
 こんな出会いかた想像もしていなかった。
 それはそうだろう、どうして想像できる。自分の運命の相手が、死体片手に現れるなんて。
 ――それは、猫の死体だった。
 しげ子さんは、まるで昔のブラウン管テレビのチャンネルを変えるつまみでも持つように猫の首根っこを持っている。
 猫の死体を持ち、じっとこちらを見ている。その猫の死体で僕の制服を汚したのだから、「ごめんなさい」の一言があってもよさそうなものだが、しげ子さんは、何も言わず、じっとこちらを見ている。
 僕は沈黙に耐え切れず、かといって何を言っていいか分からず、とりあえず間を埋めようと、意味のない言葉を吐く。
「あ……あの――」
 ベチャ。
 猫の死体から腸が、ずるりと地面に落ち、僕の言葉を遮る。
「……おっ、おおおおお、おちっ、落ちましたけど」
 声が上ずる。自分でも何を言っているのか分からない。
 ――これは一体、なんなんだ!
 もしかすると僕は、朝一番で妖怪に出会ってしまったのかもしれない。猫の死体を見せ人を嫌な気持ちにさせる妖怪『猫の死体見せ』だ。
 この子が本当に僕の運命の相手? 
 どんなに想像しても彼女を見てドキドキする自分が思い浮かべられない。――今は別の意味でドキドキしているが。
 そこに一台の車がやってきた。
 車は、僕としげ子さんのすぐ近くに止まり、中から運転していた中年女性が降りてくる。
 中年女性は、神経質そうな眼鏡をかけ、動きやすさだけを追い求めたスエットの上下を着ている。車の後部座席に子どもに人気のアニメキャラクターのぬいぐるみがいくつか載せられているから、おそらく主婦なのだろう。両手には、肘のあたりまである大きなゴム手袋がはめられている。
 主婦はしげ子さんが、持っている猫の死体を見て、「あら」と声を出した。
 しげ子さんは、そんな主婦を無言でじっと見つめている。その意図は分からないが猫背で少し上目遣いの為、主婦に何かしらの圧力をかけているように見える。
 主婦もそう感じ、居心地が悪くなったのか、何も言っていないのに「なによ」と棘のある声を出し、「仕方ないじゃない、素手で触って、変な病気でもなったらどうするの? わたしには子どもがいるのよ」と、聞いてもない弁明を始める。
 どうやら、この主婦が車で猫を轢いたようだ。
 だが、素手で死んだ猫を掴むのが嫌だったのだろう。自宅だか近くのスーパーだかに行き、ゴム手袋を手に入れ、ここに帰ってきたのだ。
 おそらく多くの人は、轢いた瞬間に車を降り、手を汚してでも猫を歩道の脇にでも連れていくべきだと非難するだろう。主婦に謝罪の気持ちがないことで更にその気持ちは強くなるのではないだろうか。
 でも、僕は少し違う。
 僕にも非難する気持ちはあるのだが、その一方で、そのまま逃げ去ってもよかったのにわざわざ帰ってきたことを評価する気持ちが少しあるのだ。僕はいつでもこんなくだらないことで葛藤する。
 ――僕は、人に憎しみを抱くのが苦手なのだ。
 しげ子さんに目を戻す。
 彼女はこんなときどうするのだろう? 怒るのか、諭すのか、気にしないのか。自分の運命の相手かもしれないので気にかかる。
 しげ子さんは、いつの間にか奇妙なポーズを取っていた。
 右手の人差し指を天に向かって突きあげている。「神様は見ていますよ」とでも言うのかと思ったが、しげ子さんの口から出てきたのは全く聞き覚えのない言葉だった。
「カミゲトリクイノノロイ」
 それが僕が初めて聞いたしげ子さんの声だった。体の内側から囁かれているような、距離感のつかめない不気味な声。その声で、まるで呪文のように抑揚を付けずにわけの分からないことを言うので、恐怖で思わず体が硬直する。おそらく最後の言葉は「呪い」だろう、そこだけ聞き取れたのがより一層恐ろしい。
 主婦にもそれは伝わったのだろう、虚を突かれた驚きと恐怖で、瞳孔が少し開いている。
「古代メソポタミアから伝わる呪いですよ。カラスに憎い相手の爪と髪の毛を喰わせることで、その相手はカラスに喰い殺される」
 それは一体、なんの話だ? 主婦もそういった顔をしている。そして、急速に無意識に、頭の中で先程の言葉が漢字変換されていく。――さっき、しげ子さんはこう言ったのではないか。
『髪毛鳥喰いの呪い』
 頭の中で文字を組み立てていくとより一層その言葉が持つ恐ろしさが際立っていく。そして僕は、しげ子さんが天を指さしていたわけではないことにようやく気づく。
 その指の先には、電柱の天辺に止まる一羽のカラスがいたのだ。カラスの嘴の先は、赤く染まっていて、モグモグと口を動かしている。
「この呪いを更に強くする方法がありまして。自分の腸を食べさせるんですよ。相手への憎しみがぎっしり詰まった自分の腸を喰わせることで、この呪いは必ず成就する」
 そこまで聞き、カラスが何をモグモグとさせているのか理解する。きっとしげ子さんがここにやってくるまで喰っていたのだ――死んだ猫の腸を。
 猫の恨みがこもった腸を。
「はっ、何を言っているのよ。気味の悪いことを言わないで」
 主婦の声は震えていて、カラスから目を離せずにいる。
 しげ子さんの天に向いていた指が、素早く主婦に向けられる。その勢いで、指に付いていた猫の血が、主婦の頬に飛ぶ。
「呪うなら自分を呪いなさいな」
 ガァァァー! タイミングを示し合わせたかのように、カラスが大きな目を光らせ、嘴を大きく開き勢いよく鳴く。
「い、いやー!!」
 主婦は、必死にせき止めていた恐怖心を一気に爆発させた。それは、まるでダムの決壊のようだった。
 腰を抜かし、体を震わせ、声にならない声を上げ、地面を這いながら車まで戻ると、一度も振り返ることなく、猛スピードで走り去っていった。
 呆然と立ちすくむ僕に、しげ子さんが「嘘なんですよ」と囁いた。
「先程の話、半分は嘘なんですよ。後半の自らの腸を食べさせるというくだりは、わたくしが考えました」
 しげ子さんはそう言って、僕の方を向きニタリと笑う。
 それは笑みというよりは歪みに近かった。僕を安心させようとしているのか、より怖がらせようとしているのか判断がつかない。
 その笑みに答えるレパートリーは僕の顔にはなく、頬を引きつらせ、沈黙してしまう。
 先程まで、死んだ猫のためにやっているのかと思ったが、もしかすると単純に主婦に嫌がらせをしたかっただけかもしれない。
「その、猫……」
「あぁ」としげ子さんは、まるで持っていたことを忘れていたかのように猫に目を落とす。
 猫は、首の根元を持たれているためか、がっくりと肩を落とし、「死んでしまいましたよ」とうなだれているように見える。このままにはしておけない。
「……どこかに埋めてあげようか」
 半ば無意識にそう口走っていた。
 こうして僕は、転校初日、血だらけで泥だらけになりながら、猫の死体を埋めることになったのだ。 




 穴を掘る作業はとても大変だった。そういえば、大きな穴を掘るなんて、人生で初めてかもしれない。
 一心不乱に掘っているうちに、もしかするとこれは自分の精神のある部分を表していて、この穴はどこかに繋がっていて、僕は知らず知らずのうちに「いつもとは少し違う別の世界」に迷いこんでいて、月が二つあったり、一角獣が出てきたり、猫と話が出来るおじいさんと出会ったりする不思議な世界が始まるのではないかと妄想したが、僕が掘った穴はただの猫の死体を埋める穴で、猫を埋める以外はこれ以上何も起こることはなかった。
 僕はただ、水木しげ子さんというとても変わった女子と出会い、猫の死体を埋めるのを手伝い、結果、転校初日だというのに制服を血だらけで泥だらけにし、転校初日だというのに一時間も遅刻しただけだ。
 そう、ただそれだけのことさ――。
 と、みんなが広い心で僕を迎えてくれることはなかった。
 僕は、転校初日から、多くの人にとって、厄介な人間という印象を与えてしまったようだ。制服は、担任の先生がさすがにこのままではとジャージを貸してくれたのだが、そんなことは大海に一握りの砂糖を入れるほど意味がなかった。
 皆が僕のことを、酢豚の中に入っているパイナップルのような眼で見てくる。
 とんでもない奴が入ってきたぞ、と。
 こんなことになるなんて……。
 手を挙げ、先生に訴えたかった、「想像と違います」と。
 想像通りだったのは、席だけだ。
 窓際の一番後ろ。本来なら、「転校生はここと決まっているんですか」と学園ドラマあるあるで一笑い取るところだが、今そんなことを言ったら皮肉にしか聞こえないだろう。まるで、僕を見たくないがために用意された席のようだ。
 机の上に、指を開いた左手を乗せ、ハァとため息をつく。
 まるで、婚約指輪を見つめマリッジブルーになる新婦のようだ。
 何もかも、あの子と出会ってからおかしくなったのだ。
 僕は、左手の小指についている赤い糸を目で追う。
 そこには、純白のワンピースを着たしげ子さんが座っている。
 赤い糸のことを考えれば、やはり、ということになるのだろう。僕としげ子さんは、同じクラスだった。しげ子さんは、血や泥で汚れた制服の代わりに、純白のワンピースに着替えた。「いやいや、それはまずいだろ。ジャージとか持ってないの?」と聞く担任に、「これしかありません、これしか」とぴしゃりと言いきり、そのまま席についてしまった。
 しげ子さんの席は、一番前のど真ん中だった。ただでさえ目立つその席に、純白のワンピースを着た女の子が座っているのだから、これはもう授業を妨害するテロに近い。
 今、この光景を写真に撮り心霊番組に送れば、大賞がいただけるかもしれない。『とても怖いで賞』だ。
 それにしても、と皆がしげ子さんを見る目が気にかかる。
 それはとっても嫌なたとえになるが、家に出たゴキブリを見る目に近かった。
 見たくはないが、目を離すと何をされるか分かったものではないから、チラチラと確認する、皆の目はそういったものだった。
 別にイジメられているわけではない。ただ、怖いのだ。
 しげ子さんには悪いが、僕が避けられているのは、制服を血だらけにしたからでも一時間遅刻したからでもなく、しげ子さんと一緒にいたからではないかと考えてしまう。
 ――いや、待てよ。こうして、二人が孤立することで、絆が深まり、恋に発展するのか?
 左手の小指についた赤い糸を見つめる。そして、公園で見たしげ子さんの素顔を思い出す。確かに顔は、綺麗だった。それも、そんじょそこらの美しさではない。深い森の奥底のある誰にも汚されていない小さな湖のような神聖さがあった。
 あの顔を見たことある人はほとんどいないのではないか?
 それを、僕が独占するとしたら――
「あの……」
「えっ」
 振り返ると、じっとこちらを見つめる女子生徒の顔が目の前にあり、「わぁ」と思わず声を出してしまう。
「やっと気づいた」と、その女子生徒は、とても柔らかい微笑みを浮かべる。
 驚くほど澄んだ目をしていて、髪がふわりとしたミディアムボブのためか、森の妖精を連想させる。身長も体つきも、老若男女問わず誰が隣に立っても劣等感も優越感も与えない、ほどよいものだ。僕が少女漫画家なら、彼女の周りに花を描くだろう。
「わたし、委員長なの。先生に、学校を案内してくれと頼まれて」
 そう言われ、改めて周囲を見渡すと、教室に生徒がほとんどいないことに気づく。
「えっと、今は」
「昼休みだよ」
 今が授業中なのか休み時間なのかも分からないほど、頭の整理に没頭していたようだ。
 もう、昼休みなのか。
「えっと、転校生の何君だっけ?」
「楠見朝生です」
「そう、わたし、ナバナニジコ」
「ナバナさん?」
 森の妖精に似た女子生徒は、僕のノートに『那花虹子』と書き込む。
 名前までもが優しさに包まれているではないか。
 ――よし、虹子ちゃんと勝手に呼ぼう。




「あれは新しい流行の兆しなのかな」
 突然、虹子ちゃんがそう言うので、僕はそれまでの会話を聞き逃していたのかと思い、思わず「えっ」と聞き直してしまうが、そうではなかったようだ。
「いや、今日登校してくるときに、MA‐1を着てバイクに乗っている人がいたの」と、すでに飾梨高校の紹介はどこかにいき、今日の朝、虹子ちゃんが体験した話が始まっていたのだ。
 虹子ちゃんは、かなりの天然のようだ。
「今日は、寒いね」という話から始まり、「でもここはあまり寒くないね」と続き、ここ飾梨高校は、土地的に風が吹かない場所で、この辺では、『飾梨』ではなく『風無』と呼ばれているという内容になっていたはずなのだが、「そういえば、寒いで思い出したんだけど、今日バイクに乗っている人が厚着していて」と言いだしたところで、何かを閃いた顔をして、「あれは新しい流行の兆しなのかな」と着地したのだ。
 虹子ちゃんがキラキラとした目で、航空機を操り、本来の目的地ではない、たまたま見つけた澄んだ海に囲まれた小さな小島に突っ込んでいく姿が頭に浮かぶ。
「乗客の皆様、とっても綺麗な場所があるので、ちょっと寄ってっちゃいまーす」と。
 ――でも、その天然加減がまた可愛い。
 なんでも許せてしまう。たこ焼きを作る時にクルクルと回す針みたいなやつで刺されるぐらいなら許せるかもしれない。
 どうせ、この飾梨高校は、三つの校舎と運動場があるだけの他に突出した特徴がない、ごくごく普通の学校だ。
 一つ引っ掛かることもあるにはあるのだが、それは虹子ちゃんが答えられる内容ではない。
 もうこれ以上説明を聞く必要もないだろう。虹子ちゃんと一緒にどこまでも逸れた話を続けよう。
「MA‐1って、あのフライトジャケットのだよね。よく名前知ってるね」
「マックイーンだよ、スティーブマックイーン。着てたでしょ、大脱走で」
 今度は、よくマックイーンを知っているねと聞きそうになるが、なんだか永遠にそのやり取りが繰り返されそうな気がして、話を続けることにする。
「で、そのMA‐1の人がどうしたの?」
「ほら、あのMA‐1ってさ、裏地がオレンジでしょ。その裏地を表にして着ていたの。オレンジ色だからすごく目立っていて、もしかすると今年あれが流行るの?」
 そんな流行は聞いたことがない。
「あれって、遭難した時のために、発見されやすいようにあの色なんだよね」
 少しでも好かれたいがために、知ってる知識を披露してみる。
「へぇ、じゃあ、あの人は遭難してたんだね。このコンクリートジャングルに」
 なんだろう、見当違いの解釈なのに、とにかく可愛い。
 ――この子と結ばれていればよかったのに。
「ねぇ、そういえばふと思ったんだけど、どうして転校してきたの? 前の学校で何かあったの?」
 天然にはこういう一面もある。堂々と人のナイーブな部分に足を踏み入れてくる。
「あっ、うん」と僕は思わず口ごもってしまう。
 その話はあまりしたくないが、「その話はあまりしたくない」と言って嫌われたくはない。
 僕は口の中に虫を放り込まれたような、いかにも辛そうな顔を作り事情を説明する。
「……僕、襲われたんだよ」

 思わず、地球が終わったのかと思った。
 それほど突然の衝撃だった。見知らぬ人に後ろから金属バットで頭を思い切りぶん殴られたのだ。
 入学式を終え、ようやく友達が出来始め、学校に行くことが楽しくなり始めた登校時での出来事だ、まさかそんなことをされるとは露ほども思っていなかったものだから、こうなったのは僕が原因ではなく、地球が原因だと思ったのだ。
 そして次に目覚めたとき、僕は……

「大丈夫?」
「あっ、うん」
「嫌なこと思い出させちゃった?」
「いや、そういうわけじゃ……」
 うまく説明できないのだ。あのあと僕の身に起こった奇妙な出来事のことを。
「でも、それで引っ越しまでするって、なんか凄いね。犯人に心当たりでもあるの?」
 天然って本当に怖い。妙な鋭さがあり、最短で答えに辿り着いてしまうことがある。
 僕が恐れたのは、この話題へと繋がることだった。
 犯人に心当たりはない。ただ、犯人の動機には、いくつか思い当たるものがあったのだ。
 僕の家庭は『特殊』だ。今回のような直接的な暴力は初めてだが、それに近い嫌がらせは何度も受けてきた。それは、死んでしまった父が原因のときもあったし、今どこにいるのかも分からない母が原因のときもあった。そのたびに引っ越しを繰り返してきたのだ。
 だが、この話は、本当に話したくない。
 僕は、はぐらかすために、姉のせいにすることにした。
「姉がね、刑事なんだよ。本庁捜査一課の刑事。だから、姉に恨みを持つ人の犯行かもしれないから、今回は万全を期したんだよ」
 これは、嘘ではない。
 姉は、その可能性も考えていた。
「へぇ、そうなんだ。でもお姉さんって、まだ若いんじゃないの?」
「二十五歳。女性だし、いわゆるキャリアでもないから確かにすごいよね」
「へぇー、それは全く分からないけど、凄そうだね。でも、こっからだったらお姉さん、通うの大変じゃない」
 引っ越してきたここは、東京の西の外れで、僕も初めて聞く名前の町だった。
「僕もそう言ったけど、事件が起きればどこに家があっても帰れないから、一緒らしい」
「へぇ、そっか。あっ、もうこんな時間」
 虹子ちゃんは、お昼ごはんも食べずに僕に付き合ってくれていたようだ。時計を見て、お腹を抑え、「いけない、いけない」と、僕に優しい笑みを向ける。
 これ以上僕のために時間を割かせるのは申し訳ない。僕は、虹子ちゃんにお礼を言い、一人になった。
 一人になると、先程慌てて閉めた記憶の扉が再び開いた。
 バットで殴られ僕は――
 本当にあれはなんだったのだ?




 気付くと僕は病院にいた。
 通りすがりの人に助けられ担ぎこまれたわけではない。僕を金属バットで殴った見知らぬ人に連れ込まれたのだ。
 僕の意識は中途半端に覚醒していた。寝ている途中にふと目覚めた感覚に近い。きっとすぐにまた意識を失う予感があったし、事実、僕はこのあとすぐにまた意識を失った。
 そこが、ただの病院ではないことはすぐに分かった。天井にぶら下がる無影灯のライトがところどころ割れている。
 おそらく、そこは、「元」病院で、「現」廃屋だった。
 そして、僕はおそらくその廃病院の手術台の上に寝かされていた。心霊スポットにでもなっているのだろうか、壁には、赤いスプレーで「あなたはここで呪われる」と落書きがされている。
 今思えば、この言葉は予言めいていた。
 寝ている僕の傍らに誰かが立った。
 僕を襲った見知らぬ人だ。
 意識が朦朧としているため、視界がユラユラと歪んでいて、僕を襲った人物の全容がまるで掴めない。男か女かさえも分からない。見知らぬ人は、〈見知らぬ人〉としか形容しようがなかった。
 体が全く動かない。
「あ……あぁ……がっ――」
 声もうまく出せない。
 だが、なぜか不思議と怖くはなかった。現実感があまりにも喪失していて、夢に近かったからかもしれない。
〈見知らぬ人〉は、自分の腕に注射器を刺し、自分の血を抜き始めた。
 透明だった筒がみるみる赤く染まっていく。僕は、何が起きようとしているのか全く理解できず、他人事のように仮装大賞の得点が入るところを連想し、頭の中で「プププププ」と音を鳴らしていた。
〈見知らぬ人〉は、血を抜き終えると、自分の血がたっぷりと入った注射器を二度指でコンコンと叩き、針から少し血を出し筒に残っていた空気を押し出すと――僕の腕に突き刺した。
 その動きはとてもスムーズで、看護士というよりは、儀式に近かかった。
 筒の中の血が見る見る減っていく。
 注射器の血を全て入れ終えると、〈見知らぬ人〉は僕にこう言った。
「ごめんね、こんなことして。……でも、これで見えるようになるから」
 耳の感覚も元に戻っていなかったのだろう。その声は籠っていて、テレビでよく見る『プライバシーのため、声を変えております』というテロップを思い出した。

 次に気付くと、僕は「元」ではない、しっかりとした「現」病院にいた。
 知った顔が目の前にある、姉の冬羽(とわ)だ。
 泣きながら、「大丈夫!?」と僕に呼びかけてくる。
 結果、大丈夫だった。
 金属バットで殴られたことで頭に大きな瘤が出来ただけで、脳にも異常がなかったし、血液検査でも異常がなかった。変な病気をうつされたわけではなかったようだ。
 ――しかし、それはあくまでも『医学的』にはだった。
 僕の体には確実に二つの変化が起きていた。
 一つは、背中に大きな赤い痣が出来たこと。それは乱暴に書かれた数字の『7』のように見えるし、死神が持つ大きな鎌のようにも見えた。鎌であれば、ちょうど僕の首を掻っ切ろうとしているようだ。
 そしてもう一つの変化は――
「あれ?」
 それを見た瞬間、思わず声が出た。誰かが勝手に結びつけたのかと思った。早くよくなるためのおまじないか何かかと。
 左手の小指に――赤い糸が結び付けられていたのだ。
 糸は、ユラユラと波のように伸び、病室を出て廊下のずっと向こうまで伸びていた。
 僕は、それに触れようとしたが、それは光のようなもので全く触れることは出来なかった。
「後遺症?」
 思わず、その言葉が頭によぎった。殴られたことによる脳の異常か、もしくは精神的ショックが原因なのかと。
 だが、僕を襲った〈見知らぬ人〉の言葉が頭をよぎった。
 ――そうだ、あの人は確かこう言った。

「見えるようになるから」

 血だ。間違いなくあれが原因だ。
 僕は、とりあえず、糸の先を追ってみた。だが、糸は病院を出て、ずっと先まで続いていたので追うのをやめた。
 そして、また考え込んだ。
 金属バットで殴られ拉致され血を入れられたという現実と、幸せの象徴のような『赤い糸』という現象とが、どうしてもうまく結びつかなかった。
〈見知らぬ人〉、あれは一体何者だったのだろう?
 もしかすると人ではなかったのかもしれない。
 だとしたら天使なのだろうか、それとも悪魔なのだろうか。




 思わず振り返り、上ってきた階段を確認してしまう。それほど、目の前の光景は幻想的で、別世界だった。
 虹子ちゃんに一人でゆっくりできる場所を聞いたところ、「屋上に、『空中庭園』って呼ばれてる場所があるの。色んな花が咲いていて綺麗だよ」と紹介されやってきたのだが、学校にこんな場所があるなんて……。
 いくつかの花壇が申し訳程度に置かれているだけかと思ったが、足の踏み場もないほどの色とりどりの花が咲いていて、道には敷石が引かれ、中央には噴水まである。
「『空中庭園』って言っても、浮いてないから驚かないでね」と、虹子ちゃんは言っていたが、浮いてなくても十分驚愕に値する。
 しかし、これでは逆に落ち着けない。ジャージ姿の僕があまりにも場違いだ。
 ここで昼食も済ませようと、先ほど購買部で売れ残りのみたらし団子を買ってきたが、ここで食べたらまずいかな。花より団子と言うけれど、明らかに団子はこの景色にミスマッチだ。周囲の花々がこちらに軽蔑のまなざしを向けてくるようだ。思わず花に話しかけてしまう。
「団子は、ここには合わないかな。BLTサンドとかだったら許してくれた?」
「ごめん、ここは飲食禁止なんだ」
 花畑から少年がひょっこり姿を現す。屈んで花に水をやっていたようだ、手には小さなじょうろを持っている。制服を着ているから、生徒なんだろうけど、あまりにも幼く見える。
 童顔で無垢な瞳、身長が低く、体の線も細い。小学生だと言われても信じてしまいそうだし、緑の服を着ていれば、ネバーランドから来たと言われても信じてしまうだろう。
 あれ、その左手――。
 少年の左手に目を奪われる。
「……糸がある」
「えっ?」
 驚いた少年の顔を見て、思わず声に出してしまっていたことに気付き、僕は慌てて口を手でふさぐ。
 それほど僕が驚いたのは、この学校に来て――初めて糸がある人を見たからだ。
 そう、それは虹子ちゃんに学校案内されている間もずっと疑問に思っていたことだ。いや、実はこれは、入院していた時から密かに抱いていた疑問だった。
 今まで、僕が見た人の中で、赤い糸で結ばれていたのは、僕としげ子さんを覗いて、一組しかいない。
 病院で見た二十代前半の若いカップルだけだ。病院を見てまわったが他に結ばれていた人間は一人もいなかった。
 退院後、すぐに引っ越しが決まり、バタバタとしていたので、あまり町をまわれていないが、何度か買い物をしに出たときにも糸で結ばれた人には一人も出会わなかった。クラスメイトも担任の先生も、猫を引き殺したあの主婦も、姉の冬羽にも虹子ちゃんにも、糸はなかったのだ。
 だが、少年の左手の小指からは確かに赤い糸が伸びている。
 ――何か、条件があるのかな。
 昨今、恋愛を面倒くさいと思う人が増えているというが、それにしても少なすぎる。もしかすると、普通の愛情だけではない、もっと特別な強い結びつきを必要としているのだろうか。
 僕がそう思うのは、病院で見た赤い糸で結ばれたカップルが特殊な状態にあったからだ。
 男性のほうが植物状態にあったのだ。
 顔は綺麗でただ眠っているように見えるが、様々な機器が付けられていて、簡単には起きない様子だった。女性のほうは、男性の傍らで何やら話しかけていたが、返答を待っているのではなく、自分に言い聞かせているようだった。
 女性が男性の左手をギュッと掴んでいたのが印象的だった。
 その二人の左手を、赤い糸はしっかりと繋いでいた。
 あれほどまでに強い繋がりを必要としているのだろうか。
 だとしたら、目の前にいる少年もいずれ大恋愛をするということなのだろうか? いや、もうすでにしてるのか……。
「ちょっと待て」と首をふる。
 だとしたら、だとしたら、僕もすることになるではないか、大恋愛を。――しげ子さんと。
「どうしたんですか、朝生さん」
 わっ、と思わず声を上げ、仰け反る。僕の背後にしげ子さんが立っている。手には、おしるこの缶を持ち、僕をじっと見ながらズズズとすする。
 ――いつからいたのだしげ子さん
「まるで幽霊を見たかのようなお顔をされていますよ」
 幽霊を見たかと思ったのだ。
 シミはおろか埃さえも付いていない、光に近い完全な純白のワンピースは、この幻想的な空中庭園に見事なまでに溶け込んでいる。
 不器用におしるこをすすっているのを見ると、その純白を汚してしまわないかと、こちらのほうがソワソワする。
「水木さん、ここは飲食禁止だよ」
 少年が、僕にしたのと同じように、優しい声でしげ子さんに注意する。
「あら、ホシロイツキさん」と、しげ子さんはもう一度ズズズとおしるこをすする。
「ホシロイツキ君?」
「えぇ、クラスは違いますが、同級生ですよ」
 しげ子さんは、おしるこに自分の指をチャポンと突っ込むと、僕の手を掴み、その平に『帆代樹』とおしるこのついた指で書く。ナメクジが這ったような、とても気持ちが悪い感覚だ。
「水木さんは、何度言っても飲食禁止のルールを守ってくれないんだ」と帆代樹君は苦笑いを浮かべる。
「こちら、楠見朝生さん。公園の裏山で、誰にも言えないことを一緒にした仲ですなんです」としげ子さんが誤解されそうな言い回しをするので、僕は慌てて、一通り今日の朝あったことを説明する。
「そう。それで二人とも、制服じゃないんだね」
「そういうわけで今日から転校してきたんだ、よろしくね帆代――」
「樹で良いよ」樹君は微笑む。
「じゃあ、樹君で。僕のことも朝生って呼んでくれていいよ」
「……朝生君」
 樹君は、照れ臭そうに笑みを浮かべる。仲良くなれそうだ。
「帆代さんは凄いんですよ。入学してすぐに、ここの整備を始めたんです。校長とも掛けあいましてね、周囲に張られていたフェンスも外させたんです」
「せっかくの空中庭園が台無しだからね」
「ですのでほら」と、しげ子さんは、両手を広げ、僕の視線を空中庭園全体に誘導する。
天国みたいではございませんか」
 いつの間にか、僕のそばまで移動していて、耳元でそう囁やく。
 僕は背筋に寒気を感じ、思わず体をぶるっと震わせる。天国という言葉で、寒気を感じさせられるのはしげ子さんだけかもしれない。
 しかし、しげ子さんが花を好きだとは意外だ。花に水をやるしげ子さんとか全く想像できない。花畑を歩くと次々と花が枯れていく、そんな光景なら簡単に想像できるのだが。
 ――それにしても、樹君……。
 中性的な外見に、花が好きだなんて。きっとモテるに違いない。
 樹君と繋がってるのは、どんな相手なんだろう。きっと可愛いんだろうな。
 思わず、しげ子さんに目がいく。「どうして、僕は……」と心の中で呟きながら。
 しげ子さんも、「なんですか?」といった顔で、おしるこをすすりながら、こちらを見てくる。
 言葉が見つからず、僕が愛想笑いを浮かべると、しげ子さんは、突然眼球を激しく細かく左右に振り始めた。それが一体、何の表情なのか、何を表しているのか分からず、とにかく怖くて怖くて、僕は目を逸らした。
 昼休みが終わったことを知らせるチャイムが鳴る。
「じゃあ、僕はこれで」
 去っていく樹君の左手の小指に目がいく。自分以外の誰かにそれを見つけると、その存在がより確かなものに思えてくる。
 ――――これは、運命の赤い糸。