四章 火刑

   


 
 国や町というものは、一つの拠点を中心に広がっていくものだ。例えば王城の近くには臣下の住む家ができ、臣下の家の近くにはその使用人達の暮らす家。民家の密集したところには商店が立ち並び、商店の近くに商売人達の家や工場が広がっていく。
 それと同じで、大きな町の近くには必ず複数の小さな町が点在しているものだった。主要都市には必ず治安維持のために騎士団が常駐しているから、その権威で盗賊を初めとする様々な危険から守ってもらおうという腹積もりだ。フォーミカムのように隔壁で守られている町は襲われる心配もまずないが、ほとんどの町や村は無防備だ。だから「近くに自分を守ってくれる存在がいる」という安心感を求める。
 俺達が今目指しているのも、そんな無防備な町の一つだった。アルバスの話によると、その近辺に学舎があるらしい。
「ラテットっていう小さな町なんだ」
 砂岩で舗装された街道は、まっすぐに王都プラスタへと伸びている。その道の途中にはいくつもの分かれ道があり、地図を見るとそれぞれが小さな町や村へと続いている事が分かる。アルバスの言葉通り、道はラテットへと続いているようだった。
「小さいけど活気があってね、そこのパン屋さんのくるみのパンがすごーく美味しいんだ! くるみがさくさくで、パンは甘くて、焼き立てはふわふわほこほこでね」
「なるほど……極めて興味深いな」
 ゼロが恐ろしく真剣な声で呟いた。こいつの脳内の半分が魔術や魔法が占めているとしたら、残りの半分は食い物だろう。むしろ食い物の比率の方が高いような気さえする。
「フォーミカムも賑やかで楽しかったけど、僕はラテットの方が好きだなあ。魔女狩りが禁止になったら、僕もラテットに住みたいなって思ってるんだ。占い屋とかしてさ」
「おい坊主。忘れてるようだから言っとくがな、俺達の目的地は学舎だぞ? お前がその町を気に入ってるのは分かったが、必要もないのに泊まったりはしねぇからな」
 一応釘を刺すと、アルバスはむっとしたように俺に振り向いた。
「忘れてるわけないだろ! 目的地は学舎で、学舎はラテットにあるんだよ」
「学舎ってのは魔女の隠れ家なんだろうが。ラテットが魔女の町だってのか?」
 そうじゃない、とアルバスは苛立ったように息をつく。
「学舎への入り口がラテットに隠してあるんだよ。教会の柱の裏に、魔女にしか見えないし、入れない魔術で作った入り口がある」
「……町の……しかも教会の中に隠れ家への入り口があるのか?」
「そうだよ。町の中に隠れ家の入り口作る事って、昔から結構あるんだって。袋小路の先とか、石像の影とか、墓石の裏とか、宿の部屋のベッドの下ってのも聞いた事ある」
「へぇ……ベッドの下……」
 あまり深く考えない事にしよう。いくらなんでも、袋小路や石像の陰やベッドの下に怯えるようでは、生活に支障があり過ぎる。
「昼間は人目につくから、ラテットに着いたら夜まで時間を潰さなくっちゃ。宿屋があるから、部屋を取った方がいいかもね。そこで犬を飼ってるんだけど、僕、懐かれててさ。遊びに行くといつも飛びついてきて、宿屋のおかみさんも時々お菓子とかくれるんだ」
「魔術師に菓子をくれるのか……?」
「誰も僕が魔術師なんて知らないからね」
 軽く言って、アルバスは肩を竦めた。詐欺じゃねえか、と心の中で思ったが黙っておく。
「魔術師だって知らなければ、みんな普通に接してくれるんだ。僕の母さんも魔女だったんだけど、魔術を捨てて普通の人と結婚したの。人間の町で暮らしてたんだって」
 魔女が魔術を捨て、人間として生きる。そんな事もあるのかと、俺は素直に感心した。ソーレナが善良な魔女だった関係で、魔女に対する偏見も少なかったのだろう。
「……じゃあ、お前の両親は今どうしてるんだ? 女房が元魔女じゃ、この状況だと生活しにくいだろう」
「両方、もうとっくに死んでるよ。――魔女狩りでね」
 アルバスの声は落ち着いている。それだけに、妙に背筋が凍った。
「僕がまだ小さかった頃だよ。母さんが魔女だと知って、町の人達が魔女狩りを始めたんだ。それまで仲よく暮らしてたのにさ。――ウェニアスでは昔から、困った事があると魔女を頼る。そのくせ、魔女が自分達を頼ったり、自分達の町に近づく事を絶対に許さない。父さんは、母さんと僕を逃がすために町の人と戦って死んだ。母さんは、僕をおばあちゃんの隠れ家まで連れて逃げて、それで結局死んじゃった。だから僕はおばあちゃんに育てられたんだ。両親の事はほとんど覚えてない。断っとくけど、これは魔女が反乱を起こす前の話だよ。それが、消極的な共存状態ってやつの実情だったわけ」
「……そりゃ……憎いだろうな……人間が」
 憎くならないわけがない。しかしアルバスは微妙な表情を浮かべて、首を振った。
「そうでもないよ。だって、父さんは母さんを愛したんだ。魔女だから、なんて気にしなかった。人間を全部憎んだら、僕は父さんまで憎まなくちゃいけなくなる。悪いのは人間じゃなくて、魔女が悪だって図式だよ。嫌な事があったら魔女のせいにする世の中だ。僕は人間と戦ってるけど、別に人間が憎いから絶滅させようって思ってるわけじゃない」
 ――まるで、できた大人のような事を言う。俺が目を瞬くと、ゼロが低く笑った。
「道理を知らねば魔術は扱えない。駆け出しながらも、わっぱも立派な魔術師だな」
 それからしばらく、他愛もない会話をしながら、曲がりくねった小道を歩いた。
 アルバスはいつもと変わらない様子で手足を振り回しながら歩き、よく響く高い声であれこれ喋り続けている。
 地図から考えると、ラテットはフォーミカムからそれほど離れていない。馬車をゆっくりと走らせてせいぜい二時間、徒歩ならその倍程度の距離のはずだ。ならばもっと人の往来があってもおかしくないのだが、俺達は未だに誰ともすれ違っていなかった。
「変に静かだな……人の気配がないっつうか……」
 人の生活している町に近づいている感じがしない。町が近づけば自然に安堵が生まれるものだが、状況はむしろその逆に近かった。妙に、嫌な予感がする。首の後ろの毛がざわつくようで、落ち着かない。その感覚はラテットに近づくにつれて増していき、本能が進むのを拒否するように足が重くなる。
 と、ゼロがついと俺の服を引いた。
「――気付いているか」
 唐突だった。俺はかりかりと頬をかき、きょろきょろと周囲を見る。
 ゼロがこう言うなら、これは気のせいじゃないのだろう。
「目があるな」
 見られている、という感覚ではない。だが、目がある。そんな感じだ。暗い森の中に敵がいて、お互いにお互いの姿は見えていない。だが視線は確かにそこにある。
 そんな不気味な圧迫感がこの周辺を取り巻いている。
「わっぱ。この辺りはいつもこうなのか? 小さいながらも活気がある町に向かうにしては、少しばかり陰気なようだが」
 ゼロが聞くと、アルバスは足を止める。振り向いた表情には困惑があった。
 あの、と呟いて――黙る。
 どうやら、ことさらやかましく喋っていたのは不安を隠すためだったらしい。
「この丘を越えたら、もう町なんだけど……いつもはもっと賑やかで、人もたくさん……」
 言いかけて、アルバスは口を閉ざした。
「僕……ちょっと様子見てくる!」
 言って、走り出してしまった。やはり妙だ。町が近いわりには人の気配が希薄過ぎるし――何より、妙にきな臭い。
「どうする? 魔女さんよ。こいつぁ罠じゃねぇのか」
「誰に対する? 我輩か? それとも、君に対する罠か」
 俺は少し迷って、お前じゃねぇの、とゼロを見た。
「我輩が本を取り戻そうとしている事に気付いて、わっぱが仲間に伝えてラテットなる町に罠を張ったと思うのか。それで我輩を倒そうとしていると?」
「そうは見えねぇが、そう考えるのが妥当な状況だ。実際、坊主は俺達をここに案内して、ここの状況はこれとくる」
「なるほど、理論的だ。――だが、君の本能は理論と常識を凌駕した現実を知る。君の本能はなんと言ってる?」
「今すぐ逃げろ――だな」
「わっぱを置いてか」
 聞かれて、俺は驚いた。まったくその気がなかったからだ。アルバスが俺達を罠にはめたのだとしたら、置いていくのが当然の選択だろう。だが俺は、確かにアルバスを連れて逃げる気でいた。顔を顰めた俺に対して、ゼロは穏やかに目を細めた。
「では、逃げるとしよう。わっぱを連れてな」
「本を取り戻さなくていいのか?」
「危険があるようなら、先に十三番を見つけた方が得策だ」
「なるほど、理論的だ。おい、坊――」
「嘘だ!」
 呼びかけようとした俺の声を遮って、アルバスの甲高い叫び声が響いた。
 ぎょっとして一瞬立ち止まり、直後にゼロと共に走り出す。丘を登りきると、途端に視界が大きく開けた。
「どうした坊主! 何が――」
 あったんだ、と聞くまでもなく、答えは俺の眼下に広がっていた。
 たった今登った丘のふもとに、小さな町が一つある――あれがラテットだろう。目立つ建造物といったら町の中央にある教会と広場程度で、あとは色も形も様々な商店や民家が、ごたごたと折り重なるようにして雑多に連なっている。この町の端から端まで歩くのに、三十分とかかるまい。人口はせいぜい二千人程度か――五万人の人口を誇るプラスタに比べると箱庭のように見えた。
 建物の密度は町の外側に行くにつれてまばらになり、最終的には牧草地が広がるだけになる。そしてその牧草地には――何も放牧されていなかった。
 明らかに何かに襲われ、ラテットという町は死んでいた。
「うそだ……嘘だ、違う! 違う、違う、違う!」
「おい、待て坊主! 危ねぇ!」
 何が違って、何が嘘なのか――恐らく叫んでいる本人も分かっていないだろう。アルバスは恐慌したように、止める間もなく一気に丘を駆け下りていった。
 町が盗賊に襲われたのなら、まだ残党がいてもおかしくない。そうでなくとも、襲われた後の町には性質の悪い死体漁りが出没する。何より、そこには死体があるはずだ。魔術師とはいえ、ガキが近づいていい場所ではない。
「ったく――! 世話の焼けるガキだな!」
 仕方なく、俺はゼロを抱え上げて丘を駆け下りた。嫌な予感と不気味な雰囲気はますます増していき、じっとりと脂汗が滲む。
「心配するな、傭兵。言ったはずだぞ?」
 ぽんぽんと、ゼロの手が俺の頭を叩いた。
「我輩が守ってやる」
 俺はちらとゼロに視線を投げて、自信の塊のようなその笑みに内心舌打ちした。
 ――魔女の、たった一言で。
 本気で安心してんじゃねえよ、俺。それでも傭兵かってんだ。
 
 アルバスを追って町に入ってみると、その有様は丘の上から見たよりもはるかに酷く、俺が顔を顰めるほどだった。崩れた壁や、落ちた看板――そんな景色の中に転がる、人、人、人。その血と死体の惨状の唯中に、アルバスは呆然と立ち尽くしていた。金色の瞳はどこか放心したように、あちこちに転がる死体を凝視している。
「……おい、あんまり――」
 見ない方がいい、と声をかけると、びくりとアルバスは肩を跳ねさせた。
「ぁ……」
「盗賊に襲われたんだろう。ここまで酷いのはめったにないが――運がなかったんだ」
「盗賊……」
 金色の瞳を揺らして、アルバスは囁くように言う。その唇が、自嘲気味に歪んだ。
「そう、見える……?」
「……何?」
 聞き返して、俺はアルバスが見ていた死体を見た。――なんという事もない、ただの焼死体だ。生きたまま火をつけられたのだろう。元の性別も分からないほどに焼け焦げているが、どうにかして火を消そうと暴れ狂った形跡だけが生々しい。
 だが、違和感があった。焼死体があるわりに、町が綺麗過ぎるのだ。
 当然の話だが、炎は自分の意志で燃やす対象を選んだりせず、一度燃え上がれば町全体を壊滅させる。だがこの焼死体を見ていると、まるで炎が人間だけを選んで焼いたように見えた。火をつけられた人間は、もがいて暴れて駆け回る。その結果、町中に火が広がって惨事になるはずなのだが――見回せる範囲では、焼け落ちた家は一つもない。
「まさか、魔法か……?」
 疑問を込めて呟くと、ゼロが頷いた。
「恐らく〈炎縛(フラギス)〉だろう。あれは対象のみを焼く魔法で、森や町で使っても決して延焼しない。どうやら……魔女の襲撃があったらしい」
 フォーミカムで門番が「近くの町が襲われた」と言っていたが、ここの話だったか――。
 国と魔女が戦争状態で、魔女が町を襲う事もあると、知識としては知っていた。だが実際に魔女に襲われた町を見るのは初めてで――ここまで酷いとは、予想外だ。
 死体はゴミのように放置され、家々には略奪の痕跡がある。魔法を使う盗賊に襲われたとしか言えないような惨状だ。
「どういう事だ……? ここに〈ゼロの魔術師団〉の隠れ家への入り口があるなら、むしろ魔女に守られるべき町のはずだろう。なんだってこんな――」
「……魔法を使う魔術師の集団は一つじゃない」
 低く押し殺されたアルバスの声に、俺は目を見開いた。
 俺が知っている限り、魔術師の集団は〈ゼロの魔術師団〉一つだけだ。それが国への反乱企て、このウェニアスで暴れ狂っているのではなかったのか。
 だがアルバスの話を聞く限り――そしてアルバスという人間を見る限り、〈ゼロの魔術師団〉は魔女を守るためにしか戦わないはずだ。しかし俺が傭兵として耳にした話では、そしてこのラテットの惨状を見た限りでは、魔法を使っていたずらに人間を虐殺し、略奪に励む魔女が間違いなく存在している。
「〈ゼロの魔術師団〉みたいな集団が、他にもあるって事か?」
「違う! こんなのと一緒にすんな! あいつらは盗賊みたいな連中で……【ゼロの書】を奪いに来たんだ……! 町を襲って、混乱に乗じて学舎に攻め込む気で……」
「盗賊みたいな連中って……だが【ゼロの書】は〈ゼロの魔術師団〉にあるんだろ? そいつらはどうやって魔法を――あ、おい待て!」
 俺の質問を最後まで聞かず、アルバスは再び走り出した。学舎の安否を確認しに行く気なのだろう。俺は一瞬躊躇し、静かに突っ立っているゼロを見る。
「おい、一体――」
 どうする気だ? どうすりゃいい? どうなってる?
 質問は多くあったが、そのどれもが俺の口からは出てこなかった。ゼロの表情があまりに冷たく、人形のように凍り付いていたからだ。
「……おい?」
「こういう使い方も……できるのだな……」
 崩れた家、落ちた看板、焼けた死体。そういうものを一つ一つ眺めて、ぽつりと呟く。
 それから、ゼロはアルバスの後を追うように、ゆっくりと歩き出した。
 
 アルバスが駆け込んだのは、ひどく古びた教会だった。
 壊れた門をくぐり、荒れ果てた礼拝堂に入る。ぐるりと見回すと、整然と並んでいただろう椅子はめちゃめちゃになり、割れた窓ガラスが床一杯に散乱し、神の家たる教会が酷い有様だった。そして、ここにも人間が転がっている。ざっと見る限り――六人か。
 だが、教会の外に転がっている死体とは様子が違った。外の死体は「逃げ惑い、虐殺された被害者」の死体だ。だがここにある六人の死体は、明らかに戦った形跡がある。
 その内二人の首に、赤い宝石のチョーカーが光っているのが見えた。アルバスと同じ物だ。ならばあの二人は〈ゼロの魔術師団〉なのだろう。
 では、残りの四人がこの町を襲撃した魔女か。
「〈ゼロの魔術師団〉と……襲撃してきた魔女か?」
 アルバスは頷いた。
「〈ゼロの魔術師団〉のみんなは、学舎と町を守ろうとして戦ったんだ……」
 だが、町は守りきれなかった。せめて学舎だけは死守しようと教会で戦ったのだろう。
「隠れ家を守って、刺し違えたのか……」
「いや、違う」
 急にゼロが足を進め、アルバスの横を素通りして魔女の死体へと歩み寄った。おい、と止める声を無視して、ゼロは六体の死体を覗き込む。
「まず、襲撃をしかけた四人の魔女達が、〈ゼロの魔術師団〉の魔女二人を殺した。その後に、また別の魔女が現れて四人の襲撃者達を殺したのだ」
「なんでそんな事が分かるよ」
「殺し方の格が違う。〈ゼロの魔術師団〉には抵抗の痕跡があるが、残った四人の魔女達は抵抗する間もなく死んでいる。――何より、全員が魔力を根こそぎ奪われている。第三者の介入があった事は間違いない」
 って事はこの場所に、〈ゼロの魔術師団〉でもなく、襲撃者の魔女でもない、別の誰かが現れたという事か。いよいよややこしい話になってきた。
 俺が頭を抱えると同時に、アルバスが大きく息を吸い込んだ。
 そうして、恐怖と怒りに震えた声でこう口にする。
「十三番……!」
 俺とゼロの頭に、恐らく同じ質問が同時に浮かんだ。
 どうしてお前が、その名前を知っている? そしてどうしてこの状況で、その名前を口にする。だがその質問を口にする前に、状況が変わった。
 
 目が、開いた。
 
 ぶわっと、全身が総毛立つ。町に近づくにつれて増していった漠然とした違和感はどこかへ消え去り、恐怖に近い強烈な威圧感が今や俺達を凝視していた。
 目が、どこかに。どこかで――。
 俺は咄嗟に上を見て、心底後悔した。馬鹿でかい目が一つ、教会の天井にへばりついていた。天井の端から端まで亀裂が走り、それが今、開いたのだ。
 ぎょろりとした眼球がせわしなく動き、俺と、アルバスと、そして最後にゼロを見る。
「随分露骨な覗き見があったものだな――傭兵!」
「あ? あぁ、おう!」
「強制召喚だ、弾き飛ばされるぞ! わっぱを抱いて我輩の腕を取れ!」
 何が、どうなっているのか。ゼロが何を言っているのか。当然俺に理解できるわけがない。それでも、俺はアルバスの体を抱え上げ、ゼロの手首を掴んで腕の中に抱き込んだ。
 瞬間、床が崩れた。いや、違う。これは――。
 床が、壁が、部屋自体が消えたのだ。ぽっかりと開いた闇に放り出されて、俺は反射的に叫んでいた。
 ――落ちる。
 このままじゃ、落ちて、死――。
「落ち着け、傭兵。我輩の手を放さなければ安全だ」
 ゼロの眠たげな声が、一瞬飛びかけた俺の意識を引き戻した。
「ゆっくりと息をしろ。足を踏み締め、地面を感じろ。体はもう着いている。意識を引き戻し、肉体に帰れ。我輩の手を意識しろ」
 大きく息を吸い込んで、俺は自分が息を止めていた事に気が付いた。呼吸をすると落下している感覚はどこかに消え去り、足は確かに地面を踏み締めている。
 なんだったんだ、今のは。幻覚か? ひどく寒くて、全身がくがくがと震える。周囲を見回すと、暗い部屋だった。ちらちらと揺れるロウソクは四本。強烈過ぎる香の匂い。足の下には硬い石畳。それと、腕の中のゼロ。ついでに肩に抱えたアルバスを思い出す。
「よかった……! 傭兵が戻ってきたよ、ゼロ!」
 アルバスが叫んで、俺の頭にしがみ付いた。
 ――戻って、きた?
 俺は周囲を見回した。戻ってきたと言うには、どう見ても――。
「おい……どこだここ。ちょっと待て、俺達さっきまで教会に……」
「強制召喚――対象の意思を無視して無理矢理別の場所に呼び寄せる力技だ。どうやら礼拝堂に罠が張ってあったようだな。悪魔の召喚を人間に転用した魔術だが、我輩はこれをできる術者を二人しか知らない。一人は我輩のお師匠様」
 そこで俺は、強烈な香の匂いに紛れた、第三者の臭いに気が付いた。
 闇の中に溶ける闇。その存在に気付いた今も、気を抜けば見失ってしまいそうなほど、そいつは闇に同化していた。
 見えない。だが、そこにいる。
「そして十三番――貴様だ」



『ゼロから始める魔法の書』試し読み、第2回は2014年1月10日更新!