殺気だ――今確かに、どこかから。だが殺気を発した人物を探し当てるより前に、耳が異音を捉えてそちらに意識を持っていかれた。ゼロも同じく気付いたようで、ついと森の方へと視線を投げる。
 そう、森だ。とてつもない質量を持った何かが、森の奥からまっすぐに突っ込んでくる。
「……おい、嘘だろ。冗談じゃねえぞ!」
 それは木々を薙ぎ倒しながら、轟音と共に砲弾のような勢いで森から飛び出してきた。
 その姿を見た瞬間、俺の頭にウェニアスの地図に書いてあった一文が浮かび上がった。
〝――注意! 森に野生のエブルボアが生息〟
 確かに、超大型の猪だ。しかし、いくらなんでも、これは――。
「で――か過ぎるだろうが常識的に考えて! 俺よりでぇけじゃねぇか!」
 これがどうして叫ばずにおれようか。エブルボアは一切の誇張なく、見上げるほどの巨体を誇示していた。身長が軽く二メートルある俺と目線が合うのだから笑えない。潰れた左目と全身の傷の数を見るに、数多くの猟師を撃退し続けてきた歴戦の猛者だろう。
 そいつが唯一残っている右目を血走らせ、口からだらだらとよだれを垂らしながら俺に狙いを定めている。今にも突進してきかねない超興奮状態だ。口の両端からは鋭い二本の牙が突き出しており、あれで貫かれたら獣堕ちでも上半身と下半身が泣き分かれる。
 獣堕ちの性質上、俺は動物に嫌われる。その体質を、今ほど憎んだ事はない。
 逃げるか? いや、無理だ。突っ込んできた速度を考えると、森に駆け込んだとしてもこいつからは絶対に逃げられない。ゼロを抱えていたら一層無理だ。戦うしか、ない。
 突進の瞬間に横に跳んで、側面から頭を狙う。目を潰せれば一番だが――上手くいくか。俺は剣を引き抜いた。光が刃に反射してエブルボアの目をかすめ、それを切っ掛けに猛然と俺へと突っ込んでくる。横に跳ぼうとした瞬間――俺はすぐ背後でぼんやりと突っ立っているゼロに気が付いて踏みとどまった。
 この馬鹿、どうして――。
「馬鹿野郎! なに突っ立ってる!」
 咄嗟に体を捻ってゼロの体を引き寄せ、俺は地面を転がった。猪の牙が俺の背中をかすり、ひやりとする。すぐさま態勢を立て直し、今度こそゼロを安全な場所に追いやろうとすると、何を思ったかゼロが俺の正面に立った。――つまり、俺とエブルボアとの間に。
「うん……丁度いい。実戦で魔法の〝形〟を見せてやろう。詠唱の省略もなしだ」
 見ていろ、と言うなり、ゼロはごく優雅に両腕を振り上げた。突進を避けられたエブルボアが、再度攻撃をしかけようと地を蹴るのと同時に、ゼロが叫ぶ。
「ミーザ・リ・キブ 蠢き捕らえ締め上げろ! 捕縛の章・第八項――〈蔦籠(カプラタ)〉! 承認せよ、我はゼロなり!」
 ――何が起こったのか、俺は咄嗟に理解する事ができなかった。
 起こった事実だけを言うなら、ます地面から無数の蔓植物が飛び出してきて、猪の脚に絡み付いて転ばせた。転んだ猪の体にさらなる蔓が絡み付き、ついに猪はまったく身動きが取れなくなった。呪文の詠唱はたかだか数秒。起こった現象はまさしく魔術。
 これが――魔法か。ゼロがこれを使えるのなら、どう考えても俺など必要ないだろう。俺の傭兵としての存在意義が深刻な危機に瀕している。
「ところで、傭兵」
 仰向けにひっくり返った状態のまま、前脚と後脚をばたばたさせているエブルボアの滑稽な姿を呆然と眺めていると、ゼロがふいに俺に振り向いた。
「これは食べられるのか? 美味いのか?」
 ああ、と。俺は気のない声を上げる。肯定ではない。ただそれ以外に言えなかったのだ。
 俺はそっと目頭を揉み解し、「そうか、食えるか」と表情を輝かせたゼロを静かに制する。
「いや……違う。美味いだろうが……狩猟禁止だ。――逃がせ」
 ゼロはいかにも残念そうに肩を落とし、とぼとぼと猪に歩み寄った。
 そして、興奮し過ぎて口から泡を吹いている猪の眼前で、パキンと軽く指を弾いた。途端に猪は大人しくなり、きょとんとした目でゼロを見つめ返す。
「我輩を襲っておいて食われずに済むとは、運のいい肉の塊め。この幸運に感謝して、二度と我輩の前に姿を現すんじゃないぞ」
 などとゼロが言い聞かせる間にも、猪を縛り付けていた蔓はするするとほどけて地中へと引っ込んで行く。解放され、ゼロの言葉通りにのそのそと森に戻って行く猪の後ろ姿を残念そうに見送ってから、「さて」とゼロは空を仰いだ。同時に、俺は木の陰をちらと見る。
「――そこか!」
 鋭く言って、ゼロが弓を引く動作を取った。〈鳥追(スタィム)〉だ。ゼロの手に三本の光の矢が出現し、一本の木を目掛けて空を裂いた。全て木の幹に突き刺さり、甲高い悲鳴が上がる。
 よし。どうやら、魔法に慣れた。というか、恐怖の感覚が一部麻痺した。魔法を見るたびにびびってたら身がもたないからな。傾いた木の陰から転がるように飛び出してきた姿を見て、俺は顔全体に皺を寄せて低く唸った。あの派手な金髪には見覚えがある。
「てめぇ……昨日の追い剥ぎ魔女か!」
「待て傭兵!」
 相手が態勢を崩している今が好機と、俺は剣を抜いた。しかしゼロが、俺を鋭く制する。
「あれは子供だ」
「子供って――」
 俺は改めて、地面に這いつくばっている金髪を睨んだ。それは確かに小さく、よくよく見れば子供と言ってさし障りないほどだ。俺は昨晩、あれから必死になって逃げてたのか? 
 思うと急に情けない気持ちが込み上げてくる。俺が大人しく剣から手を放すと、ゼロは俺にその場に留まるようにと身振りで示し、大股で小さな魔女に歩み寄った。
「随分と手荒な事をしてくれたな。あの猪を我輩達にけしかけたのは君だろう」
「なんで――邪魔するんだよ! あんただって魔女なのに!」
 地面に這いつくばっていた魔女は、質問には答えず鋭く怒鳴ってゼロを睨み上げた。
「獣堕ちの首が、魔女にとってどれくらい価値があるか知ってるだろ? どうしてもその首が必要なんだ――なのに、なんで邪魔するんだよ!」
「これは我輩の傭兵だからだ。死なれては困る」
「僕が先に目を付けたんだぞ……! そっちが横取りしたんじゃないか!」
 俺は不覚にもぎょっとした。
 僕、と言ったか。あの魔女は。魔女と言うからには、魔術を使う人間は全て女だと思い込んでいたのだが、この魔女は少年らしい。いや、考えてみれば、十三番とやらも男なのか。なら魔術を使うのに性別は関係ないのか。
「どちらが先に目を付けていようと関係ない。重要なのは、今、誰の手にあるかだ。君のようなわっぱには、尻尾の毛の一本たりともくれてはやらん。くれてやったとして、君にあの首は扱えまい」
「何を――!」
「〈鳥追(スタィム)〉一つまともに扱えぬ魔女もどきには、分不相応な代物だと言っているのだ。諦める事だな。君の力では我輩はおろか、傭兵すら殺し切れん」
 人の首をやるのやらないのと、物のように言う奴らである。腹は立ったが口を挟める雰囲気ではないので黙っておく。基本的に、俺は誇りなんぞより自分の身が大切だ。
「だからこそ……」
 がりりと、少年が土を掴んだ。
「だからこそ、僕にはそいつの首が必要なんじゃないか!」
 少年は叫ぶように言って立ち上がった。
「僕は、なんとしてでも――強くならなくちゃいけないんだぁあ!」
 腰の袋から何かを取り出し、握り砕いて周囲に撒く。――瞬間、少年の髪と服が風に吹き上げられたように舞い乱れ、空気が振動する異音が高く響いた。
「バグ・ド・グ・ラート――劫火よ集い爆ぜ燃えよ!」
 呪文だ。魔法を使う気らしい。その前に殺さなければ、俺が殺される。俺は剣を握った。
「ほう。〈炎縛(フラギス)〉を使うか。――おもしろい」
 だが、ゼロの小さな囁きが俺の動きを止めさせた。かすかに伏せた瞼と冷笑――それが昨晩のゼロの姿と重なって、俺の体を竦ませる。――少年が踊るように両腕を開き、空を抱いた。炎の蛇が少年の体を這い登り、その両手に収斂される。
「狩猟の章・第六項――〈炎縛(フラギス)〉! 承認せよ、我が名はアルバス!」
 少年が叫んだ。すうと、ゼロが細く息を吸う。
「〈却下〉だ。承認せよ――我はゼロなり」
 静かな、だがはっきりとした宣言だった。今にも弾けんばかりだった炎はその瞬間霧散して、少年は混乱しきった表情で力を失った両手を凝視する。
「そんな――なんで! なんで、なんで……! 確かに発動してたのに!」
 今にも泣き出しそうな声で少年が喚いた。ゼロが歩み寄ると、びくりと肩を震わせる。
「あ……」
「舐めるな、わっぱ。それは我輩のものだ。我輩の魔法だ。我輩の知恵であり、我輩の力だ。それを我輩に振るうなど片腹痛い」
「なんだよ、それ……どういう――」
「言霊と贄をもって、召喚なくして悪魔の力を行使するその技術――【ゼロの書】より学んだと昨夜喚いたな。我輩がそのゼロだ。その本は我輩が書いた」
 ゼロの静かな勢いに押されたように、少年は一歩下がった。そのまま、力なく座り込む。
 ――ちょっと、待て。
 ゼロが本を書いた? 本って、世界を滅ぼすあの本か?
「……傭兵」
「うぉ! ああ、おう、俺か? 何だ」
 少年と同じかそれ以上に呆気に取られていた俺は、急に呼ばれて文字通り飛び上がった。
「我輩、このわっぱから少しばかり話を聞こうと思うが――いいか?」
「いいかって……何で俺に――」
 聞くんだよ、と言いかけて、俺ははっとした。俺は魔女が嫌いで、あのガキは俺の命を狙ってきたわけだ。そいつから話を聞こうというのだから、一応俺に気を遣ったのだろう。
 俺を無視して話が進めば不平不満も言えただろうが、気を遣われてしまうとむげにはできない。俺はがしがしと首の後ろを乱暴にひっかき、「好きにしろ」と短く答えた。
「ただし、鳥はやらねぇからな」
「無論だ。我輩もその気はない」
 くっくと笑ったゼロの声に合わせるように、少年の腹が盛大に音を立てた。
 俺はゼロと顔を見合わせ、次いで真っ赤になった少年の顔を見る。
「……やらねぇからな?」
 数分後、ゼロと少年がこんがり焼けた鳥を食う姿を、俺一人すきっ腹を抱えたまま眺める事になったのは言うまでもないだろう。