「ま……ほう……? って……」
 俺は耳慣れない言葉を繰り返す。だが口で言葉をなぞったところで、その意味が理解できるわけもない。俺が余程珍妙な表情を浮かべていたのか、ゼロは小さく噴き出した。
「何笑ってやがる!」
「いや――荒くれ者の傭兵が、なかなか可愛い顔をするものだと思ってな」
「か、かわ――! 可愛いって、お前な……!」
「照れるな、傭兵。ますます可愛いぞ。抱き締めたい衝動に駆られる」
 俺みたいな傭兵を捕まえて可愛いだなどと、とてつもない侮辱をしてくれる。
 俺は気まずい気持ちを誤魔化したくて、いい匂いを漂わせ始めた肉に乾燥させて砕いた香草と塩を振り掛けた。塩の落ちた炎がぱっと黄色い色を上げる。
「心配しなくても、ちゃんと説明するとも。三流だなどと思われては泥闇の魔女の名がすたるのでな。だが魔法の詳細な説明に入る前に、まずはお互いの意識共有が必要だ。そもそも魔術とはなんであるのか、というな。魔術を知らずして魔法は語れない」
 ゼロは木の枝を拾い上げ、地面を削って奇怪な記号を描き始めた。一つ記号を描き終わると、その隣にまた記号――いくつもの記号の連なりは、見る間に一つの円を形成する。
「――魔法陣か?」
「そうだ。悪魔を召喚するには、絶対に魔法陣が必要だ。魔法陣とは魔女にとっての聖域であり、魔女の精神を増幅する力を持っている。そして何より、召喚した悪魔から身を守るという極めて重要な役割もあるのだ」
 ゼロは丸く描いた記号の周囲を、ぐるりと円で囲みこんだ。とても人間が木の枝で描いたとは思えないほどの完璧な真円だ。その円の中にも四つの小さな円が等間隔に配置され、俺には読めない文字や理解できない記号が細々と書き込まれていく。
「悪魔から身を守るってのは? 召喚した悪魔が襲ってくるのか?」
「襲われるどころか、もし魔法陣に不備があれば交渉に入る前に悪魔に食われる。だから全ての魔女はまず、正確に魔法陣を描く訓練をするのだ。完璧な円に、完璧な直線、完璧な記号。それが描けなければ魔女にはなれない」
「命がけじゃねぇか……」
「そう……悪魔の召喚はいつだって命がけだ」
 言い切って、ゼロは魔法陣を描き終える。
 この魔法陣で、悪魔をねぇ……。そこまで思って、俺は愕然としてゼロを見た。
「おい待て! まさかお前、ここで悪魔の召喚をしようってんじゃ――!」
「そのまさかだ。まあ、見ていろ。なかなか面白いぞ」
 よせ、やめろと叫ぶ俺の声を無視して、ゼロは魔法陣に両手をかざし、ぶつぶつと呪文を詠唱し始めた。止めたかったが、魔術の途中で変に邪魔をするのも恐ろしい。俺はいつでも逃げ出せるように腰を浮かせかけた状態のまま、しかし逃げる踏ん切りもつけられずにおろおろとしながらゼロと魔法陣を交互に見た。
 それから――五分ほども経っただろうか。ゼロは同じような呪文を詠唱し続けている。
 さすがに警戒するのも飽きてきた。このまま何も起こらないんじゃねぇか? 思い始めた瞬間、魔法陣が光った。透明な青い光だ。その光の向こうに、何かがいる。
 ――やべえ、出た。本当に何か出やがった……! 俺は思いきり魔法陣から飛び退いた。
 一瞬の後に光が消え、俺は魔法陣の中央に出現したそれをしばし凝視した。
 人の形をしていた。だが、人とは違う。深い緑色の両目には白目がなくて昆虫のようだし、背中からも透明な虫の翅がはえている。そして――恐ろしく小さい。
 俺の手の平より小せぇぞ、これ。
「これが……悪魔か?」
「そう、悪魔だ。しかし……こう言ってはなんだが、怯え過ぎじゃないか?」
「うるせぇな! 悪魔に怯えねぇ人間なんざ魔女以外に存在しねぇよ!」
 魔法陣から遠く離れ、尻尾の毛が全て逆立つほど全力で警戒している俺を見て、さすがにゼロが呆れたような顔になる。
「いいから、近くで見るといい。噛み付きはしない。悪魔と言っても、これは妖精だ」
「あ、悪魔と妖精は違うだろうが……!」
「違わない。本質的には同じものだ。時代や地域によって呼び名は異なるが、こういう人ならざる者達を、魔女は総称して悪魔と呼ぶ。妖精も、精霊も――もちろん神もな」
 俺はさすがにぎょっとした。
「神と悪魔を一緒にしたらまずいんじゃねぇのか?」
「異教の神はみな悪魔とするのが教会の理念だろう。つまり神と悪魔の違いなど、人間による信仰の違いでしかないと教会も認めている」
 そう言われてしまうと、なるほどそうかと思いもする。そもそもどの神も信仰していない俺からすれば、唯一絶対の神などというものよりは余程信じられる話だ。
 俺はじりじりと魔法陣へと近づき、その中で不安げにしている小さな悪魔を見た。リーン、リーンと、鈴虫のような音を立てている。
「……怯えてるんじゃねえのか? こいつ」
「だろうな。これほどの下位悪魔が召喚される事はまずないから、慣れていないのだ」
「悪魔に下位や上位があるのかよ」
「ある。悪魔には厳格な序列があるのだ。上位の悪魔は強大な力を持ち、多数の悪魔を従えている。なので上位の悪魔の召喚に成功すれば、多くの下位悪魔の召喚方法を教えてもらえるというわけだな。そうして大木の枝のように魔術は広がってきたのだ」
「で、この悪魔は?」
「最下位に極めて近い。力も弱く、握り潰せば死ぬだろう」
 なんだ、怯えて損した。しかし、俺より弱い悪魔が存在するとは驚きだ。
「さあ、小さな悪魔よ――我輩の願いを叶えておくれ」
 ゼロが木の枝を差し出すと、悪魔はじっとそれを見た。大きく息を吸い込み――火を吹く。火は枝に燃え移り、悪魔はお伺いを立てるようにそっとゼロの顔を見た。
「確かに。――ここに契約は成立した。ご苦労だったな」
 よしよしとゼロは頷き、腰から下げていた袋から小さな木の実を取り出した。それを割って悪魔の口に放り込むと、悪魔はクスクスと肩をを揺らしてからふっと消える。
 俺は一瞬前まで悪魔がいた、しかし今は何もいない空間を見つめて感嘆の息を吐いた。
「素直に、すげぇな……実際に魔術や悪魔を見るのは初めてだ」
「概ね想像通りだっただろう? 魔法陣を描き、呪文を唱え、呼び出し、交渉する」
 ゼロは枝の先の火を吹き消した。確かに、想像通りだ。想像していたよりも、随分と可愛らしい悪魔ではあったが、手順だけを見れば俺が常識としている魔術と変わらない。
「――さて。ここで例の本が出てくる。狩猟・捕縛・収穫・守護の四章からなるその本には、これらの儀式を行わず、呪文の詠唱のみで魔術を起こす方法が書いてあるのだ」
 言いながら、ゼロはくるりと指を回して見せた。その指先に、ふっと小さな炎が灯る。
 俺は目を見開き、咄嗟に火から距離を取った。
「これは、たった今召喚して見せた悪魔の力だ。〝ごく小さな火を起こす〟というな。魔法陣も描かず、悪魔の召喚もしなかったが、結果は見ての通り。――これが魔法だ。今は呪文を唱えなかったが、本来ならば〝カーロ・ライ 火よ宿れ 狩猟の章・第一項〈掌火(レクス)〉承認せよ――我はゼロなり〟と唱える必要がある」
「じ……呪文まで省略できるのか?」
「訓練を積み、熟練すれば可能だ。呪文は三つの構造で成り立っている。今見せた魔法で言うなら、〝カーロ・ライ〟は悪魔への働きかけ。〝火よ宿れ〟は自分自身を導く明確な意思表示。最後に術名と自分の名で締めくくるのは、まあ一種の気合だな」
 気合の問題なのか……? 思わずこぼすと、ゼロは力強く頷いた。
「術名を口にし、自分の名を名乗る。これは魔法において極めて強力な補助になる。そして熟練するにつれ、補助は必要なくなっていくものだ。最終的に、呪文は心で唱えれば事足りるようになる――いわゆる、祈りだな。便利だろう? 火打石がなくても火がつくぞ」
 確かに便利そうだ。俺は普通の人間よりはるかに手がでかいから、手に合う大きさの火打石がなくて火をつけるのに苦労する。俺が感心して溜息をつくと、ゼロは指先で揺れる火を吹き消した。俺の常識が間違っているわけではなく、常識が覆ったのだという言葉の意味が、ようやく少しつかめてくる。しかし、それにしても、だ。
「召喚もしてねぇ悪魔の力を、どうやって借りてるんだ? 召喚する必要があったから、今までだってそうしてきたんだろ?」
「いや、そうではない。ただ――今まで誰も試さなかった」
 誰も、試さなかった? それじゃあ、つまり――。
「そんな……馬鹿な話があるか! じゃ……今までは無駄な事に膨大な時間を割いてたって事か? 召喚しなくてもいい悪魔を、わざわざ召喚するために?」
「そうだ。一声かければいいだけなのにわざわざと喚び出して、無駄に世界を危険に晒し、そのための防衛策を考る。それが、魔術だったのだ。〝どうやって悪魔を召喚せずに魔術を使うのだ?〟という話ではない。〝何故必要もないのに悪魔を召喚していたのだ?〟という話なのだ、これは」
 ――最初の一歩を間違えた。
 そして魔術は、その間違えた一歩を基準に発展してきた事になる。それこそ何百年もの間、そもそもの間違いに気付かずに。何も言えずにいる俺に対して、ゼロは続けた。
「盗まれた本には、この魔法についての基礎理論が記してある。悪魔を召喚せずとも魔術は使える、というな。それと共に、複数の悪魔の名前と能力、呪文と必要な贄が書いてある。そもそも、悪魔によってできる事は最初から決まっており、交渉の余地などなかったのだ。炎に塩を入れると黄色くなると言うような決まり事が、悪魔にもある」
 そこで、一旦ゼロは言葉を切った。
「我輩は、これを悪魔の契約法則――魔法と呼ぶ」
 ようやく、耳慣れない〝魔法〟という言葉に意味が追いついてきた。
 それは〝悪魔の召喚〟という、魔術の中で最も難しく手間のかかる工程をすっぱりと削ぎ落とし、魔術を簡単に、なおかつ短時間で使えるようにした新しい技術だ。
 一国の王を自室に呼びつけて願いを聞いてもらうのと、手紙と貢ぎ物を贈って願いを聞いてもらうのと、どちらが簡単かと考えたらどう考えても後者だろう。それだと言うのに魔女達は、王を自室に招く方法を延々と研究し続けてきたわけだ。 
 ――それが、一冊の本で正されたとしたら。
 魔女を倒すには千人の兵が必要で、その千人の兵さえ、たった一人の魔女に殺される。それでも教会が――世界が魔女に勝てたのは、魔術には手間と時間がかかるからだ。儀式中の魔女は無防備で、殺しやすかったからだ。強力な魔術を操れる魔女は少なく、一人の魔女を殺せばそれだけで勝利と言えたからだ。
 ――だというのに、短時間で魔術が発動する〝魔法〟が世界に広まったとしたら……。
「どうやら、笑い事じゃねぇらしいな」
 技術の転換期、というものが世界にはある。鉄の発見で戦争が変わり、車輪と馬車の開発で商業が変わった。では魔法の発見で何が、どう変わるのか――。
 まず、魔女が力を持つだろう。昨日の追い剥ぎ魔女や、ゼロのような存在が増えたら、教会と魔女と戦争が再び起こる可能性が高い。いや――可能性どころか、だ。
 今まさに、このウェニアスで起こっているじゃねえか。五百年も隠れ暮らしていた魔女達が、今になって反乱を起こしている。これが、盗まれた本と無関係なわけがない。
「で、その盗まれた本に書いてある〝魔法〟を、昨夜の追い剥ぎ魔女が使ったと」
 俺がまとめると、そういうわけだな、とゼロは肩を落とした。
「あいつが本を盗んだのか?」
「いや、違う。あれはまだ駆け出しだ。どこで本を読んだのか聞いてみたが、暴れ狂ってほとんど話にならなかったので捨ててきた。どうも誰かから教わったらしい」
「教わったって――あぁ……」
 本はつまり読むもので、一冊の本に書かれた知識は数万人の知識に変わる。
 ――とすると、だ。問題は魔女だけに留まらないのではないか。話を聞く限りでは、呪文を唱えて贄を差し出すだけで魔法は発動するわけで……。
「つまり魔法ってのは……誰でも使えるのか?」
「いや……そうでもない。魔法には向き不向きが強く出るのだ。才能があれば使えるが、なければ何をどうしようが使えない。知識では乗り越えられない領域が確かに存在する」
「その才能ってのは、どう見極めるんだよ」
「簡単だ。ただ、初歩の呪文を唱えてみればいい。発動の兆しがあれば才能はあり、なければ才能もない。そしてもし才能があれば、その習得に必要な年月はたかだか五年だろう」
 なるほど――最悪だ。魔法が恐ろしく強い力である事は間違いない。だというのに、才能さえあればたかだか五年程度で使えるようになるのなら、確実に誰かが悪用を考える。
 ようやく、俺はゼロの危惧に追い付いた。
 ――確かに、世界が滅ぶかもしれない。
 本一冊どころか、その一頁。まさにゼロの言葉の通りだ。
 俺は大木の幹を貫いた光の矢――〈鳥追(スタィム)〉を思い出していた。通常、あの威力を弓で出そうと思ったら、巨大な弓と鉄で作った矢が必要になってくる。そして、その弓を引ける全身筋肉の化物が――。戦場にそんな男が一人いれば十分な脅威だ。それが〈鳥追(スタィム)〉なんて魔法を使う連中が集団で現れたら、敵軍は間違いなく敗走を強いられる。
 いや、まともに軍として統率が取れているならまだいいだろう。魔法を使う連中が暴徒と化して、盗賊行為を始めたら? どうしようもない下種野郎に、途方もない魔法の才能があったら? 誰が、どうやってそれを抑え込める?
 魔法が広まれば、あらゆる力の均衡が崩れる。それは混乱の始まりで、戦争の始まりだ。
「随分迷惑な本じゃねぇか。なんだってそんなもんが……」
「それは――」
 ゼロが口を閉ざしたのと、俺が立ち上がったのはほぼ同時だった。